1.

 まだ成熟仕切っていない麦が、夕日で一斉に金色に光ったのも束の間、予感の通りに空からは大粒の雨が一斉に降り注ぐ。
 僕は一人遊びをやめて、誰も居ない筈の薄暗い農具庫に慌てて避難した。麦畑の海を遠くまで泳いで行ってしまったゴムボールの事も気になったけれど、今取りに行くのは得策じゃないだろう。
 農具庫から家までは大体歩いて10分くらい。もちろん、風邪をひくような季節ではないし、走ればすぐだけど、雨で段々に冷えていく農具庫の、少しカビ臭い空気がいつもとは違う感覚を呼び起こして僕をそこに留まらせた。
 「誰か居るの?」
 全然誰の気配も感じなかったけれど、なんとなく奥の方にそう呼びかけてみる。何か、人じゃないものが居てもいいな、いや、居たらいいな、という気持ちになっていた。
 返事はなかったけれど、代わりに小さな猫が足元に居る事に気づいた。見かけない猫だったけれど、僕は嬉しくなってそっと手を伸ばしてみる。猫はとても人懐こくて、僕の両手にふかふかとおさまって少し喉を鳴らす。首輪がないから飼い猫ではない?首輪がないとペットではない、というルールは犬だけのものだったかな?なんて考えながら、頬を猫の頭にこすりつける。
 全然濡れてないからここにずっと居たんだな、と頭の片隅で考えていると、僕が入ってきた側のドアが開いて、外に傘を持った大人が3人立っているのが見えた。
 近所の人では多分ないけれど、見覚えがある。猫が少し鳴いて、3人の後ろには暗い空が広がっている。乗ってきたのであろう車のライトが、雨の粒を大袈裟に写しだして、外ではあんなに雨が降っているんだ、とぼんやり思う。やけに沢山の湿気を含んだ風が吹き込んできて、顔をしかめる。少し息苦しいし、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。どうしたんだろう。大人たちが1歩こちらに入ってくるまでが、そして声を発するまでの時間が、遠足の前日の夜のように、遠くに見える街の光のように、長く、そしてじっとりとした重さを持っいて、僕は倉庫の隅の方に追い詰められる。腕の中の猫をしっかりと抱きしめて、そしてこの猫が今ここに居てくれて良かった、と心の底から思った。

 もしくは、そう思ったような気が、今している。

2.

 父の兄が、必要な仕事の殆どを取り仕切ってくれたらしい。慌ただしく、沢山の人が家を訪れた。その間僕は、猫とずっと自分の部屋に篭っていた。夕立だと思っていた雨は3日間振り続けて、僕の雨に対するイメージを悪くしようと試みている。
 ガラスのサッシを流れる水滴と、そこを通して観る、揺れる枝と流れていく雲。まだ自分の置かれている状況が把握出来ない。両親にはもう会えないらしい、という事と、猫を飼える事になった、という事は、僕の中ではどちらも同じくらいに信じられない話だったけれど、猫はまだ僕の腕の中に居て、それだけが唯一、確かだと思えた。
 会えない、と言われてもどうしてそんな意地悪を言うのだろう、程度に考えていたのだけど、いよいよこれはもしかしたら本当かも知れない、と思うようになった。
猫を飼っても良い、という事と両親に会えない、という事は同じ意味で有るようにも思えてくる。
ドアが開いて、おじさんが猫のえさを片手に入ってくる。外では雨が止んで、窓からは溶けるような夕日が差し込んで、紫色に染まった部屋で、ようやく、でも、どうしてなのか、僕は気づいたら涙を流していて、おじさんにみられないように猫の背中に顔をうずめて、答えは最初から知っていたのに、嫌な予感に似た何かが胃の辺りから足の方へ流れていって、早く何か言って欲しい、早く何か言ってそれで終わらせて欲しい、と何にかわからないけれど、少なくとも目の前に居る大人にではないけれど、でも、願った。

3.

 僕は両親のお墓の横に、昨日死んだ猫の亡骸を埋めて、静かに拝んだ。
 雨が止んで、辺り一面のすすきが金色に光る。その紫色の世界で、僕はまた少しだけいつかと同じ涙を流した。
1.
「ずっと黙っておこうと思っていたのだけど…」
 彼女はそれだけ言って黙ってしまったけど、僕はそれが何の話かちゃんと解っている、というのを示すために抱きしめる腕に少し力を込めた。言ってくれて良かった、というのを口で言うのは憚られて、少し間を置いてから、その代わりに頭を何度か撫でた。本当にそう思えるまでには、まだ少し時間がかかりそうだったから。
「それで、今からこんな事を言うのも、変な話なんだけど…」
僕は、もうやめて欲しいと思って、抱きしめていた腕を肩に乗せて体を離した。
「わかってる、大体、どんな事を考えているか。きっと、僕は聞かなかったことには出来ないから、せめて」
涙が鼻の奥に染みて、そこで言葉が一度途切れた。
せめて…せめて何だろう。僕は何を言おうとしたのだろう。
「せめて…本当にそういう風に思っている、という事を、信じさせないで欲しい。疑って、疑いながら、でも他の誰かと生きていくというのに、僕にはきっと、罪悪感が必要で、だから、それを軽くしてしまうような事を、そう、せめて…言わないで欲しい。」
言い切る前に、彼女は一度僕の頬に口づけて、抱き寄せた後、耳元で、殆ど息がもれるような声で、僕に言った。
「罪悪感なんかで、自分が許されていると思われたら、私だってこうやってあなたに今優しくしている甲斐がないでしょう。大丈夫、あなたはもう逃れることも許される事もなくて、そういう世界で、でも誰かと幸せに生きていくしかないよ、そういうものだよ」

2.
 彼女が生きていたなら、と思うことは、もうなくなった。
子供も大きくなって、来年から一人暮らしを始めるという。
しかし、妻と話をしていても、息子と一緒に居ても、彼女の存在を感じない瞬間は一時もない。
これが許されないという事なのか、それとも自分がそう思い込んでいるだけなのかは、まだわからない。
 ただ、こういう寒くて静かな夜にはどうしても思い出してしまう。
この世界から、もう許されることも逃れることもない、と言った彼女の、何もかもを知っているような表情とその声を。
1.

誰かと会話をする時は、出来るだけ相手に近い誰かを自分の中に作り出して、それに感情移入しながら喋るのが癖になっている。
 口にだす前に、そいつに言ってみて、反応を伺ってから実際に口に出すかどうか決める。頭が正常に働いている時には、キャッチボールを3会話先くらいまで行ってから実際に口に出す事が多い。
 それを簡略化するために自分の中に人格のスナップショットをいくつか持っていて、それらからインスタンスを立ち上げる、というところまでは本当にほぼ全自動で行われる。よく知る友人なんかのスナップショットはかなり精巧に作られていて、たまに頭のなかでの会話なのか本人との会話なのかわからなくなってしまうほどだ。

 ぼくが自分が、ひいては人々が、実は相手ではなくて仮想化されたパーソナリティと喋っている、という事に最初に気づいたのは、中学生の頃だった。それに気づけた、という喜びと、自分は一度にそのインスタンスをいくつ作れるのか、という興味で、常に頭のなかに複数のインスタンスを立ち上げて過ごした。
 さらに、自分のパーソナリティを仮想化して、自分の代わりにそいつに喋って貰う、というのもよくやるようになった。そのオートな会話はとっても楽で、相手と喋っている時に自動的に行われる会話と同じ要領で自分が喋るため、全く疲れないし頭を殆ど(意識的には)使わない。慣れてくると、その仮想化された自分のパーソナリティが他人の仮想化されたパーソナリティと会話をして、何手か先まで想定した上で喋る、という事も勝手にしてくれるようになっていた。

 しかし、他人のそれは、相手の反応によってどんどん修正、更新されていくから、常に最新の状態に保たれているのだけど、自分のは自分が楽をするためにやっていたのだから、全く更新されない。自分が反応を返さないから、常に「仮想化された自動で会話してくれる自分」は、最初に作った時の状態のままだった。
 さらに、インスタンスの中の情報は、基本的に海馬まで届かないらしく、会話が終わった後は殆どその内容を覚えてない。だからだんだん、周りの友達と自分の間に、隔たりができていった。当たり前だ、少し前に喋ったことも覚えていないし、喋っている間特に表情も変化しないのだから。
 しかし、当時のぼくはそれが自分が実は相手と喋っていないからだ、という事に全く気づけなかった。気づかないほどに、自然になっていた。

 ぼくのことを、「相手の気持ちを察する事が出来る子供」として認識していた両親は、その変化にすぐに気づいて、ぼくを小児精神科に連れて行った。アスペルガー症候群なのではないか、と疑ったに違いない。当時、その言葉がセンセーショナルな事件によって一般に広く認識された頃だったからだ。何度か受診したが、全くの問題なし、という結論がくだされた。当時のぼくの中には、もちろん「医師」なんてスナップショットはなかったし、オートで会話が出来るほどに簡単な質問は殆どなかったから、当然といえば当然だった。
 両親はぼくの症状のことを「逆人見知り」みたいな名前で呼び出した。医師にもそんな感じで喋っていたような気がする。その頃になって、ようやく自分の何がそんな風な印象を周囲に与えているのか、という事に思い至った。

 それからは結構大変だった。まず、自分の状況を整理して、その「楽な方の会話」は何かを並列して処理している時だけに制限した。最初は普通に誰かと喋るだけでかなり疲れてぐったりしてしまって、その疲れ具合から自分のおかれている状況のまずさみたいなものを思い知った。
 それと、一人でいる時には大体やっていた、インスタンスとの会話を出来るだけしないようにした。これは多分一般に「妄想癖」と呼ばれているものだと思うのだけど、周りから距離を置かれるようになってからの寂しさは常にその方法で紛らわしていたので、これも結構辛かった。

 ぼくの出身地はとても田舎で、とても人数が少なくて、その上いじめなんかも全くないような平和な学級で過ごしていたから、それでもかなりゆっくりと症状を改善する事が出来たように思う。高校生になるころには、すっかり普通に話せるようになっていたし、多少話し込んでもそれだけで疲労困憊してしまう、という事もなくなっていた。


2.

 というくらいの文章なら、仮想化させた人格の一人に自動的に書かせる事ができるようになるくらいに、ぼくはその後もずっと、自分の中の友達とだけ過ごすことに専念した。
 彼らにはもちろん友達や両親も居て、それぞれに別々の思想を持って生きている。彼らを生かしておくためだけの装置として、僕は存在しているし、これからもそうやって生きていくのだ。