「なにしてんの」
空調が壊れ、むせ返るような暑さが漂う美術室。少しでも涼しい風を入れようと窓を開けるが、入ってくるのはセミの声だけ。夏休みが始まってまだ一週間と経っていないのに、夏は最盛期を迎えていた。体中が汗でべったりとしている。十四歳の夏がこんなものでいいのだろうか。人生で一度しかない十四歳。それを、こんなにも暑苦しい室内で、無意味な活動に費やして正解なのだろうか。もうすぐ十五になるというのに。こんなのあんまりだ。
そんな愚痴を脳内で零していると、いつの間にやって来たのか、青山千紘が涼しい顔をして私の隣に立っていた。この室内で涼しい顔をしているのは彼女だけだ。当たり前だ。今来たばかりなのだから。彼女は持ってきた薄っぺらいスクールカバンを机上に置くと、気怠そうに椅子に座った。
「別に何もしてないよ。それより、千紘。遅刻だからね」
「ごめんって。許してよ、副部長さん」
「もう。こういう時だけ、副部長って呼ばないで」
そう言いながら、私は広げていた画用紙にセミを描き始めた。他には何も描かれていない。真っ白な画用紙。他のみんなもそうだ。顧問のいない美術室は無法地帯だった。ある者は宿題を行い、ある者は喋り、またある者は眠っていた。唯一、まじめに部活動をしているのは、親友の戸倉亜矢だけだ。彼女は特別絵が上手いわけじゃないし、絵を描くことが好きというわけでもない。ただ義務感で鉛筆を動かしているのだろう。その画用紙には窓から見える校庭が描かれていた。
「うまいね」
描き上げたセミを見て千紘が呟く。彼女はいつの間にか私の方に体を寄せていて、横に振り向けば、息がかかってしまいそうなほど、近くにいた。そう気づいた途端、私の胸はドクドクと音を立て始め、顔を赤く染め上げた。
誰にも言っていない秘密の思い。言えるわけがない。親友の亜矢にも、隣の席の佐伯君にも。一生の片思いだ。
千紘は自分のバックからシャーペンを取り出し、セミの隣に何かを描き始めた。白い画用紙の上で、白く細長い指が動く。もしも、この指で体に触れられたら。頬、首、鎖骨。指は体を伝い、下部へ進んでいく。お腹、太もも、そして。
だめだ。こんな想像しちゃいけない。卑猥な妄想を打ち消し、私は熱くなった頬を冷ましながら彼女の横顔を見つめた。彼女は同性の私から見ても、綺麗な顔立ちをしている。天然パーマのかかった髪は肩まで伸び、まつ毛も長く、唇はほんのりとした桃色でふっくらとしていた。
いつ好きになったのかよく覚えていない。けれど、美術部に入部して、気付いた頃には好きになっていた。誰にも打ち明けられないまま、もう三年生だ。退部も間近に迫っている。こうして、横顔を見られるのも今のうち。
「ねえ、なんで今日遅刻したの」
「ん?」
「遅刻の理由」
そう尋ねると、千紘は動かしていた手を止め、はにかんだ。
「チャットしてた」
そう。知ってる。けれど、口には出さない。私は生返事で答えた。
だけど、知ってる。
千紘がオンラインゲームの相手と仲良くなってチャットしてること。その相手のことが好きなこと。だから、チャットに夢中になってること。全部、知ってる。
聞くんじゃなかった。心臓がちくりと痛む。
「今度、会うことになった」
千紘が言う。
「会おうって。だから、遅れた」
言っていることが分からなかった。千紘の言っていることが理解できなかった。現実を把握できない私と裏腹に、千紘の頬は赤く染まっていく。まるで時が止まったみたいだ。私だけを置いて世界中が回っていく。
「小春?」
赤い顔をした千紘がこちらを向く。
「どうしたの?」
心臓がバクバクと音を立てる。まるで、耳の隣に心臓がやってきたみたいに、大きな音が私の中を駆け巡った。
そんな私を千紘は不思議そうに見つめる。その瞳は、今この瞬間、自分だけに向いていて、他の誰のことも見ていない。私だけのものだ。色素の薄い、茶色い瞳。それが自分に向けられている。だけど、その奥は他の人へ向けられているのだ。私なんて見ていない。そこに私は存在していなかった。大きな事実が心の中に埋められていくのを感じた。
数秒後、何も言わない私に向かって、千紘は掌を頬へ向かって伸ばしてきた。本当に、それはただの親切心だったのだろう。ただ心配で差し伸べられた掌。だけど、なぜだかそう思えなくて、頬へ届く寸でのところで、その手を振り払ってしまった。
「やめて!」
ぱちんと乾いた音が教室中に響く。室内で鳴っていた音が全て止まる。同時に、様々なところに向いていた視線がすべて私に向けられてくるのを感じた。掌がじんじんと熱くなっていき、喉も乾き始めた。言葉が上手く出てこない。
「こ、はる……?」
動揺した千紘の視線が私に突き刺さる。嫌な汗が背中から噴き出し、口も回らなくなった。そして、とうとう居ても立っても居られなくなって、勢いのまま教室を飛び出した。後ろから千紘の声が聞こえる。だけど、振り返ることなんかできなくて、ひたすらに廊下を走った。
もうダメだ。体育館まで続く渡り廊下まで走り、私は足を止めた。後ろを振り返ったが、誰もいない。安心感と不安感で膝が震える。
なに、してるんだろう。
肩で息をしながら壁に背を預けると、情けない気持ちが体中を駆け巡った。今頃、美術室はどうなっているのだろうか。考えたくもない想像が膨らんでいく。
ダメだダメだ。考えてはいけない。もうやってしまったことだ。仕方ない。思考を切り替えるため、視線を体育館の方に向けた。すると誰もいないと思っていた体育館に人がいることに気づいた。よく目を凝らしてみると、吹奏楽部の面々であることが分かる。その中にはクラス委員の灰川毬もいた。灰川さんは前列のパイプ椅子に座って、名前の良く分からない金楽器を構えていた。その時、演奏が始まった。大塚愛のさくらんぼだ。野球部の大会のために練習しているのだろう。軽快な音楽が耳に流れ込んでくる。
これから先、再び千紘と笑い合うことはあるのだろうか。一緒に絵を描いて、自転車で下校して、駅前まで遊びに行って。そういう楽しいことはもうできないのだろうか。それなら、いっそこのまま消えてしまいたい。千紘の記憶から私を消して、私の記憶から千紘を消して、何も知らない世界で生きていきたい。
壁にもたれていた背がずるずると下がっていき、とうとう尻が床に着いた。ひんやりとした感触が伝わってくる。膝を両の腕で抱え、その間に顔をうずめる。何も見ないように、何も聞こえないように。
少し経つと、左横に人の気配を察した。千紘だろうか。いや、まさか。でも、もし本当に千紘だったら。戸惑う心を押し殺し伏せていた顔を横に向ける。すると、そこには無表情の亜矢が立っていた。安堵の気持ちが心を包む。亜矢は何も言わず、私の横に腰を下ろした。無言の時間が続き、私達の間にはさくらんぼの曲だけが流れていった。
「ねえ、亜矢」
さくらんぼが終盤を迎え、私は無意識のうちに口を開いた。
「私、自分が嫌」
「うん」
「嫌なの」
「うん」
「ねえ……わた、し……」
押し殺していた感情が込み上げてくる。同時に目頭が熱くなり、涙が溢れてきた。その感情は抑えきれなくなって、とうとう私は声をあげて泣いてしまった。止めたいのに止めらない。出したくもない涙がいくつも頬を伝う。
そんな私を亜矢は無言のまま抱きしめた。人肌の温もりが私を包みこむ。亜矢の胸は全然大きくなくて、柔らかくなかったけど、優しくて嬉しかった。そんな胸の中で、大きな声をあげて泣いた。いつのまにかさくらんぼは鳴りやんでいて、廊下中に私の鳴き声が響き渡った。だけど、なぜだか恥ずかしくなくて、もっと大きな声を出してやろうとさえ思ってしまった。
一通り泣き終わると、亜矢は私を離し、そっと呟いた。
「もう、いい?」
大きく頷く。
「そう」
亜矢は一言だけ言うと、また黙ってしまった。けれど、それが心地よくて落ち着けた。
体育館から新しい曲が流れてきた。今度は知らない行進曲だ。知らない曲なのになぜだか胸が躍った。
これから、どうやって千紘と向き合おうか。難しいかもしれない。だけど、ちゃんと話そう。そう思いながら、私は涙を拭った。
