カミュという政治的参加 | SETAGAYA通信3.0

カミュという政治的参加

アルベール・カミュ メモ


政治参加は如何様に変容するか。
ぼくの生活が劇的に変わるわけでもありません。
結局いきつくところは、人生に意味があるのか、いやぼくの人生は無意味であるという結論に達します。


これは、長年、愛読している、最強のニヒリスト哲学者ジョルジュ・パラントの影響を受けた政治学者としてのカミュの影響かもしれません。


カミュは徹底的に人生の無意味さを説きます。


にもかかわらず


カミュはナチスへのレジスタンスとして活動しました。
この無意味な人生にもかかわらず、政治的闘争に参加したこと。
ただただ意味⇔無意味の間を行き来したのではなく、このぎりぎりの線で思考し、実践すること。


もうひとつ、カミュにはドストエフスキー「悪霊」のキリーロフ論があります。
ここで「すべては許されている」ということにカミュは大いに関心を持ちます。
この世は不条理であるところから、逆説的に導出した「すべては許されている」。
これは倫理的問題というよりは、おそらくカミュが政治的理論を展開する際に求めていた言葉だったのではなかろうかと感じます。


それは、じつは現状をそれ以上でも以下でもなく見つめようとする透徹な目であったろうと思うのです。ここに吉本隆明の芥川論をなんとなく想い出したのでありました。