とても久しぶりのブログ更新。

この数カ月間、色々なことがあった。悲しすぎて、ブログに書く気にもなれなかった。悲しいことがあったら、ブログに書いて整理することで、何か答えがみつかったり、気持ちが落ち着くと思って始めたブログだが、悲しすぎると、書くことさえできないことに気付いた。

しかし未来に役立つ今の記録には残しておきたいので、もう少し時間がたったら、書ける時に少しずつ書こうと思う。

心の中に変化も起きた。

自分は、先祖や両親がいなければこの世にいない。父は、私にとって大切な存在である。親孝行についてしっかり考えたいと思った。

私が海外にいることで、距離がどんどんあくことのないように。

どこにいても、家族だよ。大切だよ、ということをしっかりと表現しなければいけないと思った。

思っているだけだったり、優しい気持ちだけを持っていたり、それだけでは本当は足らなかった。

行動しなくてはいけない。

兄に関しては、絶縁だと言われたことなどにより(本音なはずはないが)、私のほうが弱くなってしまいそうだったが、そんなことに負けず、歩み寄らなければいけないと思った。

言葉は少し荒くても、実際に兄の立場で大変なことを理解をすると、海外にいてごめんなさいという気持ちを持てそうな気がした。言葉にこだわる必要はないのかもしれない。真に受けないように頑張ることも大切なポイントだ。

どうして、家族なのに海外にいるからってそんなに冷たくなるのだ!

ではなくて、

海外に行くことになって、大変な思い、辛いことをさせてしまってごめんなさい!

という気持ちで。

嫌われてもなんでもいい。とにかく歩み寄ろうと思った。

まず、月に1回は必ず電話をすることや、なるべく手紙を書いたり、誕生日にはカードを書いたり、好きそうかなと思うものを発見したら、日本に送ったり。

そんなことでいいのだ。とにかく、思いつくものをどんどん行動に移したいと思った。

父がしっかり生きている間に、たくさん形を残したい。しっかり行動したい。

思っているだけではだめなのだ。

仲良くなりたい・・・なんて思っているだけではだめなのだと気付いた。

もっと、自信を持って、自分を持って、いいと思うことは、がんがん行動する!!

心を入れ替えることにした久しぶりの更新。

家族は大切だ。そこに理由などない。優しいから、冷たいから、○○からという理由があるからではない。ただ単に家族は大切なのだ。



先日、体調の悪い親戚にあてる手紙を同封し、父と兄に手紙を書いた。何気ない話題の挨拶と、次回兄が親戚に会う時に、私が同封した手紙を渡してほしいという依頼だった。

インターネット追跡で、日本に無事ついたことは確認できたものの、気持ちをこめて書いた親戚への手紙も同封しているので、どうしても直接届いたと聞きたくて、メールにて手紙は届いたかを問い合わせた。

すると返事は特に文句でもなく、

「無事に着いたから心配しなくていい。仕事が忙しくて最近あまり体調の悪い親戚に会えないが、元気でやっている。」

というものだった。

ほっとした。やはり絶縁なんて本当にしたいわけではないはずだとまた思えた。何か質問しても、返答になっていないことも多いので、きちんと答えてもらえると言葉のキャッチボールが成立しているようで嬉しい。

なかなか兄の方から、手紙届いたよ!とか手紙渡したよ!なんて気がきく連絡はしてもらえないので、こちらからまたしばらくしたら、渡していただけたか聞いてみよう。

家族なのに、「お時間のある時にどうか手紙を渡してもらえますでしょうか」なんて丁寧語で書いてしまうけれど、要はコミュニケーションが図れれば問題ないので、このまま丁寧語でいこうと思う。そのほうが返事をしてもらいやすい気がする。



主人の優しい家族は、家族という絆が何よりも大切という文化を持っている。当然、私の家族とも仲良くなりたわけで、どうしているのかとよく気にかけてくれる。

地震のこと、原発事故のこと、もちろんよく聞かれる。何も変わりはないかとか、スカイプで話したり電話したりしているのかと。

嘘はつきたくないので、正直に父は手紙を好むのでなるべく手紙を書くようにしていること、たまに頑張ってパソコンが苦手な父がEメールとくれると嬉しいと伝えたりしている。あまり表現をすることをしないだけで、父のやり方で私を愛し、もちろん主人と主人の家族の幸せを願っていると伝えている。それは事実だ。当初は反対していたが、だんだんと理解してくれいる父は、遠くからしっかりと見守り、愛してくれているのを知っている。

兄のことは、元気だとだけ答えている。私達が遠くにいて大変気を病んでいる。寂しがっているが元気だと伝えている。

それぞれの家族にそれぞれの愛し方、接し方がある。国が違えばそこに大きな違いがでるのは当然なことは分かっている。

しかし、正直私もこんな風に仲良くなれたらと主人の家族を見て憧れる。私も家族のように可愛がってくれる義理母を見ると涙が出そうになる。主人が日本に住んでいた時は、主人の家族達はよくスカイプをしたり電話をしたり、ものを送ってくれたり。間違っても国際結婚をして離れてしまったのだからおまえなんか知らないという関係になることはなく、そんな家族関係がこの世にありえることなんて想像もつかないだろう。おそらく、父と兄が国際結婚を反対してるという話は、西洋では理解されないだろう。

自分の子供が成人してからしっかり決断したことには前向きに支えてくれるのが基本なので、遠くに住むなら、その状況の中でまた新しい楽しみが生まれる。日本に遊びにきてくれたり、相互の料理を楽しんでお互いに視野が広がったり。離れてしまったからって何も変わらない。愛の強さは変わらない。

そんな世界を主人を通してよく分かっていて、自分はそんな価値観に共感し、そんな価値観を持っているから、余計に日本の家族が遠く感じてしまう。

わたしにとって世界で一番大切な人と一緒にいることを、どうして家族として悲しいと思えるのだろうか。価値観があまりにも違いすぎて理解し合うことができないのだろうか。

兄は、私が日本で何も手伝えないのだから家族ではない、絶縁だ。日本に来ても実家に帰ってこなくていい、連絡もしなくていい、と本音ではないはずだが、実際にそうメールに書いた。

どんな思いでそんなことを書いたのだろう。

泣いても笑っても、限られた時間は平等に過ぎていく。優しく接しようが、つめたく接しようが、現実は変わらない。兄が何を言おうが嘆こうが反対の気持ちを持ち続けようが、私は国際結婚した。

2001年のNYでのテロや、2011年の東日本大震災で、1日1日を大切にすることの重さが多くの人の心に響いたと思う。

明日何があるか分からないのが世の中なのに、こんなことで大切な家族と大切な時間を無駄にしているようでならない。

家族との関係において私の一番の願いは、お互いの状況を理解して仲良くすること。子供の頃は仲のよかった兄との溝をなくしたい。



大切な夫と結婚してもう6年も経つ。幸せで愛し合っている。

しかし、日本の家族からは理解されないままだ。

先日、兄からのメールの件名が「絶縁」というものだった。今親族の中で病人がいるなどして大変なのにお前は日本にいない。自分の人生だと言って勝手に家を出た。俺の人生はどうなる。もう帰ってくるな。絶縁だということが書かれていた。

兄は独身で父と2人暮らしだ。時々やりとりするメールの中に、父と喧嘩した話なども書かれている。私としては年老いていく父と喧嘩などしてほしくない。手をあげるのではないかと怖くてたまらない。父は頑固なことろがあるかもしれないが、もう満70歳になり、父親として子供を立派に育てた。もはや兄からつべこべ言われる筋合いはない。それなのに、生活のことで兄が父に対して何か違和感や疑問を持つと、父に変わってほしいと求めてしまうように見える兄。残念だが自立できておらず、子供が親に反抗しているようにしか見えない。

兄は心の奥は優しいのを知っているが、同時にとてもまだまだ子供のようで自立できておらず、周りに助けを求めてしまう部分がある。家族のことは良い事だけを他人にいいたいし、家族円満に憧れる私には、このように兄のことを書くのは本当は辛い。

だからこそ名前も出さずに悩みのはけ口にできる場所、匿名でつづることができるブログが今の私には必要だと思った。

日本に心から頼れるような家族はいない。それだけならいいが、家族から恨まれているのかと思うと辛くてたまらなくなる。

いつの日か、本当の意味で国際結婚のことを理解してもらえる日はくるのだろうか。

私もほうも、このようなメールをもらう度に傷つきすぎないように、言われたことを半分で聞けるように努力したい。幼稚な兄は、つい感情的になるとそれをそのまま文章にしてしまうだけで、それを受け取った相手がどんな気持ちになるか、そしてそのことでどんな結果につながるのか、など考えることは難しいのだと思う。

だから、そんなこと言っても本当に絶縁したいわけないではないか、という気持ちで受け止めようと思う。