その日ミニョは息苦しさで目が覚めた。といっても、目は開けていない。夢の世界から現実へと意識が戻ってきたという意味。
目は開けられなかった。ずしりと何か得体の知れないものが乗っかっているような重みを感じ、怖かったから。
その重たい何かに胸を圧迫されているのか呼吸がしづらい。
もしかして、これって金縛りっていうのかな・・・
不意に浮かんだ言葉に縛られるように身体が硬くなる。誰もいないはずなのに、すぐそばに人の気配がするような気がして、怖くて余計に目が開けられなくなってしまった。
霊感のないミニョは今まで幽霊を見たことはないし、霊が存在するのかも判らない。でも見たことがないからといって、それを否定することはできなかった。だって神様だって実際に見たことはないんだから。
目を開けて暗闇にぼうっと半分透けた人が見えたら怖いし、その人が胸の上に座っていたらもっと怖い。その上もしもその人と目が合ったりしたら、心臓が止まってしまうかも。
こういう時はそのままじっとして身体が解放されるのを待った方がいいと脳は命令してるのに、急に怖い物見たさが勝ったのか、まぶたがぱっちりと開いてしまった。
部屋の中は明るかった。とりあえず闇に浮かびあがる白い人と目が合うという怖い体験はしなくて済んだが、別の驚きを体験することになった。なぜなら自分の身体の上に誰かの腕が乗っていたから。
ドキッ!と跳ねあがった心臓を抱え、恐る恐る視線を横へ向けると、そこにはテギョンが横たわっていて、スースーと静かな寝息を立てていた。
何でテギョンさんが私のベッドに!?
ほっとするどころか一瞬でパニックに陥りそうになったが辺りを見回すとどうも今いるのは自分の部屋ではないようで、ミニョの頭はすぐにこれが夢だと判断した。
「きっと何か月も会ってなかったからこんな夢を見たのね。じゃあこれって私の願望?ベッドで一緒に寝るなんて・・・私って欲求不満だったのかな」
キャーやだーと顔が熱くなる。そしてその熱を逃がすように何度か口から大きく息を吐くと、夢なら目が覚める前に堪能しなきゃと息を詰め、テギョンの顔をまじまじと見た。
スッと通った鼻筋。鋭い眼光を放つ瞳は伏せられ、時々不満そうに尖る唇は今は静かに微笑んでいるように見えた。
「テギョンさんて怒った顔も笑った顔もきれいだけど、寝顔もきれいよね・・・なんかズルい」
しばらく見とれていたが、夢なんだから触っちゃおうと手を伸ばした。
しわの寄ることのある眉間を指先で突っつき、軽く頬をつまんでみる。夢じゃなきゃ絶対にこんなことできないわよねと鼻の頭を上に押し上げ、思わずぷっと吹き出し。そして指は唇へ向かった。
いつも素敵な歌が紡ぎ出され、時には自分への愛を囁いてくれる唇。
つんつんと押してみたり表面を滑るようになぞってみたり。さっきから思ってたことだがとても夢の中とは思えない生々しい感触に、ドキドキと胸の鼓動が速くなる。
すると柔らかな感触を楽しんでいた手が、がしっとつかまれた。
「俺の顔で遊ぶのはそのくらいにしろ」
閉じていたまぶたが開けられ強い瞳と至近距離で対面したミニョは目を見開き息をのんだ。
「びっくりした。夢なのに現実みたいな反応するのね・・・」
「何寝ボケてるんだ、夢じゃないぞ」
「いいえ、これは夢です。だってここ私の部屋じゃないし」
「あたりまえだ、ここは俺の部屋なんだから。いつ来たのか知らないが、勝手に俺の部屋で布団敷いて寝てたのはおまえだろ」
何だか見覚えのある部屋だとは思っていたが、ここがテギョンの部屋だと聞いたミニョは勢いよく身体を起こすと、辺りをキョロキョロと見回した。
昼間ミニョはミナムに電話で呼び出された。指定された店に行くとそこには進退窮まったような表情のマ室長がいて、ミニョを見るなり崩れ落ちるように両膝をついた。
「明日ミナムが帰ってくるまで・・・いや、数時間だけミナムのフリをしてください、お願いします!」
胸の前で手を組み懇願する姿はまるで神様に慈悲を乞う眼鏡をかけた子羊のよう。一年前と何ら変わっていないマ室長の言動と必死な表情は懐かしく思えたが、そこに微笑ましい感情は少しもわかず、ミニョは即座に首を横に振った。
「嫌です!」
「お願いします、社長の食事につき合うだけですから。ちょっとでいいんです。ちょーっとだけ。バレませんから」
「無理です、絶対に無理です!」
「お願いします。シヌは海外ロケだしジェルミはラジオ局。テギョンを誘ったけど断られて・・・」
アン社長にミナムを呼んでくるように言われたが、ミナムは以前にもやったことがあるマ室長の小遣い稼ぎの手伝いのために地方でこっそり仕事中。しかしとてもそんなことは言えないのでミナムに連絡を取り、ミニョを替え玉にしようということになった。
「大丈夫です、私も一緒に行きますから。ほら、前もバレなかったでしょ?食事だけです、その後サウナに・・・なんて流れになっても絶対に阻止します。ミナムの恰好して、適当に頷いてくれればあとは私が何とかしますから、その場にいてくれるだけでいいんです。お願いします!」
「無理です、できません」
「そんなぁ・・・・・・ああ、俺はもう終わりだ~クビだぁ~」
マ室長はまるでこの世の終わりが訪れたかのように、一瞬天に両手を伸ばした後、大げさに崩れ落ちた。そしてしばらくの間その体勢のままのぞき見るようにミニョの様子をうかがっていたが、「やります」という言葉が出てこないと判ると、重い身体をひきずり起こしながらぶつぶつと呟いた。
「だいたいテギョンが冷たいからいけないんだよな。今日だってテギョンはずっと事務所にいるんだから食事くらい行けばいいのに。ああ、テギョンさえ社長につき合ってくれれば、俺はクビにならずにすんだのに・・・」
チラチラと上目遣いでミニョを見る目には非難の色が含まれて見える。カフェの店内でいきなり土下座する男と出くわした客たちの視線は興味深そうに二人に向けられていた。テギョンが冷たい、テギョンが断ったからと言われ、このままではテギョンが悪者にされてしまいそうだということに加え、チラチラとのぞき見るような店中の視線に耐えられなくなったミニョは、渋々ミナムの替え玉を引き受けた。
「あんたって、ほんとに懲りないわね」
ミナムに変身させてくれと連れてこられたミニョを見て呆れ顔で協力するワン・コーディのため息は、マ室長に向けられたものか、ミニョに向けられたものか。
「もしバレても私は知らないからね、私は無関係よ」
見た目はミナムになったがしゃべれば絶対にすぐバレると思ったミニョは、アン社長の視線を避けつつ喉の調子が悪いフリをして適当に話に相づちを打つ。この場さえごまかせばの一心でマ室長はアン社長に酒をすすめながら、酔いつぶれればお開きにできるとミニョにも強い酒をのませた。その結果、マ室長の思惑通りにことは進み、あとはミナムに扮したミニョを家へ送るだけ・・・のはずだったが、酔っぱらって寝ているミニョは住所を聞いても返事ができないほど熟睡していた。仕方なく合宿所へ連れてきたが寝かせようと思っていたミナムの部屋はミジャがいて使えない。ジェルミに「ミナムの布団、テギョンヒョンの部屋に運んであるから」と言われ、数秒考えたマ室長はミニョをテギョンの部屋に寝かせると、「バレませんように」と十字を切り布団をかぶせた。
なぜテギョンの部屋で、テギョンと一緒に寝ているのかさっぱり判らないミニョは、混乱する頭のまま無意識に着衣に乱れがないか確認した。
「失礼なヤツだな、まだ何もしてないぞ」
「どうして私、テギョンさんの部屋に・・・?」
「それはこっちが聞きたい。昨日何があったんだ?いつの間にミナムになった?」
そう言われてミニョは初めて気がついた。着ている服が自分の物ではないことに。そしてゆっくりと昨日あったことを思い出した。しかしミニョが憶えているのはミナムに呼び出され、その後アン社長と食事をしたところまで。マ室長に強い酒をのまされて途中からの記憶がない。
とりあえず思い出したことを話すと、テギョンは大きなため息をついた。
「マ室長が運んできたんだな・・・ここに寝かせて俺が気づかないとでも思ったのか?それとも気づいても怒らないと思ったのか・・・チッ!」
テギョンはまるでそこにマ室長がいるかのように宙を睨みつけた。
眉間にしわを寄せ口を歪める姿からは怒りのオーラがにじみ出ている。きっとこの後は自分も怒られるんだろうと思ったミニョは怒りの矛先が自分に向けられる前に・・・と、そーっとベッドから抜け出した。
「・・・どこへ行く?」
そろりそろりと歩く背中にかけられる低い声が冷たく感じ、ミニョは叱られた子どものように背筋をピンと伸ばした。
「えーっと、着替えようかなって・・・この恰好苦しいんですよ。サラシ巻いたの久しぶりで・・・あ、バスルームお借りします」
逃げるようにバスルームへ行こうとした背中に「待て」と再び声がかけられた。反射的に足を止め、ゆっくりと振り向けば不機嫌そうな顔をしたテギョンが右手の人差し指をくいくいっと曲げ、こっちへ来いと呼んでいる。
「着替えは後だ」
いくら土下座して頼まれたからとはいえ・・・いくら周りの視線の集中砲火に耐えられなくなったからとはいえ・・・やっぱり引き受けるんじゃなかったとお説教を覚悟したミニョがおずおずとテギョンの前に立つと、その身体はぐいと引っ張られた。
広い胸の中にすっぽりと収まる。驚いたミニョが顔を上げると、あっという間に唇が塞がれた。
久しぶりのキスは初めから激しかった。テギョンの舌がミニョを求め荒々しく絡みつく。
角度を変え、何度も、何度も。
胸をサラシで締めつけられただでさえ息苦しいのに、暴れる心臓を抱えミニョの呼吸が乱れた。
「苦しいんだろ、楽になりたいなら俺が手伝ってやる」
耳元に息を吹きかけるように囁いたテギョンはミニョのだぶついたTシャツを一気に脱がすと、胸に巻きついている白い布に手を伸ばした。
