人間と動物をわける決定的な違いは、本能が壊れているかいないか、ということにある。もっとわかりやすくいえば、行動プログラムが規定されているかいないか、ということである。


 例えばネコは、誰がどこでどう育てようがネコとして育つ。人間が育てたからといって、人間の言葉を話せるようにもならないし、ナイフとフォークで食事をするようにもならない。さかなを好み、決して遠出はせず、日がな一日寝転んでばかりというネコらしい生活をしているばかりだ。


 ネコは、誰がどう育てようがネコとしてしか育たない。これは、ネコが本能が壊れていない、つまり行動プログラムしっかりと規定されてしまっているがゆえに、ネコとして以外の行動をとりようがないからだ。


 ネコは本能により、生まれながらにネコになることが定められている。そしてこのことはすべての動物に共通している。


 たいして人間はこの逆である。そのことを明確にしめす事例に、<オオカミに育てられた人間のこども>というものがある。


 1920年にインドで、オオカミに育てられた人間のこどもが発見されたが、そのこどもは4つ足で猛烈な速さで走り回り、生肉をたべ、おそろしいうなり声をあげ、まさにオオカミそのもののようだった。そしてこのこどもは、保護されてからどんなに教育しても、人間の言葉

を話せるようにはならなかった。


 つまり、オオカミに育てられた人間のこどもは、オオカミの行動パターンを身に着けたオオカミそのものになってしまい、人間としては育たなかったということだ。


 人間は、オオカミに育てられたらオオカミになってしまったのだ。ネコが、人間が育ててもイヌが育ててもネコとして育つのとはまったく対照的だ。


 これは、人間は本能が壊れている、つまり行動プログラムが規定されていないがゆえに、生まれながらに<人間>として育つように定められておらず、<人間>にも<オオカミ>にも、またその他どのようにでもなってしまうということを示している。


 つまり人間とは、その言語も知性も精神性も、つまり存在そのものがもともとは白紙なのである。たとえるなら、粘土そのもののかたまり、といったようなものということだろうか。ネコは、はじめからネコの形をした粘土細工である。たいして人間は、粘土のかたまりそのものであるだけなのである。それをこねまわし、細工して、はじめて人間は人間となるのである。


 その細工しだいでは、先の例のように<動物>になってしまうこともあるし、<野蛮人>になることも、<化け物>になることだってありうる。またそれとは逆に、<英雄>や<高貴な人間>、または<聖者>になることだってありうる、ということにもなる。


 多くの人々は、人間とは生まれながらに<人間>であり、その後のしつけや教育によってよりしっかりとした人間になったり、また逆にだらしない人間ができあがる、と考えている。しかしそうではなく、人間とは最上の洗練された高貴な人間から、最低の動物なみの下劣な人間にいたるまで、どうとでもなってしまうという、ある意味でおそろしい存在だったということだ。

 

 人間は、生まれた時点ではヒトでしかないのだ。


 そしてその理由は、人間とは本能が壊れてしまっているから、行動プログラムが規定されていない状態でうまれてくるから、ということによる。


 ここまでは、評論家の岸田秀氏の見解を私なりにまとめたものだ。



 


人気ブログランキングへ

 では人間が<人間>になるためには、生まれた時点では<ヒト>でしかない人間を、<人間>にするための作業が必要になる、ということになる。


 この作業とは、もちろん教育のことである。このばあいの教育とは、国語、算数、理科、社会といった知育教育をさすのではない。人間を<人間>たらしめるための教育、つまりしつけと道徳教育のことをさす。人間は行動プログラムが規定されておらず、どうとでもなってしまう存在であるがゆえに、しつけと道徳教育によって<ヒト>から<人間>へと育てあげる作業が必要となるのだ。


 古今東西の賢人たちは、口をそろえて教育が大事だと唱えつつ”けてきたが、これは人間としての教育のことであり、人間は感化と教育しだいでどのようにでもなってしまうということの危険性を経験から見抜いた啓蒙であり、また警告なのだ。


 人間は、教育によってのみ<人間>となることができる。


 そしてその教育とは、伝統によるものしかありえない。


 なぜなら価値観や文化とは、根本的には感覚によって受け継がれるものだから。何が正しいことなのか、何が善いことなのか、何が美しいことなのか、こういった価値観の根底にはかならず感覚が横たわっている。価値観や文化とは、実はこの感覚によってはじめて存立し、また受け継がれて行くものだから、他の集団や民族、または国の伝統は、そこに属さない人間には意味をなさない。


 例えば、親が潔くふるまうことをこのうえもなく美しいことだと感じていれば、その感覚がその子に伝わり、その子も潔くふるまうことをこのうえもなく美しいことだと感じるようになる。

逆に、親がどんな汚いことをしてでも成功することをこの上もなく重要だと感じていれば、その感覚がその子に伝わり、その子もどんな汚いことをしてでも成功することをこの上もなく重要だと感じるようになる。


 あらゆる価値観、文化とは、このように根本的には感覚によって数百、数千年にわたって受け継がれていき、それが個人の世界観や精神性、つまりその人そのものを形つ”くっていくものであるから、人間にとってはその属している集団なり民族なりの伝統文化しかその人を真に生かすことはできない。


 人間にとって文化とは、より優れているとか、より美しいとかいうことより、合うか合わないかが最も重要である。


 そして行動プログラムの規定されていない、どうとでもなってしまうようにできている人間は、この伝統文化によって教育され、それを体得することによってのみ、人間らしくなることができるのである。


 この伝統文化をしっかりと体得していなければ、人間はこの世界がどのようなものであるかが明確に認識できず、したがってどのように生きればよいのかも、どのようにふるまえばよいのかもわからず、自分自身もあやふやで、生きる気力すら失い、ついには現実に不適応の状態になってしまうだろう。


 アメリカのある先住民の居住区では、成人男児の60%がアルコール中毒である、というおどろくべき調査結果がある。 


 これは、自分たち独自の伝統文化をもろに破壊されてしまったがために適応不全におちいり、堕落してしまった民族のあわれななれのはての姿である。


 伝統文化とは、損なわれた本能の代替品であり、究極の精神的よりどころなのである。


 動物が本能が破壊されたら適応不全におちいり、滅亡するしかないのと同じく、民族も、その伝統文化を破壊されれば適応不全におちいり、堕落し、あとは滅亡していくしかなくなる。


 くどいがここでもう一度おさえておきたい。


 教育なくして<人間>なし。 そして、伝統なくして<人間>なし。

 



 ポチっとお願いします!


人気ブログランキングへ

 となると人間が人間たりうる根幹を破壊し、まさに人間が人間たることすら否定しかねない最も危険な思想とは何なのかが明らかになることになる。


 それは、人間は生まれながらに本能が壊れていない、生まれながらに行動プログラムが規定されている、とする考えに基つ”く思想だ。


 こういった考えが基盤にある思想が、それを巧妙に偽装し、さも正しく、先進的な装いをこらして存在するとしたら、それは人類にとってもっとも危険な思想たりうるだろう。その思想をひとが本気で信じ込んでしまった時、その人は人として最も大事なものを自ら破壊してしまうことになるのだから。


 というのは、<人間は生まれながらに行動プログラムが規定されている>とする思想は、<人間は生まれながらに行動プログラムが規定されていない>とする真実と敵対するものであり、よって人間を人間らしくする唯一の手段である、伝統によるしつけと道徳教育を否定してしまうことになるからだ。


 それもそのはずで、人間に生まれながらに行動プログラムが規定されているのならば、しつけや道徳教育など、生まれながらに規定されている行動プログラムにたいする抑圧であり有害であり、したがって不不用、ということになってしまうからだ。


 生まれながらに完成されたすばらしい存在である人間を、よけいなしつけや道徳教育でゆがめてくれるな、ということになるのだ。


 ここでは伝統による教育どころか、伝統文化そのものも個人に対する抑圧とみなされ、存在することが許されないだろう。


 しかし先の<オオカミに育てられた子供>の例を出すまでもなく、人間に正しい感化と教育を与えつつ”ければそのぶん人間は良くなり、逆に悪い感化を与えつつ”ければそのぶん悪くなる、というのは誰でも納得がいくことだろう。自分自身をふりかえってみても、また他人を見てみても、これにあてはまるようなことをいくらでも実際に体験してきただろうからだ。


 また、本能の破壊された人間には、その代わりは伝統文化しかないということも誰の目にも明白なことだと思う。


 つまり、この<人間は生まれながらに行動プログラムが規定されている>とする思想は、われわれの経験からひきだした真理に照らし合わせれば完全に間違っているのだが、もしある民族そのものが、この<人間は行動プログラムが規定されている>とする思想を信じ込んでしまい、その思想で生きることになったとしたら、その民族はいったいどうなるのだろうか?


 こう考えてみるのも面白いかもしれない。


 

その時その民族は、動物が本能を失ってしまったときと同じ状態にみまわれることになる。

 

 まずどうしようもない無秩序化におそわれ、さらには醜悪化し、無気力化し、そして果てしのない迷いにとらわれだす。


 つまり、めちゃくちゃな行動プログラムに従ってしか行動することができなくなり、ついには滅亡への道をヨロヨロと進んでいくことになる。


 その民族は動物にとっての本能に相当するものを失ってしまったのだから、あらゆる人間的なものをダメにし、滅んでいくしかないのだ。

 

本能を喪失して健全に生きていくことのできる動物など、一つとして存在しない。同様に、伝統文化を喪失して健全に生きていくことのできる民族も、一つとして存在しない。


 この<人間は生まれながらに行動プログラムが規定されている>とする思想は、もし存在するのならば、人類文化を滅ぼす作用をそなえた強力な劇薬であり、史上最悪のカルトとでもいうべきものである、ということになる。


 しかしまあ、そんな異常な思想など存在するはずがないし、ましてやそんなものを信じる人間も民族もあるはずがないと、誰もが思うだろう。


 だが滑稽なことに」というべきか、悲しむべきことにというべきか、その狂気の思想は現実に存在し、いやそれどころか、その狂気の思想にとりつかれて衰退への道をよろけながら歩いているのが、わが日本民族なのである。



 そう、左翼思想のことだ。


 


クリックお願いします!


<a href="http://blog.with2.net/link.php?1457658 " title="人気ブログランキングへ"><img src="http://image.with2.net/img/banner/banner_23.gif " width="88" height="31" border="0" /></a><br /><a href="http://blog.with2.net/link.php?1457658 " style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a>

人気ブログランキングへ