絡みとられる言葉、言葉に絡み取られるわたし | SETAGAYA通信3.0

絡みとられる言葉、言葉に絡み取られるわたし

カミュ、言語メモ


全体的に自立した言葉、意見というものは言葉の性質上存在しない。
どんなに自由闊達に発言したものでも、それは過去に消費され尽くした言葉を幾分かアレンジしたものにしかすぎない。
こういうことは、言語学、記号論においての大枠の考えです。


さらに消費され尽くした中、消費され尽くせない対象を見いだすことで表現することと相俟った、言葉狩りも言葉の運用上に大きな影響を及ぼしていることは少なからずあるやもしれません。


この言葉の自由の不可能性から、にもかかわらず自由への渇望、不可避性へと果敢に挑戦した思想家は他でもないバルトでしょう。バルトの参照先は、カミュ「異邦人」になります。


カミュ自身も思考の限界を、世界の幻想に支配され、拘束されていると書いています。
そこから自己を、自由を放棄するのではなく、形象から形象へと飛躍することだと続きます。
この飛躍する先とは神話。たとえば、ぼくが考えていた神話とは定型の最たるものという感じがします。


しかし、カミュ-バルトが考えていたこととは、神話以前の言葉が生成する力の如きもの。
これは井筒俊彦教授の「言語アラヤ識」のようなものなのではあるまいかとも考えます。