人生で一番最低な映画を体験した! こう胸を張って言えるのはある意味貴重な体験ではないかと思う。
「日々ロック」という映画である。
まず断っておくが、私はこの原作の漫画が非常に好きである。素晴らしい作品だと思っている。
そして原作と映画化された作品は、根本的に別物であると理解する分別も持っているつもりである。
だが、原作の良さをなくした代わりに、異なる良さを提供することが出来ないのであれば、もはや原作なんて必要ないではないか。もういっそ全然別物にしてしまえばいいのである。私は細かいことに注文を付けている原作厨ではないことを申し添えておく。(そして私はジブリの「ゲド戦記」が好きである)
私は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を途中で観るのをやめたことがある。すごく暗くて、最後まで見る勇気がなかったからである。また「シン・レッド・ライン」を映画館で見ていて寝たことがある。冗長だったからである。あとは「ショーシャンクの空に」をやはり開始10分で見るのをやめたことがある。理由は覚えていないが、高校生の時だったので良さが分からなかったのかもしれない。
私が訪れた「日々ロック」はガラガラだった。私は悲しかった。だが10分後、その理由を明確に理解した。一人でも客が入っていることの方が奇跡だと思った。最後まで観るのが苦痛で苦痛で仕方なかった。形容するのが難しい。褒めるよりけなすことの方が簡単なのだが、難しい。これはそうそう起こらない事態である。
なので先に結論から述べると、私は「これは10代を対象にした映画商品なんだ」と思うことにした。また、ロックンロールというものを題材にする姿勢については「これはロックンロールの在り方を題材にしているのではなく、ジャンルやテーマとしてあえて選んでいるわけでもなく、10代向けの商品として恋愛以外のジャンルやテーマで手頃だったというだけだ」と思うことにした。そうでもなければ、釈然とせず夜も安眠することが出来ないのである。
劇場を後にして、私は疲労感に襲われた。何か芸術的なものを見て、失われた何かを取り戻したいと思った。「2001年宇宙の旅」や二階堂ふみが好演している「ヒミズ」なんかを借りて帰ろうと思った。黒澤や小津は本当に偉大なんだなと思って涙が出た。それにしても「日々ロック」の映画に関わった人のことはどうでもいいし、原作者のこともそれほど心配ではないが、二階堂ふみのことは、輝かしいキャリアに大きな傷跡を残したのではないかと、とにかく残念である。
なんだか、amazonなんかにありがちな陳腐なルサンチマンの書き込みのようになってきた。本当に申し訳ない。ここはオープンなインターネットスペースとは言え私個人が毎月千円払って借りている個人的な場所だから許していただきたい。私はあなたに読むことを強制していない。
三日経った今でも、情報の整理がついておらず何から論じたらいいか分からない。しかし、客観的に何の思い入れも無い人にとっては「二階堂ふみが出ている」という以外価値のない作品を真面目に論じても仕方ない気がするのでざっくりと箇条書きにしたい。
・犬レイプや店長がいちいち状況を説明するのがうざい。メインターゲットである最近の若者は馬鹿だから、金曜ロードショーの「シャーロック」で話題になったみたいに、いちいちナビゲートをしているのか? テレビでやってくれ、頼むから。あとビジュアル系バンドのやつの説明もうざい。
・ライブしているところをクローズアップするな。二階堂ふみに罪はないがギターも歌も踊りも鑑賞に耐えるレベルではない。ロックンロールブラザーズの演奏はクローズアップしてもいいがもう少し絞って使いどころを考えてほしい。それ以外のなんとかってバンドは論外だ。カットしてくれ。
・何かと言えばすぐに殴ったり蹴ったりするが、その必然性が全くない。若者の粗暴さ、未熟さを表現しているのだろうか? ならば稚拙というしかない。この映画の監督は何故映画を撮っているのだろうか? 言葉で表せないから音楽や絵画や小説があるのである。この映画に出てくる暴力は言葉で表す価値もない最も程度の低い暴力である。それとも商品されスポイルされた安易な「ロック」というイメージに対する強烈なアンチテーゼなのか? 「日々ロック」という映画は壮大なロック批判なのか? それなら評価に値する。
・主人公の日比沼の人間性が過去も現在も全く掘り下げておらず、単なる頭のおかしい人になっている。人権団体がクレームをつけてきたら、弁解のしようもないレベルではないか。俺は知っているぞ!!日比沼拓郎は、純粋でまっすぐだが、不器用で、大したとりえもなく、かといって決定的に足りない者も余分なものもない、読者が等身大で感情移入できる好青年なのである。彼には表現したい何かがある。世界を変えねばならないと思う情熱ややさしさがある。その唯一の彼にとっての手段がロックンロールなのである。一人の不器用な好青年をロックンロールというフィルターを通したときに出来上がるのが、往々にして挙動不審な「日比沼拓郎」なのである。映画版の日比沼は、ただの知的障害児でしかなかった。
・伏線がないため、「意外な変化」、つまり「昔自分をイジメていた不良が味方をしてくれる」「バンド対決で主人公たちが勝つ」「宇田川咲が重病である」などの理由が「原作がそうなっているから」しか見当たらない。金返せ。
・不良や業界人など、人物造形がステレオタイプすぎてリアリティがない。
・そして借金返済のために依田が土方に、草壁が木こりになるという展開については、リアリティ云々というより発想がメルヘン過ぎて私の理解の埒外である。
・宇田川咲のライブに依田君が来なかったのって、絶対に役者の都合がつかなかったからってだけだろ。金返せ。
・蛭子さんの存在意義がない。犬レイプの「犬」を登場させるのか、それとも役者として「蛭子さん」を登場させるのか? どっちでもない。原作を知らない者にとっては、到底理解ができないはずだ。これは「犬」に対して失礼だと原作を知っている者は、深く思う。
・店長を竹中直人がやる意味が分からない。竹中直人以外だったら誰でもいい。原作と全然別人だけど文句を言いたいのはそこではない。この作品全体に竹中直人がそぐわないというだけだ。
・何故病院の屋上でライブをするのか? 俺の知っている日比沼拓郎は、そんな病人やお年寄りの迷惑になるようなことは絶対にしない。映画版の日比沼はただの知的障害者なのか? 武道館で収録する予算が付かなかったのか? そもそも屋上でやっていた歌の歌詞は本当に作品にふさわしいものなのか? 宇田川咲にふさわしいものなのか? 大体、あんなところで演奏したら第三者のモブが何かしら反応を起こすよね。まったくリアリティがない。緊迫感がない。
・ライブ前に三人で股間を掴んで「ロックンロール」って叫ぶところ。これは商品されスポイルされた安易な「ロック」というイメージに対する強烈なアンチテーゼなのだろう。そうとしか思えない。そうだ、これは壮大な「ロック批判」なのだ。このシーンを使うなら、三人、いや日比沼だけでもいい。「ロックンロール」というものに対する真摯な姿勢やエピソードなど、なんでもいいから「ロックンロール」と恰好悪くても口に出して確かめねばならない理由をつける必要がある。私は知らないが、最近の中高生はライブ前に「ロックンロール」って口に出すのが流行っているのかな? それとも映画を見て真似する中高生がいるとでも? あのシーンは、ただロックンロールを侮辱しただけだよ。
と、まあ思いつくままにだらだらと書いてみた……
単に悪口を言うだけだと只のルサンチマンなので、代案を出してみることにする。
映画つくりの知識もない物書きのはしくれだが、どうするかな……
演奏シーンを極力削って、喧嘩のシーンも削って、三人の過去のエピソードを入れて、犬レイプは一切出さずにランゴリアーズだけで処理するようにして、店長のキャラをもう少し立てて、宇田川が日比沼に惹かれる理由をちゃんとつけて、あとアイドルじゃなくてロックバンドにして、そんで最後は、大きいステージでも小さいステージでもいいから病院じゃなくて普通に音楽を聴きに来ている人たちの前で演奏をする。それを宇田川が聴いてもいいし、聴かなくたっていい。思いが伝わるか伝わらないかとに拘るのではなく、現実に対して、日比沼が何を選び何を伝えようとするのか。そこで勝負しようと思う。
どうもすみませんでした。最後に、
日々ロックはいま、ヤングジャンプで超絶いい感じ!!
- 日々ロック 5 (ヤングジャンプコミックス)/集英社
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