私自身にとっての鹿威しを見つける』

 よく禅庭で見かける「鹿威(ししおど)し」という装置は、実に面白いと思う。

 静かな気持ちになって庭を見つめていると、その静寂を破るように鹿威しの音が鳴り響く。

 どうして静寂なままにしておいてくれないのか?

 禅語にこんな言葉がある


「風定(しず)まって花なお落ち、鳥啼いて山更に幽なり」。

 つまり、静寂が破られることによって、さらに深い静寂が訪れる。または、花の落ちる音、鳥の声によって、静寂に浸っていた自分自身が破られるというか、外境と一つになっていた自分自身が自分自身に戻ってくるということだろう。

 鹿威しとは、この自然なるシステムを人工的に作り出すことによって、自分自身に「戻る」、または自分自身を「思い出す」というきっかけを送る信号装置といえるだろう。

 この装置を、自分自身の生活環境に、自分自身の身体に持つことができたら面白いと思う。
 いろんな方法があると思うが、こんなのはどうだろう?

 よくトイレに標語があったりする「きれいに使いましょう」から、「きれいに使ってくれてありがとうございます」。これが、ユニークなのだと

 急ぐとも 
   こころ静かに 
     手を添えて 
  そとに漏らすな 
        松茸の露
    

 とか、風流を感じるものまで。これは田舎に行くほどバリエーションに富むらしい

 素敵である。個人的に好きなのは、

『スピードよりもコントロール』であるが・・・

 トイレの格言の話は尽きないが…

 今日は、一輪の梅を置いてみた。なんだか、いつもよりもトイレが暖かく感じた。陽にあたった梅の枝が伸びる上がる感じが、いつも下を向いて小水をしている僕を引き下げないようにサポートしてくれているようだ。一輪の梅を見る余裕は、小水をたしなむ瞬間の間を作る。今日の小水は春の小川のようだった。

梅の花 
 そっと見つめて
       松竹梅


松こと、竹のように、梅の蕾 未来の花・・・・散らしてはならぬ・・・・お後がよろしいようで(笑)(完)
   $我他彼此(ガタヒシ)日記
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