お久しぶりです。
長らくブログを更新していませんでしたが、ブログを忘れていた訳ではなく、文章を書いてもまとまらず下書き送りになることが続いたのが原因です。
今回も決してまとまった記事ではないと思いますが、まだ僕は存在しているぞという生存報告としてこちらをあげたいと思います。

さて、前回から時は経ち僕は大学生になりまして、サークルに入ってから始めたマジックを趣味としてちょくちょくやりながらレポートやらテストやらに追われる他の大学生とそれほど変わらない日々を送っています。
大学生になる前に抱いていたキラキラしたキャンパスライフみたいなものはあまり送れていませんがそこそこ毎日楽しいです。
キラキラしたキャンパスライフでふと考えましたが、僕が一番「キラキラした毎日」を送っていたのはこれまでの中では高校時代だと思ってます。
理由としては今の所人生で一番好きになった彼女がいたからです。
高校を卒業してからそつなくして別れてしまいましたが、今もたまに思い出してはちょっとセンチになるくらいにはあの頃は大好きで、そんな気持ちに包まれてた高校時代はすごく青春でした。
文章書いてる今もその頃やらかした諸事情を思い出しては恥ずかしくなっているのですが、まぁ今となっては良い思い出です。あの頃の自分よりは成長しているはずなので今の自分はやらかしてないと信じつつ、ある種の戒めとして青に近い春のような大学生活を送りたいと思います。

やはりまとまらなかったのですが、今回はここら辺で締めときます。次回はもう少し間をあげずに投稿することを意識しておきます。

最後になりますが、もしこれを見ている知り合いの方がおりましたら是非連絡下さい、飲みにでも行きましょう。
それでは。
NHKの再放送だが、90年代のサブカルを語る番組を観ていた。
僕が生まれたのは90年代の真ん中で、人として意識的に生きられるようになったのはミレニアム直前くらいなので殆ど90年代に生きていないのだが、確かにその時代にその場にいて、小さい手でゲームボーイでポケモンをやっていた。
今、2015年から見てあの頃を思い返すと、全てがまだぎこちなく全てが「画質の悪い」時代ではあったが、「画質の良い」今に比べて、どこか温かみのある良い印象が頭に浮かんでくる。
こう思えるのは、昔だからだろうか、それとも本当に今に比べて良かったからだろうか。
何を基準に良い悪いを決めるのは人それぞれだが、おそらく前者であろう。ゲームにしてみても今のゲームは殆ど「もう一つの現実」となっているようなものもあるくらいだし、昔に比べて発展はしている。良化していると言えるだろう。
何故、僕は(人は)一般的に昔を良しとするのだろうか。昔だって今と同じくらいトラウマなことや悩みやらがあったはずなのに、何故。
「人は辛いことや悲しいこと時が経つと忘れるものなんだよ」という感じのことを様々なところで聞くが、僕はそれは違うと思う。僕は小学2年の時クラス全員が見ている中、先生に怒鳴られたことを昨日のように思い出せるし、泣いたことも一つ一つ忘れることなく思い出せる事ができる。忘れないのだ。忘れないから、相対的に昔になればなるほど楽しかったことが大きくなるわけではなく、昔が記憶上でどんどん良くなることはないとも思っている。
多分、この答えは「思い出」という言葉にある。
「思い出」という言葉は昔にあったマイナスなこともプラスなことも全てひっくるめて、なんか良かったんじゃね?と思わせてしまう魔法の言葉だと僕は考える。僕としては「思い出」という言葉が昔を美化しているから昔が良しとするのだと思うのだ。
そう思うと、「思い出」という概念の無い世界があるとしたら、その世界は常にパンドラの箱が開けっぱなしになっているような、人々が昔を枷にして生きている世界であるのだろう。
今僕がこうしてこの国語力や文章力の無い文章を書いているこの時も、この瞬間から「思い出」というパンドラの箱にしまわれているのなら、いつかこの箱を見て良いと感じられる時が来るに違いない。
いつしか良かったと思う日々、僕は今日も今日を生きていこう。

丁度1年前のこの日、ブログを更新していたことをふと思い出して、なんとなく更新しようかと思い、またこうしてブログを書いている。

昨日20歳になった。だからと言ってポケモンの進化みたいに翼やポンプが生える訳でもないので特に変わらないのだが、お酒やタバコが買えてしまう年齢に遂になってしまった。お酒はともかくタバコは吸うつもりはまるで無いので微微たる変化だが、一般的に考えると20歳になるということはむしゃくしゃするほど大きいことだろう。

成人式というものがやってくる。僕はクズ野郎の身分故出ないが、20歳になった事を祝うもの、ないし軽い同窓会みたいなものがやってくる。正直に言えば僕もマトモに過ごしてさえいれば行きたかったと思っているので少しばかりグラグラした気分である。

高校を卒業してからこの胡散臭い生活が2年となったが、日々勉強していく中で思うことは、自分自身が賢くない、ということだ。もとから賢いと思ってはいなかったが、こうも賢くないと自分の人生を反省せざるを得なくなる。

もっと賢くなりたいと、賢くなりたかったと思う。恐らく賢ければ、2年もこうして夢でもものを追いかけるようなことをしなかっただろうし、もっと賢ければ、未だに忘れられないこともしっかり忘れるだろうし、未だに隅っこで残ってる好意をさっさと消し去ることが出来ただろう。

しかしながら、僕は賢くなくて、未練がましい酷い出来な人間だ。こんな自分をもし変えることが出来るとするなら、それはもう自分じゃない誰かになることなのだろう。自由になるとはそういうことかもしれない。

20歳は成人、大人に片足突っ込んだ年齢である。大人になれば与えられるという責任の伴う自由。僕にも自由がやってくるのだろうか。変わらない何かの中で代わる代わる思考しつつ、来年の今日に想いを馳せる。