今の時代を生きる人々が求めるものは何だろう?
価値を置くことってなんだろうか?
もちろんこれは人によって大きく異なる。
民族や国・地域によっても違うし、同じ国の中でも男女・年齢・生活水準・信仰・思想・教育の違いによっても大きな違いが出てくる。
ただ、同じ国・同じ地域に限ってみてみると、「時代による傾向」つまり「年代」による傾向というのがとても大きいように思う。
「人々が価値を置くもの」。これは簡単に言うと「希少性」というのがとても大きく関わってくる。つまり、
〇必要性があっても、簡単に手に入るものはあまり価値は高くない
〇必要なのになかなか手に入らないもの、希少性のあるものは価値が高い
簡単に言えばそういうことだ。そして、これは時代によって変わってくる。
たとえば、子供のときに戦争を経験している世代の人々にとって一番価値が高ったものは、ズバリ「食べ物」「食べること」であった。なぜなら、人生の中でその「不足」を肉体的にも精神的にも強烈に体験しているからだ。 彼らは「お金があっても食べ物が手に入らない」という時代をリアルに経験してきている。 だから、人との関係においても「食べる」という行為をとても大切に感じている。
ビジネスでもプライベートでもそうだが、この時代の人たちから食事をご馳走される機会があると、とにかくたくさん出してくれるし、食べさせられる。そして、ほぼ必ず言われるセリフが「若いんだからもっと食え」というもの。こちとらすでにアラフィフに突入しているし、食事に飢えているわけではないにもかかわらずだ。
しかし、彼ら彼女たちにとっては「それが一番大切なこと」なのだ。自分の生き方や精神を作るコアの時代に「それ」が不足していて、それを求めて必死に働いてきたのだ。そして、頑張った暁にはその形で報われてきたからだ。 だから、人のもてなしでも「食事」をすごく重要視する人が実際に多い。
ではその下の世代の人たちはどうか?
俗にいう「団塊の世代」と言われている現在60代中頃から70代初めの人たちにとって一番価値が高かったのは何か? それはズバリ「お金」だ。なぜなら、戦後の復興においてモノがどんどんと生産されるようになってくると、それらを買うために「お金」が必要な時代に突入したからだ。 そして、当時の一般家庭にとって、それらのモノを手に入れるのに必要なお金というものが「不足」してからだ。
その当時を思い起こすと、今の時代と比べてとにかく「モノ」がない。そして、その時代の所得水準からすると簡単には買えない。今日では新社会人の1人暮らしの家でも当たり前にあるものがほとんどない。当時の私の実家もそうだったが、近所の友達の家でも「風呂」があるところはごく限られていた。親子4~5人が2DKで暮らすなんていうのもたくさんあった。
しかし、「お金」さえあれば風呂でも車でもテレビでもクーラーでもなんでもそろうようになった。 戦時中は「お金があってもモノが手に入らなかった」が、高度経済成長によって「お金さえあればモノはたいてい手に入る」時代になったのだ。 だから、この時代に生きた人々は「報酬」やそれをもたらす「地位」を高めることに対して、非常に大きなモチベーションをもって働くことができた。 「猛烈サラーリーマン」「24時間、戦えますか?」というフレーズがあるように、長時間働いて業績や成果を出すことに迷いなく突き進める人が多かったと思う。
私も社会人になった頃はこの世代の人たちから仕事を教わったり叩き込まれてきたので、このへんの価値観にはかなり影響を受けていると思う。 実際、会社に寝袋をもって1週間くらい寝泊まりしながら仕事をしたり覚えたり、といったことも当たり前のようにやっていたのを覚えている。 (ただ、我々くらいの頃から、その上の世代ほど「やった分だけ報いられる」というダイレクトさがなくなり始めてきたようだ)
そして、今を生きる人にとっては、何が一番価値があるものなのか? 手にしたいと望むものなのか?
これまで述べてきたが、人が価値を感じるのは「必要なのに不足している、なかなか手に入らない」というものだ。 今の時代、これに当てはまるのは何なのか?
「食べ物」とか「お金」ほど明確に言葉で表すのが難しいが、丸っとした感じで言うならば
『共感』『承認』『自分の気持ち』
といったもののようだ。 これは私自身が導いた答えではない。世の賢人と言われる人たちの多くが語っているのもので、かつ私自身が深く同意するものだ。
今の日本、食べ物は十分にある。よほどのことがない限り餓死はせずにすむ。
また、世界中のネットワークがリアルの世界でも情報空間の世界でもつながる中、全ての物事のコストが大幅に安くなっている。食べ物にしても生活必需品にしてもちょっとした高級品にしても。
私が学生時代に買いたかったパーソナルコンピューターは本体だけでも20万円以上はした。しかも、性能的には任天堂の初代ファミコンとほぼ同じ処理能力のものでだ。 それが今や最新のOSとそこそこの処理能力を持ったPCがAmazonで2万円前後で手に入る。 20年前には15万円はしたソニーのハンディカムも、そのときと同じかそれ以上のスペックのものが3万円で買えてしまう。 家で使うものの大半は、途上国で生産された必要十分な性能のものが100均で手に入る。
そう。そこそこの収入があれば、「自分一人」生きていく分にはほとんど困らない時代が実現してしまったのだ。(“今のところは”という但し書きは必要かと思うが。。)
そして、人々の欲には限りがない。お釈迦様が2500年前に説いた通りだ。 私たち人間は「すでに手にしたものや持っているもの」ではなく、「欠けているもの、足りないもの」に意識の焦点が合わさるようになっているのだ。 ちょうど、「完全なドーナツ」と「一部が欠けたドーナツ」のたとえ話の通りだ。 「どっちが気になるか?」と問われると、十中八九の人が「欠けた方」と答えるのと同じだ。 人は「ある」ものに対してより「欠けた部分」に対してばかり意識が向いてしまうものらしい。しかも、そこに「他人との比較」というスパイスをふんだんに振りかけた形で。。。
食糧・モノ・お金・困らない生活etcを手にした私たちの意識と心はついに、「心の満足・充足感」というより深く・果てしない宇宙あるいは深海に分け入っていくことになってしまったのである。。。
(続く)
たぶん。。。。