千波の夫でございます。
2020年2月5日午前0時1分 7年1ヶ月の闘病の末、千波は永眠いたしました。
家族もこれ以上頑張れとは言えないほど最期まで頑張り続けました。
このブログが同じように病と戦っている皆様の小さな光になればと続けてきただけにこのようなご報告をしなければならないことを無念に思います。
葬儀では300人を越える方々にご参列いただき、改めて千波が全方位に注いでいた愛の深さと広さに驚かされました。

ブログ記事も1年空いてしまいましたのでこの1年どう千波が戦ってきたかを記し、最後の投稿とさせていただきますので、長くなりますが宜しければお付き合いください。

【2019年】
元旦から吐き気が止まらなくなり新年早々入院からの幕開けとなりました。
退院してからも入退院を繰り返しながら実家での生活がほとんどでした。
オプジーボも期待していた効果は見られず、徐々に徐々にガンは進行して行きました。

ただ、悪いことばかりではありません。
体調の良いときは自宅へ戻って来て大好きな料理を作り穏やかな時間を過ごしました。
キッチンに立つ度に「幸せ~幸せ~!こんな素敵なキッチンをありがとう!」と何度も繰り返していました。
仕事から帰ると、「ただいま!」「おかえり!」当たり前のことが何でこんなに嬉しいのだろう…涙が溢れそうでした。
自分は食べられないのに私が千波が作った料理を美味しそうに食べるのを嬉しそうに見ていました。

夏には犬を連れて旅行にも行きました。
そこでは何度も吐きながらジャンボ天丼を一人で食べきりました。
二人で陶芸にも初挑戦をしました。

しかし体力は低下していき、自宅へ帰れる頻度と日数が減っていき、12月に長期の入院をすることになりました。
骨などに転移した痛みで寝ることも容易でなくなり、眠剤で無理やり眠るという日々が続きました。
それでも望みを捨てず、クリスマス、年末年始は自宅で過ごし、年明けからまた治療をするということを決め、12月23日に退院をし、24日から3日間自宅で過ごしました。
もう料理をする体力はありませんでしたのでピザを取り、七面鳥を買ってきて、プレゼント交換…普通のことを普通に出来る幸せを二人で噛み締めました。
次は年末年始ね!と実家へ戻って行きましたが、一気に体力が落ち、自宅へ帰ってくることは叶いませんでした。

【最後の入院】
年明けに最後の望みを掛けた新たな治療(サイラムザ)をするため入院をしました。
千波の描いた筋書きは、まず麻薬で痛みのコントロールをし、栄養点滴で少しでも体力を回復させてから治療を開始する…というものでした。
しかし、いくら麻薬の量を増やしても痛みは取れず、医師からはモルヒネの投与を裏で勧められました。
それはモルヒネを開始すれば意識が混濁し、もう会話すら出来なくなることを意味していました。
なにも言わずに投与するか、本人に伝えてから投与するか、家族で話した結果、何もわからないまま逝くのはかわいそうだという事で、私は意を決し口を開きました。
「千波、モルヒネ入れるぞ」
そう伝えた瞬間、千波は虚ろだった目をカッと見開き、
「わかった。じゃあこれが最後になるね。伝えておきたいことがあるから聞いて。」と葬儀の形式の希望や銀行口座の在処などを話しました。
医師からはあと数日であることも伝えられ、私は夜中でも駆けつけられるよう晩酌を止め、毎晩枕元に携帯を置いて床に着きました。
そして朝目覚めると病院からの死神の電話が鳴らなかったことに安堵しました。
それから病院で仕事をしたり半休を取ったり毎日のように病院へ向かいました。
意識はぼんやりしているものの昏睡までは至らず、モルヒネを入れる前より体調は良く、一緒に車椅子で病院内にあるコンビニで買い物をしたり、外の空気を吸ったりすることも出来ました。
また奇跡を起こせるかも!千波も家族もそう思っていました。
千波はまた前向きになり、モルヒネの量を減らしたり、眠剤を止めたり、体を動かしたりと明日を見て頑張り出していました。
モルヒネを開始した日から病院に泊まり込んでいた千波の母も疲れきっていましたが、千波の驚異的な回復に笑顔がこぼれていました。
2月2日(日)、あと数日と言われてから2週間が経っていました。
「月火は来れないけど水曜日にまた来るね」という話をし、病室から自宅へ帰ろうとする際、いつもは「このままでごめんね」と寝たままで私を見送るところ、ベッドにしがみつきながら立ち上がり、メガネを掛け、私の顔をまじまじと見つめながら見送ってくれました。
嬉しかった反面、嫌な予感がしました。
私の顔を目に焼き付けているように見えたのです。

【2月4日】
17時40分、仕事中の私のもとにとうとう死神の電話が掛かって来ました。
「意識レベルが低下していますので至急来て下さい。間に合わない可能性が高いので、いつでも電話に出れる状態にしておいて下さい。」
急いで電車に飛び乗った途端に人身事故発生の車内アナウンス、別路線に乗り換えた途端に急病人発生で緊急停車…その間「電話鳴るな!鳴るな!」その事だけを考えていました。
2時間半かかり20時過ぎに病室へ入ると、千波の母と兄が見守っていました。
血圧は測定できないほど低下していましたが奇跡的に意識が戻っており、か細い声で「ごめんね…ありがとう」と私の顔を見ながら言いました。
全員集まった方が良いとのことで父親にも連絡を入れました。
安定しているため一度家に帰った兄も戻ってくることになりました。
二人を待つ間、体はどんどん動かなくなっていきましたが、首だけ動かし目を見開き、母と私の顔を順番に何度も何度も見て、二人の顔をその目に焼き付けていました。
兄が戻って来てしばらくした頃、千波が口を開きました。
「お父さんまだ?」
もう時間がないことを自覚していたのでしょう。
ほどなくして父親も到着し、少しの会話をしながら家族団欒の時を過ごしました。
その間、看護師が何度も様子を見に来るようになりました。
そして、看護師が辛そうにしている千波を見て、鼻管から溜まった腸液を吸いだそうとすると、顔をしかめ、
「もういいんです。やめてください。」
と止めました。
そして、「体が全然動かなくなっちゃった」と千波は言い、天井一点を見つめだし、荒かった呼吸が少しずつ穏やかになっていき、眠るように息を引き取りました。
あまりに静かに逝ったため、呼吸が止まったことに全く気づかなかったくらいでした。
45歳…早すぎる死でした。
それでも最期まで前を向き、痛みに耐えながらモルヒネの量を減らしていた千波の執念が家族が集まるのを待ち、ギリギリまで話が出来たことに繋がったのだと思います。

【最後に】
千波にガンが発覚したとき、私は2つの覚悟をしました。
千波の前で決して涙を流さないことと、いつか孤独死をするということです。
その覚悟を知ってか知らずか、どんな辛いときも最期まで千波は私に笑顔を見せ続けてくれました。

千波が亡くなる前日の昼間、仕事中の私のもとに少し電話したいとLINEが入り、
「お母さんのことをくれぐれも宜しくね」
「千波の家族は俺の家族なんだから当たり前だろ?」
「それが聞きたかった。ありがとう。」
これが最後の電話となりました。
その日の夜、LINEが入りました。
「相当疲れてるみたいだけど大丈夫?無理しないでね。」
これが最後のLINEになりました。
最後の最後まで回りの心配ばかりをしていました。

後で面倒がないよう、いくつもあった銀行口座をいつの間にか1つにまとめていました。
葬儀の連絡先に困りないようスマホのロックが解除してありました。
実家には自宅に持って帰る消耗品を買い揃えてありました。
冷凍庫には温めるだけのおつまみをたくさん用意してくれていました。
家電の保証書、ペット関連の書類、保存書類は全てそれぞれ分かりやすくファイリングしてありました。

こんな出来すぎの嫁を亡くし、私は前を向く自信がありません。
ただ、モルヒネを入れる際に千波から家族へ一言ずつ声を掛けたあと、私へは何かないの?と聞くと、
「んーないかなー。あなたの心配はなんもしてないの。あなたは大丈夫だから。」
と言われました。
その千波の信頼を裏切るわけにはいかないと、いつかは少しずつでも乗り越えていかなければと思っています。

このブログの読者の中には、ガンで苦しんでいる方がたくさんいると聞いています。
千波にガンが発覚してから、私の父を含め何人もの家族、親族、知人が亡くなりました。
その都度千波は「命を繋いで頂いているから私が生き続けないと」と言っていました。
どうぞ千波からの命のバトンを引き継ぎ、明日を生き抜いて頂きますよう宜しくお願い致します。

皆様にお話したいことは尽きませんが、お通夜でもした皆様へのお願いをもってお仕舞いとさせていただきます。

人は二度死ぬという言葉を聞いたことがあります。
一度目はその身が滅びたとき。
二度目はその人を知っている人がいなくなったときだそうです。
我々夫婦は子供に恵まれませんでした。
千波のことを知っている人はどんどん減っていきます。
ですので、たまにで構いません。年に一度でも構いません。
千波のことを思い出してやってください。
思い出してくださる方がいる限り千波は生き続けています。

お会いしたことがある方もない方も今まで千波とお付き合いくださり本当にありがとうございました。
そして、これからも末永く千波を宜しくお願い致します。

2020年2月 守屋博紀