仏教にみる疎外論 | SETAGAYA通信3.0

仏教にみる疎外論

日本仏教にみる起源は葛城(蘇我氏)とされています。蘇我馬子が仏教徒であり、仏教導入を図り、それを以てして、近代国家に近似したものをつくりあげたことは興味深いところです。


いわゆるウェストファリア体制です。権力と権威の分離というよりは、本来的には双系性となるでしょう。推古天皇が権威であり、実務(権力)を聖徳太子が担う体制です。冠位十二階という官僚制度や憲法を定めました。


しかし、注目すべきは蘇我氏他、宿禰という共同祖先の氏がいっせいに排除され、藤原体制が日本の定番になることです。ここにおいて、仏教は権威の象徴であるとともに時に疎外の一途を辿ることにもなったことがあるのかもしれません。


そしてたとえば、仏教というものは犯罪意識(太宰治)のようなぼくたち人間が成長する過程において持つだろう特殊な心象を持った実体化したものなのではないでしょうか。
もしかしたら、その実体化した集合無意識を賦活作用としてこそ成り立つものなのかもしれません。

さて仏教というものが僧侶というコミューンを土台にし、一般的に私有財産の意識があまり垣間見えぬところ(もっとも営利的な面もあるでしょうが・・・)は非常にマルクス的にも思えます。「経済学・哲学草稿」には、こういった社会でいうところの法に相当する、あるいは仏教でいうところの律の如き記述があります。民主主義的な政体をつくり、規則を定め、自治を行う。


通貨モデルで社会を説明することにおける、通貨としての矛盾性。ここに疎外論から物象化論への転回があったように思えます。社会から駆逐され疎外されたのならば、ではそれを克服して自己実現をすれば良いのではないかと。


ですが、この非疎外論である、物象化論はこう問おうとしたのではなかろうか。自己実現の物語は、たしかに不可能に思えるかもしれない。それは主体的なものがないにもかかわらず主体として一人一人が克服の物語を引き受け、その物語を機能させることであると。