道標を探して

道標を探して

 ただ、そこに進んでみたい道がある。
 仰いで見たい空がある。
 踏んでみたい土がある。
 嗅いで見たい風がある。
 会ってみたい、人がいる。

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お久しぶりです。
ぼちぼちこうしんさいかいしていこうかな、と

おお、公開ですな

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では、ルックアウトを初めて吸った時の感想をば

なんか普通にタバコだった。まぁそうでしょうな、付属の紙に巻いて吸ってたんだから。

感想としては、開封したときに何か独特の木材っぽい匂いがしたけど、吸っていくうちに好きになった。
あと、巻いた後添加して吸うと全くそんなことはなくて、ほんのり甘味がしてかなり旨かった。

あれだね、ブラックコーヒーと一緒に飲むとウルトラ旨かったよ。

何かドラムの軽くした感じだって2chでは言ってたけど、まだドラム吸ったことないからワカンネ。そのうち追記でもして加筆修正しておくわ。

それよか加湿しすぎてカビ生えそうで怖い。

完璧オーバーウェットですね。適湿ってのがわからないんだよなぁ。

まあそのうち覚えていくさね。



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どうしようもなく、動機も見いだせず、夏休みも知らず知らずのうちに半分を過ぎてしまった。

この夏、本来ならばひとつの小説を書き上げようとしていたのだ。なのに、この体たらく。
もう、馬鹿かと。阿呆かと。

やろうとしていたことに手を付けず、かと言ってあいた時間に何をするでもない。馬鹿の一つ覚えに口から始終モクモクモクモク煙を吐き出すだけ。
もう、クズかと。ゴミかと。


・・・・・・まあ、愚痴を言うだけなら上記の事のように簡単にできるんですよ。やっている事、やらないことに対しての批判は簡単なんです。対象を嫌うという視点からあることないこと口から出任せに言っていけばいいんだから。

では、そこに気付いたということで、ひとつランクアップして考えてみよう。

何がしたいか、何故できないか?

それを考えて一つ一つどかしていって、なんとかやりたい事ができるような環境を作っていこう。
 個人的には後者のほうが面白そうなので、獣道を選択したい。野垂れ死にできればなお本望だ。


 大学生活の夏休みも、はやくて10日近く経っている。
 正直、なにも将来に対した建設的なことというものをやらずに、のうのうと過ごしていると、何が自分の将来の目標だ夢だと自分自身に言ってやりたくなる。

 ともあれ、作家になりたいと言ってもやれることなんて小説の複写、音読、なんかと言ったことが主で、立派にゆとり的に育ってしまった私の体やら精神やらでは相当にきついものがある。まあ、そんなことを書いた時点で言い訳にしかならず、さらに目標から遠ざけてしまうこと請け合いなわけだが。

 私は私の物語を書きたい。そう思ってこの道を、今歩いている道が正しいかどうかもわからないまま歩いている。
 どんなことへの下準備として必要ではあると思うが、となると知識と経験が必要になってくるわけだ。凡人の経験する、学び取ること。そして稀有なそれらも臆病になることなく飛び込んでいかなければならんわけだ。
 かといって他人がどんなことに興味を持って、今どんなことに脳細胞を働かせているのか、私は解らない。大方一人のときはテレビやケータイ、複数人いるときには買い物やカラオケ、たまに旅行に行くなどしてその経験値を高めていることだろうと推測するくらいだ。

 しかしこの時代に生まれてきたことには感謝している。たまに初対面の人と話すときがあるが、たいていの場合彼らは非常にキャラクターが薄っぺらい。人間が持つ臭さ、つまり独特の癖や特別な行動理念を持ち合わせていることが極端に少ない。

 どんなものが、彼らの心理にそういった人間性の薄味に仕立て上げるために効果を発揮させているかはわからないが、これが半世紀前ならきっと様々な人間がいて、そこにはそれぞれ人によっては近づきたくもならないようなものすごい個性を持っている人間がうじゃうじゃいたはずである。祖父母の世代の人間と話しているとそれが如実に出ていて、とても面白い。


 いまなら、当時50代などある程度人間的に成熟していなければ書くことができなかった芸術作品が、私のような若造でも努力しだいで書ける。人間が軽薄化しているから、含蓄が少量であっても、大半の人間は腹いっぱいになって「あぁ、うまかった」と思い、本を閉じてくれるだろう。


 明日から5日ほど、母の実家の帰省に付き合って兵庫県は西宮に行ってくる。本は日数分持っていくつもりだ。空いた時間に書を広げ、大半の時間は広範囲になった自分の活動範囲を生かして、できる限り多くの土地を訪ねてみるつもりでいる。ようやっと有意義なことができる。無駄に過ごした日々からの利子をおつりが出るほどの経験で埋め合わせることができれば大成功だが、どうなることか。

 まあ、何か大きい物を一つ持って帰れれば、よしとしよう。

サイクリング途中の小川







一言
願わくば、可愛い女の子と知り合いたいなぁ、大学いくことになってから男としかつるんでねぇ

いわゆる著名人などは、人をよく集める。コンサートやサイン会、また引退宣言をする予定のそれでは、普段集まるファン以上に人が集まる。

そして、人が死んだ時。
人が死ぬと、斎場にはその人を慕(した)っていた、また大きな影響を受けた人などが一堂に会する。

では、まさか人が死ぬということと、有名になるということは、深く掘り下げると繋がる部分が、根を同じにしているところが、あるのかもしれない。

ふと、そう思った。

例えばの話。私が考える著名人と人の死の通づる部分は、片方には当然のことだが、「死ぬ」ということだ。

人が死んだ。それも自分の中に強く印象を残した人が、死んだ。それを知れば、人はその人の斎場を知りたくなる。何故か?
二度と見ることが出来なくなるその人の姿を、自分に強く焼きつけようとするからだ。

上記のような、著名人が公衆の下に姿を出す場合もそうだ。人は通常見ることのできない状態を作り出している一個人を見に行きたいと望むからこそ、その地に足を運ぶ。

ただ、ここで注目すべき点として考えるのは、著名人は一体どこが「死んでいるのか」ということだ。

おそらくそれは、彼もしくは彼女の精神が死んでいる。いや、生まれ変わったとでも言うべきか。とにかく、一般人から著名人となるまでに、何か精神的に壮絶な変化をきたしている。そして、それまでの自分は死んだもの、帰ってこないものとして自分自身の中に意識されるのではないだろうか。

まあ、こんなこと考えても意味があるかどうかさえ不明なのだが。





一言
なんか今まで書いた記事を読み返すと、足りない部分やら誤字やら脱字やら、とんでもない文になってるな