僕の希望では
ウチの息子が結婚して、子供が出来たら
それから間もなく、ひっそりと死にたい。
子供をくびきにうたないために。
受け継いでもらった命を、邪魔しないように。
他人と上手に話が出来ない。
面倒くさい。
本当に切実なことしか、考えたくないのだ。
上面の世間話など苦痛なだけだ。
こんなことを考えています、あんなことで苦しいです、と
思い切って話してみると
場が白けて、話は受け流される。
たまに誰かが聴いてくれると、
嬉しくなって、怒濤のように話し続ける
ふと気がつくと、相手は疲れ果てて
多くの場合呆れ果てており
2回目はない
さえずることは必要なのに、さえずることは難しい。

仕事って便利だ。
余計なことは話す必要がない。
仕事について話していれば間違いがない
望む望まぬにかかわらず、明日も続く
本当に切実な問題だけを話せばよい
その程度のおしゃべりが、正気を保つのには最適だ。
生命を楽しめ
でないと死にたくなる

無理矢理に
目を背けるために

目を閉じて
自分を忘れるために
壮大な暇つぶしの
退屈を紛らわそう

祈りなど捨てて
罪も罰も捨てて
生命を楽しめ
終わりすら忘れて
生きるのはなぜか。
死を恐れるのか。
生きるのはなぜか。
遣り残しがあるのか。
生きるのはなぜか。
神が命じたのか。
生きるのはなぜか。
単に惰性なのか。
生きるのはなぜか。
生きるためなのか。
いつもいつも死を思う。
右の首筋のあたりに死の一文字が見える。
右耳の後ろに弾丸の衝撃を感じる。
ふと気がつくと死を夢想している。

自分をこの世に繋ぎ止めているものは何なんだろう。
自分の死によって人生が変わってしまうかも知れない人々と、
死の瞬間に訪れ、去って行くであろう激しい苦痛だろうか。
死後に訪れるかも知れぬ
取り返しのつかない永遠の孤独だろうか。
精神的に辛くなると、「死」について考える。
死にたてのホヤホヤの自分が、冷えて、融けて、虫がわいて…
いつか乾いた骨になり埋もれていく。
目を閉じて、それをイメージすると、楽になれる。
 東京育ちの人間には、ふるさとがないと思う。下町の人にとってはそんなことはないのかも知れないが、東京都下の住宅街に育った僕には、ここがふるさとだといわれてもピンとこない。街の風景が移り変わるスピードが、あまりにも速すぎるためではないかと思う。東京の実家に帰るたびに、武蔵野の雑木林は少しずつ消え、真新しい家の並ぶ分譲地に姿を変える。昔、実家に近い中央線の駅の階段から見える、物悲しい夕暮れの景色が好きだった。実家を出て間もない頃は、たまに帰ってきてあれを見ると泣きそうな気持ちになったものだ。しかし、いまや駅はすっかり新しくなり、清潔になってしまった。何だか知らない街に来たみたいだ。ちっとも泣けない。泣けないふるさとというのは興ざめなものではないだろうか。
 そんな東京育ちの僕にとって、ふるさとらしい懐かしさを感じられる唯一の場所は、高知の鄙びた海辺の町にある母の実家だ。小さい頃、夏休みになるごとに家族で1週間泊まったものだ。そのうち1日はみんなで近くのプールに行くか、海水浴に行ったが、その他はあまりやることがなかった。炎天下、犬と散歩に行った。犬を連れて勝手口を出て、細い路地を抜けて田んぼに出る。川沿いの砂利道をてくてく歩きながら、アマガエルをつかまえたり、浅瀬に群れた小魚を眺めたりしたものだ。
 防波堤に釣りに行く時もあった。今は誰も住んでいないので、食べてくれる人もいないが、あの頃は祖父も祖母もおばも、とにかく釣った魚を食べてくれるひとたちがいた。釣った魚が珍しくても、沢山でも、おいしくても褒めてくれるひとたちがいた。後先考えずに釣りができるのは幸せなことだ。今はどこかに釣りに出かけても、たくさん持って帰って自慢したり、みんなで食べる楽しみがなくて寂しい。防波堤に着くまで町を歩くのだが、とにかく暑いので昼間は町に人気がない。やたらとクマゼミの鳴き声ばかりがうるさく、時間が止まったようだった。そこをぬけると、防波堤の向こうに見えてくる藍色の海。今でもはっきりと思い出せる泣ける景色だ。
 母方の祖父は開業医だった。海軍の軍医あがりだ。フィリピンの山奥をさまよって、修羅場を生き残った。僕が医者になったのは、完全に祖父の影響だ。小さい頃から祖父が若い頃に使っていた顕微鏡をもらって、夏休みの自由研究をしていた。そのせいか、今の医者は顕微鏡をのぞくことなぞ少ないが、僕は内視鏡や超音波をやらないかわり、今も顕微鏡ばかり使う。打聴診や触診が好きなのも、ろくな医療機器もないジャングルで軍医をした話を刷り込まれたからだ。
 開業医だった祖父の家は、家中からクレゾールのにおいがした。犬の散歩でしょっちゅう通る裏の細い路地は、病室に面していたせいか、特ににおいが強かった。高知にいるあいだ、クレゾールのにおいのする路地を抜けて、毎日僕は犬と散歩に出かけた。そこを抜けると、一面の田んぼがひろがっていた。高知の風景は、東京に比べて白っぽく見えた。土の色や山の緑が違うのだと思う。道路のアスファルトも、南国の光と潮風で焼けたかのような、白っ茶けた色をしていた。
 現在の医療機関ではクレゾールを使用することは非常に少ない。医学部に入学しても、あのにおいを東京で経験することはなかった。しかし、医学部の3年生では、細菌学実習をする。この時にはどういうわけか今でもクレゾールを使用する。実習初日に細菌実習室に入った途端、懐かしいクセのあるにおいとともに、あの白っぽい一面の田んぼの景色がよみがえった。ああ、そうだ。高知に行きたいなあ。釣りがしたいなあ。そう思った。
 医者になってからというもの、あんまり忙しくて何年も高知に帰ることができなかった。祖父は僕が医院を継いでくれればいいと思っていたに違いないが、大学で忙しく働いている様子を伝え聞き、「末は教授かのう」と笑っていたそうだ。本当は自分がそうなりたかったのだ。後に認知症が進行してから、ときどきせん妄患者独特の光る眼をして、「背広を出してくれ。今日は大学で講義だ」と、周囲を困らせたそうだ。祖父は、医院を継いでもらう話をぱったりとしなくなった。祖母がその話をしても口をつぐむようになったらしい。結局僕は医院を継がなかった。祖父は認知症が進行して医院を閉じることになり、介護に便利な高知市内に引っ越すことになった。僕はせめてもの罪滅ぼしに高知に出向き、患者を他院に引き継ぐための紹介状を書いた。クレゾールのにおいのする古びた木造の診察室で紹介状を書いていると、「ああ、ここがあの人の戦場だったのだ。」と、胸がいっぱいになった。
 祖父が亡くなる少し前に、両親やおばに頼んで、昔の家をきれいに掃除してもらった。少しでも祖父に見せてやりたかったのだ。荒れ放題だったのがだいぶましになった頃、僕も手伝いに行った。数日前に「もう昔とは全然違う」と母に告げられていた僕は、「誰も住んでいない家は荒れるものだ」と、漠然とした覚悟を決めていた。
 中に入ってみると、確かに埃だらけだった。祖父が使っていた庭のゴルフ練習台には厚くカビが生えていた。でも、そこにはわずかになったとはいえ、懐かしいクレゾールのにおいがした。古い木造家屋のにおいとないまぜになったそれが分かった途端、怒濤のように思い出が溢れた。耐えられなくなって、黙ってあの細い路地にでた。よく晴れて、あの白い景色がひろがっていた。「変わらないじゃないか、なんにも変わらないじゃないか」とつぶやきながら、いくらでも出てくる涙を抑えることができなくなってしまった。家の中に入った僕は、父や妻に見られないように下を向き、糞意地になって床を拭いた。
 きれいになった昔の家に行ったとき、祖父は上機嫌だったそうだ。それから間もなく祖父は亡くなった。葬式のために高知に行った僕は、昔の家で枯木のようになって眠っている祖父を見た途端、自分でもおかしい位に取り乱して泣きじゃくった。この人が医者である自分の初めての師であったことを、今さらながら知った。祖父の姿を見て、わずか2歳の息子が「ひいおじいちゃんはどうしたの?」と訊いた。亡くなったのだと教えると、「つかれちゃったんだね」と言った。そうだ、疲れたんだ、いつか自分もそうなるだろう、そうなりたいと思った。
調子が悪くなると、右後頭部の少し後ろの空間に、「死」の一文字が浮かび上がってきます。
薄気味悪いかもしれませんが、これは救いでもあります。
行き場のない抑うつの世界のなかでは、死は救いです。堪え難い苦痛の世界から、別の世界へと転生するための突破口なのです。
いつか全ての軛から解き放たれて、自由になりたいと夢想することは、時として必要なプロセスだと感じます。
 東京都の青少年向け図書規制条例の審議が、表現の自由を侵す可能性があると報道されています。
 僕は昔からHeavy metalが大好きでしたので、この手の規制には、いい加減うんざりします。
 まったく、もう少し頭を働かせてくれよ。
 不道徳な芸術はいけないって、芸術ってのは元来不道徳なもんでしょ。
 性行為の漫画を見たら、あんたたちはすぐに性行為をするのか?殺人事件の推理小説を読んだら、人を殺すのか?サタニズムのHeavy metalを聴いたら、悪魔崇拝になるのか?
 確かに、性行為の漫画を見たら興奮するだろうよ。しかし、興奮を生む誘引は、何も漫画だけではない。世界のあらゆる事象が、我々の欲望を刺激しているわけです。みな、中学生の頃を思い出して欲しい。漫画なんかより、学校の隣の席のかわいい女の子のリンスの匂いのほうが、男子中学生にとってよっぽど大きな性的興奮の誘引でしょ。
 だからといって、リンスのにおいをかいで興奮した男子中学生が、隣の席のかわいい女の子をレイプするわけじゃない。中にはそういう逆噴射系男子もいるけれども、確率は大変低い。そうじゃなきゃ、全国の女子中学生の貞操なんて、ひとたまりもなく破られてしまう。外部情報に刺激を受けて脳内に欲望が発生することと、実際に行為に至ることの間には、大きな隔たりがあるです。ですから、不道徳な漫画を禁止しても、その効果は興奮イコール行為という、ごく稀な壊れちゃったヒトたちの中の、さらにその漫画をこよなく愛する読者にしか及ばないに決まってる。
 では、本当に青少年の非行に関与しているのは何か?それは、一般社会との関与の喪失ですよ。結局我々人間は、頭の中に浮かんだやりたいことの殆どを、不適当なものだと淘汰して、社会的に許容されるものだけを実行しているわけです。その淘汰過程が働かなくなる状態のほうがよっぽど危険です。一般社会に愛着を感じなくなったら、そこからドロップアウトするリスクを負うことに恐怖がなくなります。すると、社会的に許容されるものだけを実行する淘汰過程が機能しなくなります。この段階に障害が起きれば、それこそ誘因になる刺激なんてなんだっていい。ちょっとしたことが世紀の大犯罪につながりかねない。
 よって、青少年向け図書規制条例なんて、有効確率はおまじない程度なのに、表現の自由を侵害する確率は、100%です。医療の世界で考えたら、激烈な副作用のある、ろくに効かない薬であることが目に見えています。
 むしろ、 人間は漫画や絵画の世界に欲望を投射することによって、現実世界での暴発を防いでいるわけで、そういった仮想世界への投射機能を失ったら、逆に現実世界で欲望を成就しようとするヤツが増えますよ。
 政策というヤツは、いつも事件の表層に見える、皮相な誘因ばかりをもとに導きだされています。役人や政治家は、「はっきり目に見える事実をもとにして責任を持って政策を立案しているんだ」というんでしょうが、本当に重要な「何故」はもっと深いところにあって、直接には見えない。大切なものは人間の目には容易に見えないということを認識して、もっと謙虚に原因検索と対策立案を行うべきです。