以前に、私が経験していないことをブログに書いていたころ、そのことを批判する意見を目にしました。

 

私がそうしたブログを書いていることは決して間違いではないけれど、少なくとも私の意図は伝わっていなかったということになります。そのため、今回はちゃんとそのことを書いてみます。

 

先に結論を言えば、私は多くの情報を事前リサーチすることで、自分の学習プランを研究していたということです。経験は非常に有用な武器でありますが、当然に限界はあります。自分が経験していなことは全く語れないということもありません。極端に言えば、未曾有のことは誰も経験していなくても、語ることは可能です。それは未曾有の現象を研究するから。

 

前にブログでも書きましたが、経験が役に立たない時代が来ると言われています。そうした状況で役に立つのは、進行中の社会現象などを研究することに尽きます。学問や論理はそうした研究の入り口でもあります。

 

つまり、学問やそこから繋がっていく研究とは、未経験の状況で有力な武器になるということ。先人はその有用性に気付いていたからこそ、こうした伝統的な文化を育んできたのでしょう。私が経験していないという論点だけで批判する声に耳を貸さないのは、学問の意義をすっ飛ばした意見であるから。経験は素晴らしい教師ではあるが、経験だけが教師ではない。学問は経験の限界を超えていろんなことを教えてくれます。たとえどんなに素晴らしい経験を積んでも、大学のような高等教育の現場で指導することは難しい。学問の世界には、そんな輝かしい世界があります。

ドイツ初代宰相ビスマルクは、経験よりも歴史の有意性を語った。学問の意ぐち義の一つはおそらくそうした論点にある。

 

社会人大学生として編入学したばかりの頃に、経験していないことを語ることへのバッシングがあった。だが、ビスマルクは経験に学ぶことの愚かさを語っている。経験の重要さもわからなくはないが、それよりも学ぶことの重要さを追求したかった。

 

同じ大学の先輩風ふかしている層はつまらんことをブログに書いていたようだが、私は自分の道を進んだ。大学内にも次第に志を同じくする仲間が増えた。

 

そして、今年3月にどこの世界でも最高とされる学位を授与された。自分が所属していた大学の教員ですら半分くらいは持っていない学位を。この学位は、経験していない内容でも大学で教えられる学術的資格である。経験という限界を超えたからこそ手に入れた資格である、大学の先輩よりも、もっと多くの時代を造ってきた先駆者に学んだ。学問には確かに経験を上回る確かな価値がある。

 

アドバイスを無視されたと思ってる諸先輩に告げよう。私はこの学問的な世界にまでたどり着いた。

私事だが、社会人大学院生の期間が社会人大学生の2倍になっている。

学歴としては最高段階のPh.D(博士号)が頑張れば、もう目の前に迫っている。

 

そうした中で、ふとスクーリング時代に経験したグループワークや発表のことを思い出してみた。

通教では、この2つを何とか避けたいという学生が見事に多かった。

 

それから通学の大学院に進むとディスカッションやプレゼンは当たり前になっていた。

通教から大学院へ進学する方は少ないかも知れない。

でも、大学院では当たり前のことなんだから、大学でもちょっとチャレンジしてみてもいいだろうな。

 

実社会でも、ディスカッションや発表、講師役をやることは決して珍しいことではない。

通教で避けて通っても、多かれ少なかれそういう道を通る場合も多い。

 

だったら、辛くても通教の時に経験して自分の財産にした方がいい。

学ぶということは自分の可能性を広げること。

少なくとも、私は通教で得た財産で、今でも学位を目指していけている。

 

 

 

 

もうあまり記憶には残っていないですが、2013年3月あたりが私の最後のSC受講だったような。

 

11/19に、5年間のブランクを経て、久しぶりに産能SCを体験してきました。

 

科目名は「産能大学とマネジメント」。1単位科目です。

 

この科目を、というより今回のSCに参加を決めた最大の理由は、3年ぶりに大阪に恩師が講師担当であるから。

 

当日は、恩師と久しぶりにの再会として挨拶がてら、SCへの参加をお伝えしました。

 

スクーリングが2日制になってから、1単位は丸一日の開催となっています。今回は、大学短大の合同で70名程度の参加。

 

講義を数時間しつつ、午前の後半からは産能では定番のグループワーク。

 

よくグループワークが嫌いとか、聞くだけのSCが良いという人がいますが、大学院や社会ではこうしたセッションは当たり前なのに。

 

私としては、後輩が頑張っているところを見守りつつ、自分の意見も出しながら、良い学びになればいいなぁとの思いでいました。

 

評価は、ワークが30%で、最終試験は70%とのこと。私らには懐かしい事前確認テストはもうなくなっていました。

 

最後は、恩師を途中まで見送りして、研究科へ。9時-18時でSCがあろうと、その後は研究。大学院生の性かなぁ。

 

 

 

本日付けで、久しぶり産能生として、SC登録を済ませました。

 

私が本科生だった5年ほど前に比べて、iNETでの手続きが非常にわかりやすくなっています。

学習のしおり、NEXTなども一定のバックナンバーは全ページが電子化されていたりします。

 

OB会の役員でもあるし、その関連でずっとNEXTも届いているので、ある程度は知ってますが、

必修科目が廃止、ちょっと前まで難攻不落の扱いだった「現代の経営学」(通称:緑のあいつ)が無くなってます。

卒業要件は、当然ながら必修科目要件がなくなり、基礎科目と専門科目の合計として総単位と、SC単位のみ。

SCも3日から2日に圧縮されていたりします。

 

社会人に優しい(ただしSC当日は長丁場で過酷な)方向にシフトしています。

それぞれが自分で科目を選べるのは良いことですが、コース配本以外で体系化されないことにもなります。

まぁそんな変化を実感しながら、久しぶりの現役生としての一歩を進みます。

 

 

5年前に卒業した産能へ、1週間後に再度の入学。

といっても、別大学院の院生として研究がかなりハードなので、科目履修生ですが。

 

産能は本当に良い大学だと思います。

卒業してずっとOB会の役員やっているので、大学・短大の学長はじめ、いろいろな方々とリアルに交流は続いています。

今後の大学がや地域の学生がどのように学んでいくのかをサポートもしつつ、自分なりに何か出来ればいいなと。

先生や先輩に頂けた、また自分なりに磨いた貴重な学びを今の後輩に少しでも伝えられればと。

 

まぁ産能の現役だった頃、頂いたアドバイスを採用しなかったりしたので、嫌がっていた先輩もいたとは思います。

そうしたアドバイスは非常に貴重ではありました。でも、主体的に学ぶ以上、最終的にどうするかは自分で決めるものだと考えました。

率直に言うと、アドバイスしたのに従わないのはおかしいと考えるのは、個々人の自由を阻害することにもなります。

私は後輩にアドバイスはしますが、その意見を採用するかしないかは本人に任せます。ちゃんと判断してくれよと願いながら。

 

同じ学生でも博士課程だと一応は研究者、産能の頃では考えられないくらいシビアです。練習と戦争くらいに違います。

ということで、久しぶりに和気あいあいとした学びの場所に少し里帰りする気持ちでいたいものです。

 

 

 

タイトルは、数学会のノーベル賞とも言われるフィールズ賞を受賞した数学者の言葉。

 

なぜ、学ぶのか。

さらに、なぜ経験もしていないことを語るのかという私への批判の回答は、このタイトルにあります。

 

学問の世界では、経験できない領域をリサーチによって明らかにすることが可能になる。

大学までの学びだと、そこまで理解している方は少ないかも。

 

大学院以上での研究では、学問が経験を補って余りあることは自明のことです。

経験がそんなに強い武器なら、誰も大学いかずにより早いキャリア形成で豊かになっているはず。

ステイグリッツ、教育経済学、いろいろなアプローチが高等教育と豊かさの相関を明らかにしています。

 

その究極の形の一つがAi、人工知能。

AIは何も経験していないのに、人よりもはるかに高度な判断ができる領域があることもまた明らか。

シンギュラリティの到来に、経験にどれほどの力があるのか。再考することが必要です。

 

 

 

論文を読むことが多い中、大学生までと大学院生以上(研究者)とに一つの差異を発見した。

 

学生は、やたら一人称を使いたがる。自分の経験、自分をベースにした情報が全てであるかのように。経験していないことを書くのはおかしいみたいな発想がベースである。

 

研究者は、あくまでもエビデンス・データ・事象をベースに論文を書いている。プロの研究者は、経験なんてものがいかに無力で不安定で、絶対でないことを痛感している。

 

それぞれにはそれぞれの考え方があるということ。私ははじめからプロ志向なので、経験は重視していない。大学院にディグリーアップしない方々にとっては、経験こそ財産という考え方もあるし、それはそれで尊重する。

 

でも、一番納得いかないのは、自分の考え方が全てと思いこんでアドバイスして、そのアドバイスを聞かないことをダメと判断すること。世にはいろんな考え方、いろんな価値観がある。それぞれの考え方で生きていけばいい。少なくとも、博士課程では経験こそ一番大事なんて発想は完全に通用しない。



大学通教課程を経て、社会人大学院の通学生として今に至る自分。

ふと、いろんな人の書き込みや学生・研究生を見て思うことが一つあります。

それはスバリ「出来るだけ楽をしたい」という考え方。

もちろん科学的に考えれば、労力対効果を高めるということに繋がっています。

でも、往々にして、労力を省略する方はその効果も低めている現象が確認されます。

そこで、(特に社会人が)学生や研究者になることの意味を提案してみます。

それは、個々人の「目標」をしっかりとして、その「実現」に注力すること。そこに尽きます。

自分の目標を高くすれば、労力であまり手は抜けないことがわかります。

というより、そんなに楽をしたいならそもそも進学しない方が良い訳です。

低すぎる目標で楽をすることにも、そんなに意味があるとも思えません。

結局、限られた学生期間でチャレンジしてみることに尽きます。

学生の間に、どれだけ仲間を増やせるか、人前でちゃんと発表できるようになれるか、

学術的に意義のある文章を作成できるようになれるかどうか。

そういった入学前には出来なかったことが出来るようになることが大事。

講義ばかり聞いて。ちょっと頭に知識を増やしている程度のことは正直、あまり意味ないです。

後輩に、ちょっと上のステージになれたなという充実感を味わってほしいと思ってます。

余談になりますが、大学院修士のとき同期に某IQ150以上の組織のメンバーがいました。
でも、私はその人より研究者として確実にレベルが上でした。(首席で修了したことで証明済)
天才集団に入れるような方でも陣地な努力をしないと結果はついてこないものです。
今月23日は、地元での母校である大学の入学ガイダンスでした。

東京にある大学なので、本学でしか入学式はありませんが、一部の地方で入学式相当のイベントとして行われているものです。

今回、連絡をもらって気づき、何とか途中から参加できました。

現役大学生の頃は参加するのが当たり前でも、今はOBで特に貢献できる要素がそれほど大きくはないのですが、今回の参加理由は本学から恩師がいらしてたから。

短い時間でしたが、現況報告を少し。今年度末の大学院修了時にはお祝いしようと言っていただけました。

ガイダンス中はすでにOBの身分ですが、後輩の姿を頼もしいなと拝見し、少しだけアドバイスなどもしました。

私としては、無理のない学習計画を提案しましたが、入学生の中にはもっと最初に頑張りたいとの意見をされた方も。

思えば、私も入学初日にほぼ全部レポート提出とかやってやかなぁと思い出しました。それも賛否両論の意見を聞きましたが、最初はムリなことを勢いでやってしまうのも良い経験だと思います。

私はアドバイスはしますが、あくまでも提案であり、もっと頑張るという新入生は応援したいですね。少なくとも、自分のアドバイスを聞かない残念な人みたいな解釈はしません。

「残念な人と思って納得する」という人が一番残念な人なんです。自分の価値観以外を認めないのは狭い視野の人だから。もっと懐を広くして、それぞれの価値観を認めていけたら、より良い仲間づくりができるはず。私が恩師や大学事務局に認められたのは、いろいろな価値観を持つ仲間をまとめていけたから。それは今でも自分の財産だなぁと思います。