いつからか何か検索する時はYouTubeを使うようになっていた。文字よりも画像で理解できるのは、文字では想像が追いつかなかった専門的なものに役に立っている。何か簡単なものであれば、YouTubeには先生が沢山いてわかりやすく教えてくれる。そのおかげか自分でできることが増えたり、やらなくても工程を見るだけで満足していたりした。

1番身近なのはやはり料理動画。今まで文字ではよく理解できなかった例えば、少々ってこんなに入れるの⁉︎などと感じたり、疑問に思っていたことが解消され、すんなりと頭に入り、何より自分でも短時間で簡単にできそうに見える。キッチンの使い方、所作やキッチン用具、器具や食材の扱い方など料理以外にも楽しむことができることも魅力的だ。今までたくさんのキッチンで働いてきたが、その場所のルールややり方、知識が違い、出会う沢山のシェフから教えてもらったことは数知れない。

沢山の料理人たちが個性を生かし動画をアップしているその中でも今のお気に入りは、一人前食堂や夕方食堂。短時間であっという間にできるてぬキッチンなど。まだまだ知らない動画もあるが動画が上がっていると覗いて見たくなる。

動画が十分活かされているものはいいが、やっぱり文字の方がいいなと思うものもある。自分とテンポが合わないかったり結局何が言いたいのか早く知りたかったり、回りくどい話を飛ばしたい時は文字だと自分で調整できる。自分のペースで読み進めたいので、聴く読書を試したことがあるが私には合わなかった。

文字を追う。ワクワクする。そうかと実感する。最近は途中で何回も中断するのが嫌で長編のものは読まなくなり、ブログやエッセイなど短期間でパッと読めるものばかりを選んでしまっている。そのギュッと凝縮された中も喜怒哀楽が詰まっていて、その後は自分で考えるというような道徳や哲学を感じるときがある。文字の世界も動画の世界もそれぞれ違ってどちらもいい。さぁ今日はどんな気分かな。

学校が再開されてから3週間。次男の咳の問題があったがやっと学校に戻れた。

3月末から始めた自粛生活。殆どの時間を子供達と費やした。笑ったり、怒ったり、泣いたり、慰めたり。明日さえもどうなるかわからなかったあの時は、子供がいたからこそ救われた場面もあった。

その日はお友達とまだまだ先が見えない状態が続いている中で、今の時代の教育はこれからどうなっていくのか、子供たちをどうアプローチしていくのかを話していた。自分が受けた30年以上前の教育現場が変わり、しかも国が違うのでシステムが根本的に違う。と、色々な話をもっとしたかったが三男が珍しくお昼前に寝てしまった。

あっという間に午後になり、放課後久しぶりに子供達のお友達と公園で遊んだ。ただ広い芝生の広場で、彼らは走って笑って三男の我儘も聞いてくれて。体いっぱい楽しんでいた。

日がだんだん傾いていく。みていると、だるまさんが転んだに似た遊びを始めたようだ。彼らの影が長く伸び、暑いくらいだった日が当たらなくなり風もひんやりしてくる。

子供達の様子と夕焼けが、自分の子供の頃とシンクロしていた。私が幼かった頃、近所の子供達が自然に集まってみんなで遊ぶ。リレーごっこ、だるまさんが転んだ、花一匁、おままごと・・子供たちは結局変わっていないとつくづく思う。ただこうやって思いっきり遊んで笑って。午前中の答えの切れ端を教えてくれたようでじんわりと心に広がるものを感じた。

またすぐ会えるのに別れを惜しみ家路へ急ぐ。家の中で家族という5人だけの小さなコミュニティからの解放を目の当たりにしてほんのちょっと寂しい部分があった。だってあんなにいきいき楽しそうにしているから。友達だからこそ生まれる最高の笑顔。

あんなに1人時間最高!とか言っていたのに我儘なものである。あの頃の無邪気な夕方の時間をもう一度何か違う形で大人になった自分にできるかな。

規制が緩まり人が動けばまた・・と考えたくないが危機感を忘れず、今は束の間の休憩時間・・

三男が本を読んでと本を持って来た。
「男の子の育て方」
これ何処から持って来たの。以前両親が荷物を送ってくれた時父が入れてくれた本だった。これじゃなくて違う本持って来な、と言ってその本は横に置いておいた。

その後長男がその本を見つけて、パラパラめくるからストップって言ってね。と言ってパラパラゲームをし始めた。丁度開いたページを私に託しまた遊びに行ってしまった。

隠し事をなんでするのか?というページだった。大きくなるにつれ特に男の子は話さなくなるらしい。ちょっと読み始めたら三男が眠いと言って中斷してしまった。

いつものように3人を寢かしつけている時、私が小学校2年生の時のことを思い出す。

ある日学校が終わって家に帰ると母が暗い部屋で泣いていた。もうこの家でて実家に帰るよ、と言われる。これは本物のやつだ、やばいなと思ったものの、その日は友達と遊ぶ約束をしていた。遊びに行くわけにもいかないし、携帯もないから連絡もできない。どうしようと思いながらも時間が過ぎ、結局友達が家に来てくれた。

申し訳ないけど、理由も言ってはいけない気がして、ごめんね、遊べなくなっちゃったの。とだけ言って帰ってもらった。

そっかぁ転校かぁ。寂しいけど北海道も楽しそうだなと呑気なことを考えていたけど、さすがにそれは言ってはいけないだろうと転校したくないと言った。そしてその事件は祖父がメロンを買って来て解決する。

そして次の日学校へ行った時、当時は毎日日記を提出していたのだが、その日先生に呼び出された。友達とは和解していたが、友達と日記が食い違っていることを指摘され、なんで約束を破ったんだと怒られる。まさかちょっと離婚危機でしてとも言えず、こってり絞られて終わる。

この件で悲しかったとか泣いたとかいう記憶はなく、結局先生なんて悪いって決めつけて何もわかってない(言わない自分が1番悪いけど)とか理不尽だなという気持ちだった。当時の先生は親身になってくれるような感じでもなく、なんかこの人には言いたくないという感情があった。


子供って結構幼くても気を使っていて、すごくよく見ていて、意見を求めると意外とちゃんと返って来たりする。何かあったら必ず何かしら理由があるはず。

世の中やニュースで流れることを彼らなりに感じていて、今はいろんなことを抱きながら生活しているのだろうな。

次男にどんな時幸せ?と聞いてみる。ママと三男が笑っている時だって。ママは怒るし、三男はすぐ泣から。

家にいる時間が多くなり、世界が家族だけになっている今。次男はいつも笑顔で、怒られている時も笑顔で、困っている時はすぐ助けてくれて。
この自粛中、家の中崩壊しそうだけど幸せの為に笑顔で頑張るわ。