90年代の政治-絲山秋子「エスケイプ」 | SETAGAYA通信3.0

90年代の政治-絲山秋子「エスケイプ」

絲山秋子「エスケイプ」。ひさびさに面白い小説を読んだなという単純な感想です。
主人公は、全編を通してマヤコフスキーやニーチェを論じていた初期トロツキーに似ていなくもない。さて66年生まれというところで、少なくともぼくは躓きます。


そして結構世代論も出てくるのでわかりにくいところがあり、邪推するならかすかに記憶のある三井物産マニラ支店長誘拐事件でしょうか。主人公が成人を迎える頃に起きた事件となります。これはフィリピン共産党が関わった事件であり、日本赤軍も関与しています(とされています)。このフィリピン共産党から派生した組織が大平天国運動の洪秀全のように農民革命を模索したところも興味深い点です。戦前の農本主義であり、アジア的な面です。


ところで赤軍はかなり古いタイプの革命家集団に位置してくるでしょう。ここではないどこか。そうした志向と思考。ゆえに大平天国運動と言い換えることも可能だと思ったわけです。どこかと大平天国のユートピア性は非常に似ています。はたまた、トロツキーの死に関係されているとの噂のあった佐野碩がひそかにモデルなのではないかとも思ってみたりします。佐野碩はマヤコフスキーと「ミステリヤ・ブッフ」を共著したメイエルホリッドと親しい。


さらにescapeには現実からの逃避という意味があります。赤軍のような集団が悪しくも人を集めたことには、集団の機能性に現実逃避の意味が少なからずあったからかもしれません。


しかし、人間はふとある時自己に目を向ける時に、現実は容赦なく待っています。ひとときも逃してはくれません。存在が意識を決定するという言葉がありますが逆もまた然り。吉本隆明の「共同幻想論」が「資本論」的なところはそうした構造があるからでしょう。


であるならば、問いはこう変わるはずです。ここではないどこか的なところから、ここを如何様にどこか的に変容させるか。


程よいアンサーを提出するには、制度の革命以上に意識革命が生きるコスト的に必要になってきます。
それがはたしてローザ・ルクセンブルク的な問いだとしたら、意外に見事なアンサーとしての小説かもしれない。ここではないどこか。という枠組み自体が幻想であるならば、あるいは全てが幻想であるならば、現実の枠組みをここではないどこか式に変容させる他にない。それは親鸞的であるとも言えます。鈴木大拙の説をとるならば、浄土真宗と名が付きますが、実際は浄土の否定であり、どこかの否定です。


そことつながるのがラストの親鸞が修行した比叡山のシーンでしょう。親鸞的なところから、ラストの比叡山のメタファーは何なのだろうか。現実という過酷な鐘の声、諸行無常の響ありと言ったところでしょうか。そんな非主流の感覚がここにあるのが見え隠れします。むろん古い図式を使用しながらも、現代的な階級闘争の告白になるかもしれません。