生まれた場所の、土の中へと還りつく。
それがほんとうの帰郷なのかもしれない。


シネマな時間に考察を。


『春にして君を想う』 Childeren of Nature
1991年/アイスランド・ドイツ・ノルウェー/85min
監督:フリドリック・トール・フリドリクソン
出演:ギスリ・ハルドルソン


天使が肩に手を触れたなら、きっともう大丈夫。


泥にまみれたゲイリの哀れな足裏をそっと拭い、

老いた彼の右肩を優しくぽんとたたく。
ゲイリを楽園へと旅立たせるために地上に舞い降りた、天使。

ブルーノ・ガンツのサプライズな登場に、一瞬息を呑む。
『ベルリン天使の詩』へのオマージュによる、このワンカットが素敵だ。


アイスランドの僻地に住むひとりの老人。
身辺整理を終え、首都レイキャビクに住む娘の家を訪れる。
ここまでを描く冒頭の10分に一切のセリフはない。それでも観る者には彼の半生とこれからの決意が伝播する。


恐らくは何十年もの長きに渡り従事してきた農夫としての生活についぞ見切りをつけ、仲間達との苦楽の過去を火にくべて燃やし、恐らくは若くして死んだ亡き妻との思い出が残るこの家を捨てる覚悟をし、恐らく晩年には唯一の友人だったかもしれない愛犬を自らの手で処分し、恐らくは捨てられない程の思い入れがあるのであろう古い掛け時計を腕に抱え、老人は今、街へ出た。


突然の父の訪問に遠慮がちに娘が言う。
「私達ほとんど他人よね、お互いに行き来してこなかったし。」
ゲイリは答えるでもなくこう呟く。
「どの道を行き来するかはどの人生を選ぶかで決まる」と。


孫娘と相容れないゲイリは程なく老人ホームへ。そこで再会した同郷の幼馴染、ステラ。故郷へ帰ることを熱望するステラのため、ゲイリは盗んだジープで最後の旅を企てる。亡き妻の写真とあの古い掛け時計さえ置いて。

年老いた者にしか見えないスペシャルな入り口がきっとあって、まだ人生の経験の足りぬ若い者には見えないそれをすっと通り抜け、ふたりは誰にも邪魔されることなく心の居場所へと帰り着く。


目的の地まであと僅か。あの月は昔見た月と同じ月かしら、と思案しながら静かに眠りにつくふたり。ふと目覚めた夜の帳に聴きつけた賛美歌の合唱。向かうはかつて在ったはずの教会へ。けれどもそれは幻で、夜間走行のトラックから洩れ聞こえたカーラジオの音でしかなく。


そうしていよいよ辿り着く。迎え入れる者はただひとり、岸辺から手を振る裸体の幽霊だけ。その先に広がるのは無残に荒廃した故郷の姿。けれども彼らの目に時折り映るのは、在りし日のふるさとの景色。それはとても悠然としていた。蘇るのは、豊かな緑をたたえた瑞々しい風景ばかり。


(殆どモノクロームな原野の風景に、徐々に色彩が宿るさまを今思い返すと、ここにもかの映画へのオマージュを感じない訳にはいかない。)


この逃避行のために誂えた真新しいスニーカーは、いつの間にか彼らの足にはない。泥と傷だらけの素足はしかし、見た目の痛々しさとは裏腹の、故郷の地をしかと踏みしめる、大いなる喜びをも伝えていて。


もしあのまま望まぬ老人ホームの一室でひっそりと死んでいったなら、それは一種の孤独死だったかもしれない。けれどもようやく辿り着いた愛しき故郷、その浜辺の波うちぎわで、戯れるように死んでいったステラの魂はきっと、孤独とは無縁。


自然の子として生を受け、自然の子として還ってゆく。
生きている間の人生なんて、気まぐれな魂の寄り道に過ぎずに。



『春にして君を想う』:2012年1月6日 DVDにて鑑賞



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もうあんなふるさとへは帰りたくない、という人々と、
それでもいつかはふるさとへ帰りたい、と願う人々。


被災により土地を追われた東北と福島の人々の。