売却したギターに取り付けられていた純正パーツのナットはブラス製のものだった。よくわからないけれど取り付けられていたものがそうだった。ナットが純正でブラス製?、なるほど、あのギターかと思われた方もいるかもしれない。多分、お察しの通りだと思う。

後々、知ったことだが、ブラス製のナットが好まれていた時代があったからあの人も、ブラス製のナットが気に入っている、とおっしゃる理由は案外その好まれた時代を体感されたからなのかもしれない。今でもブラス製ナットが取り付けられたギターをステージで使用されている。所有していた当時を振りかえかえってみると、キーン、とした音色が強く感じられたように感じる。とはいっても、ギターの音色を聴き分ける耳を持っていないので、たぶんそうではなかっただろうか、という印象である。

話は、先週に戻り、ビビリではなく音づまりですね、という話をされえた楽器屋さんの店長さんが、ナット劣化していますが、この状態で行けるか、とにかくやってみます、とおっしゃった。

のちに、電話がかかって着て、難しいです。ナット交換するほかはないですね。どうされますか、とおっしゃった。気を使っていただいて、自身で交換できるのなら、自身で交換されますか、という意味も含みつつ、私が全くの無知だったことがあり、話を少し丁寧にしていただいた。

やっぱり、このギターだからブラス製にされますか。ブラス製ナットは、想像で話すので間違っていたらすみません。金額が少し高かったように思いますが、どうでしょうか、と尋ねた。そうですね、普通の、と言ったら、どれが普通になっちゃいますが、高い、とおっしゃる通り、割高ですね。しかし、音色で選ばれる方がいますし、このギタリストも音色で選ばれていますよね。どうされますか。例えばですが、別にブラスナットにこだわれない場合は、他の選択をされたらいかがですか。どのような音色が好みとか、こういう素材のナットが良いとか希望をおっしゃっていただければ、選択の範囲が狭まりますので助かります。例えば、どのようなものを望まれますか。例えば、牛骨オイルつけナットというものから、普通のと言ったら語弊がありますが、新品時に取り付けられている素材のものまであります。どういったものが良いですか、とおっしゃった。

勝手なことを言いますが、チューニングが狂い難いものが良いです。音色より機能の方が良いというか、スポーツカーを所有していると仮定して、どこをいじるかと言われたら、エンジンをいじるよりブレーキを強化するみたいな感じです。馬力は入らないです。止まる車が良いです、って言ってもわかりますかね、と答えると、わかりやすい喩ですね。要するに機能重視でチューニングが止まるやつ、じゃなかった、狂い難い奴ですね。そういうよなものもあります。ただ、それでもロックペグ等に換えるわけではないので、多少はやはり狂いますから、以前より狂い難くなる、と思っていただいた方がいいですね、と話された。

う~ん、ちょっと待ってくださいね、うん。在庫でありますよ。じゃ、これで行きますか、と話されたので、色は何色ですか、と尋ねた。黒色とかなどより、例え、真っ白でも、白の方が良いです。黒ずんでいるネック、ヘッドに真っ白は目立つでしょが構いません、と私が言った。う~ん、ちょっと、待ってくださいね。白でストラト用。ありますよ、真っ白でナットが浮き出るということはないですよ。

金額はいくらですか、と尋ねた。ブラスナットよりかなり安いですよ。牛骨よりも安いです、とおっしゃりながらナットの金額と交換料金をおっしゃった。交換しなければいけないものなら交換してもらうしかないので交換していただく依頼をした。

後日、電話がかかってきた。ギター、仕上がりました。ナットの色は目立っていないですよ、とのことだった。

ギターを取りに楽器屋さんに言って店長さんと話をした。以前に調整に出した楽器屋さんではありえないことなのだが、丁寧に説明していただいた。

チューニングの狂いはどうですか。私は、前と比べようがないくらい狂わなくなっています。多少は狂うと言っても前に比べれば文句はないです。ただ、お願いしていたフローティングの件ですが、1音半アームアップセッティングにはやはり無理ですか、と尋ねた。う~ん、近づけていますが、これ以上は無理ですね。トレモロスプリングも3本使用するにはこのセッティングでは不可能です、とおっしゃられた。

ついでにフレット磨きをしていただいたことなど話され、フレットがかなり逝っているのでフレット調整かフレット交換が今後は必要になりますね、とおっしゃった。

私はこのギターを後に売却するのだが、交換していただいたナットのメーカー名と型式が書かれたパッケージに交換されたブラスナットを入れて渡していただいた。これの素材は何なのですか、と尋ねた。人工象牙ですね。結構、うち(この楽器店さん)ではよく出ていますよ。評判は悪くないですよ。こだわる方は牛骨やブラスなどですけれど金額がわりと安いのでこれに換えられる方はいらっしゃいますよ、とのことだった。

のちに、下取りキャスターという名前で友人達の前では呼んでいるが、私には上等すぎるギターなので、本気でそのようなことを思い、粗雑に扱って演奏などしていない。そのギターは、とある東京にある楽器屋さんに下取りで入ってきたばかりのギターを下取り価格+αで半ば強引に売っていただいたギターのことである。

このギターもその楽器屋さんでは、1音半アームアップセッティングはできない、とおっしゃられたので、以前書いたように、ダメ元で、山野楽器さんに竹中尚人(Char)さんと同じようにトレモロブロックが当たるキャビティを加工していただき、1音半アームアップセッティングにしていただけないか、と尋ねた時に、3音でも、4音でもアームアップできるようにできますよ、と笑いながら自信満々におっしゃられたあの時はとてもうれしかった。日本中の楽器屋さん工房さんに尋ねたが、無理だ、とおっしゃる方や、トレモロブロックを薄くすればできる、とおっしゃる方などその方、その方のおっしゃる回答はそれぞれだったが、現状のギターではセッティング不可能であることをおっしゃった。

竹中尚人さんのギターは1音半セッティングになっているのですが、と尋ねても、良い答えは得られなかった。

それに対して、簡単にできますよ、とおっしゃられたのが頼もしく感じた。

さすが、東京!!!速度が、小さい地方都市とは違う、いつ発送していただけます、ときた。話の進め方の速度が田舎とは違う。のちに聞いたことだが、とにかく皆さん早く送りかえしてこい、というと言いすぎですが、お客様は速く対応してほしい、と言われます。私共は最善を尽くしておりますが至らないこともあり、ご迷惑をおかけしております、と店長さんはおっしゃった。待っていただける、いつでもできた時で構わない、とおっしゃられるのはお客様ぐらいです、と言われたので、田舎では普通ですよ、と言おうと思ったが、その言葉は言わなかった。

ギターをセッティングする前に、例のキャビティ加工をしていただいたが、敷居が高い、高額な加工賃がとられる、特別な人間しかしてくれない、など思っていることを言ったら、この金額以上はいただきませんし、どなたのギターにも加工をさせていただいております、とおっしゃった。そして、お客様は、失礼な発言だと思われたらおっしゃってください。中古のギターを探されて、そのギターに加工を望まれていたとお聞きしました。おっしゃる通り、そのような考えの方々が少なくないです。新品のギターを購入されて、加工のご相談をさせていただいたこともたびたびありますが、大概が、一度、自宅にお戻りになられて考えられる、ということで話はそこで終わります。せっかくの新品のギター、例え中古のギターでも加工してしまうと元に戻せないですからお気持ちはとてもわかります、とおっしゃった。私は、新品の車を買って事故車同然のようにカスタマイズするみたいなもので、加工をしてほしい方にとっては良いですが、売る場合はただの事故車ですからね、と言ったら、そうです。その感覚が、皆さんおありなのでしょう、とおっしゃった。

加工後、セッティングの段階になり、ナット交換が必要だ、ということになった。どの製品にされます、とおっしゃった時に馬鹿の一つ覚えのように、Graphtech TASQ XL ホワイト、にしてください、と答えた。

売却したギターは、無知で何も調べなかったので、普通のタイプを使用されて交換していただいたが、XL、というタイプはより、チューニングが狂い難い、ということだったので金額もそれほど変わらないので頼んだ。それに対する返答は、人工象牙は、チューニングの狂いの対比に耐久性が牛骨ナットなどに比べて劣ります。そのことをご了承いただけるのならベストのご選択だと思います。ご了承いただけるのなら早速作業の手配をさせていただきます、とおっしゃった。

結局、1度しか、私は、実際にお店で直接、お会いし、ご対応していただいた店長さんにお会いすることができなかったが、山野楽器の名に恥じない上等のスーツ、腕時計をされ、よく髪がとかれていて、こんな汚い恰好できて良い楽器屋さんなのかと一瞬思ったが、その紳士に私は近づき、すぐに握手を求めた。その店長さんという肩書の紳士は、少し、驚かれたような態度をされたが、握手をしていただき、話をさせていただいた。キャビティ加工は、ガタガタ加工などではもちろんなかったが、丁寧に加工されていることに驚きなめまわすように見ていると、店長さんが微笑みながら、これが望まれていたキャビティ加工です、とおっしゃられた。フェンダーのアンプはスタンバイ済みで早速、アームアップ、ダウン、チューニングの狂いを試すように用意されていた。

お言葉に甘えて、とは、おかしいが、早速すべてを試したがアームダウン幅が狭いようにかんじたのですぐに、もっと、ダウン、こないですかねえ、と尋ねると、今のセッティングではこれが最大で、これ以上加工することはできません、と答えられた。初めに、電話で、3音でも、4音でも可能ですよ、とおっしゃった店員さんと相談して決めたセッティングが2音アームアップ可能セッティングだった。これは無茶すぎたなあ、と私が言って、とりあえずこの状態で付き合ってみて1音半アームアップセッティングに替えてもらう、ということで今回はこれで満足しています、と言った。そうすると店長さんが用意してあったチューニングメーターでちゃんと2音アームアップできることを証明した。テンションスプリングを使われるようですから無くさないようにご自宅までお届けします、とおっしゃった。

それ以後、相談ごとなどでメールと電話をかけて話をさせていただいたが、もう会うことができないことを他の店員さんから相談事の続きをしたかったので電話をかけた時に急に聞き、知った。とても驚いたが、今、考え、思い、感じても、これは、紳士的だった店長さんの、男の粋、ダンディズムなのだろう、と思う。その話を聞く、数日前に、電話で話した時は、いつものように笑われながら何も問題がないように話され、電話の最後に、いつものように、今後ともよろしくお願いいたします、とおっしゃった。あの声を今でも忘れられない。

これは無茶すぎたなあ、と言った通り、とても無茶すぎたので、今は、1音半アームアップセッティングに調整していただいている。
細かくどうでも良いことを長文で書いている。非公開にしてあるものやブログなどのSNSで書かないものもある。何でもかんでも書いてはいけないとは決して言えないが、読む方によってはとても不愉快を通り越して訴えられる可能性もSNSというものにはある。ツイッタ―での画像添付で警察沙汰になった例もあるが、画像や絵でなくとも言葉というものはいかようにも取ることができるので厄介である。

朝食、昼食、夕食を掲載されている方が、先に書いた事態にはならないが気をつけて利用するべきなのは間違いない。

私の友人に金物屋さんだった友人がいる。と言っても、明治時代の話であり、その店舗の写真も当時の風景等の資料を集めた資料本に掲載されている。だから、なるほど、このような珍しい名前なのかと思ったが、その思った年齢が小児時代なのだから古い話である。

実際に当時の在庫があるわけではないが、ご家庭では金物にはこだわられているというような話をその当時聞いた。だから、と言って話はその年齢では発展せず適当にその話の後は遊んでいたと思う。

貴金属はもちろん、食器、調理具などの金物にこだわるだけの潤沢な資金を私は持ち合わせていないのでいまだ無縁の話だが、それでも絞り出すと楽器、ギターの話になる。

トレモロスプリングは複数試したわけではないがいくつか試した中で、ほとんど、この商品は良いだろうという想像だけで、山野楽器さんにアームブリッジの調整をしてもらう時に、Raw Vintage、のトレモロスプリングにしてください、と頼んだ。勝手な想像だけなので、そのセッティングに適しているのかがわからなかったので尋ねたら、メーカーが推奨している5本を使用することはできませんが、4本を使用してセッティングすることが可能です。メーカーは、5本、又は、4本のトレモロスプリングを使用することを推奨しています。3本だけ使用するわけではないのでメーカーが望んでいる製品の精度を味わうことが可能です、とおっしゃった。

兎に角、このトレモロスプリングは柔らかい。売却したストラトキャスターをフローティングすると純正スプリングを3本を使用すると真ん中に取り付けたトレモロスプリングが遊んで外れる。それを、トレモロスプリングバックパネルでおさえればトレモロスプリングが外れないが、その当時、ギター調整に出していた地元の楽器屋さんの店長さんに3本を使用することは無理なので2本だけにしておきました、と言われて以来、そのギターは2本だけトレモロスプリングが取り付けられていた。

後に、このギターを自身で、パーツを交換して音色を変えられないだろうか、という、あがきを行ったことがある。ギター配線をビンテージタイプクロスワイヤー、ピックアップ交換、3つのポットを全て交換、アース配線交換、シールドコード差込ジャック交換、トレモロスプリング交換等を行った。結果的に、不器用で下手な作業は、所詮、悪あがきであり、手ごたえを感じることができなかったが、そのことによって、はっきり分かった重要なことがある。これはギターを売却して、新たにギターを安く購入できないか、ということに考えをあらためた方が良い、という結論になった。

確かに、しっかりとした手ごたえを感じなかったが、パーツを交換したことにより、音色は変化した。しかし、想像していたもの以下の結果だった。作業されることにおいて技量のある方が、作業されていたら、また違う結果が出ていただろうが、結果オーライではあるが、売却して、その資金で購入したギターの音色や手触りは、売却したギターをはるかに凌ぐものだった。今、現在は、結果的に良かったと思っている。

複数のギター、数本、十数本、数十本以上所有されている方やされたことがある方なら、絶対的経験値が違うだろうが、現在、所有しているストラトキャスターは、2本であり、それ以上の本数のストラトキャスターを所有することは不可能である。維持管理するほど資金に余裕がないからである。1本持っているだけでも贅沢なのに、2本を所有していることはとても贅沢に感じる。2本所有している理由は、整備調整、パーツ交換時に楽器屋さんに預けた場合、1本のギターしか所有していない場合は、ギターが弾けない、ということを防ぐことができる。そのメリットのため所有しているので、金銭的に困窮すれば売却する。

先に書いた売却したギターの各部のパーツ交換だがトレモロスプリングももちろん交換した。複数のメーカーとは言えないが、数メーカーのタイプ別に選び取り換えてみた。

印象的なメーカーのトレモロスプリングについて書こうと思う。

Raw Vintageのスプリングは、いつもの奴、といった感じで、ガツッとくる骨太な音色とは対照的で、柔らかい感じのトレモロスプリングであることを感じた。例えば、歪みだけで行きます、とおっしゃる方には、この柔らかさが悪い作用を起こす可能性があると思った。あくまでも個人的な感想である。

私は、ドロップチューニングをせず、ダウンチューニングを稀にするとしてもFチューニング以上下げない。音色もクリーントーンから激しすぎない歪みの間で音色で考える。アンプ側で歪ませて、あとは、ステージでプレーするような活動をしていないので、ギターについているヴォリュームノブとトーンノブ、ピックアップセレクターで音色を変える。アンプも5W以下のフルチューブアンプで、演奏技量が低いのでこの現状で満足過ぎると思う。

では、他のトレモロスプリングで印象に残っているものは、ESP社Type2、というトレモロスプリングである。このトレモロスプリングは、ブロンズ色に近い色で、他社のメーカーから販売されているトレモロスプリングでは見られない色合いである。Raw Vintageのトレモロスプリングに比べてスプリングが太い。取り付けてみる前に気になったことがあった。Raw Vintageのトレモロスプリングよりスプリングの長さが短かった。取り付けてみた。フローティングセッティン幅が売却したギターに取り付けられていたフェンダー純正トレモロスプリングを取り付けた状態と同じで、4本を取り付けることはもちろん難しく、3本取り付けることも無理だった。真ん中に取り付けたトレモロスプリングがトレモロスプリング取付アンカーから遊んで外れてしまうのだ。4本も、3本も取り付けることが無理であることがわかった。

では、せっかく、購入したのだから良いところを見つけようと思った。私にとっては、10円、100円で買えるものではなく、生活費ではない、趣味の嗜好品にお金を使ったのであるから元を取りたいし、優れているところを知りたい。

これはフローティング量を減らすしかないので、アンカーを留める2本のねじを調整した。ギリギリまで試してみたい、と思い、3本取り付けられるギリギリに調整してみた。そうすると、楽器屋さんに調整していただいた時に、3本のトレモロスプリングは使用できませんでした、と言われた私の希望するセッティングよりトレモロブリッジのトレモロプレートをボディに下げた状態にすればかろうじて3本のトレモロスプリングが遊ばず取り付けられた。アームアップ幅を求めずにその状態でギターを弾いてみた。ギターの音色が重い感じがした。アンプの調整ノブを最大に歪むようにいじり音を出した。なるほど。これは、ドロップチューニングやダウンチューニングをされる方で、歪みだけで行きます、という方にはこのトレモロスプリングが良いと思った。ドロップチューニングやダウンチューニングを試さなかったが多分そのような方には合っている音色だと思った。さらにいじって、4本のトレモロスプリングを取り付けられるように調整した。自分の感じた感想で間違いないように感じた。重い、太い音色がさらに増した。重い、太い音色、と書いたが、その方々が実際に音色を聴いてみないとわからないので購入予定の方が読まれていたのならあくまでも参考、ということにとどめておいていただきた。

トレモロブリッジプレートをフローティングにした調整だけで試すことをやめたので、ノンフローティングの場合はどのような音色になったのかわからない。これは、いまだにそうなのだが、ノンフローティングで、Raw Vintageトレモロスプリングを取り付けて弾いたことがない。だから、もしかすると、ノンフローティングの場合は、ノンフローティングに合ったトレモロスプリングが、Raw Vintageトレモロスプリング5本を使用した調整のものより、よいトレモロスプリングが、その方、その方にとってある可能性があるように感じる。

ご友人が多く、いろいろと試される方がいらしたらすべてのパーツを試すことが可能だが、私は友人も少なく、パーツ類を数多く試されている方が周りにいないので、難しいことではあるが、そのメーカーにそのメーカーが製作、販売されている商品について尋ねる。メーカーの方は面倒に思われる方もいるだろうが、こちらはお金を使って購入するから、何かインフォメーションが欲しいし、できればその数が多いだけよい。

小さい地方都市の限界は、楽器店が少ないことである。楽器店が少ないということは情報も少ない。だから、自分が持っているものか、お店で販売しているものの情報がすべてである。

限界があり、現状不可能ではあるが、多数の店舗のある楽器屋さんがある関東周辺に行き、少しでも情報が集められれば、それは、楽しいことだろう。

メールでの交信か電話で尋ねる以外現状不可能ではあるが、それでも、親切にご対応をしていただけるメーカー、楽器屋さんが少なくない。逆に、質問をされることすらある。私の質問に対して、面白がってくれているのなら答えますよ、といった感じで、メールなら交信が続く。

山野楽器さんに全て調整を任せ、自分の望む調整をしていただいているが、それがベストなのかどうなのかはわからない。しかし、山野楽器さんは、何処の楽器屋さんの各店舗の店員さん、日本全国の工房さんに尋ねて皆さんが、無理である、ということを、可能である、と答えられ、こちらが半信半疑なパーツを勝手な想像だけで取り付けてください、ということに対して、5本は取り付けできませんが、4本取り付け可能です、と即答されるだけのインフォメーションを持ち、そして、私が望む調整を簡単に行える調整技術がある楽器店さんなのだから頼るしかない。

私は、かつて、所有していた車の整備工場探しでどこに出してもうまくいかない経験をしたことがあった。その時にある方が、あそこに尋ねてみたらどうでしょうか、と紹介していただき、まともに動くように整備をしてくれる整備工場を見つけられた経験がある。整備後、かえってきた車のアイドリング音をまず聴いて驚いた。静かになっていた。私は何もそのことについて頼んでいないし、請求書にもその整備についてきさいされていなかった。スポーツカーではないがスポーティな輸入車であったが、アイドリングの音はこれくらいするものだ、と思っていたが、それは間違えていたのである。私は、それ以来、ギャーギャー、ワーワー、派手に聴こえるスポーティーカーやスポーツカー、スーパーカーのアイドリング音をまず聴くことにしている。調整次第で派手にできることを多くの整備士の方が述べている。しかし、車にとっては少し控えめぐらいのアイドリング音の車が良く整備されたものだということがわかる。クラッシックカーラリーなどに実際に行って体感すれば私が言っていることが間違いか、そうではないかがわかると思う。

トレモロスプリングは4本使用し、1音半アームアップ可能にしている。どちらのトレモロスプリングもRaw Vintage社製である。現時点では、このトレモロスプリングが、セッティング上、そして、音色においても気に入っているからである。

私は、ストラトキャスターを所有している全てのストラトキャスターに同じような仕様にしている箇所がある。

まずは、昨日、書いたテンションスプリングを必ず使用する。トレモロスプリングを同じメーカーのものに交換し、本数を同じにして、トレモロブリッジをフローティングセッティングにする。

バックパネルをフェンダー社の同じ型番のバックパネルにする。

ナットを同じメーカーの同じ型番のものにする。

そして、今日、書くパーツに交換する。今日、書くパーツは、あまり誰も気にされる方が少ないパーツになるだろうが、私は、とても気になるパーツなのである。そのパーツは、ブリッジサドル調整ステンレス製イモネジである。月日が経ったが、FMブルー湘南さんで、放送されている番組、横須賀たそがれミュージック!、内のコーナー、JERRY'S TONE、で私が、JERRYさんのブログ内のコメントで書かせていただいた際に、ちょうど、Inamiさんが、トレモロユニットを交換される時期と重なったことで番組内で、私が書いたコメントを、JERRYさんが取り上げられてお話しされた回があったが、私はサドル調整イモネジがサドルから飛び出ている状態であると困るのである。チクチクして痛く、とても気になるのである。だから、サドルの調整イモネジの長さがそれぞれサドルを調整した際に飛び出ず、サドルの上面と同じ高さ、もしくは、サドル上面より下にある状態にしている。

調整が器用にできないので楽器屋さんにお任せするのであるが、なぜ、そのようなステンレス製イモネジを使い、長さにこだわるようになったのかという理由がある。

都会とは違い地方都市、それも小さい地方では楽器屋さんじたいが少ない。その中の楽器屋さんにギターを調整に出すにしても、ギターを調整できる方、ギターテックさんがいない楽器屋さんがある。ただでさえ少ない楽器さんがさらに楽器屋さんが絞られてくる。

私は小学生からギター、当時はフォークギターと呼ばれ、アコースティックギターなどと呼ばれてはいないギターを地元の百貨店が移転のため閉店するための在庫一斉処分売り出しの時に、貯めたこずかいで購入した。閉店時間まで百貨店の女性の店員さんと話、安くならないか交渉し足りなどして粘っていた。各店舗も人の出入りが多く、商品が売れていく。その百貨店では移転後、楽器売り場を置かない話をされていた。それなら安くならないですか、と小学生の私は粘って交渉した。金額が安価な方が良いのならこちらのギターはどうですか、とクラッシックギターを勧められたが、いや、鉄の弦のギターの方が欲しいです、と言っていた。

もう、閉店という時間がいよいよ近づいてきたら、財布から出していた金額で売ります、と言っていただけた。ただし、ケースはつけられません、とおっしゃった。ケース?、と私は思った。どうせ持ち歩きはせず、家だけで弾くだろうからいらないだろう、とその時は思い、いりません、と答えた。今からすればとても驚くほど高額ではなく、エントリーモデルのギターより安い金額だったが、それでさえ、粘って安く買ったとはいえ、当時の私にとっては高額な買い物をしたと思った。ヤマハのアコースティックギターだった。モデル名や音色がどうだ、などとはこだわりはなかった。ただ、俺はギターを持っているぞ、というだけで何か強力な武器を持った感覚であった。ケースが無いので、ダンボールでできたギター箱に入れた状態のギターをバスに乗って自宅まで持ち帰った。のちに、小学高にギターを持って行き、演奏する機会ができて、ケースが無いので黒色のごみ袋に入れて急な雨などやギターを痛めないように持って行く、というなんともラッドな行為をする羽目になった。

そのギターは、ちゃんとした楽器屋さんで購入しなかったので、弦高がどうだ、こうだということにこだわるどころか、ギターはこういうものだろう、という感じで、弦高について考えたことがなかった。ヤマハのギター弦を置いているレコードショップもあったぐらいなもので、ギター弦を入手することはできた。だから、楽器屋に行く必要がなかった。

小学校を卒業する年の冬休みは、エレキギター、エレキベースのことで頭がいっぱいであった。いよいよ、楽器屋に行って買わないといけない状況になり、先日、ブログで書いた、当時、60代の店主が経営していた楽器屋でエレキベースを貯めたこずかい全てを使い購入し、その時に、ギターなどの弦楽器は調整して演奏をするものだと知ることになった。年配の店主だったが、今、考えても安価な楽器でも丁寧に調整してくれていたように振り返ってみても思う。

私は社会人になるまでエレクトリックギターを持っていなかった。ブログで書いたように、兄のギターを盗み弾きして練習していたからである。楽器調整は、自分で楽器屋に持って行く必要がなかったし、いつも、コロコロとギターが何度も違うギターに変わっていたが、何処から入手したのかは詳しく知ろうと思わなかったし、いまだに知ろうと思わないが、それらすべてのギターは弦高は調整されていたようで全く気にならなかった。

しかし、自身で入手し、所有することになると当たり前だが自分のギターなので自分で何処かの楽器屋に調整に出すか、自分自身で調整するしかない。

社会人、という前に高校卒業まじかになると、念願だった自動車免許を取ることができ、そうなると車にとても興味を持つようになった。小さいころからの夢であった自分自身で車を運転できるということはとてつもないことができることのように感じていた。

そうなると、ギターにあまり興味がなくなり、音楽は聴くだけで満足できるようになった。それにはいろいろと理由があり、ギターが収録されているバンド、ミュージシャンの音楽を主に聴いていたが、マイルス・ディヴィスや当時、流行っていたアシッドジャズやクラブミュージック、渋谷系、と呼ばれていた音楽など、音楽の幅を広げて聴くようになると、自身で再現不可能だ、と感じたことが少なくなかった。

当時はプレミアとは無縁の何処の車屋さんのバックヤードに1台はあった、ボロボロのAE86を手に入れて、それ以来、車でお遊び競技をすることや、モータースポーツ観戦のためサーキットに行くことに興味を持っていた。

しかし、音楽は聴き続けていて、音楽の幅が広がったため、オールドスクールのファンクやR&Bも聴いてみないといけない。あのロックバンドの60年代のアルバムを聴かなければいけないなどとやっていると給料の半分近くを使ってアルバムを購入しまくり、聴きまくってはいた。だから、音楽は聴き続けていた。

再び、ギターを触り出したのは、いろいろやっていたので気づいたら10年以上経っていた。弦高を含め、一度、楽器屋さんに調整してもらわなければいけないと思い、地元では有名な楽器屋さんに調整に出した。ギターテックが一人しかいなく、常駐していないので時間がかかる、と言われたが、ギブソンやフェンダーのカスタムショップ製のギターやマーティンのギターの正規ディーラーなので任せることにした。

ある日、電話がかかったきた。楽器屋さんのギターテックと名乗る人だった。問題がありまして電話をかけました。サドルの調整ネジが回らないんですよ、と。はあ?、回せば良いんじゃないですか。ドリルで、もむ(回らないネジなどの頭にドリルの針を当てて、回らないネジを割って、こわしてしまうこと)等すれば、ネジを取り替えられるでしょう、と答えた。いや、だから、ネジが回らないんですよ。なるほど、この人は私にサドルを新品に交換してください、と言ってほしいのか、と思った。なるほど。サドルって、こまのことですよね、と私が言うと、そうです。こまです。それいくらぐらいするんですか?、と私が言うと、金額を言うと、交換しちゃいますけど、いいですよね、と言った。どうも、こうもないらしいので、了承すると電話が切れた。

数日後、調整が終わりましたと電話があった。店に行くとギターテックはいなかった。今日はいないんですよ、と店員が言った。問題があったら連絡してください、と言った。調整代や部品代を払って自宅に持って帰ると弦高は問題ないが、音が鳴らない箇所がある。何じゃこりゃ。生鳴りで音が鳴らないフレットがあるギターを生れてはじめて見て、自身で今、弾いている。何じゃこりゃ、と再び、思った。ギターテックが常駐していない。時間がかかる。生まれて初めての経験を今している。こりゃだめだ。楽器屋が、と思った。クレームを出しても同じギターテックが対応するのだから時間がかかり、さらに、この異常な状態を正常だという解釈で客に返したのだから、何処が異常なのかはたしてわかるのだろうか、と思った。

これはセカンドオピニオンだ、と思った。ギターに問題があるのならそれを正常にできない理由があるのだろう。それはなんだ。他の楽器屋さんで同じ状態に調整するのであればこのギターに問題があるのだろう、と思った。

行動だけは早い私は、もう一つ、私の小さい時からある楽器屋さんに電話で状況を説明してこのギターの状態を尋ねた。ネットで事前に調べていたが、ビビっている状態なのではないか、と思っていた。まあ、とにかく、持ってきて、見せてください、ということだったので持って行った。

その楽器屋さんの店長さんが、ギターを持って弦を指で弾いた瞬間、このギターの状態はビビリではないです。音がつまっています。考えられることは、ナットの劣化が、まず、あげられますが、とにかく、現状でどこまでできるかやってみましょうか、という話になった。結局、ナット交換をしてもらうことになったが音つまり等は解消されて普通に問題なく演奏できるような状態に戻った。しかし、私は、今後も、特に6弦側のサドル調整ねじが回らなくなるのではないか、ということと、1音半アームアップできるようにセッティングして欲しいことなどを話した。1音半セッティングは難しい、と答えられた。イモネジについてはレモンオイルやオレンジオイルを塗ると良い、と教えてもらった。

調整イモネジと1音半アームアップセッティングについてどうにかならないか、と思っていた時に、名前だけなのか、どうなのかはわからないが、フェンダーカスタムショップ製ギターは、どれほどよいギターなのか、と興味を持ち、できれば、所有したい、と思った。ブログで書いたように、ギブソンカスタムショップ製レス・ポール スタンダードの音色を聴いて、こんな良い音色のギターの音を聴いたことがない、と思い、フェンダー社のカスタムショップ製ギターはどうだろうか、と思った。

地方都市、それも、東京からかなり離れた場所にある地方に住んでいるので、たまにある用事の時に全てのことをまとめて行わないといけない。楽器店周りもそうで、とにかく、各楽器屋さんの各店舗ごとの店員さんの質問攻めをする。自分の気になっていることを尋ねる。これはできない、これはできる、とその楽器屋さんでできることとできないことを知ることが重要である。

レス・ポールを弾いた楽器屋さんの違う店舗の店員さんにしつこいくらいに質問させてもらったが、面白がってくれて、いろいろと知らないことを教えてくれた。フェンダーカスタムショップ製のギターについて尋ねた。シンラッカー塗装のレギュラーラインとどう違うのかなどを尋ねた。皆さんがおっしゃる通り、木材のクオリティの違いと製造方法がラインで製造されていないことによる細かい処理についてなど、ネットや本で知っていること以外のことをギターを前に話してくれた。ここがこう違う、と実際に並んでいるギターの中から1本持って説明してくれた。そして、私がどんなにこのギターの音色が良いですよ、とたとえばいいますよね。でも、お客様にとって良い音色のギターはそのギターではなくて、隣に並んでいるギターかもしれません。基準がその方、その方にあるので実際に比べてみるしかないです。レリックは、下地もラッカー塗装ですけれど、下地塗装がウレタン塗装のN.O.Sのギターの方が、その方にとって好きな音色の場合もあります。ジェフ・ベックのギターのボディは下地はラッカー塗装ではないですよね。あのパキッ、とした音色が気に入られているのではないですか。下地がラッカー塗装だと、逆にあの音色がするギターを探すことは難しいです。

1音半アームアップですか?、う~ん、1音半近くまでのセッティングは可能ですが、正確に1音半にすることは難しいですね、という回答だった。

帰り際に、何度も伝えていたがダメ押しで、下取りでカスタムショップ製レリックのギターが入ってきたら連絡してくれませんか。レリックのギターが欲しいです。色が塗りかえられても、塗装が酷い状態でも、ボディーカラーが何色でも構いません。とにかく、レリックのギターが下取りに入ってきたら連絡してください、としつこく頼んで店を出た。

音つまりのあったギターは、メイプル指板で、軽く歪ませただけで、メイプル指板特有のパキパキした音色のせいか、激しく歪むように感じる。次は、ローズ指板のストラトキャスターが欲しいなあ、と思っていた。

資金をある程度確保した時期に、ギター探しを始めた。大体、相場通りなので、本当だと高速バスを使ってでも東京に上京して、楽器屋めぐりをしてギターを探すべきだが、ダメ元で通販で買おうと思った。J ギターとデジマートで毎日検索し、最悪、ヤフオクで入手するか、とも思った。

そうこうしていると、連絡をしてください、と頼んでいた楽器屋さんの頼んでいた店舗のホームページの中古ギター欄に、レリックのフェンダーカスタムショップ製ストラトキャスターのローズ指板のギターがチラチラ点滅するように、掲載されたり、消えたり、を繰り返していた。すぐに電話を掛けた。丁度、同じ店員さんが出たので、売ってほしい、と頼んだ。もちろん下取り価格近くで、という要求でである。これは入ってきたばかりなので無茶言わないで下さいよ、とのことで、販売文句を考え中だったそうだ。ギターの画像を見せてほしい、と頼み、メールで送ってもらい見た。あとはギターの仕様も簡単に記載してもらった。ヘッドのフェンダーのロゴが一部欠損していた(のちに、フェンダー社に依頼して修正してもらったので、今は、フェンダーロゴはしっかりと貼られている状態に戻っている)。あとは画像で見るので実際見ていないので何とも言えないが、失敗したのっぺりとしたバーガンディ・ミスト・メタリック、というより、茶色っぽい色で、これ、何色、という、変な色に見えた。

これ、バーガンディ・ミスト・メタリックですよね、とあらためて電話で訊くと、そうです、と答えられた。茶色っぽく見えて、何色かわからないのですが、というと、確かにそう見えるかもしれませんが、バーガンディですよ、と答えられた。紫色っぽいですか、と尋ねたら、若干、紫色っぽい感じです、と答えられた。ラディアスが、9.5ラディアスを希望していたが、ヴィンテージラディアスとのことだった。以前、尋ねた時にヴィンテージラディアスの手触りを確認していたので、安く買うのに細かいことに高望みをしてはいけない、と思った。誰も安くするとは言っていないのに、である。

交換パーツは、サドルが、Raw Vintageに交換されています。レリックだからか、純正サドルもついていますが、調整ねじが回らないから交換したようです、とのことだった。

誰も安くするとは言っていないのに、このセッティングにして、私の自宅に送ってください、と勝手なことを言っていたら、諦められて、下取り価格は無理ですよ、とおっしゃって、少し上乗せ価格で売ってくれることになった。

そのギターを手にした瞬間から、サドル調整イモネジは、ステンレス製のものに替える、という風になった。更に話は続く。

1音半セッティングは不可能、と各楽器屋さんの各店舗で言われたが、山野楽器さんにキャビティ加工(竹中尚人さん Charさんの所有、使用するギターに山野楽器さんがトレモロブロック後方のキャビティを加工されたものと同じ加工)をしてくれるか尋ねた時に、3音でも、4音でもできますよ。でも、それはギターではないので、2音ぐらいでいいんじゃないでしょうか、と言われて、2音アームアップにセッティングしてもらったが、キャビティ加工してもらっても、アームダウンの幅が足りないので、1音半セッティングに変えてもらった。そして、サドルの調整イモネジが突き出ないようにできないでしょうか、と尋ねたら、すぐにパーツを交換し、調整してくれた。

その後、社会人になって買ったギターを売却して、何かの縁で、安くカスタムショップ製メイプル指板のギターを入手した。売却したギターとそれほど製造年が変わらないギターだった。このギターもサドル調整イモネジをステンレス製にして、サドルの上面から突き出ないように調整してある。

イモネジをステンレス製に換えると音色が変わるということで、Raw Vintageのサドルに交換しても、イモネジはステンレス製ではない普通のフェンダーなどのサドルに取り付けられている素材のものに替えられる方がいるが、私は音色を聴き分ける耳を持っていないのでステンレス製で構わない。

その人、そのひとにとってはどうでもいい話、パーツである。
Stratocasterとは、Fender社が、1954年に正式販売したギターである。年式により、仕様が異なるが、パーツが共用できるというギターである。車好きならうなずくだろうがさすがアメリカの製品である。

車の場合は、日本と違い、ガソリンが安く販売されているからという理由以外に、アメリカは国土が広いという理由がある。何の話をさっきからしているのだという方がいるだろうが、車に搭載されているエンジンの話をしているのである。アメリカ車は、ほぼ今でもOHVのエンジンを搭載されている車種が多い。エンジンの構造上で考えるととても古く、低燃費とはかけ離れた非効率で、エンジンのサイズにしても何においても効率的なものではない。では、なぜ、ガソリンが安く販売されているから、という理由以外で、ガソリンをまき散らすがごとく、走るエンジンを作りつづけているかというと、エンジンが故障した緊急時に、エンジンパーツがその場、又は、その土地の近くで入手できるからである。これは事実である。

アメリカは広大な土地なので、人里離れたあまり人が住んでいない場所で、車が故障した場合は命にかかわることもあるくらいに深刻な事態になる。他国に厳しく、自国に甘いアメリカだからという理由だけではなく、古い車でも新しい車でもパーツが使用できる確率が高いエンジン構造のものを選ぶと自然とOHV構造のエンジンになる。すべてが使えるわけではないが使えるパーツは他の構造のエンジンより確率が上がる。だから、OHV構造のエンジンを作りつづけている。

まあ、あとは昔ながらの乗り慣れた、昔ながらの味わいがあるエンジンであることと、他国に厳しく、自国に甘いアメリカであるから、新しく低燃費のエンジンでトルクフルなものを開発して、バンバン新車に搭載しようと思っていないからという理由の方が正解なのだろう。

車が、そうなら楽器もそうなのか、というとそうではなく、たまたまそうなったのであろう。フェンダー社のストラトキャスターが販売不振の不人気ギターだったら既に絶版で販売されていないので、共用パーツ云々の前に、パーツを探すか、作るか、という話になっていただろう。

パーツの形が違っても加工なしで取り付け可能なパーツがとても多い。

ジャパンヴィンテージの本、という書籍を読んだことがあるし、実際に弾いたことがあり、手元にはないが、所有しているグレコGOⅡなどの時代のギターでも、純正パーツを取り替えるにはデッドストックの純性パーツを取り付けるか、ジャンクギターの純正パーツを移植するか、新たにパーツを作るしか方法がない。それ以上に古いギターの場合は、さらに純正パーツの取り換えに困るだろう。

純正にこだわらないのなら、いかようにもできる点で、アメリカ産のギターは所有するには優れている。それは、アメリカ産のギターやそのギターを元としたレプリカギターが、好きか、嫌い、という話は別の話としてではあるが。

精度を上げたトラディショナルなパーツが、今でも開発されてどんどんと新製品が出てくる現状を知ると、日本の工業製品と日本国外の工業製品との違いを知ることができる。販売台数、販路の規模の多さの違いが大きく、人気があるモデルであることは間違いないが、それ以外にパーツの保管について日本国はその保管部品についても税をかけることや、保管場所の問題があるので廃棄している現実があることはわかってはいるが、過去より現在に、より、こだわる国が日本だとあらゆるもの、その多くは嗜好品で知ることができた。文化を残すという意識が全広範囲視点で考えていない。

古い趣味の車を所有したいのなら、国産車より国外の車を所有したほうが所有する上で困らない。なぜ、そうなるのかというと、答えは簡単である。パーツが入手できるか、できないか、である。

日本国内で入手するのは困難だ、とおっしゃる方が、必ずいらっしゃるだろうが、現代社会においてその意見は通用しない。SNSが発達している現代社会においては、個人で輸入されてパーツを交換して車を所有されている方は、1人、2人ではない。

イタリア車で、特定のメーカーの部品を入手することは困難だ、とおっしゃるのなら、あなたは、まず、Facebookで、イタリアに住む、あなたが所有されている車を所有されている方と親しくなることを考えるべきだ。ディープな車なら、車ほど、オーナーズクラブやその車を大切にされている方の熱量が日本とは違うので、容易に入手することができる。文化として根付いているので、文化が存在しない日本国内だけの考えで何事も考えていてはいけない。日本のオーナーズクラブと比べるとディープである。

しかし、それは、日本のオーナーズクラブと比べるとディープだと感じるだけであり、彼女、彼らにすれば当たり前のことなのである。また、パーツはメーカーが保管していない場合がおっしゃる通り多い。だが、彼らはデッドストックのパーツを多く保管しているし、ない部品は、新たに作って動態保存しているのである。だから、部品で困ることはほとんどない。俗にいうスーパーカーの場合はどうだ、とおっしゃられても同じことである。新たにパーツを作ってくれる小さい規模で作業している一軒さんお断りのレストア工場、ビルダーが存在する。問題はあなたがどれだけ資金を用意できるかという問題だけである。資金とコネクションがあれば動態保存で車を所有することは可能である。日本の車、特に名車と呼ばれる車や町中を走っていた当時は車を購入し、所有することが高額だった時代の360㏄の乗用車を所有するのとではそこが違う。日本の古い車をきれいな状態で所有することほど難しいことはない。

私は、文化が育っていない、又は、存在していない話題として取り上げる嗜好品は楽器と車である。流行り、廃りがある、というもので文化が育っているものは少なく、この現象が多く起こる国は日本である。

古い戦前の貴重な車や、戦後間もない頃の高級車に興味がない世代が出て、父親達が所有している車を引き継ぎたくないので処分して欲しい、ということを言われているということが、日本国外では由々しき問題である、と取り上げはじめられてはいるが、それは、ここ最近のはなしである。

音楽に関しても親と子が同世代の音楽を好んで聴き、楽器で演奏するということも日本から見るとそれは文化であると言えると思う。個人的な意見ではあるが最近ソフトケースにギターやベースギターを入れて肩から下げている学生は、なぜか女性の方が多いように感じる。増えてきている、という表現より、多いように感じる、という表現の方が大げさではなくあっているように思う。そのまま、成人して以降も続けることができれ文化になるのだがどうだろうか。

話が長くなってしまうのが悪い癖、ということになるが、今回はギターパーツの中で、それも、とても小さなパーツ。そんなパーツなんか知らない、という人から、このパーツがないと困る、という人まで大きく分かれるパーツだ。

まず、その前に、あなたはトレモロアームバーをトレモロプレートの穴に挿してトレモロブロックに取り付けるか、取り付けないかが問題である。トレモロアームを使わない人には必要ないパーツである。

トレモロアームバーを取り付ける方にとっては必要か、必要ないかが分れるパーツの話である。

それは、テンションスプリング、というパーツである。小さいスプリング状のパーツである。このスプリングをトレモロブロックに入れることによって、トレモロアームバーがある一定の位置に固定できる。だから?、という方はテンションスプリングを使用したことがないか、存在を知らないか、必要ないパーツなのだと感じる。

各パーツメーカーがテンションスプリングを販売しているが、値段だけではわからない耐久性の違いがある。同じメーカーが2種類のテンションスプリングを販売している場合がある。どちらを購入すればよいのだろうか、と悩む。どちらにしろ安いものだから高いものを買っておくか、と思われるか、どちらもそう変わらないだろう、と思われるか、意見は分かれるだろう。その答えはご自身で試していただくしかない、というのが私の答えである。パーツ精度にばらつきがあるメーカーがあるので、高いものが必ずしも良くて、安いものがダメ、とは言えないのである。これはメーカーの製作精度の問題なので困った問題なのだが運しだい、という馬鹿にしているのか、というメーカーのものもある。

テンションスプリングは、フェンダー社のギターやフェンダーブランドのストラトキャスターを購入するとトレモロブリッジのトレモロプレートの穴をふさぐシルバーのシールが貼ってあるが、そのシールを外すとテンションスプリングが入っていることを確認できる。脱落防止でシールを貼っているので、ギターのボディ正面をひっくり返したりせずに、まずは、トレモロアームバーを差し込んで、トレモロブロックに取り付けていただきたい。それで、こんなものいらない、と思えば、取り外せばよいと思う。それは、テンションスプリングだけではなく、トレモロアームもいらない場合は、トレモロアームバーも取り外せばよいと思う。

私は、テンションスプリングがないと困る。アームバーが固定できないと演奏する上で支障が出る。支障が出ると言っても巧く演奏できないので偉そうには言えないのではあるが、アームバーが固定していないと困る。テンションスプリングが必要ない人の多くは、トレモロブリッジをフローティングされてない場合が多いのではないだろうか。しっかりとアームアップをしたいので、トレモロバーがふらつくと安定せず、しっかりとトレモロブリッジを持ち上げられないので困る。アームダウンだけの場合は、極端に言えば、アームアップに比べ、トレモロバーが安定していなくてもトレモロブリッジをダウンさせることは可能だ。

アーミングをそんなにもするのか、と尋ねられれば、それほど使用はしていない、と答えるが、一度テンションスプリングを使用すると、これがないとストラトキャスターを使用して弾いている意味がないようなほど私にとって重要なパーツである。

テンションスプリングを使用するとアームバーが固定するので、ヴォリュームノブやトーンノブ、ピックアップセレクターの切り替えの邪魔にならないか、と尋ねられる方がいるだろうが、逆に、テンションスプリングを使用されていない方は、ヴォリュームノブ、トーンノブ、ピックアップセレクターを頻繁に切り替えているのか、と尋ねてみたい。

プロフェッショナルギタリストの場合だが、アームバーが固定されていて邪魔ではないか、という、テンションスプリングを使用されている方の多くの演奏は、ヴォリュームノブ、トーンノブ、ピックアップセレクターを頻繁に触られている頻度が高いことをステージを実際に観に行ったり、映像媒体を見たりして知ることができる。

私の個人的な意見だが、テンションスプリングで固定されたアームバーに触れて位置を変えることも、ノブやセレクターを切り替える動作と同じで特別な動作をするわけではないのである。テンションスプリングを使用されている方なら同じような考えの方もいると思う。何ら面倒な動作ではないのである。

ヴォリュームノブ、トーンノブ、ピックアップセレクターを切り替えない方だと理解に苦しまれるかもしれないが、全て同じ動作の一環なのである。例えば、音を歪ませている場合は、エフェクター機材を使わない場合は、音色をヴォリュームペダルで変えられる方もいるだろうが、そうではない場合はほとんどの方は、ギターに取り付けられているヴォリュームノブ、トーンノブ、ピックアップセレクターで音色を好みのものに調整して演奏する。これは、自身でどのような音色を出したいかその時に思ったものに自然と調整できた方と練習された方に分かれるが、結局はその時に思った音色にすぐに変えたい、ということは共通している。

ヴォリュームもトーンもピックアップセレクターによるピックアップの選択も全て音色を変えたいから切り替え、調整するのである。トレモロアームも同じで音色を変えたいからトレモロバーを上げるか下げるかするのである。全て音色が重要なのである。音色の変化が必要ならノブやセレクターを調整する。その一環でトレモロバーが固定されていた方が正確にできるからテンションスプリングを使用するのである。テンションスプリングに慣れたらぶらぶらしたトレモロバーだと落ち着かない感じがする。

ハードケースに入れて持ち歩く場合や楽器店に調整等で発送する時には必ずセロテープをトレモロプレートに貼る。テンションスプリングが取り外すことができれば良いが、いつも、中から出てこないのである。

だから、私は、セロテープがいる派、である。

あなたはどちらだろうか?
図書館で偶々出逢った本である。ページ数が少なく早く読み切れるだろう、ということで借りた本である。

田舎の本屋ではまず店頭に並んではいない本である。

個人的な価値観について触れている本であることに気づけるかどうかを著者ははっきりとは文章化はしていないが重要であることを伝えたいように感じた。また、楽器もそうではあるが、購入した時点で完結せず、維持をし続けていかなければいけない。維持するために調整、整備、修理しなければいけない。自らで調整等ができない場合は他人に依頼するしかない。その他人という、調整、整備ができる方やその作業を専門職とする優れた整備調整技術者を見つけなければいけない。その方を見つけることが大切であることを伝えたいように感じた。

評価というものは、この世では正当に評価されないことに気づき、自己の中で柔軟な評価をすることができること、すなわち、価値観、を見つけそれに早く気づいた方は右往左往することが無くなるのだが、他人の評価がどうしても気になるのが人情というものである。いかに客観的な視点で世の中のあらゆるものに対して捉えられるかを早く気づければ良いのだが、そうではないことが多々ある。それを、人は右往左往する(した)ことを歴史から、過去の他人の言動から知ることができる。

また、日本国内限定で、ものを捉え、評価すると地球的規模での評価と時間的ずれが生じることをいつの世でも変わらないことに気づくこともできる。あらゆることにおいてそうなのだが、これも、歴史、他人の過去の言動から知ることができる。それまで日本国内ではあまり見向きもされなかったものが数年後に異常に人気が出たことをこれまでに何度も経験してきた。その瞬間から、そのモデルが基準となり、それと同等か、上か下かとなり、下と評価されたものを評価ではなくただの批判をする方が増える。

しかし、これが案外狙い目であったりすることがある。自己の中で価値観がある程度はっきりしている方にとっては市場価格が下がるからである。その方にとっては人々が他人の評価を基準として右往左往してくれることはありがたいことである。モノが市場に溢れるからである。市場にモノが溢れれば、溢れるほど市場価格が下がる場合もあるので自分が所有できるチャンスが高くなる。自己の中で、この金額は高額でとても支払えない、と考える方にとっては市場にモノが溢れることは自己の中での適正価格に近づくことだろう。

この本は、アコースティックギター、エレクトリックギターを通していろいろと人それぞれの価値観について考えるきっかけにもなる。また、あらためて、自分にとって、どのようにギター、ベースギターなどの弦楽器と上手く付き合っていくことが一番良い方法だろうか、という確認をするために読んでみるのもよいだろう。

人が働いて稼いだ金をどう使おうと勝手であり、他人に指図されたくはないし、そのようなことをされることは私の人生を否定されているようなことであり侵害である、とおっしゃる方は少なくないだろう。自分が稼いだ金をどう使おうが勝手ではないか、という考えはとても肯定できない、ということができる人はそのようにいう人の周りの人々、関係者、家族だけであろう。生活、活動するための金銭を全く考えず、好き勝手に使われては困る、というものが多い理由であろう。

その方が稼いだ金をどのように使おうがその方の勝手である。しかし、他人の意見を聞いたり、他人が過去に行った出来事を冷静に判断し、自分にはどのような金の使い方が合っているのかを気づくことはとても重要である。他人の意見を一切聞かない、というものは時には深みにはまる結果になり、他人が過去に行った失敗を自らが経験することになることも少なくない。それも失敗を繰り返し行うのであれば考えものである。結局、無駄使いをし、本来自分が所有したかったものを手に入れる機会を逃す結果になることもある。

環境というものではすべては語れないが、ギターを購入することに例えるのであれば、本来はギターを所有し、演奏することが目的であったものが、ある程度自由に使える資金を持っていることにより、次から次へと売買を繰り返されている方がいる。結局、自分は何がしたかったのだろうか、と何度も売買を繰り返した後に気づかれる結果になる場合が少なくない。限定品、ロット数に限りがある、レアもの等、それらの言葉に弱い方は少なくないだろう。私もその一人ではあるが、ある程度自由に使える資金を持っていないので何度も繰り返し購入できないし、また、多くのものを所有し、保管、保存、維持をすることができないことにより、そのようなことをしたくてもできない。しかし、できる方は実際に購入する。そして、感じるのである、これ以上にすぐれているものが欲しい、と。一度そうなってしまうと自分自身で納得できるものに出逢えない限り、繰り返さないと心理的に満足することができない。

はじめは、幼い頃から憧れていたリイシューギターを購入しただけで満足できていたが、いざ入手できてしまうと、もっと良いものを所有したい、という心理にとりつかれてしまった人は行き着くところは高価なヴィンテージギターを探して、気に入ったものを購入することになる。それでも納得、満足できない場合は、さらに繰り返し探して、見つけ売買を繰り返すしかない。これらのことを繰り返されている方は、一人、二人ではないだろう。日本でブログを書かれていらっしゃる方の中でそのようなことをされている方は一人、二人ではないことからも知ることができる。

決して間違えて欲しくはないのだが、そのことを私は間違えているなどと言いたいのではない。人生とはいかに自己満足をうまくすることができるかであると私は考えているのでその方にとってそのことを心から満足して繰り返されているのであれば他人が口出すことではないが、そうではなく、いつの間にか自分にとっての本来の目的とは全く違うものになっていることをしていて、それに気づいたのならばそれは不幸以外の何物でもない。

はっきりとした、目的意識、自己基準を設けている方は何事をするにしても満足、納得することができる。しかし、はっきりとしたものを持っていないのであれば試行錯誤する場合がある。それは、はっきりとしたものを見つけるための過程において必要なのか、そうではないのかが重要である。闇雲に行動することは、試行錯誤、とは言わず、ただの右往左往以外の何物でもない。

車好きでもはっきりとしたものを持っている方は、右往左往を繰り返し散財などしない。この車が欲しい。しかし、台数が少ない、高額で買えない、維持することができない。だから、買えない、買わない、という考えの方がいらっしゃる。見ているだけで満足している。または、満足する以外術がない、というものである。

Scuderia Ferrari、が製作したある車種を所有されていらっしゃる方で、本当は275gtbを所有したいけれど高額すぎるので購入できないので、その雰囲気でこの車を購入したんだよ、とお世話になっている方が車の話をする機会があった時におっしゃられた。その方はその車を維持管理できる生活環境の方で自身の中で納得されてその車を所有されている。とても素敵な趣味の車を楽しまれる考え方だと思う。

Scuderia Ferrariのはじまりは、グランプリマシン、競技車両を管理、製作する製作所であることを感じていれば、市販車製作自動車会社ではなく、あくまでも、一般公道を走らせる車はオートクチュールでグランツーリズモ(GT)を製作する製作所であることをご存知である。近年はより、グランプリマシン(F1マシン)、競技車両の雰囲気、エンターテイメント性の高いものをお金を払った人が感じ、楽しむ車を製作している。スポーツカーの製作を積極的にしようとしていない。あくまでもGTである。

私の周りに、Ferrari 250LM、Lamborghini Miura、Lamborghini Countach LP400等それぞれの方が1種類の車、特定の車種以外の趣味の車を所有したいと思わない、という方が、ひとり、ふたりではなく何人かいらっしゃる。趣味性の高い車は何を所有しても維持費がかかる。他の趣味性の高い車で満足できないのなら所有しない、という考え方である。

車は維持費がかかる。所有し、見ているだけでも満足だ、とおっしゃる方がいても、登録抹消していない車には動かさなくても所有している限り維持費がかかる。もっといえば動かさない(故障している等の理由で動かせられない)車は傷んでいく速度が速くなることもある。どちらにしろ金属疲労をしていくことは工業製品の宿命なので維持費がかかる。本来所有したい車以外はもちろん、所有したい車も無理をしてまで所有する必要はない。

私は、Scuderia Ferrariのグランプリマシンが欲しい。しかし、それを一般公道で走らせることはできない。それならば、Ferrari 250LMが欲しい。生産台数が少なく、高額である。それなら、Ferrari 275gtbが欲しい。台数は増えるがそれでも台数は少なく高額である。それなら、Ferrari F40が欲しい。しかし、F40を購入することができるのなら、本来は競技車両を求めているのなのだから競技車両を購入した方が満足できる。それなら、Lancia Strato's Gr.4が欲しい。ストラダーレではない。Gr.4でなければいけない。日本国内で至れり尽くせりでは購入することはできないが、資金があり、懇意にしていただいている人脈ルートがあれば現地に行き、交渉して購入することができる。正規の車検で合格することができるので一般公道を合法的に運転することができる。

しかし、まず、購入するまでの過程までの資金すらないので購入することなどできない。私にとってそれ以外の車でも魅力的な車はあるが、どちらにしろ維持費がかかるので購入しようとは思わない。

また、関連するもの、関連本でも、日本国内で販売される本を購入しないのでお金がかからない。30代になり、今までの30年間の間で知ったLancia Strato'sの競技車両に関する情報の90%が間違った情報だったことを知った時は愕然とした。それ以来関連本はラリーヒストリアンの鮎川雅樹氏が全く関わっていないものは購入しないことにした。

今だから言えることだが、日本国内で売れない本を販売してもどうしようもないので多額な取材費をかけて、突っ込んだ取材をされないことはわかる。しかし、間違えた情報を継続して掲載し続ける雑誌、書籍や映像媒体に対してはいかがなものだろうかと思う。ある番組で、Strato'sはすぐにスピンするんですよ、とおっしゃった時に、Gr.4の競技車両を運転したことすらない人がよく言えるよなあ、と思った。確かにストラダーレを運転されたことがあるのだろうがあれは数合わせのホロモゲーション車両以外の何物でもない。競技に参加して勝つ、というそのような本来の目的のためではなく、数合わせという目的だけのために作られたものである。Gr.4の競技車両がスピンばかりしていたらRally競技で好成績を残せるはずがない。Rally競技は一般公道を走行し、Special Stage (SS)、に向かい、競技を継続する。一部の競技区間から次の区間をつなぐ一般公道をLiaison(区間)というが、スピンをばかりしていたら競技に参加することすらできない。著名な方の発言だから、この車はすぐにスピンする車である、という間違えた情報を信じる方もいらっしゃるだろうが、現在は、SNS、もっといえば、Facebook等を利用すれば日本国内で出版された本以上の情報を得ることもできる。

日本国内に住んでいる方の中で、日本国内の自動車雑誌以上の情報を持っている人は一人や二人ではなくいらっしゃる。その方々は、1万円、10万円単位ではなく、数百万円単位以上、一千万円近く、又はそれ以上の金額を使い、世界中の関係者などから情報を得ていらっしゃる。その方の情報を得たい方は業界にいらっしゃり、実際に知り合い、情報を得て、その情報を記事にそのまま書かれた例が今までにある。気持ちはわかるがそれを繰り返されると情報を伝える、教えることをやめようとする方がいる。

日本ではその例がいくつかあることは仕方がない面もある。市場が小さいからである。儲からないからである。資料本、歴史書の名著書、良本と言われるものは翻訳されたものが少なくない。それは日本国内だけを市場として作製したものでは商業ベースに上手く載せれないからである。翻訳された高額な本が売れるのだから情報を欲している方がいることを示している。しかし、取材には大変な資金が必要である面もある。出版社だけではできないことはあるからbrainは必要である。そのbrainにもある程度の金銭を渡すシステムにしなければこれからも何も変わらないだろう。

それは出版業界だけの問題ではない。あらゆるものに関して当て嵌まるが、今までのシステムを変えるつもりがないのなら何も変わらない。モノが売れない、とただ嘆く前に、何かできないか、と考える方が増えることを願うだけである。数の勝負である。出る杭は打たれるからである。だから、多数決で流れは変わることもあるだろうが、その流れが起こる予兆は残念ながら今は感じない。

ギターは購入してからも調整し続けて付き合っていかなければいけないのです、と今は亡き楽器店主の言葉を中学生になる前に聞いたことは私にとって大きなものになっている。その当時、すでに店主は60代だったのだが、残念ながら今は楽器屋自体ももう存在しない。私の幼馴染でギターを購入した人間はその楽器屋で人生初めてのギターを購入していた。その当時、今のギター雑誌の記事で取り上げられることが少なくないリペア、楽器調整を記事にするギター雑誌はほぼなかった。知識のある方は常識的に知っていただろうが、そのことを知っている方々に知り合えなかった方々は酷い状態のギターで演奏練習していたことだろう。楽器店はとても少なかったが、その楽器屋以外にあった。しかし、販売することに重きを置いていた楽器屋しかなかった。そのような話をする楽器店員に何処の楽器屋でも会ったことがなかったからである。大都市では状況は違ったのだろうが、残念ながら私の育った地域ではそのようなことを話される方がその店主以外に一人もいなかった。その店主だけが、なぜ、ギターには調整が必要になるのかをわかりやすく説明してくれた。

ギター弦、ベースギター弦について語り合うとその方の年代がわかる。私の世代だとアーニーボールやダダリオの弦を買おうとは思えなかった。とても高額だったからである。今のアーニーボールやダダリオの金額で買える弦はESP、ヤマハやB.Cリッチ等の弦であった。その中で選び購入するしかなかった。酷い品質の弦もあったがそれでもないよりましだった。弦が切れたら嘆いたものである。気軽に買えないからである。音色が悪くなったから弦を換える、という発想がなかった。切れるまで使い続けた。ギターやベースギターが弾けるだけで満足していた。レンタルスタジオに行ったことがあったが、置いてあるギターアンプはローランドのトランジスタアンプ、ジャズコーラスが多かったが、ほとんどディスト―ション機能が壊れているものばかりで全く歪ませられなかったし、マーシャルアンプを置いているスタジオを借りれても真空管がヘタっていてほぼ歪まないギターアンプしかなかった。たまたまレイニーのアンプが置いてあるスタジオを借りれたときは、これぞ真空管アンプだ、と思ったがその一度きりだった。もうかなり前の話なので今の日本国内にあるレンタルスタジオに置いてあるアンプはそこまで酷いアンプは何処にも置いてはいないだろうから昔話である。

ギターは国産メーカーの安いギターを選んで購入した。金額は大体4万円代。それ以上の金額のギターを購入できないから仕方がない。結果的に両親に買ってもらったことになるのだが、中学生まではこずかいをためてギターを購入した。音楽に理解がない家庭に育った方ならそうだろうが、ギターを買ってくれ、と言っても買ってもらえないのでねだろうということを考えなかった。高額なギターを欲しいけれど買えないし、在庫で置いていて売っていることが当たり前の楽器店がなかったので現物を見る機会すらなかったし、ギターを弾けないよりましだと思っていた。当時、よく週刊雑誌の広告に掲載されていたトムソン、ハリー等の通販のギターを購入しようとは思わなかった。嫌な予感がしたからである。

私は高校卒業後に自分で働いて稼いだ金で買うまで自分専用のギターを所有をしていなかった。兄のギターをこっそり盗み弾いていた。エレクトリックはベースギターしかそれまで持っていなかった。それもベースギターを弾きこなす才能がないことがすぐにわかったのであまり弾かず、ギターを盗み弾きし続けた。ころころとギターの機種が変わったのでネックのスケールもグリップの厚さも毎度のことだが違った。なぜ、そういう状況になったのかわからないがそれに深く触れなかった。盗み弾きの身分だからである。そのこともあるのかもしれないが、私は通称ロック式と呼ばれる親指をネックの上面に置く、又は、突き出して一番太い弦を押さえるようにネックを握らない。手が小さく、指が短いこともあるが、まともな状態ではないギターも中にはあったからかもしれない。

また、その当時から楽器は他人に貸したら自分の手元に無事に返ってくる可能性が低いことを経験した。ほとんど借りパク(パクる、盗む)状態で平気な人が少なくないことを経験した。だから、他人に楽器を貸さない、と決めた。兄の友人に貸したベースギターは自分の手元に何とか返ってはきたが酷い状態になって返ってきた。

30万円以上するギターを購入することができる方がどうしてもヴィンテージギターと同等のギターでないと納得できないのであればヴィンテージギターを探し、購入する以外に自ら満足できないだろう。初めからヴィンテージギターを意識して求めないと右往左往してからそのギターを手にすることになるだろう。ヴィンテージギターを所有するまでもない、とおっしゃる方が、結局、ヴィンテージギターを購入される例が少なくない。たとえば、Les Paulが欲しければGibson社、TelecasterやStratocasterが欲しければFender社製造のギターを買うしかない。それ以外のメーカー、工房が作ったカタチの似たギターはレスポールタイプ、テレキャスタータイプ、ストラトキャスタータイプでしかない。しかし、それでも、全く悪い購入選択ではないと思う。自身が気に入れば誰になんと言われようが構わないではないか。気になるようなら、~タイプのギターは、あなたが購入するべきではないギターかもしれないのであらためて考え直すべきだ。

ヴィンテージのLes Paulで俗に、バースト、と呼ばれるギターを欲し、ヴィンテージのバーストが製作された当時に使われた木材と同じものを入手し、製法もなるべく当時の製法と忠実に製作された方もいらっしゃる。ご本人はある程度満足されていらっしゃる。80年代に存在したMax(Guitars)が製作したレスポールタイプギターが本物そっくりだ、と話題になったことがあった。見た目が少し似ていたのでGibson社が1950年代に製造したギターだと思い込み、購入した方がいた、と聞いたこともある。それで満足できないのであればヴィンテージギターを購入する以外はないだろう。

30万円以上もするギターを購入するわけだから気軽に売り買いできない額であることをギターに興味がある方は忘れている。興味のない人にすればギターに30万円を支払うことが信じられない方もいらっしゃる。団塊の世代の方にすれば、ギターは気軽に買えなかった方もいらっしゃるだろうし、現在の貨幣価値の30万円なら自分が10代、20代の頃と比べれば驚くほどの金額ではない、とおっしゃる方も少なくないだろう。外国製ギターはとても高価で購入できない方が少なくなかった時代だったからである。

私が人生初めて所有した車はコミコミ20万円のAE86である。今は程度の良いAE86は桁が違う。しかし、私は所有していた車を手放した10年近く経った後に運送するために運転する機会があったが、その時に感じた感想は、ただの古いカローラ、だった。100~200万円を払って買おうとは思わないが、プレミアム価格でしか知らない世代の方にとっては特別な価値のある車なのだろう。その感覚はその方にとってゆるぎないものなのだろうからそれだけの金額を支払う価値のあるものであろう。

私にとって車は20万円を(それ以下の金額でも)出せば買える、という感覚なのでギターにその金額を出すことは一大事なのである。

自らが所有しなければ納得できない方は、何度も繰り返し売買を繰り返せばいくらの金額を使うことになるだろうか、ということを考えることが重要である。良くいう言い方で、勉強代、経験過程で必要だった、とおっしゃる方がいるがおっしゃる通りであることもある(先に述べたようにヴィンテージギターの音色を求めていてそれに近いものを実際に所有して弾いてみて、やはり、自身の求めるヴィンテージギターの音色とかけ離れているので、販売されているヴィンテージギターの中から自分の求める音色のギターを探し、購入できたのならそれまで自身で使ったお金の価値は人それぞれだがいくらも使っていることには変わらない)。

しかし、それはすべての方には当てはまらない。委託販売、下取りだろうがその過程でいくらかマイナスの金額が発生しているからである。その金額を冷静に振り返るとその方にとって必要だったものなのだろうか。

車でも、本当はこの車が欲しいがとても高額で買えない。だから、代わりにこの車を買う、又は、その代わりになる車を買って改造する、ということを繰り返されている方がいる。冷静に振り返ると元々欲しい車は買えないまでもその車を買える金額の半分以上の金額をつぎ込んでいる方が少なくない。改造、カスタマイズしたものはその方にとっては思い入れがあるのだろうが、買う側から言えばただの改造された中古車である。元々そのようにしたかった、という方を見つけることができればその改造車はそれなりの金額で売れるが、そうではない場合が多いので、パーツをばらし、パーツ単体で売り、純正部品を手に入れて売らないと高く売れない場合が少なくない。その手間賃を考えると下取り、買い取り価格を下げないと引き取れない。しかし、売る側とすればそのようなことは考えない。このような状態の車を欲しがる方を見つけることは困難です、と言えればよいが、そのようなことは言えない。思い入れがあることにより、その発言を聞いた瞬間に憤慨する方がいるからである。

ギターも同じである。

改造をしていないにしても、市場価格が存在する限り、買い取り価格が高くなることはとても少ない。プレミアム価格になるギターはとても少ない。

アコースティックギターを通信販売方式で全く現物を見ず、試奏を一切せずに購入するのはやめておいた方がよいが、できれば、エレクトリックギターも全く見ずに購入するのは避けた方がよい。それは賭けであるからである。賭けてもよいのであれば調整、整備代を考えて買わないといけない。この本でもそのことが書かれている項があるがその考えが全くないのなら通販、オークションで買わない方がよい。

新品同様を中古に求めるのはとても困難なことを望んでいることに等しい。中古とは、俗に、認定、といわれるものでも、どのように扱われたか、という、過去、が全くわからないからである。クリーニングに時間と労力を使われているだろうが、それで拭い去れないものがある。きれいなものが欲しければ新品を買うべきである。車を通しいろいろと経験、体験した身とするとそれ以外に言う言葉がない。深く掘り下げられないが、きれいな車が欲しければ新車を買うべきである。

ユーズド(中古)ギターもどのように扱われたものかわからない。気になるようだったら新品やギター製作をオーダーして買った方が良い。自分自身で納得しているのであれば多数の他人の評価を気にする必要はない。また、自分のことを、コレクター、という風に評されることに抵抗を感じる人がいらっしゃるが、気にしない方が精神的に楽になる。他人にどのように評されるかはあまり重要ではない。ご本人がどのような価値観を持っているかが重要である。どのような角度でその方の価値観を窺ってもコレクターの方がいらっしゃるのが現実である。

多くの本数のギターやヴィンテージギター、貴重なギターなどの楽器を維持管理できる環境の方はあまりいらっしゃらない。維持管理できないのであれば、数本のギター、ヴィンテージギターや貴重なギターなどの楽器を所有しない、という考え方もある。いろいろな楽器を維持管理でき、所有されていらっしゃる方と親しくなり、見せていただく、ということも趣味の世界では可能である。現物を手に取って見なくてもよいのならば世界中のギターを所有されているショップや人々の画像や動画を見て楽しむ、ということもできる。どこかで自分なりに決着をつけないときりがない。世界のギターコレクターの方々の中で日本国内でコレクターと評されることに抵抗を感じられる方より良い雰囲気で演奏できる方は少なくない。周りの環境を見渡すと演奏者とすれば大してうまくない、と思われていらっしゃるだけで、演奏スタイルの好みは分かれるがそれほど下手な人はいない。

私が演奏を聴いて、巧いなあ、と感じた方は、必ずしも高額で貴重なギター、ベースギターなどで演奏されていらっしゃる方々ばかりではなかった。中にはあまりギターを巧く弾く技量がない人が持っていらっしゃるギターより高額ではないギターで素晴らしい演奏される方もいらっしゃった。ヴィンテージギターや貴重で高価なギターを所有されていらっしゃるが人前では使用されない方もいらっしゃるかもしれないが、演奏を聴いて素晴らしいと感じたのならばその方はどのようなギターを使われてもその方の演奏を気に入ることだろう。自分にとって好みかそうではないかが重要である。音楽もそうである。とても素晴らしいギターを、コレクション目的ではなく所有している、とおっしゃるのならば、何か、に気づき、感じ、演奏できなければ、ただの宝の持ち腐れである。それは先に書いた例にあげたように、アマチュア、プロフェッショナル問わず、演奏技量のある方は必ずしも高価なギターを使用されて演奏されていないからである。演奏技量があるとは、正確に速く弾けるだけではなく、いかに感情表現が豊かであり、それを演奏し、音色で表現できることである。それができる演奏者でも聴いた人により好きかそうではないかが分かれる。

素晴らしい楽器を所有することは喜びであるかもしれないが、コレクターではない、とおっしゃるのであれば楽器は演奏してはじめて喜びになるのではなかろうか。塗料や塗装、仕様、装飾にこだわるより、そのことに重きを置かなければ楽器を所有する本来の目的は達成できない。

私は好きな人、ものに興味を持とうと思うが、嫌いな人やモノという対象物を作ろうと思わない。興味がないだけである。嫌いな人物、モノや存在を作ることは自らの人生を浪費することにつながる。好みではないのならそれにそれ以上興味をもたなければよい。

リイシューとはいえLes Paulをはじめて弾いた時に、このアウトレットといわれている売れ残りのギターの音色に、とても心地よい音色だ、と感じたのだが、それと同時に、売れ残っていたということは誰も好まなかった音色だったということか、と感じた。生まれてこれまで弾いたことがある、どのギターよりも良い音色だと思った。今まで弾いてきたギター、中にはレスポールタイプもあったが何だったのか、と振り返って考えてしまった。また、ヴィンテージ風に見せるためにパーツを交換しようとは思わなかった。リイシュー、はリイシューとして演奏しようと思ったからである。Gibson Custom Shopは、アップデイトし続けているから買い替えの対象になっていることは市場を見ればわかる。Fender Custom Shopもあれやこれやとやっているが、結局はトラディショナルなギターが売れている。レリック、エイジドなど各社で使い込まれたギターのような塗装の剝れ加工がされたものがある。塗装、音色にこだわる方はレリック、エイジド加工されたものの方が音色が良いのでそちらを好まれるが、それだけではすまず、加工がされていないギターはダメなギターだ、となるようだ。これもそれぞれに好み等があるものなので、どの考えが正解かというものはないので、私の持っているギターはダメなギターだ、と思う必要はない。自分で納得していればそれでよい。

アコースティックギターは気軽に演奏できない環境なので所有することができない。エレクトリックギターは、その後、名前、認定証が欲しい、というような考えでFender Custom Shop製造のStratocasterが欲しいと、と思っていた。はっきりと言っておまけ(認定書)が欲しいのか、と言われればおまけ付きのものが欲しい、という答えになる。極端な話、ネックは、Fender Custom Shop製造のTelecasterのものでもかまわない。そんな考えでギターを探していた時期がある。

ローズ指板のものはスラブ貼りで、ラディアスは9.5が良いと思っていたが、購入したギターは、楽器店に下取りに入ってきたばかりのギター(初期タイムマシーンシリーズ レリック)を格安で売ってもらったものだったので、ラディアスは、ヴィンテージラディアス(7.25ラディアス)だった。

20年間使い続けたメイプル指板のギターを売って、カスタムショップ製のスモールヘッド、下地からラッカー塗装のものを探していたので必然的にレリック処理がされたものになるがそのギターが良かったが、支払える資金がなかったので、N.O.Sで構わないと思っていた。その所有していたメイプル指板のギターを売却した理由は、フレットを交換しなければいけなく、フレットを交換する際にメイプル指板だったことによりリペア代金が指板に塗装をしなければいけない等で高くなってしまう。それだけの資金をかけて持つべきギターかと考えた時に出た結論は、資金を出すだけの価値がない、という結論になった。

いろいろ探していたら、何の因果か、縁なのか、売却したギターとそれほど製造年数が変わらない20年近く経った’68年スタイルのメイプル指板のものになった。簡単に言うとウッドストックでジミ・ヘンドリックスが演奏するために使用したギターのリイシュ―、レプリカのギターである。ヘッドのストリングガイドの位置も全く同じである。カラーも同じだったのだろうが退色して黄色っぽくなっている。当時の日本のフェンダー総代理店企画で約4年だけ製作販売されたシリーズのギターだが、私の経験値の少なさと私が良い音かそうではないかということを聴き比べるだけの耳を持っていないので、ヴィンテージギターにははずれがあっても~、というこのシリーズの売込み文句通り、外れのギターではないのか、外れのギターなのかがわからない。

しかし、そんなことは私にとって問題ではない。売却したギターより音色が良く、ネックの手触りが良く演奏性が良いからである。これでフレット交換に資金がかかるメイプル指板のギターではあるがフレット交換に資金を使うだけの価値のあるギターを所有することができた。

ラージヘッドは好きではなかったので、購入対象外だったし、’68スタイルと言えば、ジミ・ヘンドリックファンであることを意味する場合が多いので、ヘンドリックスに対しても、ヘンドリックスファンの方々に対しても、私が所有することはおこがましいので避けたい年式のリイシューというレプリカギターだったのだが、それだけ気にしていたラージヘッドであること、モダンロゴであることも、色も、購入する前からわかっていたことだが、すべては慣れで全く気にならない。答えは簡単で本当に嫌で全く受け付けないのなら購入したり、気になったりなどしない。それが人間心理の中の一つに入ってくることである。

今、持っているStratocasterは、(ほんの少しだけ加工された)レリックなので結果的に良かったが、下地からラッカー塗装のものとトップラッカー塗装、下地、ネックはウレタン塗装のギターだが、どちらのギターもガシガシ普通に弾いていて塗装等が傷ついてしまおうが構わない。度々売買をすることをしないし、売ることはないだろうからである。

楽器は演奏をする際に支障がないことが大前提である。

Gibson、Fender以外の楽器メーカーや工房で製造される素晴らしいギターは多いが、何本も所有できないので、無難なギターを購入する。Les Paulはケース保管をして所有しているが、Fenderのギターはそれほど気兼ねなく所有できる点が自分にとってよい。

それぞれの方の価値観なので売り買いを繰り返すことも楽しみ方である。私はその考えがないが、売り買いを繰り返す方々の考えに否定的なものを抱かない。むしろ歓迎である。先に書いたように市場にモノが溢れるからである。そうなれば市場価値が決まり、新品時よりかなり安く買える可能性が増える。どんどん売買を繰り返していただきたい。

これにはギターが買えるかもしれない機会が増えるから、という理由だけではない。ギターを度々買わない人間が言う話だから勝手なことを言うが、ギターが売れないと楽器店やリペアしてくれる専門店が無くなってしまう。そうなれば、ギター弦も気軽に買いに行ける店が無くなってしまう。地方の田舎にはGibson社、Fender社のCustom Shop製のギターは新品しかなく、それも片手で数えられる本数しか売っていなく、金額も高額である。それらのギターを買うより、高速バスなどで都会に行って実際に見て、手に取って購入する方が安く買える。また、賭けではあるが、エレクトリックギターなら、ネット通販やオークションで購入することも悪くはない、と思っている。整備、調整費がかかる覚悟で安く買い、整備、調整で自分好みにしてもらうということも自分にとっては合っていると思っている。いくらかかるだろうか、という大体の算段が冷静にできればひどく後悔することはないだろう。海外から仕入れるのは素人は危険なのでやめておいた方がよいが、製造年の新しいギター限定で、日本国内でギターを購入するのなら悪くない買い方だと思う。

ギターはどのようなギターを購入し、所有しても維持調整していかなければいけない。品質の悪いギターは少なくなったとはいえ、今でもあるので慎重になることではあるが、ある程度のメーカーのギターは品質にそれほど問題はないと感じる。頻繁に調整に出す必要がないギターも少なくない。頻繁に調整に出さなければいけないギターは所有するべきではない。金銭的に損をしているからである。

ギターはもちろん、機材にこだわられることもよいが、私が思うことは私が購入した頃に比べて品質の良いものが安価で買えるようになっているということである。真空管アンプはとても高価だったが今は細かいことに目をつぶればとても安く入手できる。自宅練習用の小さい安価な真空管アンプのクリーントーンはあまり良い音色ではないが、真空管を通さずシミュレーター方式ではなく、真空管を通して音を出すものもある。歪みに特化したものより、クリーントーンもある程度のサウンドが出るものを買わないと真空管アンプを買う意味がない。

成毛滋さんのギター講座ラジオ番組を聴いていた世代としては、できれば真空管アンプでクリーントーンで練習した方が自分の演奏技量がわかるのでとても演奏向上において大切である。

演奏技量が劣るのならば高価なギター、高価な機材で演奏しても巧くないのだからある程度の楽器、機材を持っていればよい。自分なりに巧く演奏できることが重要である。機材にこだわれる方で、良い音色を聴き分ける耳を持っていらっしゃるのに、自らの演奏を冷静に判断できる方が日本国内では少ない。日本国外に住む素人のおっさんが安価なギターで良い雰囲気で演奏されている動画を見るとその差が歴然と感じ、演奏されている周りの環境で自分の演奏技量を図っているのだろうから、上には上がいる、とその海外の素人のおっさんは思われているのだろう。

所詮素人だ、と思われていらっしゃるだろうが、演奏技量のレベルが違う。巧く演奏ができた、とおっしゃる方の動画を見て、先に述べたおっさんの演奏と比べると好きか、そうではないかというレベルではなく、ただ違和感のある演奏だなあ、とだけ思う。それは本人が気づかない限り、その違和感に気づけないので、他人が言ったところで聞く耳を持たない。他人事ではあるがとても残念なことである。

安価なギターを安価な機材で演奏される方で、良い雰囲気で演奏される人は少なくない。その方がそのギターにこだわりがあり、思い入れがあるのならそれでよいではないか。

ギターは購入してからも調整し続けて付き合っていかなければいけません、ととある楽器店の店主がおっしゃったことを書いたが、その続きの言葉がある。

楽器は演奏し続けないと状態が悪くなります。ある程度適度な運動をしないと御人様の御身体が悪くなることがあることと同じです。楽器はその方の一生涯に渡って演奏することができる素晴らしいものです。ギターならピアノやドラムなどと違い、小さいものなので場所をとらず気軽に演奏することができます。今日から楽器と親しく上手く付き合って楽しまれてください。

その言葉には楽器の細かい仕様スペックがどうなどというものは一切ない。楽器とは本来そういうものだと思うし、実際に今でも全く飽きずにギターを弾いている。


Facebook 2014に掲載 再編集を行い、この度、掲載
他人に期待をしない方がよい、と言われる、又は、文章に書かれていると、この意見についてどのような解釈をされるだろうか。

この意見についてその人がどのように解釈をするかにより、その人の人生観は全く違ったものに現段階ではなっているのではないだろう。今の私の解釈は数年前の解釈とは異なったものになっているが、解釈の違いに気づくのがいささか遅すぎた感がある。しかし、その一方で、確かに遅すぎたのかもしれないが、もう少し遅れて気づく、又は、全く気づかずに人生を終えるよりは良かった、とも思っている。

勢いだけで人生を歩まれている方がいるが、それもその人の人生である。その人のことを他人が陰口を叩いていても本人が気づいていない、もしくは、本人が全く気にならないならそれでよいではないか。しかし、本人が気になりだしたらそれは悲劇の始まりである。勢いだけで生きるのなら気にせずに最後まで勢いだけで生き続けるべきである。私にはその考えがなく、自分をごまかし続けることに耐えられないので、その生き方ははじめからできない。

人生とは、自分がいかに自己満足をすることができるかが重要であるように感じる。なぜなら、自分の人生であるからである。

自己満足をするためならば、他人に多大なる迷惑をかけても、自分が全く気にならないのであればそれでよい、ということも自己満足をする方法の一つに入るように感じる。自分が全く気にならないのであれば、というところが重要である。罪悪感や少しでも気になるのであれば、その人にとって即してはいない自己満足をする方法なのだから違う自己満足する方法を探すべきである。

解釈の仕方により解釈をした次の瞬間から人生の歩む向きが変わってしまう。いかに客観的に物事を判断することができるか。その物事の顛末を想像することができるか。もし、誤りがあると気づいたのなら素直に誤りを訂正することができるか、ということなどが人生を歩むうえで大切なように感じる。長くその業界の第一線で活躍する人はこれらの判断を考えずに瞬時にできる、又は、これらのことを冷静に考えて行動することができたところが大きいように感じる。このたった3つのことをすべて瞬時にできる人は少ない。1つすらできない、という人も少なくないだろう。しかし、今、現段階までできなかったとしても全く問題ない。一番の問題は、気づかなかった、ということであるからだ。気づいたのであれば少しずつでも変えていけばよいだけのことである。

劣等感、という文字を見るととても落ち込み、ネガティブなイメージでとらえる方々が少なくはないだろう。私もその一人なのだが、多くの先人が残した偉業の歴史を知ると、どうも悪い意味、ということばかりではないように感じる。

嫉妬と劣等感は全く違う。しかし、劣等感、といっても、どのように感じている劣等感なのかによって、それは、劣等感ではなく、ただの嫉妬ではないか、というものもある。この解釈の仕方を間違えると全く違った行動をしてしまう。

ただの嫉妬からは何も生まれない。顛末はどうなるかわかっているからである。嫉妬をしている対象人物を貶めることが仮にできたとしても、それまでに使った時間があまりにも長かったことと、それ以上の満足度を得られられないからだ。そして、その代償があまりにも多い場合もある。どちらにしろ、良いことはないのでやめておいた方がよい。

劣等感は全く違う。他人に対して敵わないことが対象であるから、落ち込み続けることもできるが、違う方法を探し、行動することもできる。

先人の歴史から紐解くと、マイルス・デイヴィスとジェフ・ベックを例えにすればわかりやすい。

マイルスは、ビバップ全盛期の頃に駆け出しのミュージシャンとして音楽活動をしはじめた。それも、憧れであった、チャーリー・パーカー(バード)とディジー・ガレスピー(ディジ)が周りにいる、という環境でミュージシャンとして活動をはじめたのである。これはとても恵まれた環境ではあるが、その反面、いかに自分の演奏技量が彼らと比べて劣っているのか、ということを毎日毎晩実感するという環境でもあった。裕福な家庭に育ったマイルスからすると想像だにしなかった彼らの日々の生活ぶりとそれに反する演奏能力の高さに困惑しただろうことをマイルスの発言や文献で知ることが今では簡単にできる。

彼は生涯に渡り、この時に経験して感じた劣等感を拭い去ることができなかった。しかし、その劣等感を感じるきっかけになった環境にいる人々は、演奏技術が抜きんでているだけではなく、マイルスに対して正当な評価をすることができる人々だったことが、劣等感以上にその後の人生に多大なる影響を及ぼした。

素速い運指ができないことに劣等感を感じていたことに対して、自分なりにマイルスは、鍛錬を試みていたが、上手くいかない日々を送っていた。その時に、バードに、そのことをいうと、それに対し、他人の真似を追及する前に、自分の持っているよさを活かそうとなぜしないのか。お前は、音の空間を巧く使う演奏に長けている。それを活かせ、とバードに言われている。この助言を聞いた、その瞬間からマイルスの歩む人生ががらりと変わってしまった。このようなことを言ってくれた人が、バードだったからというわけだけではないが、マイルスにとってとても救いになった助言だったことは、マイルスが、今、現在まで、誰も追随できない音楽家だということがすべてを物語っている。誰も、このように助言してくれていなかったのならば、ただ劣等感を持ち続けていただけの音楽家だったことだろう。

また、ディジに、どうすれば、あなたに近づくことができるだろうか、と尋ねた時に、近づくことは難しくはない。私は高音域で演奏していることを、君は低音域を活かして演奏すればいいのではないか、とディジは助言をしている。

生涯において劣等感を払しょくすることはできはしなかったが、バードもディジもできなかったことを生涯をかけてマイルスは行った。

ジェフ・ベックは、ジミ・ヘンドリックスのステージを観た瞬間に生涯に渡ってヘンドリックに対して劣等感をもった。これは、かなり深刻で、ギタリストをやめよう、と思った、とジェフは冗談めかしに言っているが、ただの冗談ではないことが歳を重ねるほどにそのことを感じる。いまだに何か違うことができないか、とギター演奏を練習していることを彼のギター演奏を聴けばわかる。益々、異次元の領域に突き進んでいる。ヘンドリックスが、トイレに行く時も、どこへでもギターを持っていきギター演奏を練習していた時期があった、と言われている。その時に思いついたことを彼の短い生涯の中でステージや録音された音源で聴くことができる。アームの使い方や演奏奏法をその時の閃きだけで行っているように感じる方々が多いと思うが全ては閃きだけではないように感じる。彼がソロギタリストとしての短い活動の中で残したことは日頃の鍛錬によるところが大きいことは誰でも気づかれているだろう。しかし、彼の閃きは常人には追随することができないものだったことも有名な事実である。

ドラッグを使用していたことは頭の中でうるさいほど感じる閃きを落ち着かせるためにも使用していた、ということも知られている。ドラッグの使用はよろしくはないことだが、それぐらいに日々の日常で感じる閃きが尋常ではなかったようである。

ジェフは、ヘンドリックスが閃きで演奏したものを、完璧に演奏できるようにしよう、と考え、いまだに、ギター演奏を練習している節がある。あの年齢になっても練習しているギター奏者は世界中では少ないだろう。それも、昨日より、今日。今日より明日、というように、ただ練習をしているだけではなく、昨日できなかったことだけではなく、誰も演奏をしていない新しいことは何かないか、ということを同時に考えているところが素晴らしく素敵なところである。

ジェフとそれほど変わらない年齢で、ジェフと同じように誰もしていない演奏をしてみたい、というように、昨日までの自分と違うことに挑戦している日本人ギタリストの代表の一人にかまやつ ひろしを上げることができるであろう。吉田拓郎曰く、ムッシュのコードはあっていないように感じるんだけれど。若いもんをだまして、凄い、と言わせているみたいだけれど、間違っているというか、絶対にあってないよ、と笑いながらいつもご本人の前で述べている。かまやつさんの劣等感は、自分はギタリストとして他のギタリストより劣っている、ということを述べていることから感じることができる。ギターソロが上手く弾けない、ということなどをあげている。それに対抗する手段として独特なコード弾きをすることを強みにしようと考えられていることを感じる。

かまやつさんのステージを観ることに楽しみを感じる。コード弾きの進行に斬新さと、なんかよくはわからんが、今、凄いことをやっている(た)、と感じる。コード弾きでアームを使う奏法をする人が少ない。それも、閃きという感覚でそのようにしているのか、練習をしているときからそのようなことを意識して練習をしているのか謎なところが楽しみの一つである。本人はそこで入れたら気持ちがよいからアームを使うのだろうが、聴いている方は驚きと同時に、これはアリだなあ、という絶妙の所で入れてくる。また、拓郎さんが、間違っている、というか絶対にあっていないように感じる、という部分も本人が弾いていて気持ちが良い、と思うからだろうし、聴いている方もあっていようがいまいが、そんなことはどうでもよい、と感じさせられる。歌を間違えても、演奏をしていてあっていない個所があっても通り過ぎて動じないところもある意味凄い。また、聴いている方もそれほど気にならないし、許してしまうと感じるところもいつも不思議に感じるところでもある。

巧い下手くその人、か、下手くそだが巧い人、という演奏家の二通りの方がいる。どれほど正確無比に演奏できても聴いているうちに段々飽きてくる演奏者がいる。逆に演奏が下手なのに聴き続けられる演奏家がいる。そのことに気づいている人は実は聴いている方が多いように感じる。過剰評価と過小評価である。正確無比に演奏できることは素晴らしいがそれだけでは聴いている方は満足感が持続しない。正確無比に速く弾けるに越したことはないし、誰もができるように練習をした方がよい(ちなみに、マイルスも生涯速い運指の練習は怠らずに続けていたらしい)。しかし、音を詰め込みすぎないことと、表現力、音の空気感、空間の使い方をあまり意識していないのではないか、と個人的に感じる。

イングヴェイ・マルムスティーンの演奏技量の凄さは正確に速く弾けるだけではない、ということを感じている人が残念ながらとても少ない。彼の優れているところは感情表現の豊かさであった。あった、というのは今はそのことを重視できなくなったからである。彼自身もそのことを感じているのかもしれないが、残念ながらそれをできない状況になっているからどうしようもない。彼は運転事故後に演奏スタイルを変えざるを得なくなった。一番の理由は指の震えがあげられる。また、演奏を進化させる探究心を失ったことがあげられる。

アルカトラスからトリロジーまでの演奏を聴くと現在の演奏方法とは違うことがわかる。ビブラード、ベンド、ベンドビブラードを使い分けることにおいて、ただ同じ音量で弾くのではなく、1音、1音に音の強弱の違い、やさしく囁くように弾くことと激しく大胆で力強く弾くことを使い分けて弾くことにとても重きをおいていることを感じることができる。これらのイングヴェイ的演奏スタイルを継承している日本人ギタリストは少ない。正確無比に弾くことと激しく大胆なビブラート、ベンド、ベンドビブラードだけで弾いていることからそのことがわかる。やさしく囁くように弾いたり、音の強弱においても強さだけで弾いている方々がとても多い。だから聴いていて飽きてくる。演奏技量はあるのだが、表現力の乏しさを感じる。

現代のギターアンプはとても優れている。だから、エレキギターを歪ませるためにファズを使っていた時代では考えられないほどギターアンプは進化している。ファズしかエフェクターがなかった時代は、ギターのつまみで音色を変えるしかなかった。だから、その当時を知る、ギタリストはどうにかできないか、と試行錯誤した結果、ギターについているボリューム、トーン、ピックアップセレクターを使い、音色を変えるしかなかった。あと、できることといったらピックを使うのであればどのようにピックを弦にヒットさせて弾くか、ということで音色を変化させるしか方法がなかった。機材がないので仕方がなかった。

多くの機材が必要な理由は何か、ということが重要である。最低限の状態から始めてプラスワンで機材を増やすことが重要である。それが先に述べた一流、超一流との差である。必要最低限のものをフル活用でき、そこにプラスワンでこれがあったら助かる、という風な考えではなく、ただ、闇雲に機材を増やすやり方だと機材がないと何もできない状態になってしまう。

私が、現在まで知り合ったことがある職人で、一流、超一流の方々に共通することは機材があまりそろっていなくても巧く仕事をこなすことができる、ということだ。そして、新しい工具、機材にとても興味があるということである。

誰かが、新しい工具、機材を購入したのなら、その工具、機材を試させてもらいたい、と必ず言う。そして、説明もそこそこに、その工具や機材を巧く利用するのである。そして、同時に考えることはこの機材を購入したら時間が短縮でき、加工が確実に正確にできるが、どれだけの仕事をして、どれくらいの時間で購入費の元をとることができるかということを瞬時に考えるのである。自分がどれだけ稼げるか、ということで購入するか、購入をあきらめるかを考える。元々の工具、機材だけでも仕事をこなすことができるが、時間の短縮と加工の正確さはとても魅力である。しかし、高額の仕事を発注されなければ宝の持ち腐れである。

安さを売りにしている人を重視する傾向になっているので、いくら技術があっても簡単な仕事ではそちらの職人に頼む機会が多い。しかし、安さが売りなので、完成させる仕事の出来はとても褒められたものではない。安さが売りでも、素晴らしい技術を持っている職人はいるがとても少なく、需要が多いので発注しても断わられる場合が多い。これが悩みの種で、発注する方も同じなのである。少しでも安く仕上げて欲しい、と必ず言われる。しかし、仕事の正確さ等の要求は細かくこだわれられる。金額を下げてくれるように職人さんに頼んでみて、どういわれるかが勝負であるところが大きい。仕事は確実だから金額が安くても引き受けてくれたらありがたいのだが、なかなかうまくいかない人も多い。このジレンマはどの業界でも同じであろう。

現代社会では、あなたの代わりなどはいくらでもいる、ということをハッキリと言われる。だから、価格競争をするか、仕事の巧さを重視するか、どちらかを売りにするしかない。何事も同じである。超一流以外の代わりはいくらでもいる。

芸術家は職人であり、職人は芸術家である、ということを、いろいろの業種の職人さんの仕事を見たり、行動を見ると感じた。コンマ数ミリの世界を重視する人もいるのでその人にしかわからない基準が存在する。それは美的感覚なのだが、何処がおかしいのかその職人か同じ領域の職人以外は全く分からないのだが、職人はそこにこだわりがあるようだ。この仕事はなかなか良いなあ、と言ったり、こんな仕事をよくするよなあ、みっともない(美的感覚がない)、という。それを知れば知るほど、芸術家と全く変わらない、と思った。

芸術家は美的感覚と自分のオリジナリティを重視するが、同じように技術力の向上を一流、超一流の職人のように考えながら創作する。どちらにしろ、同じ業種の人間にすれば、その素晴らしさの何らかのヒントを得るために盗みに行くという意味で実際に見に行く。

過剰評価と過小評価は他人の評価で判断するのか、自分で判断するのかで変わってしまう。

自分でしたこと(仕事等)に対して自分自身で評価することは大切だと思う。しかし、自分で評価することはよいことだが、客観的に評価することができるか、できないかで全く違うものになる。他人の評価を基準に自分で評価するのならば自分を見失ってしまうことになりかねない。過剰評価してしまう可能性もある。そうなると探究心を失う場合が多い。この例は歴史が物語たっているのだが、自分で過剰評価している人は歴史を振り返らないので、先人と同じ過ちを犯し、先人と同じような結末をむかえる。歴史は繰り返されるだけである。

自分で評価することができても、とても過小評価する人がいる。これも問題である。その域から脱することができない場合が多い。これも先人の歴史から読み取ることができる。チャンスは誰にでもある、と言われている。才能がある方はそのチャンスは意外に多く転がっているように感じるが、そのタイミングを自分で過小評価をしている人は逃している。同じようなことを繰り返して、結局年月だけが過ぎていく。年月が過ぎれば、新たな世代が頭角をあらわし、鍛錬し、今までとは違うアプローチをする人は注目される。その時点で、評価をされる可能性がかなり低くなる。そのことを気づかずに、なぜ、彼女、彼らは評価されるのだろうか、と落ち込むか、嫉妬するかのどちらかだろう。しかし、その時に気づき、客観的に何かいままでに自分がしなかったことはないだろうか、と考えることができる人は、まだ、可能性はゼロではない。でも、過小評価している人が何かのタイミングなのではないか、という時に今までの経験をぶつけていたら人生はその時に変わっていたかもしれない。何処で人生のすべてを賭けるかで、その後の人生は変わる。

コンプレックス、という言葉は心理用語なのだが、日本ではネガティブな意味でつかわれることが多い。相対する複合体等、まだ、他にも多くの心理状態を意味するときに使われる場合もあるのだが、ただ、劣等感、という意味で、何故か日本では一般的に使われる例が多い。これも解釈の違いである。

人間はいかに自己満足で人生を歩むか、ということが重要であると述べたが、解釈の違いにより、かなり異なった人生になる場合が多い。いかに客観的な物事の判断ができるか、ということができるか、できないかが問題だとも先に述べて。物事の顛末を想像することができるか、ということも述べた。間違いに気づいたのならば素直に訂正することができるか、とも述べた。

この中で一番言いたいことは客観的なものの見方ができるかである。大勢の意見を聞いて、その時の情勢によって、コロコロと意見を変えることを日和見主義、よく使われる、ひよった、という意味はこの言葉からきている学生運動時代につくられた造語なのだが、日和見主義をやめた瞬間に昨日の自分と変わることができる。日和見主義的な日常生活はやめた方がよい。ろくなことにならないことは歴史が物語たっている。何か昨日の自分と変えたいのなら、昨日とは違ったことをするべきだ。なんでもよい。一番簡単なことは日常に見ているものの視点の角度を変えてみるべきだ。

現段階では、私はそのようにはなってはいないが、考えてみてわかったことが多かった。私の人生の末路がわかるきっかけになったので、傷口に塩を塗るようで苦しい作業だったが、その最悪の末路を少しでも良い状態で迎えるにはどうすればよいか、と考えた。

その結果が自己満足を少しでも増やすことではないか、という結論に達した。現段階の私は、自己満足を得ようとするとその行動の後に同じくらいの後悔をして、落ち込んでしまう。落ち込み方は、±0だと良いが、マイナスの場合が多い。だからこそ、少しでもプラスな自己満足を増やすことを重きにおきながら、昨日の自分とは違う、ほんの数ミリ、1度でもよいからスライドできないか、と考えている。

日本人の欠点は、自分の長所を堂々と言えないことである。短所は多くあげることができるが、長所を堂々と言わないことが控えめでよい、という考えが社会に根付いている。これは、今後の展開を打開するときの最大の壁になってくるだろう。

私がそうだったのだが、すべての人に嫌われないことを重視して30年間生きてきた。これは無理な話である。限りなく50%の人に好かれれば上等ではないかと考えるべきだ、とある時に思った。それは、それまでの30年間を客観的に考える機会があったからである。これはとても良い機会いだった。

このことは誰でもできることである。どのように昨日の自分と変えようか、という風に思っている人は今後の人生にとってのターニングポイントになるかもしれない。死語になりつつある、ステレオタイプな服装、考え方をやめて、自分のオリジナリティを探し、確立させることに重きを置くべきである。ステレオタイプの服装、考え方はもう私の生まれる前からやっていることが多い。そのようなことを繰り返していては未来は明るくない。今すぐにやめるべきである。

才能、実績があるのなら、オリジナリティを探すべきである。日本に住む人々の大半の考え方が40年前から変わっていないように感じる。これでは未来が明るいものにはならない。なぜなら、日本で作られたものをすぐに評価せず、海外の方が評価して初めて評価する方が多い現状を知ればよい。いまだにこれを繰り返している。要するに逆輸入する形で正当に評価がされるということである。Gショックを例にあげれば誰でも理解できるだろう。あれは何年前のことだろうか。少なくとも20年前のことではないだろうか。

世間、政治、国、生活環境のせいにし、他人への責任転嫁や嫉妬を考えることは容易で、自らの問題から目をそらすことにおいては有効な手段ではあるが、それをすることにより問題の解決にはならないことは先人の結果を知ればわかることである。

また、国際交流についての考え方も今すぐに見直すべきである。大卒の人口は日本では50%と言われているが、なぜ何もアクションを起こさないのか疑問に思っている。外交は重要である。国に任せておくだけの時代はもう遠い昔に終わっている。明治維新の時代から何百年経っているのだろうか。あの時代は日本が世界であり、藩が国である、という考えだった。だから、我々は日本人である、といった人は、文献では勝海舟と坂本龍馬の2人だけといわれている。もうかなり進化が止まっているように感じる。

日本人は優秀である、ということを言う人がいるがそれは先人の業績、偉業であり、その何十年も前の出来事を誇りに思っているだけでは進化、前進はせず、立ち止まっていることになる。優秀な人達はいるが、優秀な人間に自分は含まれていなかった、と知った時の絶望感は想像だにできないものであろう。オリジナリティ、個性、というものは自分で見つけ出さない限り、確立できない可能性は高い。過去の他人の業績、偉業にしがみつくのはやめておいた方がよい。なぜなら、それは他人の人生で、自分の人生ではないからである。

他人に期待しない方がよい、ということを先に述べた。これは間違いではないと私は思う。だがこの続きを正確に言える人は少ない。知っていても言わない人が多い。他人に期待しない方がよい、ということは他人が悪いという意味ではない。悪いのは他人を自分の解釈で勝手に判断することである。そのことにより失望したり、期待していた他人に怒りをぶつけるのである。勝手な自分の解釈がすべての原因である。過大評価、過小評価、自分の都合の良い解釈で他人を評価、判断することがすべての原因である。

これは何事にも当てはまる。性格の不一致、という理由で離婚をする人がいる。これはどういうことであろうか。客観的に今までの自分達の経験で性格の不一致など当たり前のことではないか、と想像することができる。同じ生活環境で育った兄弟が兄弟げんかをするのに、全く違う環境に育った他人が性格が一致するはずが端からない。原因はお互いの都合の良い解釈で判断した結果、鬱積し、堪忍袋の緒が切れただけなのではないだろうか。

絶望的なのは会話が一切なくなった時である。これはどのことにも当てはまる。仕事の職場、現場でも、趣味のことでも、何もかもである。会話がないことが気軽でよく、そのことにより事がうまく言っている場合も確かにある。しかし、とても少ない例だろう。

また、仲間やファンというものほど危ういものはない。これに期待しない方がよい(仕事や趣味でも当てはめるので、当てはめてみると、仕事相手、商売相手、小売業なら商売においてのお客様になるだろう)。打算的に付き合うには有効だが、何か困った時に助けてくれる可能性はかなり低い。仲間や闇雲にただファンを増やすことより、割り切った関係の人間を作った方が精神的な落ち込みは無くなるだろう。ファンの立場からしても同じである。ファンの対象を自分の勝手な解釈でその人を判断しない方がよい。怒りや裏切られた、と嘆くこともなくなるだろう。何に対して魅力を感じたのかが重要であり、性格が悪かろうがなんだろうが関係ない。素晴らしい才能に魅了されたのなら、人間性云々にこだわらない方がよい。それぐらいがちょうどよいのである。その対象のファンの代わりなどいくらでもいるのならその人のファンをやめて、違う人のファンになればよいだけの話だ。惰性で覚めた対象のファンに貢ぎ続けることを止めるべきだ。金の無駄使いをするだけである。

友人と呼べる人間は、お互いの意見を言いあえる人間のことである。政治、経済、国際問題等で会話をしていて意見が合わず、胸ぐらを掴む状況に例えなったとしても、それはそれとして、別の話題になれば冷静に自然と何事もなかったようになることができる人のことである。それぞれの考えがあるのだからどちらの意見が正しいということより、お互いがその話にどれくらいの熱量を持っているかが重要課題である。私は友人が少ないが、ありがたいことに、そのようなことがすべての人間とできる。

ただの仲間ではまずそれができない。自分の勝手な解釈で相手を判断していたのなら、ただ、失望するだけか、今後の関係修復も不可能の場合も多いであろう。


自分発信の勝手な解釈で他人を判断することはろくなことはない。常に自分を客観的に見つめることができる人はとても自己満足をした人生を歩むことができるだろう。



              Facebook 2014年に掲載した文章を再編集してこの度、添付掲載
速度が問題なのだ。人生の絶対量は、はじめから決まっているという気がする。細く長くか太く短くか、いずれにしても使いきってしまえば死ぬよりほかはない。どのくらいのはやさで生きるか? ― いつだってティータイム より ―

この言葉は、鈴木いづみさんのエッセイ、いつだってティータイム、の冒頭に書かれている文章である。

 小説、自叙伝、エッセイの冒頭にインパクトがあるとその文章の世界観に引き込まれることが多々ある。有名な小説の冒頭に書かれている文章が広く人々に知られていることがあり、受験問題として出題されることも少なくない。

 エッセイの冒頭部分に唐突ともいえるように出てくるこの言葉に、エッセイを初めて読んだ時にはとても驚いた。エッセイの内容は鈴木いづみさんのある日の出来事を書いたもので、緊張感があるものではなかったからである。

 鈴木いづみさんが書かれているエッセイによく、自分を常に客観的に見て生きているように感じる。皆と馬鹿騒ぎをしていても、まったく満喫できない自分がいる。皆と同じように、馬鹿騒ぎを満喫できないものか、と考える、と書かれている。彼女は一生涯自分を客観的に見て人生を歩まれたようだ。

 そのことを念頭に置き、何度か読み返すと、なぜ、冒頭にこの言葉が書かれたのかわかるような気がした。彼女はいつでも客観的なものの捉え方で全てのものを見て、その対象に自らをも含まれていたからである。

 鈴木いづみ プレミアム・コレクション、は彼女が残した小説、エッセイを断片的に構成した本であり、タイトルは同じでも、それぞれのタイトルで残された小説、エッセイ単庫本の中に収録されたものの完全版ではない。私は鈴木いづみさんの残された他の小説、エッセイも図書館で借りたかったのだが、借りたくても、借りることができなかった。この本は唯一所蔵されていた本である。この本の表紙だけが、彼女の顔だけ写っているものだから所蔵されていて、他の本は全く違う雰囲気(R18指定写真)のものなので所蔵することができないのだろう。

 鈴木いづみさんのバックグラウンドや歩まれた人生をここではこと細かくは書かない。知りたい方が調べて知ればよいことだからである。現代ならばその事柄の少しを簡単に調べて知ることができるからでもある。

 彼女のことを知っている方ならご存知だろうが、鈴木いづみは、ある時代には人々に求められ、そのある時代が過ぎ去ると人々は見向きをしなくなり、人知れずと去って行った人物である、と例えられることが少なくない。

 現代を生きる著名人達との付き合いがあり、彼女のことを昨日のことにように話す方もいらっしゃるほど強烈な印象を残した人物であった。

 あとがきとして、高橋源一郎氏がこのように述べている。鈴木いづみは、全身で70年代を体現した作家だったのだ。鈴木いづみは、ただ、70年代を体現したのではなく、SF作家として70年代を体現した作家だったのだ。早すぎたSF作家とか全身SF作家と呼ばれるべき存在であることを、遅ればせながら気づいたのである、と。

 数世代前のSF小説の中で描かれた日常の中で使われる機器が、現代社会では当たり前のように日常生活の中で使われていることがある。しかし、現代社会の人々の抱える、感情、心情、世情問題を残したSF小説家は非常に少ない。鈴木いづみの描いた世界は、現代の日本が抱える問題点を当時すでに予測していたことがわかるものを多く残している。

 それは、先にも書いたように、いつでも客観的なものの捉え方で、すべてのものを見て、その対象の中に自らをも含まれていた、からである。同じ時代に日本で生きた人々とは違う視点で物事を捉え、流れゆく時代を人々と違うように感じていたからなのだろう。

 鈴木いづみ プレミアム・コレクション、に収録されている小説の中からいくつかの例をあげる。女と女の世の中、では、個人情報が正確に管理をされている秘密主義国家が抱える少子化対策として行われていることが描かれている世界である。

 契約、では、事実は小説より奇なり、と例えられるような現代社会で起こっている(た)事件や考え方を描かれているような世界である。

 ぜったい退屈、では、仕事はもちろん、嗜好品や恋愛に興味、関心がない世代を描いた世界である。

 これらを例に挙げただけでも何か現代の日本社会が抱える問題とリンクするところがあるように感じる。個人情報、秘密主義国家に関してはいつの世でも変わらない事柄ではあるが、乱暴にいうと、少子化問題について、70年代に考えた人々は専門家だけだったのではないだろうか。70年代当時を生きた人々が求めていた興味の対象であったことが、まったく興味のないものとして描いているところに、70年代当時を体現した人々にとっては驚きを感じることができるのではないだろう。

 70年代を知らない世代からしても、現代では使われない機器が出てくることにより古臭く感じる部分は確かにあるが、描かれている人々の日常がまるで現代社会を見て書いてあるようで、まったく古臭くささを感じない。

 鈴木いづみさんが残した小説、エッセイの文章、言葉には個人的に心に残ったものが多いのだが、その中の一部を書くと、なぜ、あなたはそのようなことをしたのですか、とインタビューを受けるが、なぜ、したのかという質問はおかしい。したことが事実であり、してしまった後に尋ねられても答えようがない。したことが事実であり、すべてであるからである、という一文がある。

 あまりよろしくはない、たとえなのだが、なぜ、あの人は自ら命を絶ったのだろうか。助けることはできなかっただろうか。止めさせることはできなかっただろうか、と発言される方が多い。しかし、自ら命を絶った本人ではないのだから、いくら考えたところで答えなどでない。自ら命を絶った人の選択枠の中に、自ら命を絶つ、というたった一つの選択、答えしかなかったのだから、それを実行したまでのことである。

 ある著名な作家が、私に1時間(だったか、2時間だったか)をくれれば、自殺志願者の自殺を絶対に止めることができる、とテレビ番組内で言っていた。それを自信過剰というものとは違い、病気の人を私は絶対に治すことができるといっていることと何ら変わらない、人間心理を1点の視点でしか捉えることしかできない凝り固まった考え方の典型である。

 病気はその病気の専門医にしかわからない(それも絶対に病気を治せるとはいえないのだが)ことが多いのに、専門知識が乏しい一般人が治せる可能性はない。(確かに、不可能を可能にできることはあるが)不可能を可能にできることがないことを、その方はいっている。絶対、という言葉の意味を少しでも考えたことがないのか、自ら命を絶とうという境遇におかれたことがない幸福な人生を歩んでいるのだろう。1点の角度からしか、ものを見ることしかできないのだから、どういうことを自分が言っているのかという本質がわかってはいないのだろう。

 鈴木いづみは、ある時代に人々に求められ、ある時代が過ぎ去ると人々に見向きをされず、人知れず残りの時間を過ごし、36歳と数か月で自ら命を絶って人知れずこの世から去っていった。

 特定のコミュニティやサブカルチャーという言葉を使う人々に知られる存在だった彼女だが、21世紀になると人々が彼女を欲し、長年廃版になっていた小説、エッセイが、コレクションシリーズとして販売され、今では簡単に入手し、読むことができる。

 鈴木いづみさんは、小説の中に時折、特定の人物の残像や思いを残している。それは、元の恋人のことなのだが(※と、この文章を書いた時は思っていたが、鈴木いづみさんが、特別な彼、と思っていた人物は、ご自身が書かれたブログで、鈴木いづみさんとは数回あっただけの関係で恋愛関係はありませんでした、と否定されていらっしゃった)それは誰なのかということはここでは書かないが、彼女のことを知っている方だったら誰なのかを言われるまでもないことであろう。

 人生においてボタンの掛け違いはよくある話で、当たり前のことではないか、とおっしゃるだろうが、ほんの少しだけでもスライドしていたら彼女の人生は変わったものになっていたのかもしれないが、それはわからない。

 彼女は、DVやその他、あらゆる要因でなる精神障害病のことを、ただ、ノイローゼ、という言葉で表現された時代ではなく、もし、現代社会に生きていたのなら、自らを客観的に見て、違う人生になったのかもしれないのだが、それもわかるはずがない。

 私は、鈴木いづみさんの残した文章を読み、あらためて、己が幼いことを恥ずかしながら感じた。

 もし、多くの小説、エッセイを書いていた(10代後半から20代)頃の彼女が現代に存在するとしたのなら、あんたなんかには何もわかるはずがない、と鼻で笑われることを、悔しく、情けないことなのだが、読み進めていくたびに想像することができた。
皆様のブログを拝見させていただきとても楽しく読ませていただいております。

今後、更新するかは、わかりませんが久々にブログを更新させていただきます。

エンジン、アンプを暖気するように今すぐ数年前のようにブログを書くことができない現状、Facebookに掲載した読書感想文を貼りつけます。それも、Facebookを振り返ってみたら2014年1月に書いた文章でした。長く書いていないなあ、とあらためて思いました。

私は、長文の文章を毎日更新していました。それらは全て削除しました。

長文過ぎるとおしかりを受けたことがございますが、おっしゃるとおりブログではないものかもしれません。

長文になります。また、書いてある内容について、おかしい、と思われるかもしれません。その時はどうぞ受け流してください。

更新にあたりどの文章にしようか迷いましたが、ご存じではない方もいらっしゃるのではないかと思い、この方の文章の読書感想文にさせていただきました。ご興味をお持ちになられましたら現在では図書館でも簡単にアーカイブス本を借りて読むことができるので、ぜひ、読んでみてください。

それでは、長文になりますがよろしければお付き合いください。

よろしくお願いいたします

Gilles
Mr.George Yanagi 1948 1 30-2011 10 10 / Vocalist, Guitarist, Composer, Songwriter

柳ジョージ(本名 柳譲治)1948年1月30日生まれ 2011年10月10日没 享年63歳

Facebookでは10月14日に先にアップしましたが、哀悼の意味を込めて以前、ミクシィ日記で掲載した文章を再掲載します。

2008/9/1 柳ジョージ コンサート 金沢公演 北國新聞赤羽ホール

昨日、今日は、気温が高く暑い日々を過している。昨日は晴れ空だったが、今日は曇り空である。だが、気温が高く暑い事には変わらず、酷く汗をかく日である。

今日は、昨日観た柳ジョージさんのコンサートについて書こうと思う。はじめにお断りするが、すべての演奏曲、曲順を覚えていないので、曲順、すべての演奏曲を正確に書く事ができない事をお許しいただきたい。

私は、現在色々とある日々を過している。だが、コンサートをリハビリの一環にしようかと思った。どうなるかわからないが、兎に角、ジョージさんのコンサートに行こうと思いコンビニでチケットを買った。

会場は、北國新聞赤羽ホールであった。このホールは今年出来たばかりの新しいホールである。北國新聞社の後ろに建っているホールである。赤羽という名前は、北國新聞社の創設者、赤羽萬次郎氏の苗字から取った名前だ。ホール内には、コンサートホール、ステージはいくつかあるが、メインホールは、キャパシティーが500席とちょっとだ。小屋が小さいので、一番後ろからでもかなりステージから近いと思う。2Fにあるホールだが、オペラ観賞でもするような中2階席(バルコニー席)がある。私は、チケット購入が遅れたので、かなり後ろだろうと思っていたが、19列の中で11列だったので、大満足の席だった。席も程よく左よりだったので、中央を観るにも疲れない席だった。普通、コンサート、ライヴでは、スタッフが、席の案内役、ステージが始まると警備員に業務が代わるが、このホールの案内役はすべて若く、美しい女性達だったので、高級感とゴージャス感を売りにしているのだと思った。男性係り員、支配人らしき人達も、スマートな対応だった。このホールの目指す方向が少し垣間見えた。

ステージは非常にシンプルなもので、飾りつけ、セットは一切ないものだった。コンサート会場に行く前は、プログラム、Tシャツ等のマーチャンダイズを買おうと思っていたが、何もなく、石川県で幅広く展開しているミュージックショップ山蓄が、CDを売っていただけだった。何か購入特典はありますか、と訊くと、今日はありませんと言う事だった。来る前は、少し期待していただけに残念だった。ステージ終了後、私はCDシングルを買った。私の好きだったボトムズの新しいシリーズのテーマ曲になっていて、表紙がボトムズの主役、キリコの絵で欲しかったCDシングルだったので買って帰った。

客層の年齢は高かった。若くて20代で、私でも若い年代になると思った。40代から60代といったところか。40代でも若いかもしれない年齢層だった。スーツ姿の人が意外に少なかったので、リタイアされた方が多かったのではないかと改めてわかると思う。ギターキッズらしい人は(と言っても20代、30代なのでキッズではないが)ちらほらいた。私は、2005年のジェフ ベック コンサートのTシャツを着ていったが、センスよくまとめている服装の方でも、ギターキッズ、バンドキッズを思わせる人がちらほらいた。

ステージは19時からだったが、その時刻近くに始まった。まず、メンバーが各楽器の位置に着き用意をする。そして遅れて、ジョージさんが登場した。最近の写真を見て知っていたが、毛糸帽子に長髪、今風のグラス、ダボダボジーンズ、Tシャツ姿だったので、改めて驚いた。今までのイメージとまったく違うので驚いた。でも、柳ジョージの今までのイメージで見たらの話で、非常にカッコよく似合っていた。マイルスの晩年もその当時のおしゃれをしていたので、それとだぶって見えた。ギターは、フェンダーのストラトキャスターで、ゴールドカラーの物だったが、ラメ入りぽく見えたが、光の加減でなのかよくわからなかった。もう一人のギタリストは、同じくフェンダーのストラトの2トーンサンバーストだった。ギタリストが向かって右で左がキーボード、その右奥にベース、中央奥にドラム、そして、ジョージさんがセンターであった。軽く音がでるか、ボリュームを少し上げて、ブルースフレーズをジョージさんが弾いた。意識した物ではなく、音がでるかの確認だったのだと思う。音は歪みなくクリーントーンだったので。

ボリュームを上げて、ディストーションサウンドが、ホールに響き渡る。チョーキングとビブラートでの大音量だ。演奏が始まった。驚いた。クリームの(サンシャイン オブ ユア ラブ)サンシャイン ラブだった。腹にも音が共鳴して響くようだった。余裕があり、セッションをするかのような感じでの演奏だった。ジョージさんのギターの音は、フェンダーで昔発売されたポールピースがないピックアップのように、ミドルでこもったサウンドだった。チョーキング、ビブラートを駆使して弾くフレーズは渋く、非常に上手い演奏だった。当たり前の事かもしれないが、ステージで観るジョージさんのギターテクニックは安定していて、ミストーンがない物だったので、期待以上に上手かったので感激した。

演奏が終わると、(センキュー)とおっしゃった。この後も曲が終わるたびに、センキューとおっしゃっていた。その後は最近の曲を演奏した(センチメンタル ナイトだったかもしれない)。そして、何曲か後に(酔って候)を演奏した。オリジナルと違うアレンジの演奏だった。でも、渋い声で歌うこの曲は、やっぱり良かった。

何曲かあとに、ありがとうございます。関東は、雷が鳴り響き、凄い雨だったけれど、こちらはお天気も良く安心しました、とおっしゃっていた。この曲は本来ハードロックみたいな曲ですが、今風にアレンジした曲を聴いてください、と言って演奏が始まった。(さらばミシシッピ)だった。少しゆっくりとしたアレンジだった。悪くないアレンジだけど、オリジナルで聴きたかった。この曲でも、チョーキング、ビブラートで弾く音は図太く、イメージどおりの柳ジョージの音だった。その後、(For Your Love)を演奏したと思う。続けて次々と演奏した。この曲が始まりジョージさんが歌うと自然と拍手してしまったが、私だけではなく拍手している人がいた。とても、切なく良い曲である。

(コインランドリー ブルース)の時も同じく拍手したが、これも同じく拍手する人が多かった。この曲も好きな曲である。有名な曲が次々と演奏される。その後(青い瞳のステラ、1962年、夏・・・)、(歌舞伎)、(FENCEの向こうのアメリカ)だったと思う。曲の始まりでは、私だけではなく拍手する人が多かった。演奏が終わると、僕の曲でブルースをこういう感じで、といったらすぐ演奏を始めた(Money)だった。ジョージさんは良い顔で、チョーキング、ビブラートを極めてくれる。最高に良い顔でである。

曲が終わり、センキューと言って、ここでメンバー紹介をします、と言って名前を言っていた。皆若い感じで30代、いっていても40代という感じだった。最後にギタリストを紹介する時に、まだ、ハタチ代のという注釈を入れて紹介をした。会場では、オーォと言う驚いた声が聞こえた。

紹介が終わると(テネシー ワルツ)をブギウギ アレンジで演奏した。会場中、手拍子が鳴り響く。ジョージさんも時折、手拍子と、指を鳴らして良い顔で微笑んでいた。会場が一気に盛り上がる。

その後、(Forever Man)が演奏された。クラプトンばりに、ここでもチョーキング、ビブラートで押していく。チョーキング、ビブラート時に時折、目をつぶり弾きかっこよかった。

(HARBOUR FREEWAY)を演奏したが、この時も待っていましたとばかり拍手をした。この時も多くの人が拍手をしていた。落ち着いた曲では、両手を使って訴えかけるように手を広げたり、まあまあというように手を広げて、手を上下させるそぶり等を見せて唄っていた。かっこよかった。

演奏が終わると、今日はありがとうございました、と言ってステージを後にした。拍手がホール中に響き渡る。みんなの拍手が一定のリズムになった。アンコールを求める拍手だった。

何分かたった後に再びステージに皆戻って来た。ジョージさんが、こちらにはもうなかなかこれないけれど、アンコールをします、と言った。大きく拍手がホールに響き渡る。ドラマーがカウントを数える。曲が始まった。(雨に泣いてる)だった。この曲もアレンジが違い少しスピードに余裕があるものだった。ジョージさんのギターが鳴く。素晴しいギターサウンドだった。ギタリストがもう一人いるので余裕をもって弾ける。サポートギタリストも若いそうだが良い味を出して弾いている。チョーキング、ビブラートの時にまた目を閉じて弾いていた。流れる汗を歌いながら、腕で拭う。良い顔で歌い上げ、ギターを弾いた。柳ジョージここにあり、と言わんとする歌、演奏だった。

曲が終わると手を挙げ、オーディエンスの拍手に答える。センキュー、今日は本当にありがとうございました、とジョージさんがおっしゃった。その時、観客の女性の方が、ステージに近づき何かプレゼントを渡していた。ジョージさんは受け取り握手をした。良いなあ、と言う声が聞こえた。ステージを後にしようとしたときに違う女性がステージに近づき握手を求めて、ジョージさんと握手していた。握手し終わるとステージを後にした。

ホールの照明が点き終了のアナウンスが流れた。人々は席を立ちホールを後にした。私もいったんはホールの出入り口から出たが、どうしてもジョージさんのギターの色が気になったのですぐ出入り口に戻った。ステージに近づきギターを見ようと思ったが、もう片付けられたあとだった。その時に、ローディーさんがステージにこられたので、ジョージさんのギターは、USAですか、フェンダーUSAのストラトですか、と訊いた。そうです、と答えてくれた。ゴールドでしたが、シィアラインゴールドですか、ラメが入っているように見えましたが、と続けて訊いた。え、と聞こえなかったようだ。同じ質問をすると、あれは金箔を貼ったものです。と答えてくれた。USAに特注したのですか、と訊いた。いえ、日本のビルダー特注です、と答えてくれた。ありがとうございます、とお礼を言った。いいえ、と答えてくれた。

ホールから出ようと向きを帰ると係員の女性が立っていた。不審人物で、何かステージにあるものを触ろうとするのではないか心配されて立っていたのだと思う。頭を下げ、会釈してホールから出た。

なかなか有意義な時を過した。あの時、戻らずにギターの事を疑問を持ったまま帰らなくて良かったと思いバス乗り場に向かった。約20時40分だった。約1時間30分のステージだった。全18曲のセットリストだった。

バスに乗り、今回のバンドメンバーの年齢、演奏について考えた。今年はレイニーウッドとの活動もある。だから、若くてこれからの人とやろうとジョージさんは思ったのかもしれない。もちろん、ギャランティーの面もあると思うが。マイルスなどもそうだが、若い事によりまとまった演奏ではない日もあるだろう。だけど、とんでもなくよい演奏をする時があると思う。上手い、下手の話ではない。バンドの輪についての話だ。それを求めてジョージさんが考え、今回のバンドを組んだのかもしれないと思った。

私は、非常に疲れた。リハビリには、まだ少し早かったなあと思った。でも、念願のジョージさんのステージが観れて良かったと思った。今後なかなかジョージさんのステージを観ることができないと思う。最初で最後かもしれない。だから、貴重で有意義な時間を過せたことに感謝である。

2008/9 記載

ジョージさん、故人のご冥福をお祈りします。

ジョージさん、ありがとう...

$Gillesのブログ
$Gillesのブログ
http://jimmypage.com/

Oh,Jimmy!Oh,Jimmy!!Oh,Jimmy!!!

Are you ready?

OK!

It's the beginning of party!

I will enjoy a party together!!!!