なおひろのブログ

なおひろのブログ

真の母・韓鶴子総裁を愛しています。
(。+・`ω・´)シャキーン☆

真の母・韓鶴子総裁を愛しています。
Amebaでブログを始めよう!

…――内蔵助も、まなじりしわを深くして、笑いながら、
「何か面白い話でもありましたか。」
「いえ。不相変あいかわらずの無駄話ばかりでございます。もっとも先刻、近松ちかまつ甚三郎じんざぶろうの話を致した時には、伝右衛門殿なぞも、眼に涙をためて、聞いて居られましたが、そのほかは――いや、そう云えば、面白い話がございました。我々が吉良きら殿を討取って以来、江戸中に何かと仇討あだうちじみた事が流行はやるそうでございます。」
「ははあ、それは思いもよりませんな。」
 忠左衛門は、けげんな顔をして、藤左衛門を見た。相手は、この話をして聞かせるのが、何故なぜか非常に得意らしい。
「今も似よりの話を二つ三つ聞いて来ましたが、中でも可笑おかしかったのは、南八丁堀みなみはっちょうぼり湊町みなとちょう辺にあった話です。何でも事の起りは、あの界隈かいわいの米屋の亭主が、風呂屋で、隣同志の紺屋の職人と喧嘩をしたのですな。どうせ起りは、湯がはねかったとか何とか云う、つまらない事からなのでしょう。そうして、その揚句あげくに米屋の亭主の方が、紺屋の職人に桶で散々なぐられたのだそうです。すると、米屋の丁稚でっちが一人、それを遺恨に思って、暮方くれがたその職人の外へ出る所を待伏せて、いきなりかぎを向うの肩へ打ちこんだと云うじゃありませんか。それも「主人のかたき、思い知れ」と云いながら、やったのだそうです。……」
 藤左衛門は、手真似をしながら、笑い笑い、こう云った。
「それはまた乱暴至極ですな。」
「職人の方は、大怪我おおけがをしたようです。それでも、近所の評判は、その丁稚でっちの方がいと云うのだから、不思議でしょう。そのほかまだその通町とおりちょう三丁目にも一つ、新麹町しんこうじまちの二丁目にも一つ、それから、もう一つはどこでしたかな。とにかく、諸方にあるそうです。それが皆、我々の真似だそうだから、可笑おかしいじゃありませんか。」
 藤左衛門と忠左衛門とは、顔を見合せて、笑った。復讐の挙が江戸の人心に与えた影響を耳にするのは、どんな些事さじにしても、快いに相違ない。ただ一人内蔵助くらのすけだけは、僅に額へ手を加えたまま、つまらなそうな顔をして、黙っている。――藤左衛門の話は、彼の心の満足に、かすかながら妙な曇りを落させた。と云っても、勿論彼が、彼のした行為のあらゆる結果に、責任を持つ気でいた訳ではない。彼等が復讐の挙を果して以来、江戸中に仇討が流行した所で、それはもとより彼の良心と風馬牛ふうばぎゅうなのが当然である。しかし、それにも関らず、彼の心からは、今までの春のぬくもりが、幾分か減却したような感じがあった。
 事実を云えば、その時の彼は、単に自分たちのした事の影響が、意外な所まで波動したのに、いささか驚いただけなのである。が、ふだんの彼なら、藤左衛門や忠左衛門と共に、笑ってすませる筈のこの事実が、その時の満足しきった彼の心には、ふと不快な種をく事になった。これは恐らく、彼の満足が、暗々のうちに論理と背馳はいちして、彼の行為とその結果のすべてとを肯定するほど、虫の好い性質を帯びていたからであろう。勿論当時の彼の心には、こう云う解剖的かいぼうてきな考えは、少しもはいって来なかった。彼はただ、春風しゅんぷうの底に一脈の氷冷ひれいの気を感じて、何となく不愉快になっただけである。…





芥川龍之介
「或日の大石内蔵助」