第5回  思考停止の「就活ごっこ」

■自分のやっていることが分からない学生たち
■ただの「手続き」を「活動」と呼ぶ就職ジャーナリズム
■すぐ役立つ対策は、すぐに役立たなくなる対策だ
■思考停止の「ごっこ遊び」を打破するには




■自分のやっていることが分からない学生たち


 学校教育が、教員の自覚の度合いは別として、社会主義的労働倫理の注入を行っている以上、大学生の職業観が社会主義的なものになるのはやむをえない。


仕事のとらえ方、つまり社会と自分との関わり方を描く時、そこで吐露される意見は、マルクス、エンゲルスの「共産党宣言」や「賃労働と資本」(二冊とも第五章に収録)を髣髴とさせるものがあり、早く働きたいと思って大学を中退した私には実に興味深い。


 大学生の就職活動を五年ほどお手伝いしてきて、非常に面白いと思うことは、彼らが「活動」ではないものを活動と呼ぶことである。


なぜそうした用語法を用いるのか興味を持ったので、大学の就職課や県の就業支援センターの職員に聞いてみたら、やはり同様のとらえ方をしていた。同様とは、きわめて唯物的だった、ということである。


盲人が盲人の手を引くように、社会主義者が社会主義者の就職の手引きを行うのだから、そこで形成される職業観が社会主義的であるのは当然の帰結である。


中には民間企業から大学職員に転じた人や、金融関係の資格を持つ人もおり、そういう人々は就職における会計教育の必要性を感じているとのことであったが、上司の頭が固いため、そういう提案は受け入れてもらえない、というのがどの大学でも共通して聞かれた悩みであった。


 就職活動という言葉が果たして何を意味しているのか、私にはよく理解できないが、言葉から考える限りでは、「社会人としての条件を満たす自分を確立する活動」とでも捉えればよいだろう。


私は学生サークルのお手伝いを引き受ける前に、三十人ほどのフリーターの再就職を手伝ったことがあり、その約半数が大卒のフリーターであったため、大学では一体どのような職業教育が行われているのか、個人的にも関心を持ってきた。サークルの顧問を担当して見えてきた大学の職業指導の実態もまた、社会主義的なものであった。


 仮に、ある連続的行動を「活動」と呼ぶ場合は、その結果として人格的な成長、あるいは能力面での成長が見られてしかるべきだろう。そして、それが就職に関する活動なら、業務遂行の基盤となる知識や能力の基礎を鍛えるものであるべきだろう。


私は学生が「もうすぐ就活やね」と言う様子を見て、彼らがどのような職業上の自己実現を図り、どのような活動をするのか、注意深く観察してみた。その結果は意外なものであった。


彼らは「手続き」に過ぎない表面的な作業の連続を「活動」と呼んでいたのである。つまり「就職できさえすればよい」という前提から、より手軽でより内容が浅く、より手っ取り早い対策を行うことを「シューカツ(就活)」と呼んでいたのである。



■ただの「手続き」を「活動」と呼ぶ就職ジャーナリズム


 自分を成長させることが目的である「活動」と、成長した自分を伝達・表現することが目的である「手続き」は、本来全く別の行動である。


それは、野球で日々の練習を行うのと、地区大会に出場するための手続きを行うのと同じくらい違う。


「部活動」とは一体、どちらの行為を指すのか。また、実際に相手と会う面接は、野球なら第一試合、第二試合にたとえることもできようが、本番で成長することはほとんど不可能である。


本番は「晴れ舞台」ではあるだろうが、それが晴れるか晴れないかは、平素の地道な準備による。やはり、活動とは本番前の成長をもたらす個々の営みであって、手続きや本番の試合ではない。


学生たちは筆記対策、書類審査、面接試験には一応力を入れるが、それらの場当たり的な就職技術にいくら長けたところで、仕事そのものが充実するわけではない。


選択肢の拡大と仕事の充実は、あくまで野球における場合と同じように、日頃からの走りこみや筋力トレーニング、そして地味な素振りやキャッチボールといった基礎力増強に相当する、仕事や会社に関する本質的な知識や考え方の底上げによってしか実現しない。


しかし多くの学生は、志望動機を丸暗記したり、面接でのマナーを磨いたりすれば、いい仕事に就けると信じ込んでおり、中には模擬面接などを通じて暗記度を確認する者もいる。


まるで、良いドレスを着用し、良い式場を選べば、結婚生活もうまくいくと考えている人のように。


なぜこのような幼稚な現象が、人生の節目節目において表れるのか。それは、彼らが何を「活動」と捉えているかによる。


再度野球にたとえていえば、多くの学生にとって、「就活」とは、具体的に企業の新卒採用サイトが募集を開始する三年生の秋頃、つまり甲子園の第一試合開始と同時に始まるものであって、それ以前に自分から始めるものではない。

そのため、「野球のイロハも分からない新設校の新参野球部」が参戦して惨敗するような、直前での場当たり的な努力で悲劇に向かって走るのである。


結婚においては、ドレスも式場もそれなりに大事だろうが、しかし、結婚は相手との間に交わすものであるから、結婚生活が本質的に幸せなものになるかどうかは、相手をよく知り、かつ、自分をよく伝えることによって決まるはずだ。


また、結婚生活を送るにふさわしい経済力や人間性を備えておくのも大切である。就職もそれと同じで、見える要素と見えない要素が総合的に発揮されて、初めて一つの物事が円滑に行われる。


だが、多くの学生の「業界研究」や「企業研究」は、業界内順位や売上高、資本金の額や広告宣伝によって左右され、表面的な数値を覚えこむことや手っ取り早く面接の要領を飲み込むことが重視される。


働くことの本質的な意義や、その業界の会計的収益構造に配慮が及ぶことは少なく、彼らが重視するのは「何をいかに与えるか」ではなく、「何をいかにもらうか」である。


与えたいことを前提に志望動機を設定し、入社した若者は、定着し、活躍し、成長する。だが、もらいたいことを前提に志望動機を設定した若者は、入社自体が困難となる。


試みに、身の周りにフリーターやニートがいれば、何にこだわっているかを尋ねてみればよい。返ってくる答えは「てんぷらの衣」ばかりだろう。


多くの学生たちが何にこだわっているかは、その質問を聞けば分かる。


質問の多くは、「業界一位になるために何をしていますか」ではなく、「業界で何番ですか」であり、「資本金をどう運用しましたか」ではなく、「資本金はいくらですか」である。

「プライベートが充実している社員の方はどういう働き方をしていますか」ではなく、「有給休暇は何日ありますか」であり、「定着し、成長する人は、御社の仕事をどうとらえていますか」ではなく、「離職率は何パーセントですか」である。


流動的で、可変的で、おそらくここ数ヶ月で変動するような要素ばかりを「情報」だと勘違いして、未熟な質問から導き出された仕事のかけらを集めて他社と比較しては、「いい会社ないね」、「どこも同じような仕事だね」とため息をつく学生も多い。


社会主義的な唯物論に頼ると、スタートから転びまくるのだ。


このようなコミュニケーション・ギャップについては、また別に一冊書けるほどの事例があるので、本書では詳述しないが、基本的に心の底から「働きたい」と思っていない限り、仕事の本質に到達する質問を繰り出すのは不可能である。

ただし、就職ジャーナリズムの影響については、一言触れておく必要があるだろう。


書店の就職コーナーに行けば、いかに内定をもらうか、いかにうまく面接を乗り切るかといった表面的な対策を書いた本が山積みとなっており、そこには創業事例の紹介や会計的業界研究の本はほとんど見当たらない。


極端で手っ取り早いものが好きな学生に迎合するかのように、表紙はきらびやかで、とにかく字が大きく、タイトルが過激なのが就職本の特徴だ。そして、中身を開けば、まるでゲームの攻略本かと思うばかりの文言が踊っている。


また、業界動向といえば、四季報や会社情報のように、どこがどこをM&Aしたか、業界内順位にどういう変動があったかという、来年になれば変わっているようなフローの情報ばかりを大袈裟に演出し、いついかなる時も不変の会計的本質、つまりストックの情報などは、「遠回りで面倒くさい」と敬遠されているのか、あるいはそういう要素は教える必要がないのか、それとも就職本の資格を与える必要やニーズがないのか、皆無である。


受け皿の充実なくして、情報収集の質的充実を図るのは無理なはずであるが、学生の「就活」においては、使い捨ての情報ばかりがもてはやされ、職業観を確立するというような迂遠なアプローチは軽視されており、本質的な成長、勉強は時間の無駄とでも言わんばかりの就職ジャーナリズムである。



■すぐ役立つ対策は、すぐに役立たなくなる対策だ


 ここで、戦前戦後を通じて一貫して共産主義を理論的に批判した、ある経済学者の言葉を思い出さずにはいられない。それは、慶應義塾大学の塾長を務めた小泉信三博士の言葉である。


小泉博士は「読書論」(岩波新書・一九五○年)の第一章「何を読むべきか」の中で、藤原工業大学(現・慶応大学理工学部)の学長であった谷村豊太郎氏が、産業界からの「大学では即戦力を育成してほしい」という要望に対して、「すぐ役に立つ人間は、すぐ役に立たなくなる人間だ」と反論し、学者・教育者の誇りをもって人材育成への信念を述べた逸話を紹介し、「至言である」と評価している。

そして、それに続けて、「すぐ役に立つ本は、すぐ役に立たなくなる本である」と述べている(十二ページ)。それはなぜか。


 博士は「読書論」と、その要約版である「古典の讀み方」(岩波文庫・非売品)の中で、読書を三種類に分けて論じている。これは、就職活動とも関係がある箇所なので、学生には日頃から学ぶ姿勢、働く姿勢を考える材料として紹介している話でもある。


「古典の讀み方」の方が簡潔にまとめられているので、こちらから該当箇所を紹介してみたい。ちなみに、本書は書店や古本屋で入手することはほぼ不可能なので、実際に読んでみたいという方は、地元の図書館や大学の図書館で「小泉信三全集」(文藝春秋)の第十四巻をご覧になるとよい。


~~~  度び度び私の引く極端な例であるが、假りに文字の印刷してあるものが皆な本だとすれば、汽車汽船の時刻表も本である。この種の本の有用性はハツキリしてゐる。


A縣のB市に往くには、C驛を何時何分に發車すれば同日若しくは翌日の何時何分に着き、土地の旅館には甲館乙館等々々があるといふことは、それを見ればすぐ分る。その利益は疑ふべくもない。


けれども、それが讀書の利益といふものか。誰れもさうは思はない。


同様に、例へば豚を飼ひ、鷄を飼ふとする。和洋食の料理を習ひ、手藝の刺繍をするとする。そのために養豚養鷄料理刺繍に關する本を讀むとする。その利益は的確で、間違ない。


そんならこれ等の本を讀むことは讀書で、これを讀む人は讀書家であるか。誰れもさうは言はずまた言はないのが當り前である。


これ等の本は養豚養鷄等々の目的を達するために確かに役に立つ。けれども手段の價値は目的の價値によつて限られるとすれば、これ等の本を讀むことには、養豚養鷄等が持つ以上の價値はない譯である。


これも讀書の利益でないことはないが、さうしてまた、これ等の書籍が有用であることは爭はないが、抑も吾々が讀書によつて得るもの、得んと欲するものは、このやうな特定目的に對する手段としての利益ではなくて、もつと讀書それ自體の内に存する何物かであることを、苟も讀書家といはれてゐる人々は、皆な暗々裡に感じてゐる。


それは何かといへば、結局前記の通り、吾々の精神又は思想が讀書の榮養によつてその大さ又は高さを增すことそれ自體であるといふより外はない。さういふものには價値を認めないといふなら、讀書の價値もまた説明のしようがない。


けれども、古來人をして精神的思想的に、高山に攀ぢ登つて、その山頂から、下の平野と遠くの地平線を望み見るやうな思ひをさせ、延いて人類の歴史を左右して來たやうな古典は、皆な右に記した、汽車汽船の時刻表が役に立つといふ、さういふ意味では役に立たない本であることだけは、知らねばならぬ。(十~十一ページ)~~~

 
 博士の言わんとすることは、「最初から何の役に立つかが分かりきっているような本を読むのは、本当の読書ではない」ということだ。


すぐにはその効用が享受できないが、しかし、古典によって人間的、思想的な幅を広げないような学問は、それ自体が無益なものに陥りがちであるという、戦後の学問の悪しき風潮を、簡潔に指摘した文章ではないだろうか。


実務知識にいくら詳しくなっても、それを役立てるのに欠かせない優しさや思いやり、正義感、ビジョンなくしては、その知識も正しくその威力を発揮しない。


知識や技術を役立てるには、いつ役立つか分からない古典や歴史書を読んで、まず、人生の受け皿自体を広くしておかなければならないという、早急に効果を求める功利主義を戒めた言葉でもある。


目先の必要に迫られた読書は、当座の必要を満たしはするものの、そういう熱心さは要するにいつも場当たり的な生き方をしているだけの話であって、根本的な成長とは無縁の浅薄な姿勢である。


博士は、学ぶ者はもっと先を見通して、いつ役立つかは分からないが、自分の可能性をなるべく遠大に、かつ深遠に想像できるような姿勢で学問や人生に取り組まなければ、いつしかその場の課題を乗り越えることが目標だと勘違いして、大目標を見失った器の小さい人間になり下がってしまうという危険性を説いているのではないだろうか。


博士が戦後の日本社会をどう捉えたかは、「この一年」(文藝春秋)などのエッセイ集に詳しいので、興味がある方は一読されるとよいだろう。


 私がここでわざわざ古い本の一節を紹介したのは、軽薄な「勉強ごっこ」の姿勢が、ほかならぬ、若者の就職活動にもありありと見られることを指摘したいからだ。


心の底から「働きたい」と思うような職業観を育てるよりも、手っ取り早く目先の不安を取り除くための要領を求め、そういう姿勢で生きていく方が賢くお得だと考える矛盾に気付いてほしいからだ。


「就職のために役立つか?」

「単位のために役立つか?」


このように考えて学ぶ学生は、現代では「まじめ」、「意識が高い」、「積極的」だと言われるかも知れない。


だが、実はそうした表面的、利己的な動機でしか知識、情報摂取の必要性を判定できない生き方こそ、学問の何たるかを知らない姿勢である。


「就活に役立ちそうだから、パソコンを学ぶ」、「面接で有利になりそうだから、秘書検定を取る」という姿勢は、表面的には積極的に見えるが、本質的には消極的で、形式的には養鶏、養豚の方法を学んでいるのと何ら変わらない。


 自己PRや書類対策、面接でも、ややもすれば、一夜にして「メッキを塗った自分」に変身できる要領の良さが褒めそやされ、そういうカメレオン的才能に長じている学生が「できる人」、「渡世上手」とされがちだが、そういう人間こそ最も愚かな人間であり、博士と同時代に生きた友人である河合栄治郎博士が、「このような優等生こそ、最も危ない人間だ」と指摘したことを思い出す(「学生に与う」教養文庫)。


小泉博士や河合博士が将来を不安視した若者たちは、後日、全体主義に対してなすすべもなく立ちすくみ、ある者は軍部に迎合して革新官僚や進歩的な知識人になったのであった。


「時流に敏感」であるとは、時として「思想がない」ということと同じ意味でもある。同様の態度で「学問ごっこ」をやっている現代の若者たちは、将来どうなることだろう。


 このような場当たり的対策は、やらされてやる受験勉強と同じで、課題をクリアすれば、もうその勉強を続けることはなく、したがって知識が増えることも経験が更新されることもなく、結果的に人間的成長は得られない。


考えようによっては、豚を育てることも、昔は科学的な調査結果さえなかったわけだから、リスクを引き受けて自由に発想していた昔の養豚職人の方が、現代の学生よりもずっと深く物事を考えていたと言ってもよい。


フリードリッヒ・リュッケルトは「二度読まなかった本は、一度読むにも値しなかった本だ」と言ったが(「読書と人生」河合栄治郎編・教養文庫※絶版)、これは勉強にも当てはまる。つまり「二度やらなかった勉強は、一度やるにも値しなかった勉強だ」ということだ。就職活動もこれと同じである。



■思考停止の「ごっこ遊び」を打破するには


 私は毎年、サークルの学生たちが就職活動を控えた三年次の秋頃に、ある簡単なエピソードを使って、「就職活動とは何か」を説明することにしている。


経営者の中ではよく知られた話なので、言葉は違っても同種の話を耳にした人も多いだろうが、若者の説得には有効であるため、ここで紹介しておく。


ある時、ある映画監督が新作を撮影することになった。主演を誰にするかは決めていないが、新作ではラーメンを食べるシーンがあるため、監督は二人の俳優に声をかけ、「ラーメンをおいしそうに食べた方を主演に抜擢する」と伝えた。

撮影は二日後。その時、おいしそうに食べた方が主演の座を勝ち取る。二人はそれぞれの受け止め方で監督の要望を理解し、早速、準備に取り掛かった。


一人は、審査内容を知るやいなや、すぐにラーメン屋に駆け込み、ラーメンの食べ方を練習することにした。


目つき、麺のすすり方、照明の当て方、箸の使い方、器の持ち方、食後の満腹そうな表情など、それは経験豊富な俳優の名に恥じない熱心な練習ぶりで、誰もが「おいしそうに見えるよ」と言ってくれた。彼は何度か同じような練習を繰り返し、鮮明な成功のイメージを持って当日を迎えた。


さてもう一人は、審査内容を聞いてから、撮影の瞬間まで何をしたか。彼は断食をしたのである。別に、これといった対策を練ることも、練習を行うこともせず、ただ、何も食べずに当日を迎えた。


勝負の時が来た。


練習を重ねた俳優の食べ方も、名演技と呼べるものであったが、二日の断食を経て当日の撮影を迎えた俳優にとって、目の前のラーメンは、ラーメンである以前に食べ物であった。それも、命をつなぐための有り難い食事であった。


人工的に演出した空腹感と、飢えにも近い本物の空腹感とでは、到底勝負にならなかった。頭で作り出した「おいしそうな食べ方」と、心の底から生まれた「おいしそうな食べ方」を比べた後、監督は断食をして撮影を終えた俳優に「君に主演を任せよう」と言った。



 たったこれだけの話である。ちなみに、断食をして撮影に臨んだ俳優が高倉健であることはよく知られている。


大半の学生は、「シューカツ」を控えた三年の秋にこの話を聞いて、生ツバを飲み込んだような真剣な顔をする。緊張感とワクワク感が同時に押し寄せたような、あの、若者独特の野心的な表情である。


そして、自分たちがやろうとしていたことと、本来やらなければならないことの間に感じたギャップに驚き、同時に就職活動の本質を悟ったことが愉快でたまらず、「僕もそういう就活がしたい!」、「私は仕事をなめていました」と口々に成長を望むのである。


もちろん、書類選考や面接試験での基礎知識やマナー、技巧も必要であろう。業界や企業に関する個別の知識を仕入れることも重要な作業である。


しかし、それが空腹感を偽装するための材料として獲得されれば、それは将来的には、学生の未来を損ないかねない。


まずは「仕事におなかを空かせること」、これが何より大切なことであって、その前提を忘れた就職活動は、活動などではなく、「就活ごっこ」に過ぎない。


 就職活動とは、つまるところ、人生観を確立し、その人生観を事業観に昇華させて、社会とどの分野でどう関わって生きるかを決定することである。


すなわち、自分がそれまで獲得してきた全体験と全情報を総動員して、あるべき自分の像を未来に投射する作業である。働きたい、仕事を通じて世の中に役立ちたい、仕事を通じて自分の可能性を広げたい、そういう深い渇望がないところで志向される未来に、どれほどの価値があるだろうか。


そうした本質が顧みられず、ただ段階別の筆記、書類、面接対策に明け暮れて、成長なき作業に没頭することは、真の経験や成長とは無縁の、架空の設定の中で演じられる「ごっこ」に過ぎない。


就活ごっことは、「職業観なき就職活動」と言ってもよい。


いわば思想、信念なき迎合と手続きである。大学や行政機関で行っている就職指導にも、もっともらしい名称が付いた就活ごっこが溢れている。それはあまりに若者を軽視し、表面的で、打算的である。


ちなみに、こうした巨大な群集心理についてもっと考えてみたいという人は、「一九四六年憲法 その拘束」(江藤淳・文藝春秋)所収の「ごっこの世界が終ったとき」を読んでみるといいだろう(第五章に収録)。


話題は日米安保条約や自衛隊を扱っているが、就職活動や仕事にも当てはまる着眼点が示されており、毎年、これを読んだ学生は群集心理に盲従していた自分を知り、「背筋が凍る思いだった」という感想をもらす。


仕事とは何か、社会と自分はどう関わるべきかという根本的な前提を捨象した就職活動であれば、その学生の目には、就職活動とはSPI対策、エントリーシート、適性検査、面接などの別個の作業がそれぞれ切り離されて押し付けられるようにしか見えないだろう。


その作業はきわめて唯物的であり、多くの学生は手続き相互の関連性や成長の可能性を見ることはしない。まさに「群盲、象を撫でる」である。


長期的視点を忘れて、ただ目先の手続きに力を入れ、要領よく乗り切ることを至上とする官僚的、つまり社会主義的価値観は、就職の現場でも健在である。

職業観の抜本的な改善なくして、本格的な企業の能率向上や日本経済の回復はありえまい。


今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門257位、就職・アルバイト部門153位です。

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第4回  会社は給料を払わない


■給料の流れを知らない人は、無意味な努力に熱中する


 わが国の学校教育において、歴史教育や国語教育という外貌をまとって巧妙に刷り込まれる社会主義的職業観は、若者の「給料」に対する捉え方にも影響を与えている。


会計が分かる人、中でも損益計算書が読める人であれば、給料を払ってくれるのが誰であるかは誰でも知っている。給料を払ってくれるのが「会社だ」と考える人は、社会主義者以外に存在しない。


しかし、若者の中には、いまだに給料を払ってくれるのは会社だと考え、まだ二十二、三歳でありながら、会社選びの条件を福利厚生、勤務条件、研修制度、有給休暇の日数、男女比率、離職率などに求める人も多い。


もちろん、それらも重要でないことはなく、快適な職場環境や目標追求のしやすさにはそれぞれ大きな影響を与える要素ではある.。

だが、もし、給料を払ってくれるのが会社であると考えるなら、給与査定や昇進の基準は「上司にいかに気に入られるか」、「いかに短期間でメッキを塗って自己の動機を偽装するか」、「いかに社内のストレスに耐え、ボーナス支給時まで生き残るか」などとなり、およそ仕事の前提である「問題解決を通じた社会貢献による自己実現」とはかけ離れた場所で、無意味な努力に時間と労力を傾注する社員が増殖しかねない。


その努力の方向と性質は、日々わが国のドラマで繰り広げられる人間模様と近く、また、どこかの共産主義国の独裁政党に入った新入党員のものと似ている。


学生の就職活動においても、短期間で心にもない志望動機を覚えこみ、表面的な礼儀とスピーチを覚えこんで、手際よく「できる若者」を偽装する就職技術に長けている者がチヤホヤされがちであるが、経営者、ならびに人事担当者の方々におかれては、このような若者を採用することは、社内にわざわざリスクを購入して育てることにもなりかねないので、「若き共産細胞」の侵入を食い止められるよう願うばかりである。


 貸借対照表において、あるいは法人設立登記において、会社に純然たる自己資金、つまり「会社が払ってくれる」という性質のお金が存在するのは、創業時の会社が用意した資本金によって支払いを行う時だけである。それ以降のお金は、資本金を運用して発生する資産と負債に分化していく。


どの会社も、まずは自社が担当分野と定めた事業領域、つまり「業界」において顧客の問題解決を行い、その売上によって対価を得る。つまり、給料を払ってくれるのは「お客」である。


そして、お客と良好な関係を築き、関係を発展させていけば、さらに良質な在庫を形成することができ、売上と利益が増えるにつれて固定資産も充実する。

そうして、安定的な運用状態を実現すれば、取引先も掛売りや手形取引の話を聞いてくれるようになるし、銀行は短期負債や長期負債の借入れ申込みの話も聞くし、投資家も出資を検討する。つまり、負債や株式による資本調達が可能になり、これによって従業員の新規雇い入れや更なる設備投資、研究開発も可能になる。


このように、仕事において、会社が従業員に給料を支払うことはない。会社はただ、売上や借り入れ、出資を通じて顧客や金融機関、株主から預かった代金を給料日という期日に分配するだけであって、支払っているのではない。


会社が売っているものは視覚的には無数にあるが、本質的には三つしかない。商品とは「過去からの努力」の蓄積・表現結果、借り入れとは「現在の信用」の販売結果、出資とは「未来の可能性」の提案結果であり、結局は過去、現在、未来という三つの商品を物品化、サービス化、書類化(証券化)して販売しているだけである。


 しかし、社会主義者、つまり唯物論者は給与の支払いをどう見るか。


 彼らにとって、「カネ」とは紙幣とコインである。彼らにとって、給料というカネは、給料日に袋に入れて手渡される現金か、あるいは預金口座に払い込まれる数字である。


戦後、「給料が銀行振込になってから、おやじの威厳がなくなった」と言われた時期もあったが、本当にそうなのか。振込は防犯の必要上生じた手続きかもしれないが、本当に威厳がなくなったのは、職業への誇りを失い、サラリーマンが官僚化したからではないのか。

つまり、社会主義的労働倫理が役所はもちろん、民間企業にも浸透したからではないのか。


会計を理解しない人々にとっては、「給料を払ってくれるのは、会社」なのである。そう思っている限り、上司や会社にいかなる不満があろうと、胃薬を飲みながらこらえるしかない。


もちろん、会社に愛着や親しみを感じるのは良いことだ。そこに務め、働くことで収入を得、生計を立てているのだから、会社に恩義を感じて忠誠を尽くすのは素晴らしいことである。


私は自社の事業に誇りを持ち、長く働きたいと真面目に尽くす人々を心から尊敬するし、そのような職業上の良心が、戦後の荒廃期からわが国をこのような状態まで押し上げてくれたことに、深い敬意を抱いている。


だが、「給料を払ってくれるから、会社を愛する」という考え方だけでは不十分だとも考える。のみならず、給与や物的報酬によってしか社員の動機付けができない会社は、後々手痛いしっぺ返しを食らう。


「給料はお客様が払ってくれるのだ。会社はそれを預かり、貢献に応じて分配するに過ぎない。

そのつもりで、我々も心を一つにし、社会問題を解決して、悩みを喜びに変えよう」という教育を行っておかないと、経営陣と労働者が向き合うことになり、「顧客の問題」、「社会貢献」という同じ方向を向いて団結することが難しくなってしまう。

つまり、ここにも社会主義的価値観が付け入る隙が生まれてしまう。


就職試験においても、「こいつ、勘がいいな」、「なかなか飲み込みがいい若者だ」と感じるのは、会社との向き合い方に長けている若者よりも、会社と同じ方向を向いていると感じさせてくれる若者ではなかろうか。


「一緒に働きたい」という気持ちにさせてくれるのは、自社の問題解決行為に対し、会計的、思想的に同意しているかどうかによる。


学生は就職に際し、いかに会社に気に入ってもらうか、いかに自分を印象良く見せるかばかりを練習したがるが、そういう光景を見ても、若者はやはり大人をよく観察しているのだと感じる。


日々、本心を押し殺して周囲や上司の顔色を窺っている大人も多いからだ。嫌われれば査定に響くと恐れている社会人も多いからだ。


そういう大人の様子を見て、就職や仕事は、「ムカつかない程度の妥協の技術」と思っている若者は多い。大学の就職説明会でも、事業の会計的構造、志望企業の収益構造や喜びのポイントなどはほとんど考慮されない。


就職のマニュアル本は無数に存在するが、それらも個々の選考のテクニックを説くものばかりで、仕事の本質的な感動にはほとんど触れていない。書店に行ってみれば、若者が職業の問題をいかに一時的、表面的にしか考えていないか、よく分かるだろう。


マニュアルでは本質的な不安は解消されず、一時的対策は「入社後の大量退職」を引き起こす時限爆弾になるだけだ。



■義務教育によって頭脳に注入される社会主義的労働倫理


レーニンは「労働組合は、共産主義の学校である」と言った。社会のあらゆる場所に分裂を作り出し、それを煽動してブルジョア政府権力を打倒することを目指した共産主義は、男女、収入、地域、在日外国人など、破壊が図れる全ての分野に階級意識と分裂を招く嫉妬、憎悪を植え付けてきた。


こうした思想が、国民が最も深く関わっている雇用の分野から生まれたのは当然と言うべきで、ほどなく資本家と労働者の調和を破壊し、分裂を図るための組織である労働組合が発明された。


レーニンの「共産主義における『左翼』小児病」(国民文庫)には、組合に浸透して動機を偽装する技術や、どの団体とどういう前提で妥協できるか、すべきかを詳細に説明しており、私は本書で共産主義者の徹底した戦略と闘争心に改めて驚いたものだ。


また、岸信介首相も一読後に言葉を失ったという「大東亜戦争とスターリンの謀略(原題・戦争と共産主義)」(三田村武夫・自由選書)にも、尾崎秀実(ほつみ)をはじめとする共産主義者の鉄の規律について詳しく書かれており、私は、彼らはなんと勉強熱心で、計画的で、用意周到で、視野が広いのかと、初めて読んだ時はその内容が信じられないほど驚いたものだ。


今では柔軟な組合もあるが、発足当初は、組合とはこのように「資本家を打倒する」という目的を持つ組織であった。


組合とはつまり、「給料を払うのは会社だ」という大前提によって成り立つ組織であり、場合によっては、「給料を奪い取っているのは資本家で、我々はそれを奪うのではなく、取り戻すだけだ」と言うことさえある。まさに、マルクスの剰余価値説以外では説明しようがない発想だ。


わが国でよく議論される「会社は誰のものか」というテーマに対しても、ステークホルダー(利害関係者)という当たり前の概念は考慮されず、「従業員のものである」と言わなければ拝金主義者だと責められそうな空気が、二十一世紀の現代においても支配的である。


今でさえ、誰もが他人の顔色を気にしてお金に対する所信を述べないと、たちまち不安になるのを考えると、「働いている労働者が一番偉い」とする共産主義思想の浸透がいかに強力かを物語る事例だ。


中小企業の経営者団体の集まりでも、人格的な高潔さを表明したい場合は、「私はいかにお金にこだわっていないか」を枕詞のように語らなければならないことがある。「空気の研究」(山本七平・文春文庫)で指摘されたような無言の圧迫は、企業社会でもしばしば経験することだ。


しかし、一番偉いのは、言うまでもなく顧客である。会社は経営者の意思や従業員の努力以上に、顧客の承認と支持によって存続しているのだ。


「でも、会社や商品を作るのは創業者だ」などという屁理屈は無意味である。作っただけで存続する会社はないからだ。そんなことは、公務員以外には当たり前の事実だ。


株主がビジネスチャンスだと感じても、銀行が財務の安全性を確認しても、顧客が認めない会社は存続できない。そして、このルールはどの会社にも当てはまる。


そういう社会では、株主は経営者に感謝し、経営者も株主に感謝し、従業員はお客様と経営者に感謝し、経営者は従業員とお客様に感謝し、お客様は気に入った会社を購買を通じて応援すればよいだけのことである。


大体、「偉い」など、自分で言う言葉ではない。相手を偉くし、感謝するのがビジネスである。したがって、「会社は誰のものか」という議論など、最初から意味がない。「信じて応援してくれるお客様のもの」でよいではないか。


初心を忘れて分裂した議論は、その場限りではその問題が最重要課題であるように思えるが、社長も社員も「会社はお客のために存在する」という大前提を忘れているだけだ。


中学か高校の公民、政治経済の授業でも、「労働三権」なる法律が労働者の働く権利を保障しているのだ、と学んだことだろう。団結権、団体交渉権、団体争議権の三つがそれである。


憲法は労働者が不当な待遇に甘んじることを認めず、労働者は適正な給与を会社に請求してよく、そのために団結して争うことも場合によっては合法である、という「合法的恐喝術」が労働三権である。


「給料を払ってくれるのは会社だ」という思想なしには生まれないこの法律を、「稼ぎ方」を教えることはせずに、わざわざ義務教育で教えるのが、わが国の教育だ。


他にも、学生に聞いたことだが、今では「環境アセスメント」や「リコール(解職請求)」といった言葉も習うそうである。これでは、公民の教科書はまるで市民運動のマニュアルだ。


戦前、資本主義に不慣れな資本家や性格の悪い資本家が労働者を酷使した反省などもあるだろうし、そういう意味では労働者の権利を法律で保障することや、そうしていることを学校で教えることももちろん必要だが、必要以上に経営者や資本家を罵倒し、それを軍国主義や侵略戦争という問題にまで拡大して刷り込み、お金を蔑視する必要がどこにあるのか。

教員の政治的活動、思想的介入だと言われても弁解できまい。


不当労働条件の見直しや明らかに不公平な待遇については、労使双方で相談、協調して解決を図ることが適切だが、労働者の働く権利や働き甲斐とは、法律で保障しただけで充実するものだろうか。


法整備も重要だが、それほど「働く人を大切にする」と言うなら、なぜ伝統的で合理的な、働くことが楽しくなるような職業教育を行わないのか。


なぜ、働き甲斐とその成果を向上させるビジネス発想や会計を軽んじるのか。

なぜ、江戸時代以降の歴史の授業で、産業や経済の功労者を教えず、政治的に活躍した人物しか教えないのか。

なぜ、一揆を教えて石門心学を教えないのか。

なぜ、寛政、享保、天保の「金権腐敗是正改革」ばかり教えて、お金を善用する考え方を教えないのか。


権利だけを教え、それに頼れば安泰であるかのように教えるのは、明らかに片手落ちではないのか。自分の生活や仕事がいつ、どう良くなるのかが自分で分からず、設計できないような理念など教え込んで、一体どれほど価値があるのか。


国民を経済的無知、会計的未開のまま放置しておけば、確かに税金はたくさん取れて役人には非常に都合がいいだろうが、そのうち、日本経済全体が衰退したら、誰がどう責任を取るつもりなのだろうか。社会主義ほど労働者を虐待する思想があるだろうか。


仕事そのものの本質を教えずして、権利だけを教え込んでも、その権利は都合よく解釈されるだけだろう。公民の教科書を教えるくらいなら、私が福岡で学生たちと一緒に読んでいる「論語と算盤」(渋沢栄一・国書刊行会)や「人生と財産」でも読んだ方がどれだけましか分からない。


また、「青年の思索のために」、「都鄙問答」(石田梅岩・岩波文庫)も素晴らしい。「都鄙問答」が難しいのであれば、「清廉の経営」(由井常彦・日本経済新聞社)が良い。


江戸時代や明治期、戦前の人々がいかに仕事をまじめに、かつ合理的に考えていたかは、最近のベストセラーよりも、古い名作を読んだ方が理解できる場合も多く、これらの本を読んだ学生たちは、大学の就職説明会では飽き足らず、出席しなくなる。

そして、わが国の平均的知力が、戦前と比べて明らかに劣化していることを知る。


■「教育」という名の調教


「給料を払ってくれるのはお客だ」という単純な事実を教えれば、子供たちは自分たちの興味に従って社会や仕事を観察し、そこから導き出した将来像を進学先の選び方に当てはめて、受験勉強や大学での勉強に今以上の意欲を持つのではないだろうか。


初任給に数倍の差をつけ、学業とその成果の格差を認めれば、子供たちも熱心に学ぶのではないだろうか。高校、大学を偏差値で分けるなら、会社も差別待遇を用意した方がバランスが取れるのではないだろうか。


社会主義者は格差を作ることが「差別」で、埋めることが「平等」だと主張するが、長所の芽を潰し、短所を本人が努力する前に埋めてあげるような教育ほどの差別があるだろうか。


苦労によって人生の味わいを知り、失敗によって人の情けの有り難さを知る機会も与えず、中途半端な努力で仕上がった人生の試作品に対して、その本質から目を背けさせ、「あなたは正しい。悪いのは社会だ」と言って相手の努力を挫折させてしまうほどの虐待があるだろうか。


社会主義者ほど、その本質において差別を好み、格差を作り出し、人間性を尊重しない人々はいないというのが事実ではないだろうか。


豊かな将来の可能性を教えず、自分が実現できる職業上の選択肢を教えず、ただそれが義務だからと試験勉強や受験勉強を押し付け、偏差値の高い大学に入れば将来も保証されるのだと画一的に繰り返しても、そういう作業は教育の名を借りた拷問か調教でしかない。


また、生きるモデルや学ぶ手応えの存在しない教室は、監獄でしかない。偏差値の高さは確かに優秀さの証拠だろうが、偏差値しか将来の選択肢がないという事実は、無能さの証拠である。


中江藤樹は「それ学は、人に下ることを学ぶものなり」と言った。


自分が人より客観的に高い教育を受けたからと他人を見下し、自分は学ぶことは学び終えたのだと知的傲慢に陥り、過去によって将来を保証してもらおうとする態度のどこに「勉強」の姿があるのか。


本当の勉強とは、学べば学ぶほど分からないことが増え、若い人を尊重する気持ちが起こり、自然に人に対して頭が下がるようになるものなのだと、江戸時代の賢者は学問の結果からそのあり方を定義している。


藤樹の言葉だけが学問本来のあり方ではないだろうが、これほど現代人に猛省を要求する言葉も少ないと思うので、未熟な私も日々この言葉を鏡とし、学生たちとともに、「後輩のためにより良い教育環境を作ろうじゃないか」と日々の小さな勉強に励んでいるところだ。


社会に出たくない、働きたくない、人のために努力するのは損であるという結論に帰着する教育なら、何をどう教えても有害無益であることを、我々もそろそろ本気で反省すべきではなかろうか。


挫折や逆境に際して、教えを乞うべき先人を一人も心の中に持たず、安易に「うまくいかないのは、社会のせい」と考える社会人生活に突入していく子供たちを見るのは忍びないことだ。


社会とは、自分が働きかけてきた世間の集大成に他ならず、その社会が悪いと言うことは、自分が悪いと言うのと変わらない。


「社会が悪い」と責任を転嫁する社会主義者の甘言は、進学や就職という人生の岐路において耳障りの良い言葉で入り込んでくるので、注意することが必要だ。



■社会主義的価値観が引き起こす集団自殺


以上のように、根本的な人間尊重や職業に対する情熱、興味を無視していくら法律について教えても、本末転倒もいいところである。なぜ、税金を使った義務教育の現場においてまで、わが国の教員が旧ソ連の広告代理店となって、共産主義的労働倫理の注入に手を貸さねばならないのか。


これは、義務教育という名の洗脳教育だ。


今の学生が、学生運動にかぶれたかつての青年たちのような過激な主張をすることはまずないが、しかし、ソフトであれ、「給料を払ってくれるのは会社だ」と考えると、後々無用のストレスや苦労を抱え込むことになるので、私は日頃、学生たちに次のような話をして、給料の仕組みを知ってもらうことにしている。それは、「犬とダニ」の話である。



ダニは犬に寄生し、犬の血を吸って生きている。犬はそうしたダニを養うため、ダニが背中にくっついている間も、自分でエサを探し、体を維持しているのだが、ある日、体が大きくなったダニが、「おい、犬。最近、血が少なくなってきたぞ。もっと吸わせろ」と言ってきた。


犬としては、最近はエサも満足に取れず、自分の体力を維持するだけでも大変なので、「気持ちは分かるが、ちょっと待ってほしい」と断った。


しかし、犬の体はダニより格段に大きく、どう見ても血が足りないとは思えない。犬の答えを疑ったダニは、「じゃあ、いつからもっと吸わせてくれるのか?」と聞いてみたが、犬は「まず体力の衰えを克服してからだ」としか答えない。


ダニは不審に思い、犬が寝ている間に会議を開いて、「犬は血を隠しているに違いない」という結論に達した。翌日ダニたちは、犬に対して組合を結成して闘争を挑み、よってたかって大量の血を吸い、血を取り戻した。


犬は苦痛にもがき苦しみながら「待ってくれ…」と憐れみを乞うも、ダニたちは聞き入れようともせず、「我らの敵、資本家犬を打倒したぞ!血は我々のものだ!」と雄叫びを上げ、血に染まった口で笑いあった。

犬は大量の血を失い、その場に倒れこんだ数分後、息を引き取った。ダニたちは喝采し、犬が死んだのを笑顔で見届けた。


しかし、犬が死んだということは、血を供給する主体が消滅したということだと気付いたダニたちは、「おい、犬!目を覚ませ!」と叫んでみたが、時既に遅く、犬の体は冷たくなっていた。


ダニたちは犬という生活基盤を自ら破壊し、血を得られなくなる恐怖から仲間を殺して血を奪い合い、最後は犬の後を追うように死滅していった。共産主義に洗脳されたダニという未開人は、最後まで矛盾に気付かず、自分の頭脳に搾取されて滅びたのであった。


 これだけの単純な話である。


要するに「給料を払ってくれるのは会社だ」と考えている人間は、この「ダニ」と同じく、矛盾に気付かず、行動の方向性がずれていく可能性があるということだ。


人間をダニに例えるのは失礼だが、大自然の中には無知な人間に物事の本質を教えてくれる現象が無数に存在するので、実質において近いという性質から、私はあえて、ダニという嫌われやすい虫をモデルに「赤信号、みんなで渡ればみんな死ぬ」というシンプルな事実を説明している。


公務員が国家に寄生し、サラリーマンが会社に寄生して生きるのは何ら悪いことではない。人間そのものも、地球の寄生虫のようなものだから、どこに寄生しようが、社会や自然の恩恵の前にひれ伏し、謙虚に生きるのが賢明である。


犬が自分のエサをつかまえてこそ初めて生計が成り立つように、会社も他者の問題を解決しないことには、一次的な収益を得ることはできないのだから、もしダニが賢明であれば、ダニはダニなりに、犬の背中に乗っかって、「前方にエサ発見」、「右十メートル地点にエサ発見」などと言い、犬が疲れている間はマッサージをするなり、犬の行動特性やエサの出没パターンを分析して、より効率的な探し方、捕まえ方を提案し、犬と調和して働くようにすべきだろう。


「血は確かに犬が作ったものだが、その血は本来、犬ではなかった他の生き物から預かった有り難い資源である」という常識をわきまえているダニであれば、みすみす主人である犬を殺すような真似はしないはずだ。



■「入社」しても「仕事」をしていない人もいる


このように、会計が分からないダニは、固定資産が棚卸資産を生み、棚卸資産が当座資産を生み、当座資産で流動負債を返済するというキャッシュフローが読めないため、いつでも目の前の現象に即物的、感情的に反応して、テロリストや反逆者になる可能性を持っている。


つまり、公然とサボタージュを行う社員や、いきなり退職する社員になってしまう可能性を持っているということだ。


それはちょうど、旧社会保険庁の役人と考えると分かりやすいだろう。あの、史上稀に見る国家的パロディは、共産主義的価値観に洗脳された役人がダニと化した良い見本である。


安部政権の任期中に発覚したため、安部内閣の責任とされたが、根本的には職業倫理の問題である。同時期には中国の不良食品輸出問題やロシアのミサイル基地設置問題なども起こっていたが、ひとたび年金の問題が取り上げられると、参院選の争点は年金一色になってしまった。


三十一歳の私には、年金の重みを年配の方々ほどの切実さを持って考える素地があるわけではないが、それにしても、家の外で山火事が起こりつつある時に、家の中で忽然と姿を消したヘソクリの所在を巡って、自民党と民主党という両親が「おまえがなくしたんだろ!」、「いいえ、あなたが悪いんです!」と言い合っているようで、わが国の政治の限界を見た思いだった。


それと同時に、たった一つの議題で極端に左右にぶれるわが国の国民性も、全く変わっていないことを思い知った。


「愚民の上に悪政府あり」と福沢諭吉が指摘したように、政府を批判するのは我々の頭脳のレベルを批判することと同じなので、我々日本国民もより一層勉強に力を入れなければならないが、それにしても、ダニと化した国民を抱える国の政治家ほど大変な仕事はないだろうと、候補者の顔を見ながら思ったものであった。


 会計が分からない社員は、売上の増大なくして賃上げを求めてくる。


そうしてバイト代や給料を引き上げても、結局は上昇分が販売価格に転嫁されるか、仕入れ価格が引き下げられて取引先に損失を与えるかのどちらかとなり、顧客にはインフレを、仕入先にはデフレをもたらすことで目先の帳尻を合わせるほかなくなり、長期的に見て損失が大きくなる。


これを要するに、社員が経済や会計の仕組みを理解していないとは、まともな教育が行えないということであり、仕事ができないということでもある。


「入社して一応名刺は持っているが、仕事は何もしていない」。


これほどのリスクがあるだろうか。


どうせもうすぐ潰れるだろうから名前は覚えていないが、どこかの政党が、この夏の参議院選挙で、「最低賃金を千円に」などと言っていた。あれなども有権者を馬鹿にした話である。


しかし、有権者にも会計的未開人は多い。若き日、頭脳に刷り込まれた労働三権的な価値観をもって給料や年金をとらえられては、政治家や経営者はたまったものではない。


わが国はいつでも社会主義の脅威と隣り合わせである。社会に出ることが嫌になる学校教育とは、一体何なのか。働きたくないという結論に到達する職業教育とは、一体何なのか。


学校に実践的な会計を教える基盤がなく、その能力を持つ教員がほとんどいない以上、企業人がそれを教え、仕事とは何であるかを教えていく必要があろう。



■会計教育は最高の福利厚生


 以上見てきたように、「給料を払ってくれるのは、会社である」という前提で会社や仕事を捉えると、社員はその方向で会社の機嫌を取り、余計な努力ばかりに知恵を使うようになる。


つまり、社員は権力への隷従性を高め、奴隷的、官僚的になる。その方向でいくら工夫しても、根本となる前提は既に矛盾を起こしているのだから、努力は収益とは関係ない場合が多い。


いっぽう、「給料を払ってくれるのは、お客である」という前提を共有しておけば、社員はいかに若くても、あるいは経験が少なくても、その方向で組織のあり方や商品開発、営業、業務改善の工夫を行うようになる。


「給料を払ってくれるのは、会社だ」と考える社員が思いつくアイデアは、会社にとって何の役にも立たないが、「お客だ」と考える社員が思いつくアイデアは、すぐに使えるものではないにしても、検討してみる価値はあり、あとは経験やセンスの問題だという場合も多い。


未熟であれ、その方向で努力を重ねていけば、アイデアの命中精度は高まり、仕事の能率は目に見えて向上していくだろう。


要するに、会計をわきまえて働くと疲れにくくなるし、疲れに意味を見出せるようになる。また、異なった職種間に見えないつながりを発見することができるようになり、業務を相対的、長期的、循環的に観察しながら、自ら学習を重ねていくことができる。

そして、コミュニケーションの質とスピードが同時に向上する。


社会主義的社員の悩みは常にコストを生み、資本主義的社員の悩みは商品や収益につながる、と考えてよい。両者はともに「悩んでいる」と言うが、その悩みの性質や方向は全く別のものである。


社会主義的頭脳構造と会計が分かれば、社員の愚痴を社内のビジネスチャンスに変えることも可能である。企業における「人材の成長」とは、同一の作業を遂行するに当たり、投下資源を減らして、回収資源を増やせるようになることを言う。


口先だけで分かったようなことを言うようになったり、権威に服従して物分かりが良くなったりすることを言うのではない。


研修とは、このような前提での成長をもたらした時のみ研修といえるのであって、ただ業務を中断して勉強すれば良いのではない。仕事自体が研修だと思えるような楽しい勉強こそ、目指す社員教育のあり方ではないだろうか。


根本となる前提を同じ方向で分かち合えているかどうかは、それを無視して行われるいかなる場当たり的、一時的な対策より有益である。


もし、社員の動機付けやセールス研修、福利厚生制度といった様々な対策が、「給料の出所」の共有を忘れたところで行われているなら、それらは全て無意味な付け焼刃に過ぎない。社員が自分の頭で考え始めることはないからだ。


真に有益な研修とは、一度で本質を悟り、二度目からは更新を兼ねた復習ができる研修である。仕事の本質に触れ、自ら学び続ける研修である。人を育てるリーダーを育てる研修である。


仕事のやりがいと人生の生き甲斐を生み出す会計教育こそは、社宅や社員旅行、各種手当てに先立つ最高の福利厚生だろう。

今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門360位、就職・アルバイト部門268位です。

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第3回  「働かざる者」とは誰か


■「働く」とは何か


 日本人なら誰もが知る「働かざる者、食うべからず」という言葉が、社会主義国ソ連の建国者・レーニンの言葉であることはよく知られている。


正しくは、「働こうとしない者は、食べることさえしてはいけない」という聖パウロの言葉を引用したものであるということだが、このフレーズが日本社会に根付いたのは、ソ連の影響抜きには考えられないので、ここではレーニンの言葉として扱うことにする。宗教を否定する共産主義者が、なぜキリスト教の言葉を引用したかは問題としない。


レーニンはこの言葉によって労働者を煽動し、資本家を打倒せよと呼びかけたのだが、ここからマルクス、レーニン、および彼らの言葉を引用して意思表示の材料としてきた人々が、「働く」という行為を何だと考えていたか、あるいはどういう行為だと印象付けようとしたかがよく分かる。


他にも、「血と汗と涙」、「体が資本」、「人は能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」などといった、共産主義的価値観やプロレタリア文学の思想を引き継ぐ言葉は枚挙に暇がないが、ここでは「働かざる者」について考える。


一体、「働く」とは何か。


働くとは、仕事を行うことであり、仕事とは「問題解決」を通じた社会貢献によって自己表現を行う継続的な営みである。


工事現場で汗水たらして動き回ること、オフィスで朝から夜までパソコンと向き合うこと、セールスマンとして毎日各地を飛び回り、商品説明や顧客フォローに明け暮れることなども、みなこの前提によって引き出される行為であって、視覚的に確認しやすい外見上の作業ではなく、本質的な目的や効用から判定すれば、仕事とはみな、このように組織的、継続的、発展的な問題解決行為であることが分かる。


そして、このような仕事を提供する主体が「企業」であり、企業を切り盛りする行為を「経営」と呼んでいる。


企業は、社会のある分野の問題解決に際して、「自分なら従来のものより有益な商材を提供できる」と判断した起業家が発起人となって結成した団体である。


企業は、提供すべき商品によって売上を確保するまでは、事業規模や開発期間に応じた予算を用意して、それによって従業員への支払いや経費の捻出を図り、俗にその元手を「資本金」と呼んでいる。


この資本金を、売上が立つまでうまく運用し、継続的な投資と回収、つまり経営を繰り返して事業が軌道に乗れば、めでたく売上によって存続することができるが、そこに行き着く前に倒産する企業も多い。私なども、二十六歳という世間知らずの年齢で起業したため、一年で四回も倒産スレスレの事態に遭遇した。


 ところで、音楽が音を使って感動を表現する「音の芸術」、スポーツが肉体と精神の高いレベルの調和によって人間の可能性を表現する「体の芸術」、美術が色や線、空間を使って感動を表現する「色と空間の芸術」であるように、経営とは人材、物、資金、時間、情報という経営資源を用いて、それらが保有する可能性を表現する「可能性の芸術」である。


経営資源はそれぞれ一定の制約を受け、社内外で交換、増加、減少を繰り返しながら生成発展し、そのうち、自社の判断で自由に処分でき、換金価値のある財産を「資産」、一方、他者の資本を調達したり、他社に支払いを持ってもらっていたりする状態の義務財産を「負債」と呼ぶことは、商業高校に通う高校生でも知っている。


 経営資源に制約があるということは、例えば人材の不足は設備の効率的な稼動によって、時間の不足は質の良い労働によって、相互に代替や補完を図る必要が生まれるということだ。


数学が苦手な生徒が、試験を前にして時間の制約から数学を諦め、英語によって代替、補完を図るのと同じことである。経営にも「人、物、金、情報、時間」という五教科に相当する資源があるから、その調和を図るために長所を生かすのは自然なことである。


資源は無限ではないことから、制約という条件をクリアするため、自由な発想が生まれる。企業は常に回収以下の投資によって、その時々の経営課題を解決しなければならない。


そして、投資と回収の差額、つまり「利益」を補強分野に投じ、経営力を強化していかなければならない。経営における資源配分は、最高や最大を基準とするのではなく、いつも最適、つまり「回収以下」を前提として行う必要が生じる。


普通の人にとっての「安い」とは、自分が知る平均的な相場より安いとか、割引されていて通常より安いという相対的な負担の低さを表すが、経営者にとっての「安い」とは、「投資以上の回収を生む」という基準による。


つまり、「お金を使ったら、お金が増えた」、「お金を使っても減らなかった」という買い物だけを「安い」と呼べる。だから、無駄遣いとは、価格の大きな物を買うことではなく、投資を回収しない資源を買うことである。


金持ちの「安い」と貧乏人の「安い」は、表面上は同じ言葉を使ってはいるが、その意味は全く異なる。



■「毎日一生懸命」は時として「怠け者」の証拠


 さて、これを「働く」という行為に当てはめるとどうなるか。


経営を細分化すれば、各分野での個人の働きによって成り立っているのだから、経営と仕事が持つ価値基準は同じはずである。ならば、経営における投資と回収の関係から、「働くとは、同じ働き方をしなくてよい工夫を行うことだ」とは言えないだろうか。


時間や労力などの投下資源を減らして、同時に成果を増大させる営みを要約すれば、逆説的ではあるが、「働くとは、働かなくていいようにすることだ」ということになる。


この言葉だけでは、働くほど「不真面目」になるように感じるかもしれないが、そうではない。実は、節約と創造によってスピードと能率を上げることこそ最も「真面目」なのだ。


やや堅苦しく言えば、フランスの経済学者・セイが言った「起業家とは、生産性の低い状態にある資源を、生産性の高い場所に移動させる者のことだ」という言葉と同じ意味であり、要するに、生産性の低い自分を創造的に解雇していく営みが仕事の本質である。


例えば、営業における新規開拓なら、毎日テレアポや飛び込みに三時間をかけ、毎日五件の見込み客としか会えないのであれば、それは「まじめ」とはいえない。


企画において、資料収集や企画書作成にいつも一週間かかり、成果がそれほど変わらないのであれば、それもまじめとはいえない。


仕事以前に、受験勉強においても、毎日五時間勉強して、単語テストの成績が上がらないのであれば、それもまじめとはいえない。


 しかし、会計的視点が欠如した人は、単なる人情をもって、これらの行為を「まじめ」と呼ぶ。その基準はきわめて精神主義的、抽象的だ。


投下時間の長さや練習、準備の過酷さをもって「まじめであるかどうか」を判定する素地は、中学、高校の部活動や受験勉強によって、社会人になるまでにもれなく教育されるようになっており、時として、スムーズに成果を上げる人よりも、結果は出なくてもまじめに頑張った子供の方が「いい子」だと褒められたりする。


このような褒め方も場合によっては必要だが、それも程度問題だ。あまりに結果を無視して褒め過ぎると、子供の思考が停止してしまうこともある。


最初は何をやっても要領が掴めず、資源を浪費してしまうことも多い。だが、疲れていることや長時間努力していることをもって、それだけで「自分は間違っていない」と考えるのは短絡的な発想である。


こういう「まじめさ」に従って働いている人に、「君は毎日一生懸命だから、給料を下げよう」とでも言えば、「何だと!毎日一生懸命働いている真面目なオレの給料を下げるとは、許せない!」と答えるのがオチだ。


理由は、こうした人々は、毎日汗水たらして、嫌なことにも耐えて一生懸命動いていることをもって、「働く」と見なしているからだ。


世に「頑張っているのに、なぜ給料が上がらないのか」と嘆く人は多い。しかしその答えは、「(下手に)頑張っているから、給料が上がらない」という場合も多い。


過度の苦労と疲労は自己正当化の原因になりやすい。それは、人々がよく、聞かれもしないのに睡眠時間の少なさや残業時間の多さを他人に語り、誇りたがることからもよく分かる。


そうした発言は、自分が希少性のある試練に耐え、人並み外れた苦労に直面していることをアピールして、無意識のうちに相手からの賛同や同情、評価を期待している場合が多い。


そこで「へえ、君って要領悪いんだね」とでも言えば、相手は逆上するだろう。しかし、大事なのは「何時間しか寝ていないか」ではなく、「起きている時間に何をやったか」である。


人は、辛いことをやっている時には、それが間違っているとは思いたくないものだ。また、見かけが必死な人に、面と向かって「それは間違っている」と言うのも、確かに難しい。せめて動機だけでも尊重して、「君の意欲は素晴らしい」とでも言ってやらなければ申し訳ないとは、誰もが感じることだろう。


しかし、それは怠慢よりはましだろうが、苦労と疲労は、価値ある困難な目標に向かっていることから生まれるのと同じく、「要領の悪さや実力不足から生まれることもある」と謙虚に受け止めた方がよい。


苦労も疲労もともに価値がある。しかし、本当の価値はその過程における学習と視野の広がりにある。ただ苦労していることだけをもって正しいとするのは、唯物的な発想だ。


経営や仕事においては、発展の基準は周囲の人々との調和と生産性の向上に置くのが適切ではないだろうか。主観的な辛さだけを基準にしたら、組織にはケンカが絶えなくなるだろう。


我々は、良心的であることと、理論的に正しいことは、必ずしも一致しないという事実を知る必要がある。


働くとは、思考放棄の作業ではなく、まじめとは、後先考えずに誠意を尽くすことではない。もちろん、熱意や継続、誠意の重要性は何をもってしても後回しにすべきではなく、それはそれで職業観を形成する大切な要素だが、会計的視点の欠如は無駄なストレスを生む。


のみならず、会計的視点が存在しない働き方、つまり財務諸表に対する無知は、仕事における成長を自覚できず、説明できず、いたずらに退屈さや不満をかき立てる要因ともなるのである。


「働く」とは、昨日は一時間かかった作業を、今日は質を下げずに五十五分で済ませる、ということだ。「まじめ」とは、昨日も今日も一時間かけることではなく、試行錯誤の結果として節約、創造した「五分」のことをいう。


ただ時間を減らすのは手抜きでしかないが、質を上げて時間を減らすのは、奨励すべき創造的怠慢である。


そうして希少性のある資源を節約し、新たな活動の余地を創造してこそ、初めて労力や時間の「利益」が生じるのであって、闇雲に動き回る働き方は、いかに表情が必死で汗を流していても、やはり「不真面目」である。

それは体が動いているだけで、頭は動いていないということでもある。


印象的な真面目さと実質的な真面目さの間には、時としてこうしたギャップが生じる。だが、マルクス直伝の「労働価値説」を信奉するわが国の多くの社会人は、投下時間や投下努力に価値があると信じて疑わない。


映画の宣伝でも、「構想五年」、「制作費一○○億」とでも聞けば、それだけで「じゃあ、絶対にいい作品だ」と考える人も多い。


ちなみに、公務員にも、共産主義的労働倫理の信奉者は多いのではないだろうか。でなければ、あれほど期限を引き延ばし、予算を使い切るような時代錯誤の発想ができるはずがない。難関と言われる公務員試験に、財務諸表のテストはないのだろうか。


わが国で最も頭が良いはずの人たちで構成される政府が、世界に冠たる借金を築き上げたことも、わが国のエリートが社会主義的価値観を信奉している何よりの証拠だ。


ここ数年で、すっかりわが国最大の課題として定着した「少子高齢化」の問題についても、確かに出生率が少ないことは大きな問題だが、その解決策として、マンパワー、つまり頭数ばかり揃えて補おうとする発想は、社会主義的とは言えないだろうか。


通常、経営資源が制約を受けると、生産性が向上するものである。人手が少なくなる問題は、経営ではなく政治で解決すべき問題ではあるが、一人一人の生産性を上げることは、政治や学校教育の力では難しい。経済教育や会計教育こそ、少子高齢化に対する、目立たないが有効な改善策ではないだろうか。


わが国はつい最近まで、国立大学を中心にマルクス経済学ばかり教えていて、ここまでの経済成長を達成したのだから、ここで「経済考古学」を教養課程に移してまともな経済学を学べば、まだまだ発展の余地はいくらでもあるはずだ。



■会計的無知は「体験万能」の唯物主義を呼び覚ます


およそ、仕事における本当の価値は節約時間や節約努力にあり、未だかつて、余計時間がかかるようになった、余計お金がかかるようになった、という新商品にお目にかかったことはない。


トヨタが「馬車」を作っても誰も買わないだろうし、松下電器が「川専用洗濯器具」を作っても誰も買わないだろう。そういう性質は問題解決、つまり資源の最適化には何ら貢献せず、生産性の低下や問題の複雑化しか生まないからだ。


価値、つまり収益は、いつも節約と創造から生まれる。


だが、時間がかからないこと、あるいはクールな表情で手際よく済ませることは、会計的視点が欠如した人々からは、往々にして「怠慢」、「手抜き」と見なされる。


会計的未開状態にある人、つまり、唯物的な指標に従って現象を認識する人は、時給や月給、あるいは残業代という投下時間や所要時間によって収入を測る思考基盤を持っているので、こうして矛盾した発想で苦しむのだろう。


したがって、会計が分かる人の仕事はスピードが上がり、完成度も高くなって、かつ、資源配分も最適化されて収益も上がるが、会計が分からない人は、熱意や努力を感傷的に解釈して単調に仕事に当てはめがちなので、能率も成果も上がらず、時間と労力を食う。そして、不振を環境や景気のせいにする。


会計という経営や仕事のルールが分からない人が、儲かっている人を疑い、嫌い、嫉妬し、「金持ちは悪いことをしている」という共産主義的価値観になびいていくのは、いたって自然なことである。


わが国には、要領は悪くても性格は良い人が多い。そうした人々が、頑張っても給料がそれほど上がらない現実の責任を転嫁して、「まじめな人は報われない」、「正直者はバカを見る」、「正しいのは貧者と弱者だけ」という自己正当化を図って自己満足に浸るのも、やむをえない。


会計が分からない人の頭の中には、固定資産や資本の欄が存在せず、仕事における本当の賢さが理解しにくいからだ。


だが、誰しも現実に対しては何らかの納得をしなければ生きていけない。そしてどうせなら、自分が傷付かない解釈ができれば都合がよい。そこで、可視現象や表情、投下時間で労働の価値と質を測定したがるのだ。


あるいは、金持ちやできる人の愚痴を言って願望との誤差を埋め合わせる。これなら、自分にとって都合の良い情報とだけ付き合えばよいので、手軽に自尊心を満たせる。


久しぶりに乗った体重計の針が、以前より五キロも多い数値を指しているのを見れば、本当は自分が太っただけなのに、「この体重計、壊れてる!」と反射的に感じる人も多いだろう。


ヒトラーは「人は気に入った情報しか信用しない」と言った。わが国の社会人にも、日々反射的に現実を処理し、自分の願望に合致する情報ばかり集めて、無意識のうちに自分の意見を作り上げていく人は多い。


確かに、強者や富者には正しくない人もいるだろう。しかし、だからといって弱者や貧者が正しいということにはならない。


成果が上げられない人は、往々にして最後は「人間性」という数値化できない砦に立てこもり、この一点においては自分は誰にも負けない、誰が何と言おうと自分は頑張っている、などと意地を張る。そして、ますます他人のアドバイスを受け入れなくなっていく。


このように、本質と関わらない嫉妬や反感によって組織が分裂すると、大事な課題に対して社員の団結が図りにくくなり、場合によっては深刻な対立や損失が生まれることになる。


分裂と嫉妬、憎悪は社会主義思想の種である。組織にこの思想の種が胚胎し、芽が出れば、その駆除は難しく、成長は速い。


意見の相違や失敗はどの組織にでも起こりうることであり、大事なのはそれを団結や改善のチャンスにできるかどうか、ということだ。そのためには会計的視点を全社的に共有し、部署別、世代別、業務別に相互理解と尊重を図る社風を作ることが欠かせない。


会計的真理とは所得や借金の額によって左右されるものではなく、社会的地位や苦労によって増減するものでもない。数字だからといって、それが合理的で非人間的な指標というわけではない。財務諸表は人間性の調和を数値化、図表化したものだ。


儲けていないことをもって自分は正しいと言いたがるのは、大抵の場合、ただの感傷主義か倒錯心理に過ぎないのではないだろうか。「貧困が人格の高さを証明する」と言う人は、もっと損をして今よりもっと正しい人間になるために努力すべきだ。


そういう人に、「あなたは正しい!悪いのは金持ちだ」という悪魔の誘惑をささやくのが社会主義である。人は窮地で自分を肯定してくれる人を疑うことがなかなかできない。そして、自分の哲学を持っていない人ほど、こういう時に甘言に乗せられやすい。


「あなたは正しい」。これほど恐ろしいささやきがあるだろうか。励ましの一方で、やはり短所や不足もきちんと教えてくれるのが、良い友人ではないだろうか。



■大学生でも理解できる「本当の仕事」の話


私は毎年、就職活動を控えた学生たちに、仕事における本当のまじめさと喜びについて考えてもらうため、次のような簡単な例え話を使って理想的な就職のあり方を説明している。


複雑な会計用語など一切用いる必要がなく、中学生でも分かるくらい簡単な言葉で仕事の本質を説明しているので、無用のストレスに悩む部下や同僚、あるいは新人社員、学生へのアドバイスに活用していただければ幸いである。


アリは毎日、暑い日も寒い日も、エサを見つけては巣に運ぶ作業を繰り返す。それに反して、キリギリスは怠け、後で損をしたという。


だから「アリのように、地道な努力をするのが大事ですよ」と教えるのが共産主義的教育だ。地道な努力と継続の価値は否定しないが、世の中にはアリとキリギリスしかいないのだろうか。

例えばクモはどうだろうか。クモは巣を持たないうちは、アリのように自分の努力でエサを探し、生活を成り立たせる。


しかし、クモはアリと違って創造的な怠け者であるため、「いつまでも自分でエサを探すのは嫌だ」と考える。だからクモは、アリが寝静まってからも、どこに虫が集まるか、どこなら雨風を凌げるか、どこなら巣が張りやすいかを注意深く観察し、日頃の仕事に加えて、巣の準備にも力を入れる。


生活のための仕事と財産のための仕事を並行する努力は並大抵のものではないが、クモは長期的視点を持って巣を建設し、徐々に巣が完成してからは、エサの捕獲という収入確保のための行為を巣に譲り、自分の経営資源を少しずつ「肉体」から「資産」に移転させていく。


結果的にはクモの労働、つまり「支払い」は完全に巣によって果たされるようになり、クモは「お金が増えるほど時間が空く」という生活を手に入れる。綿密なマーケティングと商品開発によって設計・建設された巣という固定資産は、日々多くの入居者を招き、クモはそのうち、アリの一日の収入以上の収穫を得るだろう。


空いた時間は次の巣の建設に充てるもよし、あるいはアリを雇って他にも適当な巣の建設場所を探させるもよし、である。


しかし、巣によって生活しているクモは、外見上は何もしていないように見えるため、アリの嫉妬や批判を受けやすい。アリは「クモはずるい」、「クモは怠け者だ」、つまり「クモは働いていない」と言うだろう。


自分とは違う考え方によって仕事をとらえ、自分とは違う収入形態を実現したクモを見て、会計を知らないアリは、ただ恨み、批判するだけである。


アリにとっては、まじめなつもりの自分がクモほど報われず、クモより苦労していることは受け入れがたい事実であるため、「クモは悪いことをしているのに違いない」、「儲けても、クモのようにはなりたくない」、「クモほど不真面目で世の中の害になる奴はいない」と考えて、不満と嫉妬に支配された日常を送るのは明らかである。


アリにとって、クモは「働かざる者」にしか見えないのである。そんな奴がのんびり食っていることは、許せないのだ。


一方、クモから見れば、毎日一生懸命で、夏も冬も休まず汗を流し、しかも毎年、同じ働き方を繰り返しているアリほど「不真面目」で「働いていない」人々はいない。


クモから見れば、アリこそは正真正銘の「働かざる者」である。しかし、会計的無能、つまり矛盾に鈍感であるアリには、クモの働き方や収入基盤の本質を見抜くことはできない。


そんなある日、強い台風と長雨で、路上のエサのほとんどが飛ばされ、流されてしまうという事態が発生し、アリ界に深刻な不況が起こった。いつもまじめに働いてきたつもりのアリは、自分たちに起こった災難が許せず、茫然自失の状態に陥った。


そんな時、レーニンというアリが登場し、アリたちが日頃抱いていたクモへの嫉妬や反感を喚起して、「おい、実はクモの野郎がエサを買い占めているらしいぞ!あの野郎は日頃ブラブラと巣の真ん中で寝ていながら、今回の台風でも被害を受けず、今ものうのうと暮らしていやがるらしい。働かざる者、食うべからず!クモを打倒して、奪われた食糧を我々プロレタリアートのもとに取り戻すのだ!」と叫んだ。


アリたちは自分たちの不満の原因がクモにあると教えられ、正しくは錯覚し、「働かざる者、食うべからず!」と口々に叫んで、クモの巣を襲撃し、クモを殺してしまった。


しかし、クモを殺した世の中はアリばかりとなり、会計的無能状態の者たちがいかに政府を作って政治の真似事をしてみても、到底うまく立ち行くものではなく、しかも、内心クモを認めていたアリたちも多くいたため、クモに変身したアリたちや、クモになりたいというアリたちの勢いを抑えきれず、アリ独裁国家は空しく崩壊してしまった。ロシア革命およびソ連とは、そういうものであった。


しかし、アリ独裁国家の東方に、資本主義経済がいまだ十分に浸透しない国があり、その国では、独裁国家が崩壊した後もレーニンの教えを守りながら、学校教育や仕事を行っているという。


親は「働かざる者、食うべからず」と教え、学校でも「汗水たらして毎日一生懸命なのが一番だ」と教え、頭脳に汗をかくことや、人の雇用を生み出す仕事は仕事と見なさない人々も多い。彼らの職業観は、純粋に可視的、つまり唯物的に視認できる「体の動かし方」や「熱心な姿勢」によるばかりで、中には働くこととお金を切り離すことが高尚だと考える人さえいる。


かの国では、どの学校を卒業しても「初任給」の額はそれほど変わらず、税金で建てられた国立大学では社会主義的価値観を注入し、終身雇用、年功序列、企業内労働組合という社会主義ギフトパックを「日本型資本主義」と呼び、腐敗官僚が跋扈したソ連や中国が羨むほど、官主主義が浸透した。


今は亡きレーニンも、まさか日本で自分の教えに忠実なアリたちが生まれるとは予想せず、さらにはレーニンの師であるマルクスも、自分が軽蔑したスラブ人の国や、人間とは認めなかったアジア人の国に自分の思想が普及するとは夢想だにしなかった。


共産主義は、未開地域と未開人の頭脳に熱病のように広がった伝染病であった。それは、お金と会計を理解しない人々の頭脳に、嫉妬という対価の代償として注入された疑似科学、ないしは幻想文学であった。


 以上の内容を簡単に話すと、学生たちはアリとクモの働き方、双方の利点をすぐに理解して、「クモを目指してアリのように働きたい」と言う。その瞬間、悶々としていた将来像は晴れ始め、自らの目で、何が情報で何が情報でないかを判別できるようになる。


「働かざる者、食うべからず」は確かに真実ではある。生産者即消費者となるのが貨幣経済の特徴であるからには、社会問題の解決による報酬の獲得は、社会人の務めである。しかし、「働くとは何か」を理解しておかなければ、「働いても食えず」となりかねない。


「働く者」が食っていいなら、「仕事を作り出した人」も食っていいのは当たり前のことだ。


今、楽をしているように見える人の多くは、そうなる前に並々ならぬ努力をしているものだ。楽をしている人々を批判したいなら、せめて、真似できる能力を身に付けてからにしてはどうだろうか。世の中にはオリジナルより難しい真似もあるものだ。


マルクス、エンゲルスは「全ての価値は労働から生まれる」と言ったが、こんな理屈を信じるのは貨幣経済を体験したことがない人間だけだろう。「働く者が一番偉い」という思想は、顧客や経営者の存在を軽視している点で、結局は「働く者を一番大事にしない思想」とも言える。


そして、わが国にも今もってこのレベルで仕事を認識している若者が多い。会計的視点に根差した職業教育が、教育や仕事、産業、経済の底上げに必要だと提案するゆえんである。

今日もお読みいただき、ありがとうございます。 

ただ今、教育・学校部門360位、就職・アルバイト部門268位です。

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