母が亡くなって2年が過ぎました。
2年は、家族で支えあって生きてきました。努力は必要ではありませんでした。皆が、残された家族は仲良くいなければという気持ちを自然に持っていたからです。母の死後、息子の学校の係りになったり、仕事で新しい担当にもなりました。母親の介護中にホームページで知り合った友達とハワイで初対面もしました。2年があっという間でした。
そして平成17年3月、14年間務めた病院を退職しました。看護学校卒業から小児一筋で働いてきました。患者さん、ご両親方との出会いは私の財産です。この病院での仕事は大変な面も多いけれどやりがいに関しては沢山あります。かわいい子ども達は病気を持ちながらも懸命に生きているのです。純粋に生きています。
でもこれからは残りの人生を私を支えてくれた最愛の家族のために尽くしたい!というのが正直な気持ちです。仕事が出来たのも家族の協力があってこそでした。ですから、今後、仕事はなんらかの形で続けますが家族と持つ時間を多くできる仕事を考えています。
近い将来、緩和ケア病院がもっと増えてほしいです。そして在宅で最期を迎えられるようにホスピス医のいる町の病院が増えるように願います。
最期の場所を選択出来ることは、決して難しいことではないと思います。人間、やろうと思えば必ず共感した人達が集まってくれるからです。
死の受容なんて有り得ないこと!
死ぬ最期までその人らしく活きることが大切なのです。
SクリニックのS医師、そしてH看護師・・・この2人には本当に感謝しています。医療者と患者・家族という関係ではなく、最期までお互いの立場を平行に保って下さいました。
そして、私の姉、姪っ子、祖母、伯父夫婦、親戚のYさん、Hさんにも感謝します。息子、Tには祖父母の2人ともを亡くし寂しい思いをさせてしまったけれど人に優しい人間になってくれました。
そして最後に私の夫、Mには私が母の看護をしやすように自分の仕事もありながらも最善の力を尽くしてくれました。本当に感謝のしようがありません。
父の病気の時もずっと支えてくれました。実の両親ではない私の両親のために苦労と供にしてくれたことに彼の偉大さを感じます。
在宅で最期を迎えるということは辛いことも沢山あります。息子、Fには本当に寂しい思いをさせました。息子は母の看護中、毎日の学校の送迎を希望しました。母が亡くなってからは送迎の「そ」の字も出なくなりました。おそらく、学校の送迎でしか母親が自分ものにならないと理解していたのでしょう。
でも、素晴らしい出来事や出会いも沢山あることも事実です。人との出会い・感謝の気持ちは人生の中で一番の財産ではないでしょうか?そんなことを遺骨の入った指輪をはめるたびに思うのです。
そろそろ死ぬ場所を選ぶ時代になったのではないでしょうか?
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- 関本 雅子
- 在宅ホスピスハンドブック
母の主治医の医師がこのブログを紹介してくれています
http://www.homehospice-sekimoto.com/