グリーンランドのリフォーム日記 -351ページ目
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第三章「事務所借りました」

結局、どこもお金は貸してくれませんでした。親に思い切って言うと「そんな大変なときに、協力できない親で申し訳ない。」と母親に泣かれて「はっはっは!冗談、冗談、大丈夫、大丈夫。お金がかからない経営するから!じゃあねぇ」というのが精一杯。心配性の母親に、強力な亭主関白で権威的な父親には、2度とお金の無心をやめたきっかけでした。あてがない。そのときの経営状態は、社員も貧しく、前借りしてくる社員もいた。そのお金を自分が借りてきて渡していたという自転車こぎまくり操業!「このままではまずい!事務所を借りると社員に宣言した!あともどりできないように手付けを打とう」幕張本郷4丁目、上ノ台小学校近くのガラス張り事務所3Fに決めた。百数十万かかる。手付けを10万円渡し、社員に見せに行った。ある社員が「ガラス張りですか~!」と興奮している。みんなの目が輝いていた!そんな輝いていた目を見てしまうと燃え上がる川村でした。「1﨑月後この事務所に入るぞ~!机も椅子もなんもない。この1﨑月命懸けでやるぞ~!」と掛け声をかけ、1﨑月後、平成9年12月18日。ミラクルがおきた!経常利益550万。残金が払えたのだ!椅子は津田沼の土屋家具さんで4000円で買ってきた。売上が上がるたびに備品が少しずつそろう事務所。最初は椅子しかなかった。いまだにその緑の椅子は使われている。

 そのころは、7人が毎日150件~200件の飛び込みをしていた。当然、メッタ打ちの断り文句の嵐であった。信用のない会社を相手にしてくれる人は、神様にみえた。「川村君、食えてる?カツ揚げたから食べに来なさい」と検見川神社近くの柴田さん、ごちそうさまでした。

 そのころ、社員の前では、鬼軍曹の川村。ひとり事務所で事務処理や一人ミーティングしているときは理想と現実のギャップを行き来した未来少年コナン。いい仕事をしたい!お金をこえたところにいきたい!営業しなくてもお客様が集まってくる会社にしたい!本物は広がる!正直者が馬鹿を見る時代は終わった!心あるお客様と心ある社員と心ある協力会社と仕事がしたい!
 今の訪問販売では、すぐに限界が来る。やりたくない人に売り込みに行く営業手法は必ず破綻が来る。
 いつも心の中では「このままではいけない!」という危機感が日ごとに大きくなる毎日であった。

第二章「七人のサムライ」

初めて社員が入社したのは、佐藤君でした。彼は、以前勤めていた塗装会社で茨城の土浦営業所の同僚でした。彼は私と仕事をしたくてラブコールを半年間に渡ってしてきていました。私は、「給料も払えないし、余裕もないから誰もいれない」と言ってましたが、彼の実家を紹介してくれたり、その実家がまた紹介してくれたりと本当に懸命でした。そんな彼のまっすぐさに打たれ、平成8年の4月に入社しました。そうすると、彼は社員をどんどん私に紹介するではないですか、結局4か月の間に6人社員が増え、「7人のサムライだ~!」と毎日気合いを入れて仕事をしていました。それも4畳半の部屋で熱く私が車座で語っているわけですから、4歳になる次男がやってきて「何やってんの?」と割り込んでくるのでした。

 そのうち、「事務所もない会社なんて信用できない。」「ローンもできないの」「保証書もない?」「契約書もないなんて」「株式会社じゃないの?」もう様々なことを社員がお客様に言われてくる。お金がない私は反面 彼らの言っていることは自信のなさの裏返しで自分の弱い影の部分をお客が投影しているだけだと感じながら、「よし!言い訳なくしたろうじゃあねえか!」と銀行廻りをしました。
 千葉○○金庫に最初に行きました。店にいた人は目を合わせません。できれば早く帰って欲しいような表情。実は、私の服装はペンキがついた作業服(業界ではブランドなんですが、寅一のニッカを着ていました。)京○銀行も千葉○○銀行は「担保は?」「創業してどのくらいですか?」駄 目でした。最後に行ったのは千葉銀行です。そのときの店長代理が表情をかえることなく、丁寧に1時間半も「今は融資できないですが、このようにしたら出来るようになります。」と、本当に丁寧に椅子に座らせてくれて話をしてくれました。私はその店長代理の目をじっと見ていましたが、話はほとんどわからず、心の中で「こんな銀行員もいるんだ!」と感謝するとともに泣きそうになっていました。

 あれから8年経った今、話しもまともに聞いてくれなかった銀行も何度も本社に来ましたが、いまだにメインバンクは千葉銀行ひとつです。まわりからは、都銀や他の銀行と3行ぐらいで競争させたほうがいいよ!とアドバイス頂きますが、創業者は信用がないときにどう接したかが強烈に意識に刻まれています。ローン会社も○○エントさんなど20社は保証金を積んでくれ!300万とか言われましたが、21社目にアプラスさんが「応援します」と言っていただいた。
 もうそろそろいいのかなぁ!コンプレックスの塊もそろそろ溶けはじめている今日このごろ…。

第一章「始まり」

私は、親父の故郷、広島で生まれてすぐに岡山県の倉敷市で高校まで育ちました。小さいときから夢に生きる子で、大学で千葉に来た頃から、「俺は何ができるんだろう?」という問いかけをいつも自分にしていました。20歳のころ大学在学中に松戸の五香というところで、クラブのバーテンのバイトをしていました。そのときに、同級生がある先輩を連れてきました。その先輩があるビジネスマンとフランクに話ししていた姿を見てカッコウいいなぁと思い、友人に「何やってる人なんだ?」と尋ねたら「あの人はなぁ、青年実業家だよ!」と偉そうに言われました。偉そうな口の利き方が気になりましたが、心の中で「青年実業家」という五文字熟語がこだまし、いつしか青年実業家を目指していました。
 今から思えばおかしいもんで、青年実業家という職業はないわけで、じゃあ一体何の実業家になるのかは全く見当もつきませんでした。

 卒業してからもベアリングメーカー、投資会社の営業、塗装会社の営業で働き懸命にやっていました。1995年12月15日に塗装会社を辞めたその1時間後にお客様の所へ行って退職する挨拶をしたところ、「じゃあ川村さんがうちの外壁塗装をしてくれ!」と言われ「わかりました」とひとつ返事。「大変だろうから、前金30万円出してやるよ!」涙が出るほど嬉しかった。何も信用のない私に前金くれるなんて、当時、塗装会社の営業所は茨城県の土浦市、住まいは千葉の幕張本郷だったので、幕張本郷から土浦まで毎日通 いました。そのうち、石岡市からや、埼玉県の加須市からも千葉市の検見川町、幕張町など広範囲にわたり引き合いがきていました。個人創業日は平成8年3月6日になっていますが、本当は平成7年12月15日だったんです。埼玉 のお客様が星占術の先生で「川村君、3月6日を創業日にしなさい」「・・・はい!」みたいな感じで実際とは違うんです。(時効にならないですかねぇ?)

 最初は職人さんの信用がないので、お客様から工事代金を頂いたら、茨城県の取手市の職人さんのところに毎回持参していきました。「振り込みでいいよ」と何度も言われたけれど。事務所になんにもお金もない32歳の小僧ができるのはこれくらいしかないと思い毎回通 っていました。当時は、契約書も保証書もパンフレットもなく自分で作ったチラシが1000枚あるだけ。奥さんにも「会社辞めてひとりで仕事する」と言ったら「あっそう」の一言。2番目の子供におむつも満足に買えなかったときに言いたいこともたくさんあったろうけど・・・。太っ腹かぁちゃん、ありがとう。って心の中で思ってました。(今ではもっと太っ腹に・・・。別 の意味で(笑))
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