朝もやの中、千葉の街道を自転車で、二人はひた走る。
M君は、必死だ。
僕の憧れの高校生活が、花開くか、萎んで終わるかの瀬戸際である。
すっとこどっこいの母親に、つき合ってる暇はないのだ。
U子さんも、必死だ。
大事な息子の晴れ舞台。
私が行かねば、誰が行く!!
二人の自転車のタイプは、ママチャリのそれであるが、疾風のごとく走る姿は競輪なみであった。
しかし、そうは言ってもU子さんの乗っているのは、18インチの自転車である。
タイヤが小さいので、漕いで漕いで漕ぎまくっても、空回りしているかのごとく、思ったようには進まない。
長男M君の姿は、遥か彼方である。
『・・・そうだ、ギアだ・・・ギアチェンジ!!』
こうなったらギアチェンジして、一番重い状態で漕ごう。
U子さんは、ハンドルに目を落とした。
『・・・ない・・・』
18インチの幼児用自転車に、ギアなんぞ付いていなかった。
後に、当時を振り返ったU子さんは語った。
『・・・天才バカボンの・・・走ってる時に足がグルグル回ってるじゃない? あれよ、あれ。』
朝もや立ちこめる早朝。
千葉の街道を18インチの自転車で、バカボンの状態で疾走する冠婚葬祭スーツのU子さん。
駅に向かうサラリーマンたちをごぼう抜きして走り去る、その姿は圧巻である。
背中に突き刺さるリーマンの視線。
肩からずり落ちていちいちハンドルに当たって、その度に思わず『・・・チッ!』と舌打ちしてしまった義母から貰ったキタムラのバック。
引きつれてミシミシいってる冠婚葬祭スカート。
などなど、駅までたかだか10分弱であったがU子さんはいろんなモノと戦った。
しかし、最も彼女を苦しめたのは、これである。
極端に低いサドルにまたがっている為、停まっていると膝が曲がって地面に足が着く。この状態で思いっきりガチで漕ぐと、どうなるか。
もしかしなくても、正面から見たU子さんは、パンツが丸見えであった。
その時の彼女の願いは、ただ一つ。
『神様!!どうか、どうか、近所の人に会いませんように!!!』
面接当日。神様に祈ったのが、息子の高校推薦の合格ではないのは、この際、致し方ないであろう。
幾多の苦難を乗り越え、おかげさまでU子さんは無事に松戸駅にたどり着いた。
なんとか、予定時刻通りの電車に乗れそうである。
駐輪場に自転車をねじ込んで、ホームに走った。そして先頭車両付近に佇む、長男M君の姿を見つけた。
駆け寄る母。
『はぁ~・・・、良かった・・・。』
全身の力が抜けた・・・と同時に、この寒空の下、自分が汗だくであることにU子さんは気づいた。
こんな時の嫌な予感というのは、ハズレることはないのだ。
『ねぇ、M・・・、お母さんの顔、どうなってる・・・?』
気まずいのか、恥ずかしいのか、母親と微妙な距離をとっている息子に尋ねた。
長男M君は・・・、チラッと母を見て
「・・・うん・・・」
と小さな声で言って、うつむいた。
『・・・・・。』
慌てて家を出たので、洗面台に化粧ポーチを置いてきてしまった。こんな時に限って、である。
やがて電車が到着し、二人は無事に車内に乗り込んだ。
通勤・通学の人たちで、車内は激混みである。
『・・・暑い・・・』
今朝は、寒かった。
ヒートテックのババシャツを着てしまった己を悔いた。
汗が玉のように流れ落ち、目に入って、しみる。
ハンカチで顔だけでも拭きたいが、拭いたら化粧が取れてしまう。女優は、汗をかいても絶対に顔を拭かないというではないか。
後に、長男M君はこの時のことを、こう語った。
「どうしていいか、わからないくらいの顔だった。」
拭くと化粧が取れる、とかのレベルではなく、既に総崩れだったのである。
汗だくのU子さんを乗せて、満員御礼の電車は走り続け・・・Y家の母子は、私立高校の面接に間に合ったのであった。
その後、Y家の長男M君は無事に、推薦先の高校に合格した。現在は、憧れの高校生活をエンジョイしていることだろう。
次男L君は、クリスマスにサンタさんからお兄さん用自転車をプレゼントされて、大はしゃぎであった。
長年愛用していた大活躍のクロスファイヤーは、補助輪を付けて、近所の幼児に譲ったそうだ。
専業主婦だったU子さんは、実は看護師である。
長男が私立高校を受験すると決めた日から、職場復帰を決意していたという。
現在は地元の病院で、力強く働いてらっしゃるそうだ。
このご家族に、幸あれ。と願うワタシである。