実践思想と浄土-西村賢太 | SETAGAYA通信3.0

実践思想と浄土-西村賢太

聖徳太子は仏教書「三経義疏」において山中で坐禅ばかり組むようなことは、菩薩が説いた十種不親近の一つと見なしています。仏教とは聖徳太子にとっては、ゆったりと精進料理を食べて安穏と仏教思想と戯れることではなかったのです。いわば政治改革の思想でもあったわけです。


しかし、それは仏教というもののルーツを探るなら仏教とは革命性を孕んでいたことです。たとえば釈迦は階級闘争の実践思想として仏教を生みだしたとも言えるでしょう。それは原始仏教に近い、親鸞の浄土真宗にも近いことがあるでしょう。


ひっきょう、存在すなわち人間が生活を表現する方法はすなわち意識そのものであり、それ以上でも以下でもないのです。存在が意識を決定するとも言い換えられましょう。マルクスのユートピア性は浄土のそれと似ていなくもいないのです。


そんなことを考えながら、西村賢太の小説を読んでました。
世界は意味もなければ不条理でもない。ただたんにそこにあるだけである。
とするならば、なぜ書くのだろうか。思想的な意味を具象的なイメージとして語ったにすぎないのであろうか。小説の端々に見え隠れする諦観とともにそんな疑問が湧いてきます。


読みすすめていくうちに時宗一遍の踊念仏のアナーキズムに似ていなくもないような気もします。


ここにたとえば日本的な自然主義という方法論を導入すると悲劇性が増す。
自然主義的な物語は徹底的に悲劇的に描かれてしまうという宿命の図を、西村氏はいちおーフレームワークとして採用しています。これは別に私小説に限ったことではないとも言えるでしょう。世論とか経済状況とか人間関係。いざヒトがその場に置かれると意識は宿命的に起動されがちになってしまいます。


こういったことを時宗的なもので転回するような構造があります。空虚⇔日常の循環の中で、しかし単純な循環ではなく、相互連関的な循環。この循環の大胆な地盤沈下です。実際に小説のタイトルで「どうで死ぬ身の一踊り」というものがあります。既存の抵抗や対抗するということとは違う立ち位置の見事な提示ではないでしょうか。しかしこんな感覚は意外に日常に転がっているかもしれない。日常は本当かもしれないし、嘘かもしれない。嘘は日常であるかもしれないし、違うかもしれない。こういう感覚って、結構TVとかネットとかしてると降臨するような気もするんです。


豚どもがおれをみると反吐をはく。
ロートレアモンの詩の一節です。
さらに蟻にとっては反吐は欠かせないものであるとメーテルリンクは書いています。


言霊とともに反吐をはく。人間が持っている「狂気」に蹂躙されながらも、さらに「狂気」の内側を見続ける、勇気をここに見ます。