最後まで母の手記を読んで下さって有難うございました


ブログを書きはじめた頃は、夫は中国に単身赴任しており私は退職してはじめての専業主婦をしていました。


今、母の手記が書き終わりました

夫は日本に帰国し、私は縁あってまた看護師として働くようになりました


そして同居の祖母が胃癌で倒れ、いずれまた母のような在宅ホスピスを

実施することになると思います


父の強烈な死、遺骨を入れるために作製した指輪、母の癌、そして在宅での看取り、祖母の癌、

家族との関係・・・・


自分が世の中に生まれてきたのは人の死を考え看取るためなのか・・・

仕事も看護師だし自宅でも家族を看護し・看取りを行い・・・


決まった宗教は持っていませんが

たぶん神様は私が人の看護や死から何かを考えなさい!という意味で

こういう人生にさせたのかな?と思うのです


その分、よい家族を与えてくれたのかもしれません


これからも色々なことがあると思いますが

家族と協力しながら頑張って1日1日を大切に生きたいと思います

人生は経験があってこそ豊かになるもの

それが幸せであれ失敗や苦労であれ・・・



本当に読者も皆様、有難うございました


これからは私の日々の出来事や思いをブログに出して

いきたいと思います




母が亡くなって2年が過ぎました。

2年は、家族で支えあって生きてきました。努力は必要ではありませんでした。皆が、残された家族は仲良くいなければという気持ちを自然に持っていたからです。母の死後、息子の学校の係りになったり、仕事で新しい担当にもなりました。母親の介護中にホームページで知り合った友達とハワイで初対面もしました。2年があっという間でした。

 

そして平成17年3月、14年間務めた病院を退職しました。看護学校卒業から小児一筋で働いてきました。患者さん、ご両親方との出会いは私の財産です。この病院での仕事は大変な面も多いけれどやりがいに関しては沢山あります。かわいい子ども達は病気を持ちながらも懸命に生きているのです。純粋に生きています。

でもこれからは残りの人生を私を支えてくれた最愛の家族のために尽くしたい!というのが正直な気持ちです。仕事が出来たのも家族の協力があってこそでした。ですから、今後、仕事はなんらかの形で続けますが家族と持つ時間を多くできる仕事を考えています。

 近い将来、緩和ケア病院がもっと増えてほしいです。そして在宅で最期を迎えられるようにホスピス医のいる町の病院が増えるように願います。

最期の場所を選択出来ることは、決して難しいことではないと思います。人間、やろうと思えば必ず共感した人達が集まってくれるからです。

死の受容なんて有り得ないこと!

死ぬ最期までその人らしく活きることが大切なのです。

SクリニックのS医師、そしてH看護師・・・この2人には本当に感謝しています。医療者と患者・家族という関係ではなく、最期までお互いの立場を平行に保って下さいました。

そして、私の姉、姪っ子、祖母、伯父夫婦、親戚のYさん、Hさんにも感謝します。息子、Tには祖父母の2人ともを亡くし寂しい思いをさせてしまったけれど人に優しい人間になってくれました。

そして最後に私の夫、Mには私が母の看護をしやすように自分の仕事もありながらも最善の力を尽くしてくれました。本当に感謝のしようがありません。

父の病気の時もずっと支えてくれました。実の両親ではない私の両親のために苦労と供にしてくれたことに彼の偉大さを感じます。

在宅で最期を迎えるということは辛いことも沢山あります。息子、Fには本当に寂しい思いをさせました。息子は母の看護中、毎日の学校の送迎を希望しました。母が亡くなってからは送迎の「そ」の字も出なくなりました。おそらく、学校の送迎でしか母親が自分ものにならないと理解していたのでしょう。

でも、素晴らしい出来事や出会いも沢山あることも事実です。人との出会い・感謝の気持ちは人生の中で一番の財産ではないでしょうか?そんなことを遺骨の入った指輪をはめるたびに思うのです。

そろそろ死ぬ場所を選ぶ時代になったのではないでしょうか?

関本 雅子
在宅ホスピスハンドブック

母の主治医の医師がこのブログを紹介してくれています

http://www.homehospice-sekimoto.com/

 私は母を在宅で看取れたことでなんの悔いもありません。在宅が出来たことに対して私の周りの人達に深い感謝の気持ちを持っています。


“ホスピスは日本では受け入れにくい”


という言葉を聞き、そうしたら今母の行っている在宅ポスピスを世間の人に知ってもらい、在宅で最期を迎えたいと思っている人達の参考にしてもらいたいと思いこの手記を書き始めました。


文筆に才能のない私は本を出版するための本の書き方のホームページを参考にし、どうしても売れる本を出版するぞ!沢山の人に在宅での死が選択出来ることを知ってもらうぞ!という気持ちの元にこの手記を綴りました。

 

日々書いていると、いつのまにか自分の感情を表出する唯一の手段になっていました。最初、ページは進まなかったのに、気がつけばかなりの枚数を書いていました。母がこの世に残してくれたと思っています。

 


母のための在宅が、私にとってもとは、とは、感謝するとは家族とは、という問いに答えるきっかけを作ってくれる機会になったのです。出来るなら両親をこんなに早く亡くしたくありませんでした。もっと長生きして夫婦仲良く過ごしてほしかったです。でも


素晴らしい両親は最期まで私に人間の素晴らしいさ、生の素晴らしさを問いかけてくれたのです。



死が迫った時、母といつも思っていたのは人・自然・出来事など何にでも対する純粋な感謝の気持ちです。日が照るなんて当たり前!じゃないのです。何事にも感謝せずにはおれなかったのです。



母が亡くなって時間が経つと、ふとした時に感謝の気持ちを忘れ文句を言う自分に気がつきます。忙しさにかまけ、自分の周りの出来事が当然のことのようになるのです



。それに気がつく時、母があのやせ細った顔ながら穏やかな表情で太陽の日を顔一杯に浴びて

「気持ちがいいわあ。幸せね。有難うね。」

という光景が目に浮かんでくるのです。

 


いつもは母の指定席だった私の車の助手席にもう母は乗ることはありません。幸せそうだった母のあの笑顔を私は一生大切にするでしょう。いつでも何に持ちを忘れないようにしなければいけません。


母の死後から3ヶ月後、Sクリニックからある大学のアンケートに協力してほしいと手紙がありました。その中にH看護師からの手紙も添えられていました。

 

お元気ですか?その後皆様お変わりなくお過ごしでしょうか?ご姉妹でお母様の介護をされる姿は、本当に頭が下がる思いです。又、あれだけのケアをご自宅でなさったことは、さすがプロのナースだと思いました。本来、私が行うべきことでもすべて行って下さり本当に申し訳なかったと感じております。教えて頂いた事が山ほどあります。

 

ところで、○○子さんは素敵な女性でしたね。私もあの穏やかで優しいお母様になれるように頑張りたいと思いました。

 

寒い雪の降る日はお母様の事を思い出すと思います。私にとっていつまでも忘れられない患者様です。又、遺族としてナースとしてお話も聞かせて頂けたら、とも思います。またお話できる日をお待ちしております。

 

では、どうぞ御自愛なさり皆様お元気でお過ごし下さい。

                        H  ○○子』

 

いいえ、私こそHさんに会うのがどんなに嬉しかったか。訪問を心待ちにしていたのは母だけでなく私もでしたよ。

どんなにしんどくてS本医師とH看護師が来ることが私には支えでした。医療者として母から信頼されていたことは嬉しかったですし親孝行出来たと思います。でも、私が母の死を受容していくことは並大抵のことではありませんでした。

それは主人にも息子にも姉にも親戚にも決して話しても解決出来るものではありませんでしたから。

だから私こそ有難うございました。

同じ看護師とし、本当に患者、家族から求められている看護師をなさっているH看護師は私には輝いていました。


日々の外来・広範囲な往診。


忙しい中でも公演や講義をして、診療が新聞の連載になったりしていたりと周りから見れば有名な医師でした。


しかし、そんなことは微塵も見せず常にパワフルで、豪快な笑いと会話、そして素敵な洋服には元気づけられることが多かったです。


患者・家族主体の医療で常に私達の考えを確認しながら、医師・看護師・薬剤師が周りにいてくれました。



こんな医者もいれくれるんだ・・・というのが私の心からの正直な気持ちでした。


もう母のことで受診することはありませんが、いつまでも交流を持っていたい方です。



本当に、お世話になりました。

母の主治医のHPでこのブログが紹介されました

http://www.homehospice-sekimoto.com/

※長い間、ブログの更新を怠り申し訳ありませんでした。

 以前記載した、同居している祖母の胃癌の手術が無事終了し退院の運びとなりました。

 しかし、肝臓への転移があり高齢〔84歳〕な祖母がこれから内服の抗がん剤をどこまで飲める

 か?

 余命6ヶ月と宣告されました。人間の寿命は実際はわかりませんが、残された時間を家族で支えて

 いこうと考えています。

関本 雅子
在宅ホスピスハンドブック



 本人や家族の負担が24時間続き余裕が無くなる。

 ※ヘルパーさんや訪問看護、親戚の協力を得ることによってかなり解消されるでしょう。それと

  1日30分てもいいいので自分の時間を持つことが大切です。私はもっぱらコンピューターで

  した。


 調子が悪くなると常に近くに医師や看護師がいないので不安がある。

  ※事前に予測出来る状況を医師・看護師に確認しておくと少しでも不安が軽減されると思いま

   す。電話があるので不安なら確認も出来ます。


 

慣れない医療処置を本人または家族が実施しなければならない。

 ※この点に関しては看護師としてはストレスにはならず、むしろ点滴を作ったりすることがよい

  気分転換になりました。

自作の医療品入れ。紐を通してテープをつるしてお

                  くと使用しやすかった。

母の点滴のポンプ。これがあるから私も安心hして寝れま

                   した。

これも自作の医療品いれ。看護師はこういう工夫に優れて

                  いると思います!!

3ヶ月の在宅を終えて、私達家族と母の考える在宅ホスピスの良さを述べてみます。



なにより自分の家である


自宅にいたら患者なりに自然に役割を持っている。人は死ぬまで人の役に立ちたいと思っている。


患者のしたい時にしたい事が出来る。ストレスを持ちにくい。


点滴などの処置も生活の一部になり特別の事と思わない。


食事は好きな時間に好きなものを食べれる。


患者・家族・医師・看護師・他の医療者がその患者にとって一番ベストであるように動く。患者・家族の意思を医師が尊重し供に考えよとする姿勢を持っている。医療者が柔軟な姿勢を持っている。


在宅ホスピスのプロの医師が診てくれる(これは医師による)。餅屋は餅屋!


いつでも連絡を取れる体制であり安心感がある。


自宅で患者が自分の持ち物の整理が出来る(死に向けて)

※現在進行形で今、同居している祖母の胃癌が分かりました。10月27日に手術です。母が亡くなって2年半・・・父が亡くなって5年・・・どうででして続くのかと少し落ち込みました。祖母の手術の成功を祈るのみです。

母の主治医がこのブログをHPで紹介して下さってます。

http://www.homehospice-sekimoto.com/










平成15年3月6日、放送大学の卒業認定通知が届きました。

母に見せることは出来ませんでした。なんだかドラマのようでした。あと一教科落ちていたら卒業出来ませんでした。

十分な勉強も出来ないまま、それも母親が入院中のハードな日々でした。

今回は自信がないままの出来だったためまさか試験がみごと合格して卒業出来るなんて!

 

試験のたびに母と主人に子どもを見てもらって受験しに行っていました。

私一人では学校を続けることは出来ませんでした。費用に関しても主人は何の文句も言わず出してくれていました。

家族に感謝の気持ちで一杯でした。

母親の遺骨の前に置いて感慨無量になりました。

私一人で生きているわけではないと、改めて感じた出来事でした。

平成15年3月5日、母の大好きだったピンクのコートを着た写真を選びました


戒名は梅香道園信女でした。


綺麗な戒名でした。


祭壇も優しい雰囲気の母らしいものを選びました。


姉が喪主を勤めましたが、焼香の順番・香典を読む順番お膳の数と雑務に追われ悲しみに浸ることはありませんでした。


最期のお別れの時、花を入れる時だけ母をゆっくり見れました。




心の中ではもう苦しかったこの体の中に、母はいないと思っていたので母の体にご苦労様と手を合わせました。


沢山の方が最期の母とのお別れに来てくれていました。

 


お通夜やお葬式には私の職場の医師や同僚も来てくれました。こちらが休ませてもらっていたのに遠くから来てくれて心から感謝しました。

 

偉大な母・・・・





母の主治医がHPにこのブログを紹介してくれています

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S医師とH看護師が来られました。

私が玄関を開けると医師達と一緒に綺麗な雪がワ~ッと入って来ました

今年の初雪でした

まるで母の死を嘆いてくれるような本当に綺麗な綺麗な雪が入って来ました。

死亡を確認してもらい、死亡診断書も書いてもらいました。

死の直接原因は癌性腹膜炎でした。

エンジェルケア(死後の処置)を皆でしました。

綺麗に体を拭いて母の一番のお気に入りだった洋服を着せました

大好きだった石川さゆりさんのファンクラブバッチはそのまま付けて着せました。

姉が眉を整え化粧もしてくれました。

S医師達が診察のために帰った後は親戚・職場への連絡、葬儀屋とのお葬式の打ち合わせなどバタバ

タと時間がすぎました。

主人が段取りのために会社から帰宅してからは

私は3階の自分の部屋で倒れるように寝入りました。

 

平成16年3月4日16時、母がお寺へ運ばれました。

母の主治医のHPでこのブログが紹介されました

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