社会活動に取り組む人になぜ「聖人君子像」を求めるのか?…聖人君子でなければ「裏がある」 | 現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。

現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。

個人投資家向け収益不動産検索サイト e-不動産販売公式アカウントです。
マンション経営、アパート経営でお困りの大家さん、収益不動産購入に伴う銀行融資などの不動産投資相談をお受けします。最新の賃貸経営は日々進化しています。一緒に勉強しましょう。

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-1

週刊ダイヤモンド http://diamond.jp/articles/-/16860

社会活動に取り組む人に
なぜ「聖人君子像」を求めるのか…聖人君子でなければ「裏がある」

社会活動に取り組んでいる人に、聖人君子像を押しつけるきらいがないでしょうか… 善意の社会活動と少しでも矛盾しているところが出てきた瞬間にことさら取り上げ、彼らが行っている活動そのものまで否定する傾向が見られます。

たとえば、社会活動をしている人が酒に酔って女性を口説いたり、合コンに繰り出したりしようものなら、即座に批判が飛び交います。

「やっぱりアイツは女遊びが好きで、アイツがやっている社会活動はこういうことをやるための手段だったに違いない」

社会活動をする人が聖人君子でなければ、「何か裏がある」「どこかからお金が流れている」と見られてしまう風潮です。それがお金なのか名誉なのか女なのかはともかく、自分の欲望とは無縁の社会活動などあるわけがないという、不信感が非常に強いのではないでしょうか。

これらの活動を仏教やキリスト教など、宗教的な信念から行っている人であれば、周囲から批判を受けることなく意外とすんなり認められます。また、家族や友人などが不幸な目に遭った人がそれらの活動をするのであれば、わかりやすい動機として受け入れられるようです。

しかし、そうした背景のない人がお金や名誉のためではなく、あえて損な役回りを引き受けることなどありえないと考えられてしまうのでしょうか。むしろ、裏がない人は怖がられる存在なのかもしれません。

社会活動をしている人は、決して聖人君子ではありません。

聖人君子である必要もまったくないと思います。しかし、聖人君子でなければ何か裏があると見られてしまうと、これは現代の不幸と言わざるを得ません。


純粋に活動している人が叩かれるニッポン
元内閣府参与で反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠さん。現内閣府参与で自殺対策支援センターライフリンクの代表を務める清水康之さん。

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-2

お二人ともマスコミで脚光を浴びている方々ですが、お付き合いしてみて感じるのは、彼らがお金や権力や名誉に対する欲がまったくなく、貧困に苦しむ人、自殺に追い込まれる人を何とか減らそうという純粋な気持ちで活動しているということです。

しかし、湯浅さんも清水さんもときに多くのバッシングを受けます。

「純粋な気持ちだけでやっているはずはない」
「あいつらは政府に取り入ろうとしている」

特に、湯浅さんは「派遣村」でスポットライトを浴びてしまったため、叩かれることが続いているといいます。もちろん彼らも完全な人間ではないので、落ち度もあるでしょうし、誤った行動もあるかもしれません。また、社会貢献をしている人というだけで、無批判になるのも健全とはいえません。しかし、果たして彼らは多くの人に集中砲火を浴びるようなことをしたのでしょうか。

内閣府参与は、個別の部屋が与えられるだけで無給です。活動のベースとする組織からも十分なお金を得ていません。何かイベントがあったときでも、その後の打ち上げは安い居酒屋でつましく開く程度にすぎません。

湯浅さん、清水さんはバッシングに対して「傷つきますよ」「ヘコみますよ」と正直に吐露しています。言いたいヤツには言わせておけ、何を言われても気にしないという頑固な姿勢ではなく、私たちと変わらない普通の人間が自然体で活動しているだけなのです。

かつての社会活動家のなかには、自分は正しいという妄信的な信念があり、それを表に出すタイプの人がいました。彼らの多くは、自分の活動を誇らしげに語り、周囲を巻き込もうと積極的にアピールします。

しかし、湯浅さんも清水さんも自分の弱さをよく知っていて、しかも「みんなも私たちと同じことをするべきだ!」と押し付けるようなところがないのが、新しいタイプの社会活動家です。

マスコミの人に聞いても、彼らは取材してほしいとも言わず、取材に行っても取材陣を強引に引きずり込むようなことはしないそうです。批判する人たちから見れば、かつての社会活動家の類型に当てはまらないところが得体の知れないところなのかもしれません。

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-3


すべてのことはマーケティング的に動いている?
あまりに古い話で恐縮ですが、1980年代から90年代にかけて、テレビが変わったという印象があります。「夕やけニャンニャン」や「オールナイトフジ」などの番組で、製作側の裏側を隠さずに番組に出すようになったことです。

番組に出るタレントも「スポンサーはこう言っている」「一番偉いプロデューサーがこうしたがっている」「広告代理店の力が強い」ということをわざと表面に出して面白おかしく演出していました。これによってテレビとは、制作者が本当に見せたいものを見せているとは限らず、いろいろな立場の人や会社の意向や思惑によって決まるという「裏側」を一般の視聴者に見せたのです。

視聴者だって、番組製作の裏にはいろいろあることは察していたことでしょう。それをあえて前面に出すことによって、番組がより身近なものへと変わっていくとともに、裏を読むということが当たり前のようになってきたような気がします。

この「物事には必ず何か裏がある」という傾向は、2000年代に入るとネットによってさらに増幅されたように感じられます。

「世の中すべてのことには、公式には言えない裏の事情がある。ネットでは、そういう情報を手に入れることができる」

現代の人々には、人や物事は何か隠された事情によって動いているだろうという考えが根強く浸透しているように見えます。


批判者には「利他的にふるまいたい」
という良心が潜んでいる?

この世の中にいる人の全員が全員、社会活動に熱心に取り組む人になるということはあり得ません。また、その必要もないと思います。

多くの人は自分の生活で手一杯。そのなかで少しでもお金が欲しい、モテたいと思いながら生活していてもまったく構わないと思います。

にもかかわらず、懸命に社会活動に取り組む人をなぜ批判するのでしょうか。

おそらく、純粋な意思で社会活動をしている人が本当にいるとなれば、何もしていない自分が否定されたような気分になってしまうからなのかもしれません。

「おまえはなぜ活動しないんだ?」
「おまえは自分のことしか考えない欲深な人間だ」

そう言われているような気がしていたたまれず、「裏がある」と批判することで「アイツのほうがもっとひどいじゃないか」と自己を正当化したいのではないでしょうか。

もっとも、こういう人は自分も何かしろと迫られているように感じるからこそ過敏に反応するのだと思います。

何らかの社会活動をしなければならない。自分のことだけを考える利己主義になってはいけない。社会の一員として利他的なことをしなければならない。

いろいろな事情があって今は自分の生活を成り立たせるので手一杯だけれども、できることなら利他的に振る舞いたい。批判を浴びせる人たちは、潜在的にはこうした良心的なこころを持っているのではないでしょうか。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
海外展開に伴い協力会社を募集します。語学力があれば起業を考えている方でも大歓迎!…お勤めしながらの週末起業でも十分可能かと……気軽にお問合せ下さい。…詳しくは⇒http://ameblo.jp/e-fh/entry-10863926030.html

当社は、一棟マンション、一棟アパートを専門に取り扱う不動産会社です。
[twittre http://twitter.com/e_fh ]
[facebookフアンページ http://www.facebook.com/efh.toushi ]
[e-不動産販売 検索サイト http://www.e-fudousanhanbai.com ]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー