時間を作って、またも長篠~設楽原に行ってきました。
今回の目的は、欲しかった書籍の購入と、前回・前々回の探訪で見つけられなかった史跡を見て回ることです。
まずはおなじみ長篠城址史跡保存館。
ここでは長篠の戦いに関するたくさんの書籍が売られているので、 その中からあらかじめ決めていた3冊を購入しました。
この長篠城址史跡保存館や設楽原歴史資料館、そして設楽原をまもる会が出しているこれらの本は、一般の書店には並んでいない本ばかりなので、史料としても貴重です(興味のある方は、新城市のホームページで書名のリストと購入方法がご覧になれますので是非)。
目的の本を無事に手に入れ、早速史跡めぐり開始です。
まずは前回会社のKさんやSさんと来た時に行けなかった場所のひとつ、大通寺の「武田四将 水盃の井」です。
ここでは、開戦に反対した武田の重臣、山県昌景、馬場信房、内藤昌豊、土屋昌次の4人が、開戦と決まった軍議の後、戦いの前夜に、「これが今生の別れだ」と最後の水盃を交わしたと言われている場所です(その約束通り、4人はそれぞれ壮烈な戦死を遂げました)。
ここは20年ほど前にも来たことがあるのですが、今も僅かですが水を蓄えていました。
続いて訪れたのは、長篠城跡近くを通る国道257線の有海の交差点(だったかな?)のすぐ近くにある松平伊忠(これただ)の戦死の地の碑。小さな石碑なので、看板がなかったら通り過ぎてしまいそうな場所です。
松平伊忠については何も予備知識がありませんでしたが、徳川方の武将での数少ない戦死者(城主級では唯一らしい)です。
設楽原の戦いの時に別動隊として鳶が巣山襲撃隊に加わっていた伊忠は、敗走する敵兵を追撃していたところ、さらにそれを追ってきた武田勢との間で挟撃され、討ち死にしたとのことです。
続いて、そこから更に国道を北上すると、武田の重臣・馬場信房と、馬場勝行の墓がありました。こちらも初めて来ます。
馬場信房の墓は長篠城址近くにもありますが、何故ここにもあるのかは分かりません。
その信房の墓と並んで墓が建てられている馬場勝行と言う人は、前回購入した「設楽原戦場考」(設楽原をまもる会発行)によれば、武田信玄の重臣だった板垣信方の子だそうで、馬場信房が親交のあった板垣の子を引き取り、子としたのだそうです(養子みたいなもの?)。
その勝行も、この戦いで戦死。勝行のこの墓は、平成10年に地元有志と設楽原をまもる会によって、養父・信房の墓に寄り添うように建立されたのだそうです。
ちなみにこの設楽原の戦いでは、馬場信房、勝行だけでなく、信房の四男と五男、そして長男の子(=孫)も戦死しているそうです。
…画像が貼れなくなったので続きます。
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