超短編!

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短編小説、中編小説、映画の紹介記事とかを思うままに書きなぐってます

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 彼女は僕のことを突然「カーニヴァル」と呼び始めた。

「おお! 愛しのカーニヴァル!」

 そんな感じだ。

 失礼な友人であるコバヤシは

「カニバリズムの間違いじゃね?」

 とわけのわからないツッコミを入れてきた。

 意味は不明だが僕は不快に感じたので、おそらく彼の目的は達成されただろう。

 

 カーニヴァル……それは辞書で引くと「謝肉祭」もしくは単に「お祭り」ということである。彼女は僕を祭りだと思っている。のだろうか。何にせよテンションが高い。

「なんでカーニヴァル?」

 と僕は聞いた。

 彼女は

「ぴったりだと思ったの」

 と答えた。

 どういうことなんだ。

 僕は何かにつけ騒ぎの中心にいるような人間ではない。お祭りと呼ばれるにふさわしいものは全く持ち合わせていない。そしてもう三十五歳だ。いや、歳なんか関係ないし若くたってカーニヴァル呼ばわりは勘弁願いたいものではあるが、そもそも僕にはその呼び名にふさわしい要素が見当たらないのだ。

 しかし彼女は

「あなた、自分で気づいてないだけよ」

 よくわからないが自信たっぷりにそう言うのである。

 もうなんでもいいから人前でそう呼ぶのだけはやめてくれと懇願の体である。

 基本的に恥ずかしいし、コバヤシのような人間の耳に入ったらただもう面倒なだけなのである。

「コバヤシくんに何言われたってほっとけばいいじゃない」

 と彼女はもっともなことを言う。

 だがちょっと待てよと僕は思う。君がそれ言うかと。

 

「日本のカーニヴァルといったらやっぱり花火よね」

 と、一瞬考えてしまうようなことを彼女は言った。

 花火は確かにお祭り騒ぎだが、カーニヴァル=花火、と言う式には違和感が伴う。

「まあなんでもいいじゃない」

 と彼女は無責任に言い放った。

 まあそうなんだがと僕も思った。祭りなんて楽しめればそれでいいのだ。

「ああ、カーニヴァルって素敵」

 と言ったそれは果たして僕のことなのか、花火のことなのか。

 そう思った時、彼女は体を向けてじっと僕を見つめた。

 僕も同じようにした。

 花火がどんどんと鳴り響き、僕らの表情を多彩な色で照らした。

 君こそがカーニヴァルだ。

 と僕は思った。

 空になったペットボトルを打楽器のようにペコペコと膝で打ち、僕は待っていた。

 何を待っていたのかというと、それは定かではない。

 何を言っているのかと思うかもしれないが、それは僕に取っても半ば同じように感じていることなのである。

 果たして僕は何を待っているのだろう。

 薄っぺらなプラスチックがガランとした空間に鳴り響き、次第にリズムをとったり、流れを失って彷徨ったりしている。随分と喉が渇いていたような気もするのだが、空になったペットボトルのことを考えると、すでに充分飲み干したのだと思えた。事象から伺える逆説的帰結。こういう結果があるから自分はこうしたはずなのだ。という逆上がりの論理。そのように考えたとして、僕が何かを待っているという行為に対する起因たるものは、果たして。

 頭の中はペットボトル同様空っぽだった

 ドウシテコウナッタのか

 ドウシテコウナッタのか

 ポンポンぺこぽん

 ペコペコパコン

 空虚な音が鳴り響く

 プラスチックが歪む音

 歪みが元に戻る音

 ペットボトルを膝で打つたび

 頭の中から何かが消えていくみたい

 ドウシテコウナッタのか

 ドウシテコウナッタのか

 ポンポンぺこぽん

 ペコペコパコン

 ポンポンぺこぽん

 ペコペコパコン

 

 空虚な音が鳴り響く

さて、前回の記事がいつのものだったかまったく思い出せないほど、ブログの放置状態が続いているのですが、そのあいだも何かしら書き続けたりはしております。

先日は中編の公募のために2ヶ月掛けて原稿用紙120枚程度の作品を書いていたのですが、なぜかずーーーっと規定の枚数を勘違いしていて(40×40で30枚のところを40枚きっちりで書き上げた)、その事に締め切り前日に気付き慌てて修正するなどという自業自得の土壇場に追い込まれたりしておりました。

そんなかんじでちょっと気を抜いて映画をまとめて観たりしている訳です。
で、久々に観たのがジョージ・クルーニー主演の『ラスト・ターゲット』

ラスト・ターゲット [DVD]/ジョージ・クルーニー,ヴィオランテ・プラシド,テクラ・ルーテン

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なんとなくお約束満載の映画を期待してDVDを借りたのですが、なかなか突っ込みどころが多かった。

人気の少ない山奥の一軒家で、恋人もしくは妻らしき女といちゃいちゃしてたと思ったら、ジョージを狙うヒットマンが現れます。ジョージは刺客を一人倒した後、いきなり女を撃ちました。背中から。
ここは「なんで?!」と引き込まれますが、続くボスらしき男との会話シーンでその女を「友人だった」という。どういうこと? 続けてボスは「友人など作るな」と小言を言います。
で、田舎でしばらく身を隠せともらった携帯をすぐ川に捨てます。「機械は苦手だ」ということらしいです。。
この出だしで主人公のキャラはほぼ確定するわけです。
しかし、潜伏中なのに銃の改造依頼が来たり、その依頼主がスタイル抜群の美女だったり。で、無愛想なのに人当たりのいい神父が話しかけてきていきなり食事に招待されたりってあたりはちょっと安易というか都合よくね? とか、かと思えば馴染みの娼婦とあっさり恋仲になったり。あんた学習しろよ!って思っちゃう。

潜伏先の村での生活ぶりとタイトルで何となくオチの流れが分かった気がしてきた。

で、その潜伏先もあっさり嗅ぎつけられたりする訳だが、怪しげな奴がみんなサングラス掛けてるのには笑った。そもそも何故狙われているのかとかまったく描かれず。。。
雰囲気だけハードボイルドで性格とか行動はなんか普通の人だったりして、その辺の脚本の作り込み度は正直微妙であった。

しかしまあ、「機械が苦手」のひと言で昔ながらのハードボイルドものをやりきっちゃったのは、どうしてもこういうのをやりたかった人が企画したんだろうなあ、なんて思いましたね。

で、僕も好き勝手何かボロクソに言っちゃってますけど、映画にかける製作者の愛情みたいなものははっきりと感じられたので、そういう気持ち良さはあったかな、と思いますね。

ふと思ったのは、時代に適合したハードボイルドってなんだろう? ってこと。
これだけ情報が氾濫していつも誰かと繋がっているような時代で、ハードボイルドというジャンルが存続していくのは可能なのだろうか?
考えてみても良いテーマかも知れませんね。