わたしのしらなかったこと
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柔道暴力問題、告発選手の実名公表

今日ヤフーのトップページで、女子柔道の暴力問題を訴えた選手について、実名の公表を検討しているというニュース が出ていて驚いた。

こんな事を公表するなんてありえないだろうし、そんなことを検討しようとする日本オリンピック委員会(JOC)や、訴えた選手15人の代理人である辻口信良弁護士は、非常識すぎると思った。


この暴力問題を訴えた選手側は、被害者である。

被害者の情報を始めとする人権を守る事は、こうした内部告発にとって欠かせない。

なぜならば、今後柔道を続けていくなかで、指導者達から上に歯向かう選手だと思われてしまうから。

いくら周りが守ると言っても、人は疎まれながら対応されるだけで、相当なストレスを感じるのだ。

だから、通常企業で内部告発が行われる時は、その人物のプライバシーが守られるのは基本。

ウィキリークスが賞賛されたのも、その匿名性による面が大きい。


裁判を行うのであれば、原告、被告共に名前を出すのは手続き上必要だろう。

しかし、未だ捜査中(調査中)の段階で名前を公表するという事は、事実がわかってもいない状態で、マスコミや柔道関係者に晒されるのだ。

もしそうなってしまったら、本人達の望まない注目を浴びてしまい、訴えた事を後悔してしまうかもしれない。


同じ女子柔道の内柴容疑者による暴行事件について、被害者の名前は公表されているだろうか。

当然ながらされてはいない。

それは何故かというと、被害者が世間から奇異の目で見られてしまうから。

いくら憐憫の感情であったとしても、数%の人間が好奇の目で見たら、それはとてつもない傷を相手に負わせてしまう。


今回の問題も、根本はこの原則が当てはまると思う。

いじめがなぜ発覚し辛く、いじめられている人間が一人で抱え込んでしまうかと言うと、「いじめられている事を馬鹿にされたらどうしよう」とか「いじめた人間に相談した事を知られ、仕返しされたらどうしよう」と思ってしまうから。

いじめによって人の醜い面を一身に受けていると、他人が自分を守ってくれるという気持ちを持つ事は難しい。

そして、実際私はいじめを受けている事を相談しても、親身になって解決してくれる人は少なかった。

親も教師も、受け流すだけで親身になって相談もしてはくれなかった(結局、卒業によって解決したが)。


そのため、指導者の暴行を訴えるという勇気ある行為について、その意義を無に帰す事になりかねない、選手の実名公表のニュースはとても衝撃的だった。

きっと、こうした事を考える人は、人の痛みを知らない人なのだろう。

JOCの理事がこんな人では、日本のオリンピック組織のモラルが問われてしまう。



なにより私が驚いたのは、ヤフーの投票欄である。

告発した選手の実名を「公表したほうが良い」、「公表しないほうが良い」、「わからない」の三つに投票するアンケートなのだが、

私が見たときは18万票中、「公表した方が良い」が43%、「公表しないほうが良い」が55%、「わからない」が3%であった。

ネットユーザーという偏った母数ではあるけれども、これ程の人が選手の実名の公表を望んでいる事に愕然とした。


人権やプライバシーといった事は、今の世の中で大切ではないのだろうか?

日本人の民度は、もしかしたら低下しつつあるのかもしれない。

元柔道家で現在プロ格闘家の石井慧は、この暴行した園田監督を擁護したそうだが、恐らく善悪の判断がつかない人間なのだと思う。

元金メダリストがこんな人間であることを見ると、人格的な成長を伴わずにただ勝つ事ばかりにこだわっている日本の柔道は、当然武道などではなく、スポーツですらない、アマチュア格闘技の一つに成り下がってしまったと感じる。

ミスと罰

人間誰しもミスをするが、それに対して受ける罰の大きさは、人それぞれ。

同じ職種の会社であっても、遅刻してもそれ程大きな問題にならない会社もあれば、クビになる会社もある。

その違いは、経営者の方針であったり、その会社の慣例であったり、その時の上司の気分であったりと、様々な要因が重なったものだと思う。

今の世の中は、同じミスに対する罰に差があることが普通で、それを悪用する者も普通にいる。


悪い事をしたからといって、暴力を振るったり、金品を要求したりと、ヤクザに近い振る舞いをする者もいるし、会社では少しのミスで懲戒免職に追い込むケースもある。

人に対する好き嫌いで、罰の度合いが違うことも普通。

こうした事が起こっている理由の一つとして、ミスに対する基準が無いからだと思う。


交通ルールがある程度守られているのは、その規則に対する罰則がきちんと決められているからだと思う。

普通車の場合、一時不停止は7千円の罰金で済むが、飲酒運転では
 5年以下の懲役又は100万円以下の罰金と、犯した罪に対する罰則が、細かく決められている。

だから、一時不停止をする人は多くても、飲酒運転をする人は少ない。


この様に、運転時だけではなく、学校や会社や日常生活でも、ミスに対する罰則を明確化したらどうかと思う。

もちろん状況に応じた対処は必要だろうから、罰則の上限だけを決め、それ以下にするという風に。

こうした指標を作ることによって、多くの人は自制できるのではないかと思う。


遅刻一回に対し、学校であれば校庭の清掃1回とか、会社であれば給料半日分の返還とか。

人から物を借りても返さなかったら、クレジットカードのブラックリストに登録されるとか。


ミスは誰にでも起こり得る事だからこそ、わかりやすい罰則が必要になると思う。

ミスには罰則が無いと、悪意を持ってミスを誤魔化す者が増えてしまうから。

だからこそ、罰則には公平さが必要だと思うし、今柔道で体罰が問題になったりするのだと思う。

「この程度の失敗に対しては、この程度の罰則がある」と最初から決めて公表しておけば問題は無い。

「場合による」なんて言葉は、考える事を放棄した逃げの言葉だろう。

交通ルールがこれ程守られているのは、例外をほとんど認めない警察の力によると思うし、今のところこの方法が最善だと思う。

カレンダー案

当たり前だが、毎年カレンダーは変わる。

1年の長さは毎年同じなのに、何故だろう?

それは、1年365日が曜日の日数である7で割り切れないから(365÷7=52余り1)。

だから毎年曜日は一つずつ、ずれていく。

そして、うるう年では2つずれる。


このシステムはどうも使いづらいのではないかと思う。

いっそのこと、1月1日を月曜日に固定して、7×52=364日間は、普通に7つの曜日を使う。

そして、12月31日だけを、曜日の無い日にしたらどうだろう。

うるう年は、12月30日と31日をその日にして。

そうすれば、毎年1月1日は月曜日から始められるのだ。

そして、毎年同じカレンダーを使う事が出来る。


この世界では、地球の公転周期を基にした「年」、自転周期を基にした「日」、ローマ時代の皇帝が勝手に決めた「月」、同様に古代ヨーロッパでの習慣から生まれた「曜日」という、様々な基準が混在した暦を使っている。

これは、長さで10km8寸3ヤードと言っているようなもの。

単位はなるべく簡略化した方が効率が良いと思う。

毎日1日ずつ足していき、365日で終わるカレンダーでも普通に使えるだろう。

例えば祝日は、121日が憲法記念日にして、57日を海の日にしてとか(数字は適当です)。


子供の頃、カレンダーの意味が理解できなかった。

今日の日付がわかっているのならカレンダーを見る必要が無いだろうし、
今日の日付がわからないのなら、カレンダーを見ても「今日」がいつかはわからないだろうから

しかし成長するにつれて、カレンダーは曜日と日付の、どちらかがわかっている時に使うものだと言う事がわかった。

今日が水曜日なのはわかっていて、日付を確認したい時などに使う(だから、曜日と日付の両方を間違っている時は、どうしようもない)。

そういう意味では、全く関係の無い単位(日付と曜日)が合わさっているのは、理に適っているのかもしれない。


これは、郵便番号と住所の関係に似ていると思った。

郵便番号がわかっていれば、県と市町村を書く必要が無いけれども、住所欄には両方書かなくてはいけない様に、書類の多くは、日付だけではなく曜日も書かなくてはいけない事が多い。

コンクリートミキサー車

子供にも人気のデザインの、コンクリートミキサー車

その特徴は何と言っても、あの斜めに傾いて回る、大きな筒だろう。

コンクリートミキサー車は、その名前の通りコンクリートを大量に運ぶ事が目的で、移動中にコンクリートが中で固まらないようにあのように動いているのだそうだ。

ただ、器の外側が回る構造の物って、なかなか少ない。

普通は内側の羽を回して攪拌すると思う。


何故かというと、危険だからというのが主な理由だろう。

稼動部が外に出ていて、しかもそれがあれ程の大きさであったら、工場などの機械であれば、通常は柵などを付けるだろう。

だから、むき出しで回っているコンクリートミキサー車は、端から見ていて少し怖い。



この話とは少しずれるが、私は道路や電車の駅は、なんて恐ろしい構造なのかと思う。

触れたとたん即死するような自動車や電車が、目の前を何の隔たりも無く通過するのだ。

製造業で働くとわかるが、機械には何重にも安全装置がつけられ、そしてまず稼動中に危険箇所に近づく事が禁止される。

しかし、それ以上に気をつけなくてはいけない道路や駅では、何の防護柵も用意されていないのは、どういうことだろう。


歩行者と自動車を分離したり、すべての駅に防護柵を設置する事にとてもコストがかかるのは理解できる。

しかし、まともな会社では「安全第一」と言って安全に関するコストは確保されているし、危険作業に関しても法律で取り締まられている。

それに対して、国が利便性とコストだけを追い求めて設計したのが、いまのインフラなのだと思う。

それならば、当然事故は多発する。

それは、自動車会社や鉄道会社の責任と言われたり、当事者の責任と言われたりする。

しかし、私はこんな事故の起こりやすい設計をした国の責任が一番重いと思う。

日本の移動手段は(ほとんどの世界でもそうだが)、「人間は必ずミスをする」という事実を無視して作られている。

要するに、ミスをする数%の国民の命や怪我を犠牲にして、この国の便利な移動手段が確保されているという事だろう。

国家百年の計

国家百年の計とは、教育なのだそうだ。

様々な国の情勢を見ていると、やはりそこに住む国民の教育レベルが国の発展に必須なのだと思う。

アフリカの多くの国々では、汚職が常態化しており、物資を支援しても役人が懐に入れてしまい、本当に必要な国民に行き渡っていないのだそうだ。

教育とは、学問を教える事も含まれるだろうが、それよりも人間としての道徳や先を見据える力を養う事が、最も大切だと思う。


さて、日本の教育レベルはどの程度なのだろうか。

学問のレベルはそこそこ高いと思う。

それでは、道徳観や先見性はどうだろう。いわゆる、民度と呼ばれるものについて。

電車に乗ったとき、お年寄りに席を譲らなかったりする場面はしょっちゅう見るし、組織の中では気に入らない人を無視したり、あしを引っ張ったり。

ひどくなると、いじめという形で現れてくる。

学問のレベルと人間性のレベルのバランスが、非常に悪いのが日本人なのだと感じる。


私達人間は、悪い事をしてはいけないと言われる。

しかし、悪い事をしてはいけませんという言葉には、何の効力も無い事は明らかだと思う。

まず、「悪い事をしてはいけません」と言っている人や国が、これまで悪い事をしてこなかったわけではないので、説得力に少し欠けてしまう。

また、ここでいう「悪い事」が、人によって異なるから、いくら歩行者が信号無視をしたところで、「このくらいは別に悪い事じゃない」と言われてしまえば、仕方が無いのだ。

それになにより、悪い事というのは、隠れてするものだから、「悪い事をしてはいけない」=「悪い事は隠れてするべき」と誤った解釈をしてしまう恐れがある。

こうなると、結局「悪い事をしない」というのは、道徳から導かれる行動ではなく、「警察に取り締まられるから」とか「周りの目があるから」という事になってしまう。


人は隠れて悪い事をするし、その悪い事も人によって定義がバラバラ。

だから、いくら人が見ていなくても悪いと自分が感じる事をしない人が、真の善人なのだと思う。


人の目があるから悪い事をしないという人はかなり多い。

パソコンで音楽ファイルを違法にダウンロードしたり、レンタルDVDをコピーしたりする人が多いことでも、それがわかる。

悪い事を考えず、行動に移さない事だけでかなりの人格者だと思うが、こうした人は今まで会った人の中でも本当に稀であった。

しかし、教育とはこうした考え方、人間性を教える事が非常に大切だと思う。


私が在籍していた広島大学は、何故か教師の中では名が通っている大学であり、実際、教育学部が二つあったくらいの力の入れようであった。。

そして、その中で知り合った教員志望の学生には、とても人格者とは言えない人がたくさんいた。

中には、小学生が好きだから小学校の教師になるなんていう、おぞましい理由で教師になった者もいた。


教師の側がこうなのだから、生徒が人格者になれるわけがないだろう。

国家百年の計のまず最初は、優秀な教師を育成するところにあると思う。

教師の採用を、教員採用試験というもので行っている以上、人格面を知るには限界がある。

実際に学校で採用してから、せめて1年程研修などを行い、適正などを確かめてから現場に送り出すべきだろう。


教育学部の同級生には、教師という職業をいち公務員という安定した職業として考えている人が多かった。

子供の将来、ひいては日本の将来を考えるのであれば、医者や法律家と同じくらい重い責任があるはず。

そして同様に、子供を持つ両親は、それ以上に重い責任があることを自覚しなくてはいけない。


自分が世間に恥じないような行動をとっていて、自らの正義の元に物事を判断しているかを内省し続けなければいけないだろう。

そして、そうした行為は自然と子供に伝わるだろう。

とても難しい事だとは思うが、まずは自分の欲望を少しセーブして、落ち着いて考えてみる時間をとる事から始めてみたい。

私はあなたを嫌いです

いきなりこんな事を言われたら、どう思うだろうか。

道すがら他人から言われたら、少しおかしな人かなと思うくらいで済むだろう。

しかし、学校で同級生に言ったら、きっと喧嘩になるかもしれない。

逆に、教師から生徒に向かって発せられたら、その生徒はショックを受けるだろうし、教育委員会に知られたら問題になる言葉だ。

会社で上司に行ったら、最悪クビかもしれない。良くて配置転換だろうか。


この言葉には、相手を非難する言葉も、侮辱する言葉も無いのに、どうしてここまで言われた人を嫌な気持ちにさせるのだろう。

これは「私」があなたをどう思っているかについての言葉であり、「あなた」については何も言っていないのに。

まず、「嫌いだ」と言われた人はどう思うだろうか。

恐らく、自分の存在を否定されたことに対して憤るのだろう。

その後、私の事を嫌いなんだったら、あなたにもこんなに嫌なところがあると反論するだろう。

そうなると、相手の「嫌いだ」という一言は、自分の中で感じていた相手の嫌なところを明白にしてしまう事になる。

ある意味、正直な気持ちになる気もする。


ただ、そうではない場合、「何故?」と思うだけで、怒りは湧いてこないと思う。とても悲しいだろうが。

別に自分が馬鹿にされたわけではないし、相手にも特に嫌な風に思っていないのだから、何も言い返しようが無いだろう。


この二つを比べてみると、無理して付き合っている相手なのか、気楽に付き合っている相手なのかがわかる気がする。

心の中で「あなたの事が嫌い」と言わせてみて、もし怒りが生まれるのであれば、自分はその人と無理して付き合っているのだろうと言う事がわかる。

同じ事を心の中で言わせても、悲しいばかりで怒りが生まれないのであれば、その人は自分にとって心休まる人なのではないだろうか。


そう考えてみると、恐らくではあるが、お金、物、決まり事、上下関係などを介して繋がっている人間関係の人からは、「嫌い」と言われたら嫌な気分になりそう。

やはり、人間関係を長続きさせるためには、こうした物質的なものではないのではないかと思う。

そして、とても失礼ではあるが、私の周りの人の事を同様にして考えた時、全く怒りが浮かばなかった人が何人かいた事に、とても嬉しく思った。



そして疑問に思ったのが、こうした「自分の事実、自分の気持ち」を相手に伝えた場合、名誉毀損や侮辱に該当するのだろうか。

トラブルの元にはなると思うのだが、結局その原因は、「嫌な思いをさせた方」なのか、「嫌な思いを相手に伝えた方」なのか、どちらにあると判断されるのだろう?

アルジェリアの人質

アルジェリアで現在も起こっている、武装勢力による人質立てこもり事件の展開は、とても予想できないものであった。

1月16日に武装勢力がガスプラントを襲撃して、そこで働いている多国籍の人質をとり、わずか一日後の17日に、軍が出動して人質救出の名目で空爆が行われた。

その結果、武装勢力、人質ともに多数の死者を出した。

多国籍の人質に対する処置としては、考えられないものだと思う。

各国に対する配慮もあるのだから、作戦も慎重になるだろうし、また、各国に援助を仰ぎやすい状況でもある。

しかし、実際に行った行動は、その全く逆の内容であった。


まだ事件が発生しているさなかであるためあまり断定的な事は言えないが、事件が起こった翌日に、空爆という最終手段に近い方法を採るのは、どうしてだったのだろう。

普通の人質事件であれば、犯人側との交渉を繰り返し、その度に譲歩を引き出していく。

そして、人的被害を最も抑える事を目的として行動を行う。

しかし、今回は人質ごと空爆するという、全く人命を軽視した作戦を採った。

周囲をアルジェリア軍で包囲しているのであれば、犯人を逃がす事も無いのに、焦りと思われる行動を採る必要は無かっただろう。


結局この事件は、人質襲撃事件と言いながら、国は内戦に近い考え方だったのだろう。

20年程前の軍事クーデター及びその後に続く内戦のため、未だ事件に対しては、武力を行使することを真っ先に考えてしまうのだろう。

そして、内戦が続いている紛争地域なのであるから、民間人の安全は保障できないという考え方をしているのではないだろうか。

さらに、多国籍の人質が取られている分、逆に各国から干渉されることを恐れて早期に解決しようとして、この様な結果となってしまったと考えられる。


しかし、人質事件が発生したときに、警察ではなく、まず軍が動いた事にも少し驚いた。

こうした事件には、日本でもアメリカでも警察がまず対処を行い、武力が必要になった段階で軍を呼ぶものだろう。

事件の規模にもよるだろうが、他国からのアプローチ以外で自衛隊が出動したというニュースを見た事が無い。

あさま山荘事件の規模になっても、警察が解決しているし。


こうした事からも、アルジェリアが今回の事件をもはや「事件」ではなく、「紛争・内戦」というレベルで考えている事が伺える。

そして、それは非常に恐ろしい考え方であり、国の治め方としては未熟であると思う。

日本でも、アメリカでも、ヨーロッパでも、世界中で軍事力が警察の機能を果たしていた歴史は長い。

ただ、これらが軍隊と警察にはっきりと分かれる事になったのは、国が安定すればする程、国内に目を向ける警察と、国外に対処する軍では必要とされるものが異なっていくから。

日本の警察は、交通違反や窃盗、人権侵害、著作権違反など、暴力とは無関係の問題も多い。

しかし自衛隊は、こうした国内事情はともかく、外国からの武力行使に対抗する事が一番の役割なので、警察と自衛隊でかぶる機能はほとんど無いと言って良い。


しかし、アルジェリアは国内の事件に軍隊をいきなり派遣すると言う事で、現在の国のあり様を世界に示してしまった。

未だ、問題は力で押さえ込むものという遅れた考え方をしていて、非民主的な国家だという事を。

寝るための方法

私は昔から寝つきが悪い。

中学生の頃から、布団に入ってから寝付くまで寝付くまでに、1~2時間くらいかかるのは普通だった。

そのため、昔から「寝つきを良くする方法」といわれるものを色々と調べていたが、自分にしっくりくるものは少なかった。


恐らく最もメジャーだと思われる、「寝る1時間前にテレビやパソコンや携帯電話を見ない」という方法は自分には無理だった。

寝付くまでに暇すぎて、どうしても携帯電話に手が伸びてしまうから。

全く、本末転倒すぎて情けなくなってしまう。


そこで自分なりに編み出した方法は、前日に見た夢の一部を、布団の中で思い返すというもの。

頭に
夢を描く事で、自然と夢の世界に入れるような気がして不思議な気持ちになり、それをやるようにしてから寝つきが良くなった。

難点としては、前日に見た夢を忘れていた場合、効果が薄いというところ。

前日以前の夢では、何故か効果が薄かった。

夢の記憶にも鮮度があるのだろうか。


しかし、この方法は自分にピッタリではあったのだが、他で見聞きした事が無い。

もし、寝付きの悪さで困っている人がいたら、この方法を試してみたらいかがだろうか。


あと、逆に眠い時に起きていなければいけない時は、私は昔うけたいじめの記憶や、喧嘩をした時の記憶を思い返す事にしている。

恐らく、その時のリアルな緊張感で、眠気が覚めるのだろうと思う。

この方法も、やはり見聞きした事は無いのだが、いざと言う時のために覚えておいても良いかもしれない。

ただ、いじめの記憶を呼び起こすなんて、精神上良くないとは思うのだが。

TVR Cerbera

前回に続き、もう一つ言葉の事を。

こちらはどちらかというと、ずっと納得できなかった事について。


TVRという小さなイギリスの自動車メーカーがあったのだが、そのラインナップの中にCerberaという車があった。

多分、この車が有名になったのは、初代プレイステーションのグランツーリスモによると思う。

何かのレースで優勝するとこの車が使えるのだが、それはそれはものすごく高性能で、多分このゲームの中では最も早い車だと思った。


そして、この車の読み方について考えた時、普通に「サーベラ」とかだと思ったら、雑誌などでは「サーブラウ」という読み方をされていた。

そして、今でもこの車はサーブラウと呼ばれている。

このサーブラウの「ウ」はどこから来たのだろう?と、当時思ったし、今でも思っている。

そして疑問に思って、この車が紹介されている
海外の動画サイトを見てみると、どの動画でも「サーベラ」と言っているのだ。

日本人がわざわざ変な読み方をしている事になるのだが、その意図も経緯もわからない。


もうこうした読み方が定着してしまっていて、さらにTVRも倒産してしまっているから、この読み方は直されないと思う。

ただ、何故こんな変な読み方をしたのかを知りたい。


だから、二転三転した読み方をされたパソコンメーカーの「ASUS(エイスース)」は、稀な例だと思う。

元々
読み方が良くわからない名前であるため、好き勝手に読まれていた時期を経て(アサスとかエイサスとか読まれていた)、一時期公式にASUSが「アスース」と読むと発表したにもかかわらず、その数年後にやっぱり「エイスース」へ変更しますと再度公式に発表したのだ。

そして、こんな面白い事をして、周囲もちゃんとそれに付いてきたのだから。

ストロベリー

イチゴは英語でストロベリー(strawberry)だが、ストロベリーの「ストロ」の部分は、ジュースを飲むときの「ストロー(straw)」と同じ。

そして、ストローは「麦わら(straw)」が語源。

麦わらの様に筒状であるため、ストローが開発された時にstrawと呼ばれたのだろう。


さて、それではなぜイチゴがstrawberryと、「麦わら」もしくは「ストロー」の名前が付いているのだろう?

別に、中が空洞という事は聞いた事が無いし、なんとなく疑問に思っていた。


調べてみると、諸説あるのだそう。

栽培する時に、果実の下に麦わらを敷いておくからとか、strawには「覆う」とか「広げられる」という意味があり、イチゴが繁殖する様子からstrawberryと名付けられたとか。


とはいえ、英語の方が語源はわかりやすいと思う。

私はイチゴが何故イチゴというのかはわからないし、スイカが何故スイカというのかもわからないし、予想も付かない。

そして英語は、~berryや~fruitと付く果物が多いのに対して、日本語ではそういう共通点があまり見られない。

だから、外国の人は日本の果物を覚えるのには、苦労しそうな気がする。
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