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周易・乾・文言 第一節7

文言伝第一節


文言曰、元者善之長也~


の続き


○君子行此四德~
文言伝第1段の最後の一文「君子行此四德者、故曰、乾元亨利貞。」に対する解釈。疏によると、


君子たる者この四徳を行わなければならない。だから周の文王が易経を作った際に「元亨利貞」の徳をたたえて、君子にこの四徳にのっとらしめんとしたのだ。


と解釈する。ここで疏は「君子」という言葉に引っ掛かりを覚える。というのも前のエントリーでも言ったように孔穎達疏の解釈では「君子」というのは上は天子から下は諸侯・公卿に至るまでの人を治める(人に君たる)立場の人物の総称である。それに対して乾の四徳は天の偉大な働きに等しく、聖人でなければ行い得ないものであるのに、なぜ「君子」と言うのだろうか?こう疑問を呈するわけである。それに対して疏はこう解答する。易の道は広く世の手本(法)とならなければならないのであって、「聖人」に限定してしまうと、しもじもまで及ばない恐れがある。だから広く「君子」と言って諸侯・公卿にいたるまで皆この四徳を行わしめるのだ。ただ「聖人」のみがこの四徳を完全に実践することができ、「君子」はおのおのの力量によって分に応じて実践すればいい。こう解釈する。


明日は朝早いので今日はこれまで。

周易・乾・文言 第一節6

文言伝第一節


文言曰、元者善之長也~


の続き



○施於王事~
 ここで、「元亨利貞」の天の四徳と人の徳目である「仁義禮智信」の五常との対応が説かれる。
出だしの「施於王事言之」は宋13巻本周易注疏では「施於五事言之」とする。この部分は四徳と五常の対応が説かれている部分なので、「五事」(=五常)と読んだほうが理解しやすい。ただ、「君子體仁足以長人、嘉會足以合禮、利物足以和義、貞固足以幹事。」の「君子」は孔穎達疏によると人を治める立場の人物を指すので(乾卦大象の疏 を参照)、「王の事」と解釈できないこともなさそう。
 また、最後の「故畧而不言也」は宋13巻本周易注疏では「故略知不言也」とするが、どちらでも意味は変わらない。

疏に拠れば、「元=仁」「亨=禮」「利=義」「貞=信」と対応している。ところが、昨日述べたようになぜ「貞=信」となるのか何も説明が無い。唐・李鼎祚『周易集解』に引用される隋・何妥の注によれば、文言伝の「貞固足以幹事」を論語の「敬事而信」(學而篇)と対応させて「貞=信」とする。ただ、李鼎祚自身はこの何妥の説を批判して「貞=智」と解釈する。
 「四」徳と「五」常を一対一対応させると、当然「五常」の徳目の一つ、孔穎達疏の解釈では「智」があぶれることになる。そこで次にあぶれた「智」をどう解釈するかが疏で問題にされる。疏では二つの解釈が併記されている。まず第一に、「仁・禮・義・信」の4つの徳目を行うには、必ず「知」が必要となるという解釈。(恐らく「仁・禮・義・信」の4つの徳目の中に「知」も含まれていると言いたいのだろうと思う。もう一つは易緯の『乾鑿度』の「水土二行、兼信與知也。」という一文を引用して信と知は互いに兼ねあっていると解釈する。この『乾鑿度』は私の見落としかもしれないが現行本には見当たらなかった。また、『禮記』禮運の「何謂四靈~」の鄭注「龜北方之靈、信則至矣」に対する疏でこの信と知は互いに兼ねあっているということに対して詳しく議論している。


今回で文言伝第一段を終わらせたかったがいろいろ調べているうちに時間切れ。

周易・乾・文言 第一節5

文言伝第一節


文言曰、元者善之長也~


の続き



○君子體仁~
ここから文言伝の


君子體仁足以長人、嘉會足以合禮、利物足以和義、貞固足以幹事。


の解説。疏によるとこの部分は天が四徳を行うことに人がのっとることを明らかにする部分とのこと。以下長いので分けて解説。
・言君子之人~
「君子體仁足以長人」の解説。それによれば「仁を体する」(體仁)とは「體包仁道」(仁道を身につけている)の意味で、また博愛して万物を育むこと(汎愛施生)と言い換えている。「長人」は「尊長於人」(人の上に立つ)という意味だとのことで「人に長たり」とでも読むのだろう。
この「君子體仁足以長人」は乾の四徳のうちの「元」に対応しているわけだが、次に疏ではなぜ「君子體仁足以長人」が「元」に対応するかを解説する。それによると、仁は善であるから、仁徳を行うことは、(善の長である)天の元徳にのっとっていることになるとのこと。
・嘉會足以~
「嘉會足以合禮」の解釈。「嘉會」とは「使萬物嘉美集會」(萬物の嘉美をして集會せしむ?)ということで、「合禮」は「配合於禮」(礼にかなう?)ということらしい。そもそも私は前の文言伝の「亨とは嘉の會なり」という部分がどういう意味かよく理解できていないので、ここもよくわからない。とりあえず天の徳である「亨」(=嘉會)が人の徳の「礼」に対応すると解釈したいらしいことはわかる。
・利物足以~
「利物足以和義」の解釈。「利物」は万物に利益をもらたし、其の宜を得させること(利益萬物、使物各得其宜)。「和義」は義にかなう(?)こと(和合於義)。ここもよく理解できてないが、天の四徳の「利」と人の徳の「義」が対応している。
・貞固足以~
「貞固足以幹事」の解釈。「貞固」は「堅固貞正」とある。「堅固にして貞正」なのか「貞正を堅固にする」のかどっちだろうか?「幹事」を「物をして成るを得させ、事をして皆 幹濟せしむ」(令物得成、使事皆幹濟)、つまり物事が完成・成就すると解釈しているのは、前の文の「貞者事之幹也」の所で孔穎達疏が引用する莊氏の説に同じ。
この前の部分の解説では、天の四徳の「元・亨・利」が人の五常のうちの「仁・礼・義」の徳目と対応しているように受け取れたが、この「貞」に関する部分では人の徳目の何に当たるかが明記されていない。すぐ後の孔穎達疏では「信」に対応すると説いている。


遅々として進まない上に、内容があまり理解できていなくて申し訳ないが本日はこれで終了。

周易・乾・文言 第一節4

文言伝第一節の最初の分段


文言曰、元者善之長也~


の続き。



○莊氏之意~
ここから、再び孔穎達による解説。前に引用した莊氏の説によって元亨利貞の天の四徳を説明したわけだが、孔穎達疏ではその解説だけでは飽き足らず、更に元亨利貞の四徳を五行の四時(四季)に配して説明する。以下、また分けて説明する。
・元是物始~
「元」の属する季節についての解説。


「元」は物の始めであり、「元」の徳を春に配す。春は物が生まれ育つ(発生)する季節である。だから文言伝の下文に「仁を体とする」(君子體仁足以長人)と言うのである。仁は春である。


と解説する。「始め」(=元)を春に当てるという主張はわかるが、仁が春にあたるというのはわかりにくい。ちょっと調べたところでは『禮記』郷飲酒義の「主人必居東方~」の部分の孔穎達疏でも「五行、春為仁、夏為禮」と言っている。さらに調べてみると、「仁義禮智信」の所謂「五常」の徳目を五行に配する事が行われたらしく、とりあえず隋に作られたといわれる『五行大義』でも仁を春に、礼を夏に当てていることが確認できた。更に古い文献だと『漢書』天文志に


歳星。曰東方春木、於人五常仁也~熒惑。曰南方夏火、禮也。


とあるのが確認できた。

・亨是通暢萬物~
「亨」の属する季節についての解説。


「亨」は萬物を通暢せしめるので、夏の時節に配する。だから文言伝の下文に「禮に合す」(嘉會足以合禮)という。禮とは夏である。


ここでも上に述べたように、五常と五行の関係をもって礼を夏に配している。
・利爲和義~
「利」の属する季節についての解説。


利を「和義」とし、秋の季節に配する。秋は既に物が完成し、各おの其の宜に合す。


ここで「和義」と「合其宜」が対応している。とうことは「和義」は「義に和する」と読むのだろう。前までは最後に五常と五行の対応で季節を解説していたが「利」と「貞」には無い。
・貞爲事幹~
「貞」の属する季節についての解説。


貞を「事幹」となし、冬の季節に配する。冬は既に収穫して貯蔵する時期であり、物事は皆やりおえている(幹了)のだ。


ここも「事幹」と「事皆幹了」が対応しているので、「事幹」は「「事 幹しおわんぬ」とでも読むのだろうか。
・於五行之氣~
ここまで四徳が四季に対応していることが説明されてきたが、五行でいう「土」の季節(いわゆる土用)が無いことについて解説する。


土は則ち分ちて四季に王たり、四氣の行う、土に非ざれば載らず(?)、故に言わざるなり。


正直よくわからん。

今日はここまで。

周易・乾・文言 第一節3

昨日は疲れていて帰宅後すぐに熟睡してしまったので更新せきませんでした。


文言伝第一節の最初の分段


文言曰、元者善之長也~


の続き。


○莊氏云第一節~
ここで長々と莊氏の説を引用して文言伝の「元者善之長也、亨者嘉之會也、利者義之和也、貞者事之幹也。」の部分を解説する。前に言ったように莊氏も第一節云々といっているので、孔穎達疏と全く同じかどうかはわからないにせよ、文言伝を節に分けることが孔穎達疏以前から行われていたことがわかる。
この部分は長いのでさらに分けて整理
・元者善之長者~
「元者善之長」の解説。とりあえず大ざっぱな意味としては「『元』は善のなかでも最も優れた物」という感じだろうか。しかし、莊氏の説は私にはわかりにくい。


天の體性は萬物を生養するものであり、善の大なる者は施生(万物を生育する)よりもすばらしいものはない。「元」を施生の宗となす、故に「元とは善の長なり」という。


まず第一点として周易・乾卦の経文の「乾、元亨利貞。」の疏やこの後の文言伝の「君子體仁足以長人」では、「長」の字を人の上に立つ(君長)の意味に解しているが、この莊氏の説では「施生の宗」というだけで、必ずしも「人の上に立つ」という意味で解釈しているようには思えないので、孔穎達疏と齟齬があるような気がする。(私の読み違いかもしれないが)
第二点として「善之長」については解説されているが、なぜ「元」が「施生の宗」であって、「善の長」になるのかが説明されていないように思う。当時の人にとっては説明されるまでも無く自明なことであったのだろうか?こう書いてから思い当たったのだが、乾卦の経文の「乾、元亨利貞。」の疏では子夏易伝の説を用いて元を「はじめ(始)」の意味で解釈しており、莊氏の「元を施生の宗となす」の元も「はじまり」の意味で解釈すればとりあえず意味は通りそう。
・亨者嘉之會者~
「亨者嘉之會」の解説。亨を通暢(とおる)、嘉を嘉美(すばらしい)、會を會聚(あつまる)の意味に解釈する。


天 能く萬物を通暢して、物をして嘉美の會聚たらしめる(?)


と説くが、嘉美の會聚というものがどんなものなのか私にはよくわからない。
・利者義之和者~
「利者義之和」の解釈。義を宜、和を和同と解釈する。


天能く庶物を利益し、物をして各おの其の宜を得て和同せしむるなり。


とあるが、「和同せしむる」とは何を(に)和同させるのだろうか?周易・乾卦の経文の「乾、元亨利貞。」の疏では、「物の性をして和諧せしむ」とあり、また「義を以って萬物を協和す」とあり、文言伝の「利物足以和義」の疏では「以って義に和合す」とある。
また、そもそも「義之和」を素直に読むと「義の和」であるが、上のような解釈では「義の和」をうまく説明できない気がする。あるいは「義にこれ和す」みたいな特殊な読み方をするのだろうか?う~ん難しい。
・貞者事之幹者~
「貞者事之幹」の解釈。


天 能く中正の氣を以って、萬物を成就し、物をして皆 幹濟するを得しむ。


とあるが、中正の氣が貞(ただしい)に対応するのだろう。ここで「幹」の解釈が問題になる。莊氏は「幹」を「幹濟」(成就の意味)と解しているが、辞書で調べてみたところ「幹」は物事を処理するの意味で、濟が完了するの意味。どうも「幹」一文字で完成・成就の意味にはならないらしい。後にみるように貞を四季の最後の冬に当てる説があるようなので、そこらへんからきた付会の説だろうか?また「幹」を動詞として解釈するのなら本文の「事之幹」も「事をこれ幹す」みたいに読むのだろうか?


全体的に細かく読もうとするといろいろ引っかかる部分が多くて読みにくかったが、とりあえず莊氏の説の引用はここで終わり。