第5回 思考停止の「就活ごっこ」
■自分のやっていることが分からない学生たち
■ただの「手続き」を「活動」と呼ぶ就職ジャーナリズム
■すぐ役立つ対策は、すぐに役立たなくなる対策だ
■思考停止の「ごっこ遊び」を打破するには
■自分のやっていることが分からない学生たち
学校教育が、教員の自覚の度合いは別として、社会主義的労働倫理の注入を行っている以上、大学生の職業観が社会主義的なものになるのはやむをえない。
仕事のとらえ方、つまり社会と自分との関わり方を描く時、そこで吐露される意見は、マルクス、エンゲルスの「共産党宣言」や「賃労働と資本」(二冊とも第五章に収録)を髣髴とさせるものがあり、早く働きたいと思って大学を中退した私には実に興味深い。
大学生の就職活動を五年ほどお手伝いしてきて、非常に面白いと思うことは、彼らが「活動」ではないものを活動と呼ぶことである。
なぜそうした用語法を用いるのか興味を持ったので、大学の就職課や県の就業支援センターの職員に聞いてみたら、やはり同様のとらえ方をしていた。同様とは、きわめて唯物的だった、ということである。
盲人が盲人の手を引くように、社会主義者が社会主義者の就職の手引きを行うのだから、そこで形成される職業観が社会主義的であるのは当然の帰結である。
中には民間企業から大学職員に転じた人や、金融関係の資格を持つ人もおり、そういう人々は就職における会計教育の必要性を感じているとのことであったが、上司の頭が固いため、そういう提案は受け入れてもらえない、というのがどの大学でも共通して聞かれた悩みであった。
就職活動という言葉が果たして何を意味しているのか、私にはよく理解できないが、言葉から考える限りでは、「社会人としての条件を満たす自分を確立する活動」とでも捉えればよいだろう。
私は学生サークルのお手伝いを引き受ける前に、三十人ほどのフリーターの再就職を手伝ったことがあり、その約半数が大卒のフリーターであったため、大学では一体どのような職業教育が行われているのか、個人的にも関心を持ってきた。サークルの顧問を担当して見えてきた大学の職業指導の実態もまた、社会主義的なものであった。
仮に、ある連続的行動を「活動」と呼ぶ場合は、その結果として人格的な成長、あるいは能力面での成長が見られてしかるべきだろう。そして、それが就職に関する活動なら、業務遂行の基盤となる知識や能力の基礎を鍛えるものであるべきだろう。
私は学生が「もうすぐ就活やね」と言う様子を見て、彼らがどのような職業上の自己実現を図り、どのような活動をするのか、注意深く観察してみた。その結果は意外なものであった。
彼らは「手続き」に過ぎない表面的な作業の連続を「活動」と呼んでいたのである。つまり「就職できさえすればよい」という前提から、より手軽でより内容が浅く、より手っ取り早い対策を行うことを「シューカツ(就活)」と呼んでいたのである。
■ただの「手続き」を「活動」と呼ぶ就職ジャーナリズム
自分を成長させることが目的である「活動」と、成長した自分を伝達・表現することが目的である「手続き」は、本来全く別の行動である。
それは、野球で日々の練習を行うのと、地区大会に出場するための手続きを行うのと同じくらい違う。
「部活動」とは一体、どちらの行為を指すのか。また、実際に相手と会う面接は、野球なら第一試合、第二試合にたとえることもできようが、本番で成長することはほとんど不可能である。
本番は「晴れ舞台」ではあるだろうが、それが晴れるか晴れないかは、平素の地道な準備による。やはり、活動とは本番前の成長をもたらす個々の営みであって、手続きや本番の試合ではない。
学生たちは筆記対策、書類審査、面接試験には一応力を入れるが、それらの場当たり的な就職技術にいくら長けたところで、仕事そのものが充実するわけではない。
選択肢の拡大と仕事の充実は、あくまで野球における場合と同じように、日頃からの走りこみや筋力トレーニング、そして地味な素振りやキャッチボールといった基礎力増強に相当する、仕事や会社に関する本質的な知識や考え方の底上げによってしか実現しない。
しかし多くの学生は、志望動機を丸暗記したり、面接でのマナーを磨いたりすれば、いい仕事に就けると信じ込んでおり、中には模擬面接などを通じて暗記度を確認する者もいる。
まるで、良いドレスを着用し、良い式場を選べば、結婚生活もうまくいくと考えている人のように。
なぜこのような幼稚な現象が、人生の節目節目において表れるのか。それは、彼らが何を「活動」と捉えているかによる。
再度野球にたとえていえば、多くの学生にとって、「就活」とは、具体的に企業の新卒採用サイトが募集を開始する三年生の秋頃、つまり甲子園の第一試合開始と同時に始まるものであって、それ以前に自分から始めるものではない。
そのため、「野球のイロハも分からない新設校の新参野球部」が参戦して惨敗するような、直前での場当たり的な努力で悲劇に向かって走るのである。
結婚においては、ドレスも式場もそれなりに大事だろうが、しかし、結婚は相手との間に交わすものであるから、結婚生活が本質的に幸せなものになるかどうかは、相手をよく知り、かつ、自分をよく伝えることによって決まるはずだ。
また、結婚生活を送るにふさわしい経済力や人間性を備えておくのも大切である。就職もそれと同じで、見える要素と見えない要素が総合的に発揮されて、初めて一つの物事が円滑に行われる。
だが、多くの学生の「業界研究」や「企業研究」は、業界内順位や売上高、資本金の額や広告宣伝によって左右され、表面的な数値を覚えこむことや手っ取り早く面接の要領を飲み込むことが重視される。
働くことの本質的な意義や、その業界の会計的収益構造に配慮が及ぶことは少なく、彼らが重視するのは「何をいかに与えるか」ではなく、「何をいかにもらうか」である。
与えたいことを前提に志望動機を設定し、入社した若者は、定着し、活躍し、成長する。だが、もらいたいことを前提に志望動機を設定した若者は、入社自体が困難となる。
試みに、身の周りにフリーターやニートがいれば、何にこだわっているかを尋ねてみればよい。返ってくる答えは「てんぷらの衣」ばかりだろう。
多くの学生たちが何にこだわっているかは、その質問を聞けば分かる。
質問の多くは、「業界一位になるために何をしていますか」ではなく、「業界で何番ですか」であり、「資本金をどう運用しましたか」ではなく、「資本金はいくらですか」である。
「プライベートが充実している社員の方はどういう働き方をしていますか」ではなく、「有給休暇は何日ありますか」であり、「定着し、成長する人は、御社の仕事をどうとらえていますか」ではなく、「離職率は何パーセントですか」である。
流動的で、可変的で、おそらくここ数ヶ月で変動するような要素ばかりを「情報」だと勘違いして、未熟な質問から導き出された仕事のかけらを集めて他社と比較しては、「いい会社ないね」、「どこも同じような仕事だね」とため息をつく学生も多い。
社会主義的な唯物論に頼ると、スタートから転びまくるのだ。
このようなコミュニケーション・ギャップについては、また別に一冊書けるほどの事例があるので、本書では詳述しないが、基本的に心の底から「働きたい」と思っていない限り、仕事の本質に到達する質問を繰り出すのは不可能である。
ただし、就職ジャーナリズムの影響については、一言触れておく必要があるだろう。
書店の就職コーナーに行けば、いかに内定をもらうか、いかにうまく面接を乗り切るかといった表面的な対策を書いた本が山積みとなっており、そこには創業事例の紹介や会計的業界研究の本はほとんど見当たらない。
極端で手っ取り早いものが好きな学生に迎合するかのように、表紙はきらびやかで、とにかく字が大きく、タイトルが過激なのが就職本の特徴だ。そして、中身を開けば、まるでゲームの攻略本かと思うばかりの文言が踊っている。
また、業界動向といえば、四季報や会社情報のように、どこがどこをM&Aしたか、業界内順位にどういう変動があったかという、来年になれば変わっているようなフローの情報ばかりを大袈裟に演出し、いついかなる時も不変の会計的本質、つまりストックの情報などは、「遠回りで面倒くさい」と敬遠されているのか、あるいはそういう要素は教える必要がないのか、それとも就職本の資格を与える必要やニーズがないのか、皆無である。
受け皿の充実なくして、情報収集の質的充実を図るのは無理なはずであるが、学生の「就活」においては、使い捨ての情報ばかりがもてはやされ、職業観を確立するというような迂遠なアプローチは軽視されており、本質的な成長、勉強は時間の無駄とでも言わんばかりの就職ジャーナリズムである。
■すぐ役立つ対策は、すぐに役立たなくなる対策だ
ここで、戦前戦後を通じて一貫して共産主義を理論的に批判した、ある経済学者の言葉を思い出さずにはいられない。それは、慶應義塾大学の塾長を務めた小泉信三博士の言葉である。
小泉博士は「読書論」(岩波新書・一九五○年)の第一章「何を読むべきか」の中で、藤原工業大学(現・慶応大学理工学部)の学長であった谷村豊太郎氏が、産業界からの「大学では即戦力を育成してほしい」という要望に対して、「すぐ役に立つ人間は、すぐ役に立たなくなる人間だ」と反論し、学者・教育者の誇りをもって人材育成への信念を述べた逸話を紹介し、「至言である」と評価している。
そして、それに続けて、「すぐ役に立つ本は、すぐ役に立たなくなる本である」と述べている(十二ページ)。それはなぜか。
博士は「読書論」と、その要約版である「古典の讀み方」(岩波文庫・非売品)の中で、読書を三種類に分けて論じている。これは、就職活動とも関係がある箇所なので、学生には日頃から学ぶ姿勢、働く姿勢を考える材料として紹介している話でもある。
「古典の讀み方」の方が簡潔にまとめられているので、こちらから該当箇所を紹介してみたい。ちなみに、本書は書店や古本屋で入手することはほぼ不可能なので、実際に読んでみたいという方は、地元の図書館や大学の図書館で「小泉信三全集」(文藝春秋)の第十四巻をご覧になるとよい。
~~~ 度び度び私の引く極端な例であるが、假りに文字の印刷してあるものが皆な本だとすれば、汽車汽船の時刻表も本である。この種の本の有用性はハツキリしてゐる。
A縣のB市に往くには、C驛を何時何分に發車すれば同日若しくは翌日の何時何分に着き、土地の旅館には甲館乙館等々々があるといふことは、それを見ればすぐ分る。その利益は疑ふべくもない。
けれども、それが讀書の利益といふものか。誰れもさうは思はない。
同様に、例へば豚を飼ひ、鷄を飼ふとする。和洋食の料理を習ひ、手藝の刺繍をするとする。そのために養豚養鷄料理刺繍に關する本を讀むとする。その利益は的確で、間違ない。
そんならこれ等の本を讀むことは讀書で、これを讀む人は讀書家であるか。誰れもさうは言はずまた言はないのが當り前である。
これ等の本は養豚養鷄等々の目的を達するために確かに役に立つ。けれども手段の價値は目的の價値によつて限られるとすれば、これ等の本を讀むことには、養豚養鷄等が持つ以上の價値はない譯である。
これも讀書の利益でないことはないが、さうしてまた、これ等の書籍が有用であることは爭はないが、抑も吾々が讀書によつて得るもの、得んと欲するものは、このやうな特定目的に對する手段としての利益ではなくて、もつと讀書それ自體の内に存する何物かであることを、苟も讀書家といはれてゐる人々は、皆な暗々裡に感じてゐる。
それは何かといへば、結局前記の通り、吾々の精神又は思想が讀書の榮養によつてその大さ又は高さを增すことそれ自體であるといふより外はない。さういふものには價値を認めないといふなら、讀書の價値もまた説明のしようがない。
けれども、古來人をして精神的思想的に、高山に攀ぢ登つて、その山頂から、下の平野と遠くの地平線を望み見るやうな思ひをさせ、延いて人類の歴史を左右して來たやうな古典は、皆な右に記した、汽車汽船の時刻表が役に立つといふ、さういふ意味では役に立たない本であることだけは、知らねばならぬ。(十~十一ページ)~~~
博士の言わんとすることは、「最初から何の役に立つかが分かりきっているような本を読むのは、本当の読書ではない」ということだ。
すぐにはその効用が享受できないが、しかし、古典によって人間的、思想的な幅を広げないような学問は、それ自体が無益なものに陥りがちであるという、戦後の学問の悪しき風潮を、簡潔に指摘した文章ではないだろうか。
実務知識にいくら詳しくなっても、それを役立てるのに欠かせない優しさや思いやり、正義感、ビジョンなくしては、その知識も正しくその威力を発揮しない。
知識や技術を役立てるには、いつ役立つか分からない古典や歴史書を読んで、まず、人生の受け皿自体を広くしておかなければならないという、早急に効果を求める功利主義を戒めた言葉でもある。
目先の必要に迫られた読書は、当座の必要を満たしはするものの、そういう熱心さは要するにいつも場当たり的な生き方をしているだけの話であって、根本的な成長とは無縁の浅薄な姿勢である。
博士は、学ぶ者はもっと先を見通して、いつ役立つかは分からないが、自分の可能性をなるべく遠大に、かつ深遠に想像できるような姿勢で学問や人生に取り組まなければ、いつしかその場の課題を乗り越えることが目標だと勘違いして、大目標を見失った器の小さい人間になり下がってしまうという危険性を説いているのではないだろうか。
博士が戦後の日本社会をどう捉えたかは、「この一年」(文藝春秋)などのエッセイ集に詳しいので、興味がある方は一読されるとよいだろう。
私がここでわざわざ古い本の一節を紹介したのは、軽薄な「勉強ごっこ」の姿勢が、ほかならぬ、若者の就職活動にもありありと見られることを指摘したいからだ。
心の底から「働きたい」と思うような職業観を育てるよりも、手っ取り早く目先の不安を取り除くための要領を求め、そういう姿勢で生きていく方が賢くお得だと考える矛盾に気付いてほしいからだ。
「就職のために役立つか?」
「単位のために役立つか?」
このように考えて学ぶ学生は、現代では「まじめ」、「意識が高い」、「積極的」だと言われるかも知れない。
だが、実はそうした表面的、利己的な動機でしか知識、情報摂取の必要性を判定できない生き方こそ、学問の何たるかを知らない姿勢である。
「就活に役立ちそうだから、パソコンを学ぶ」、「面接で有利になりそうだから、秘書検定を取る」という姿勢は、表面的には積極的に見えるが、本質的には消極的で、形式的には養鶏、養豚の方法を学んでいるのと何ら変わらない。
自己PRや書類対策、面接でも、ややもすれば、一夜にして「メッキを塗った自分」に変身できる要領の良さが褒めそやされ、そういうカメレオン的才能に長じている学生が「できる人」、「渡世上手」とされがちだが、そういう人間こそ最も愚かな人間であり、博士と同時代に生きた友人である河合栄治郎博士が、「このような優等生こそ、最も危ない人間だ」と指摘したことを思い出す(「学生に与う」教養文庫)。
小泉博士や河合博士が将来を不安視した若者たちは、後日、全体主義に対してなすすべもなく立ちすくみ、ある者は軍部に迎合して革新官僚や進歩的な知識人になったのであった。
「時流に敏感」であるとは、時として「思想がない」ということと同じ意味でもある。同様の態度で「学問ごっこ」をやっている現代の若者たちは、将来どうなることだろう。
このような場当たり的対策は、やらされてやる受験勉強と同じで、課題をクリアすれば、もうその勉強を続けることはなく、したがって知識が増えることも経験が更新されることもなく、結果的に人間的成長は得られない。
考えようによっては、豚を育てることも、昔は科学的な調査結果さえなかったわけだから、リスクを引き受けて自由に発想していた昔の養豚職人の方が、現代の学生よりもずっと深く物事を考えていたと言ってもよい。
フリードリッヒ・リュッケルトは「二度読まなかった本は、一度読むにも値しなかった本だ」と言ったが(「読書と人生」河合栄治郎編・教養文庫※絶版)、これは勉強にも当てはまる。つまり「二度やらなかった勉強は、一度やるにも値しなかった勉強だ」ということだ。就職活動もこれと同じである。
■思考停止の「ごっこ遊び」を打破するには
私は毎年、サークルの学生たちが就職活動を控えた三年次の秋頃に、ある簡単なエピソードを使って、「就職活動とは何か」を説明することにしている。
経営者の中ではよく知られた話なので、言葉は違っても同種の話を耳にした人も多いだろうが、若者の説得には有効であるため、ここで紹介しておく。
ある時、ある映画監督が新作を撮影することになった。主演を誰にするかは決めていないが、新作ではラーメンを食べるシーンがあるため、監督は二人の俳優に声をかけ、「ラーメンをおいしそうに食べた方を主演に抜擢する」と伝えた。
撮影は二日後。その時、おいしそうに食べた方が主演の座を勝ち取る。二人はそれぞれの受け止め方で監督の要望を理解し、早速、準備に取り掛かった。
一人は、審査内容を知るやいなや、すぐにラーメン屋に駆け込み、ラーメンの食べ方を練習することにした。
目つき、麺のすすり方、照明の当て方、箸の使い方、器の持ち方、食後の満腹そうな表情など、それは経験豊富な俳優の名に恥じない熱心な練習ぶりで、誰もが「おいしそうに見えるよ」と言ってくれた。彼は何度か同じような練習を繰り返し、鮮明な成功のイメージを持って当日を迎えた。
さてもう一人は、審査内容を聞いてから、撮影の瞬間まで何をしたか。彼は断食をしたのである。別に、これといった対策を練ることも、練習を行うこともせず、ただ、何も食べずに当日を迎えた。
勝負の時が来た。
練習を重ねた俳優の食べ方も、名演技と呼べるものであったが、二日の断食を経て当日の撮影を迎えた俳優にとって、目の前のラーメンは、ラーメンである以前に食べ物であった。それも、命をつなぐための有り難い食事であった。
人工的に演出した空腹感と、飢えにも近い本物の空腹感とでは、到底勝負にならなかった。頭で作り出した「おいしそうな食べ方」と、心の底から生まれた「おいしそうな食べ方」を比べた後、監督は断食をして撮影を終えた俳優に「君に主演を任せよう」と言った。
たったこれだけの話である。ちなみに、断食をして撮影に臨んだ俳優が高倉健であることはよく知られている。
大半の学生は、「シューカツ」を控えた三年の秋にこの話を聞いて、生ツバを飲み込んだような真剣な顔をする。緊張感とワクワク感が同時に押し寄せたような、あの、若者独特の野心的な表情である。
そして、自分たちがやろうとしていたことと、本来やらなければならないことの間に感じたギャップに驚き、同時に就職活動の本質を悟ったことが愉快でたまらず、「僕もそういう就活がしたい!」、「私は仕事をなめていました」と口々に成長を望むのである。
もちろん、書類選考や面接試験での基礎知識やマナー、技巧も必要であろう。業界や企業に関する個別の知識を仕入れることも重要な作業である。
しかし、それが空腹感を偽装するための材料として獲得されれば、それは将来的には、学生の未来を損ないかねない。
まずは「仕事におなかを空かせること」、これが何より大切なことであって、その前提を忘れた就職活動は、活動などではなく、「就活ごっこ」に過ぎない。
就職活動とは、つまるところ、人生観を確立し、その人生観を事業観に昇華させて、社会とどの分野でどう関わって生きるかを決定することである。
すなわち、自分がそれまで獲得してきた全体験と全情報を総動員して、あるべき自分の像を未来に投射する作業である。働きたい、仕事を通じて世の中に役立ちたい、仕事を通じて自分の可能性を広げたい、そういう深い渇望がないところで志向される未来に、どれほどの価値があるだろうか。
そうした本質が顧みられず、ただ段階別の筆記、書類、面接対策に明け暮れて、成長なき作業に没頭することは、真の経験や成長とは無縁の、架空の設定の中で演じられる「ごっこ」に過ぎない。
就活ごっことは、「職業観なき就職活動」と言ってもよい。
いわば思想、信念なき迎合と手続きである。大学や行政機関で行っている就職指導にも、もっともらしい名称が付いた就活ごっこが溢れている。それはあまりに若者を軽視し、表面的で、打算的である。
ちなみに、こうした巨大な群集心理についてもっと考えてみたいという人は、「一九四六年憲法 その拘束」(江藤淳・文藝春秋)所収の「ごっこの世界が終ったとき」を読んでみるといいだろう(第五章に収録)。
話題は日米安保条約や自衛隊を扱っているが、就職活動や仕事にも当てはまる着眼点が示されており、毎年、これを読んだ学生は群集心理に盲従していた自分を知り、「背筋が凍る思いだった」という感想をもらす。
仕事とは何か、社会と自分はどう関わるべきかという根本的な前提を捨象した就職活動であれば、その学生の目には、就職活動とはSPI対策、エントリーシート、適性検査、面接などの別個の作業がそれぞれ切り離されて押し付けられるようにしか見えないだろう。
その作業はきわめて唯物的であり、多くの学生は手続き相互の関連性や成長の可能性を見ることはしない。まさに「群盲、象を撫でる」である。
長期的視点を忘れて、ただ目先の手続きに力を入れ、要領よく乗り切ることを至上とする官僚的、つまり社会主義的価値観は、就職の現場でも健在である。
職業観の抜本的な改善なくして、本格的な企業の能率向上や日本経済の回復はありえまい。
今日もお読みいただき、ありがとうございます。
ただ今、教育・学校部門257位、就職・アルバイト部門153位です。
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