あの時水を出しっぱなしだったのがそもそもの間違いだった
メール受信したようだ
台の上に置いていた携帯に手を伸ばしたとき
まさに「今日のその時」である
カタン
無常な音と共にまるで滝に打たれる僧侶の様に水をかぶった
あぁ…
声も出ない
おかげで昔の携帯を使うはめに
メモリーはバックアップしてたから大丈夫だったのが幸いだ
>>ありさん
コメントありがとうございます。
僕は時々ふっと頭に出てくるんです。でも、割り切って「人間なんてそんなもんだ」と思うことにするんですけど、なんとなくやっぱり釈然としない気もするんですよね。
せめて相手に悟られないように勤めています。
最近冷たいもののとりすぎか腹痛になることが多い。
昼ごはんもあまり入らない。
胃腸に優しい温かいものをとるように勤めねば…
とはいっても、予備校に行く途中が暑いので我慢できずに自販機に一直線。(今日は生茶)
「苦しいのは未来の自分さ」などと気色悪い言葉は言わないが、目先のことのみに目がいく。
突然だけど、どうやったら数学伸びるんだろうか…
友達が落ち込んでるとき、へこんでるとき、慰めの言葉ってかけることってありますよね。
でも、そう言っているうちに自分の中で冷たく相手を見ている自分がでてくる。
冷たいなんてもんじゃなく冷酷と表現すべき程の感情、自分。
そういう感情が出るのは別におかしなことじゃないと思う。
どういうきっかけ、プロセスで別の自分が出てくるのかは分からないけど。
ただ僕が多少驚いたのは、そういう別の自分がいても平然と「慰めの言葉をかける自分」を演じていたこと。
おそらくその友達は僕の中の冷酷な感情を感じ取ってはいないだろう。
言葉や態度だけでは人の感情は判断できない。
人前で自分の嫌悪感だとかのマイナスの感情をそのまま出せる人は世間の印象とは逆に素直な人なのかもしれない。
波風を立たせたくない。
そのために嘘っぱちを平然と言うことが大人への第一歩であるのは間違いない。
そんなことは小5のころから分かっていた。
だが、複数の人から「信頼される」ようになってから彼らの本音の一部分を聞くようになって、それまで当たり前の妥協だと思っていたことが急に心苦しく思えるようになった。
人間の多面性に意味がないとは思わないが、本音の一部を打ち明けてくれる人を前にすると、その裏打ちする理由に疑問がふつふつと沸いてくるのである。