先日、歌川広重の版木一式が発見されて、実に150年振りに版木から浮世絵が製作された、というニュース記事を見つけました。


その記事によれば、「江戸時代には木材が高価で、版木は何度も削って再利用した後に廃棄していたため現存するものは少なく、そろった状態で残っているのは貴重」だそうです。

このような制作過程であるならば、初版から絶版までのスパンは非常に短かったものと考えられます。

一度版木を失ってしまったが最後、二度と同じ図柄の浮世絵を製作することはできません。

そう考えると、1枚1枚の浮世絵がいかに貴重な文化遺産であるか、ということを改めて認識させられます。


残念ながら、これほど歴史的、文化的価値の高い浮世絵も、江戸期には大衆の娯楽品の域を脱せず、また明治期以降も急速な西欧化と自国文化軽視の中でぞんざいな扱いをされてしまいました。

浮世絵の価値が日本国内で認識され始めたのは、国外においてゴッホやマネが強く影響を受けるなど浮世絵が非常に高い評価を受けるに及んでようやく、でした。


日本人にはこと文化的な事象となると、審美眼というか価値を見出すセンス、というものにおいて些か抜けている部分があるのかもしれません。

もちろん、世界で評価されたからそれは良いもの、世界で評価されないからそれは良くないもの、というわけではありません。

ただし、世界で指摘されて初めて、「そう言われてみれば・・・」というような気づき方は、非常にもったいない。


現在の日本におけるサブカルチャーを取り巻く環境は、当時の浮世絵を取り巻くそれと似ているような気がします。

浮世、とは「現代風」の意であり、江戸期は浮世絵はまさにサブカルチャーだったのです。

現在世界で「クール」と認識されている日本のサブカルチャーが、江戸期のサブカルチャーと同じような不遇を味わうことがないよう、願います。


その意味では、国立メディア芸術総合センターの持つコンセプトには大いに賛同するところです。

各所からの反対意見は、「ハコモノ」という点においてのものだけでなく、サブカルチャーというものに対するどこか「所詮メインストリームにはなり得ないもの」という認識にも基づいているのではないでしょうか。

一度、そういった前提や思い込みを捨てて、その価値を改めて問う機会を、政府は是非持って頂きたいですね。