「オレいっかい死んでみたいんよね~」
先日私の古い友人が、がんで亡くなった。
そのことをきっかけに、「死んだらどうなるのか」について議論していたときの、長男レン(11)の一言。
親としてはドキっとさせられるが、要するに彼が言いたかったのは「一回死んでみて、どうなるのか自分で確認したい」ということであった。
「生き物が死んだら、なにも残らんよ。パパはそう思うよ、だってさ、死んだやつが全部幽霊とかになったら、世の中めちゃくちゃやん?今まで何人死んだと思っとるん?計算あわんやろ。大島てる大変なことになるやろ。」
生き物が死んで焼いたら、灰とガスになる。
あの世や天国や地獄や幽霊や転生などというのは、死のむこうがわをでっちあげて、なんとなく安心したい心理の投影だ。
記憶や怨念や、自我でさえ、全部この頭蓋骨に納まっている。脳の一部を損傷することで、それらが失われることからも明かだ。
だからこの頭蓋骨の中身を燃やしてしまったら全部なくなる、当たり前のことだと・・現在47歳の私の結論はこんな感じである。
「でもさ、この世界は仮想現実かもしれんやん?そしたら、死んだら現実世界に引き戻されるだけかもやん?」
仮想現実・・YouTubeの影響ってすごい。
ともかく、レンは「死んだらすべてが無くなる」と思いたくないようだ。
「パパが思うに、肉体も精神もぜんぶ無くなる。けど、たとえばパパの友達はパパに影響を与えているわけやろ?そして今その話をレンとしている。つまり彼の影響は、日を追う毎に薄まってはいくけれども、基本的に永久に続くのだとパパは思うよ。」
がんで亡くなった友人の影響は、2人の娘さんを通し、私や他の友人たちを通し、永久に残り続ける。
キリストや釈迦のような、ある種の天才たちの影響が今でもばっちり残っているのと同じだ。
我々のようなフツーの人の影響は非常に小さいが、決してゼロにはならない。
「だからね、パパは自分が死んだ後にどんな影響をおよぼすか、自分なりに考えて行動するようにしている。できればちょっとでもいいから、世の中が良くなるように行動したい。これこそが本当の意味で、永遠の生と言えると思う。」
死後の世界は、結局は「確認のしようがないことに対して、最も楽観的な仮定を採用したい気持ち」の現れと思う。
世界のどこにでも宗教が存在し、しかもそれぞれ言っていることが異なる理由も、これで説明できる。
だからこそ、私たちは一回きりの「私」をなんとかして満足いく物語に仕立てたいと思うのである。
子どもとこんな話ができるようになったことは本当にありがたいと思っていたところ、レンが最後に一言。
「でもそのうち人類滅亡するやん?そしたら意味ないやん?」
いやいや、それを言っちゃあおしめえよ。