皆さまこんにちは、たいようこと、田川 紘史と申します。
現在ケータリングシェフをさせて頂いています、1987年生まれの31歳。福岡市在住で生まれも育ちも福岡です。
私は生まれつき、二分脊椎という5千人の出生に対して1人の障がいを抱えています。現在は車椅子で生活をしています。
2歳から歩行訓練を始めて、私がようやく歩き始めたのは、小学校にあがる少し前で、その前から親戚一同は、私を養護学校(現:特別支援学校)に通わせようとしましたが、母親だけが一貫としてそれを聞き入れず、市や県と掛け合い、小中は普通校に通いました。今のように特別支援学級ってものもありませんから、クラスも他の健常児の混じっての普通学級で授業を受けていました。体育の時間も皆と同じように授業に参加をし、水泳の時間だけ、見学をしていました。
私が小学生の頃は土曜日は隔週だけが休校で、その休校となる前日のとある金曜日の夜に、金曜ロードショーのあと、何気なくテレビの別のチャンネルをつけたら、当時絶大な人気を誇ったTV番組【料理の鉄人】の放送があっていました。そこで闘っていた鉄人が、フレンチの鉄人 坂井 宏行シェフでした。そこで目にした坂井シェフの料理がとても美しく、その回でも劇的勝利をおさめたように記憶しています。
私も男の子ですから、戦隊モノのように強いものは大好きで、
既に感動をした料理で、さらに坂井シェフが勝ってしまったものですから、その瞬間から私は料理の鉄人という番組にどハマりをし、毎週観ていました。
もちろん和の鉄人の道場さんも、中華の鉄人の陳さんも、皆さん素晴らしい料理人である事には間違いないですが、当時の私には、フレンチの鉄人だけがとても強くて格好よく見えました。
影響を受けやすい私は、学校が休みの土日には、冷蔵庫の中から使えそうな食材を探し出し、自ら台所で料理を作るようになりました。その姿を観て母は「火が怖い」「油が怖い」「刃物が怖い」と感じていたようです。
私は3人兄弟の1番上で、私の母は、弟が生まれた後に1回、妹が生まれた後に1回、2回の離婚を経験しています。
料理の鉄人を観ている中で私は、いつか料理人になろう。坂井シェフの元で修行をして、自分のお店を持とうと決意しました。のちに親や親戚にもその決意を打ち明けますが、当然猛反対。しかし当時の私は、普通校に行き、普通に勉強も出来て、家では母に変わって、家事や洗濯もやっていましたから、なんら自分に障がいがある事など感じていませんでした。
絶対やる。絶対出来る。と思っていました。
小学校の高学年も近づいてきた頃、私はクラスの中で、学校の中で、イジメといえば大袈裟ですが、周囲から意地悪をされるようになりました。物が隠され、クラスメイトの物が私の机にあり、犯人扱いをされるようになり、学校に行っても全く面白いとも思わない。そんな思いをしてまで、今思えば関係なくもないですが、当時は関係なく思えた、歴史の人物がどうとか、作者の気持ちとかの図形の面積がどうとかの授業を受けるより、料理を作って勉強した方がよほど良いと思っていました。私は不登校になりました。
中学にあがる頃、私は学校に対してひとつの希望を見出していました。保育園時代の仲の良かった友達が中学では一緒になる。学校生活も楽しくなるだろう。と…。
中学に入ってももちろん、小学校時代の子たちからの意地悪は止みません。それどころか、保育園が一緒だった友達まで一緒になって、意地悪の規模がさらに拡大しました。
よし、もう学校に行くのはやめよう。再び不登校に。
そこから卒業までの間、私は料理のこと、坂井シェフの事を一生懸命独学で勉強しました。高校も一応は通信制の学校に通いましたが、やっぱり料理の事を勉強する事の方が楽しくて、3年で中退。一時は調理師専門学校に行く事も目標にしていましたが、まず、車椅子で料理人を目指す人も珍しく、通路幅や作業台の高さ等、ハード面の問題で厳しいとされていました。
話は中学3年の夏まで1度戻りますが、中学時代も相変わらず、中学を卒業して、坂井シェフの元で…という気持ちは常にありましたから、中2の頃から今度は、坂井シェフに対しての猛アピールが開始されます。
料理人になりたい。弟子として遣って欲しい。キッチンに入れてくれ、そばで仕事をさせて欲しい…。
何通も手紙を書き、履歴書を書き、電話をかけ。
そうして訪れた中学3年の夏。
『今度福岡に行くから、その時逢おうよ』と、坂井シェフから直々に連絡をいただきました。
そして約束の日に、初対面で『坂井シェフの元で料理人になりたい』と直談判させて頂いて、やはりのところ、「車椅子でキッチンは難しいよ。厳しいよ。」との返答でした。だけどその面談の中で【フードコーディネーターになりなさい】
「フードコーディネーターになって一生懸命頑張って自分のキッチン持ったら、一緒に仕事出来るから」と激励を頂いて、翌年にフードコーディネーターの資格を取って、晴れて飲食業界人としてデビューをしました。今日で15周年になります。
その後も、坂井シェフのお店以外にも数々の飲食店、飲食業界の会社等、他業界の会社にも面接を申し込むも、階段やトイレの問題、通路幅、作業台の高さなどで、なかなか、修行が出来る職場との出会いがありませんでした。
もちろん過去には飲食以外の分野で就職をした経験もありますが、就職活動を始めた10代20代でようやく自分が障がい者である事を実感、自覚しました。
でもやっぱり私自身ずっと料理人を夢見てきた。就職活動でも散々、ツライ思いもした。だったら自分で出来る範囲で出来る事をまず始めるしかないと、飲食店向けのメニュー開発や、たいようブランドの商品のプロデュース、車椅子ユーザーである事を武器に店舗のバリアフリー化に向けての提案、障がい者向けの寝たきりでも出来る料理教室を展開してきました。ある期間においてはフリースペースのキッチンで料理を作り、ランチの提供をするお仕事をさせて頂きました。
だけどやっぱり、他人様のキッチンで私が料理人として立ち続けるのは並大抵ではありません。
これはもう自分のキッチンを作るしかない。自分のキッチンを作って、かつて料理人をしていた何かしらが原因で車椅子ユーザーになってしまった人、これから料理人を目指そうとしている健常障害問わずの人、食べること作ることが好きな障がい者が、お食事やあるいは料理教室に。特別支援学校の卒業生の就職の受け皿に。そんな思いを抱いて、細々とケータリングシェフとしてお仕事させて頂いておりますが、恥を忍んで皆様にお願いがあります。
どこかの飲食業界に就職した事もない全てが独学で、ましてや障がい者で、ランチ営業をしたり、料理教室をしたり、メディア露出をした経験、それも一瞬の事で、資本金もわずかで、2000万3,000万という大金を銀行や国が融資をしてくれるはずもなく、ただ料理家として生きてきたこの15年の知識と経験と人脈それしかありません。
昨今は、インターネット上で投資を募るクラウドファンディングなどもありますが、ご投資をして頂く方にもサイト利用の登録をして頂く手間が少々あります。クレジットカードを持っている事だったり、様々条件もある場合がございます。場合によってはご投資頂いても、そのお金をそのまま受け取れるかといえばそうでない場合もございます。投資を受ける側も投資金額からの手数料を支払ったりなど、私の勉強不足なところもあるでしょうけど、私の個人的の印象としてもまだまだクラウドファンディングに着手するには、ハードルが高いようにも思えます。
ですから、まずはこの記事を読んでご賛同頂ける方から、大変ご無礼ではございますが、ご協力をお願い致したく思っています。皆さまにとっても大切なお金なのは承知の上で、ぜひ小さな小銭で構いません。ご協力頂けないでしょうか。
人生において、知識も経験も浅はかな、31歳と若輩者ではございますが、私が師と仰ぐ、坂井シェフも来年には喜寿を迎えます。私の中で後3年間を勝負の期間として、師の恩に応えるためにさらに精進していかなければと思っています。
是非よろしくお願い申し上げます。
ゆうちょ銀行
17400-96869211
タガワ ヒロシ