真の母・韓鶴子総裁を愛しています。
…――内蔵助も、眦 の皺 を深くして、笑いながら、
「何か面白い話でもありましたか。」
「いえ。不相変 の無駄話ばかりでございます。もっとも先刻、近松 が甚三郎 の話を致した時には、伝右衛門殿なぞも、眼に涙をためて、聞いて居られましたが、そのほかは――いや、そう云えば、面白い話がございました。我々が吉良 殿を討取って以来、江戸中に何かと仇討 じみた事が流行 るそうでございます。」
「ははあ、それは思いもよりませんな。」
忠左衛門は、けげんな顔をして、藤左衛門を見た。相手は、この話をして聞かせるのが、何故 か非常に得意らしい。
「今も似よりの話を二つ三つ聞いて来ましたが、中でも可笑 しかったのは、南八丁堀 の湊町 辺にあった話です。何でも事の起りは、あの界隈 の米屋の亭主が、風呂屋で、隣同志の紺屋の職人と喧嘩をしたのですな。どうせ起りは、湯がはねかったとか何とか云う、つまらない事からなのでしょう。そうして、その揚句 に米屋の亭主の方が、紺屋の職人に桶で散々撲 られたのだそうです。すると、米屋の丁稚 が一人、それを遺恨に思って、暮方 その職人の外へ出る所を待伏せて、いきなり鉤 を向うの肩へ打ちこんだと云うじゃありませんか。それも「主人の讐 、思い知れ」と云いながら、やったのだそうです。……」
藤左衛門は、手真似をしながら、笑い笑い、こう云った。
「それはまた乱暴至極ですな。」
「職人の方は、大怪我 をしたようです。それでも、近所の評判は、その丁稚 の方が好 いと云うのだから、不思議でしょう。そのほかまだその通町 三丁目にも一つ、新麹町 の二丁目にも一つ、それから、もう一つはどこでしたかな。とにかく、諸方にあるそうです。それが皆、我々の真似だそうだから、可笑 しいじゃありませんか。」
藤左衛門と忠左衛門とは、顔を見合せて、笑った。復讐の挙が江戸の人心に与えた影響を耳にするのは、どんな些事 にしても、快いに相違ない。ただ一人内蔵助 だけは、僅に額へ手を加えたまま、つまらなそうな顔をして、黙っている。――藤左衛門の話は、彼の心の満足に、かすかながら妙な曇りを落させた。と云っても、勿論彼が、彼のした行為のあらゆる結果に、責任を持つ気でいた訳ではない。彼等が復讐の挙を果して以来、江戸中に仇討が流行した所で、それはもとより彼の良心と風馬牛 なのが当然である。しかし、それにも関らず、彼の心からは、今までの春の温 もりが、幾分か減却したような感じがあった。
事実を云えば、その時の彼は、単に自分たちのした事の影響が、意外な所まで波動したのに、聊 か驚いただけなのである。が、ふだんの彼なら、藤左衛門や忠左衛門と共に、笑ってすませる筈のこの事実が、その時の満足しきった彼の心には、ふと不快な種を蒔 く事になった。これは恐らく、彼の満足が、暗々の裡 に論理と背馳 して、彼の行為とその結果のすべてとを肯定するほど、虫の好い性質を帯びていたからであろう。勿論当時の彼の心には、こう云う解剖的 な考えは、少しもはいって来なかった。彼はただ、春風 の底に一脈の氷冷 の気を感じて、何となく不愉快になっただけである。…
「何か面白い話でもありましたか。」
「いえ。
「ははあ、それは思いもよりませんな。」
忠左衛門は、けげんな顔をして、藤左衛門を見た。相手は、この話をして聞かせるのが、
「今も似よりの話を二つ三つ聞いて来ましたが、中でも
藤左衛門は、手真似をしながら、笑い笑い、こう云った。
「それはまた乱暴至極ですな。」
「職人の方は、
藤左衛門と忠左衛門とは、顔を見合せて、笑った。復讐の挙が江戸の人心に与えた影響を耳にするのは、どんな
事実を云えば、その時の彼は、単に自分たちのした事の影響が、意外な所まで波動したのに、
芥川龍之介
「或日の大石内蔵助」