おもに読書記録

おもに読書記録

療養日記。

好きな著者は安部公房、鈴木大拙、西田幾多郎、木村敏、マイスター・エックハルト、村上春樹、高橋源一郎、夏目漱石、河合隼雄。モダンジャズを聴くのが好き。
Amebaでブログを始めよう!

特に理由はないんだけど、いやあるかもしれないけど、ブログを引っ越ししようかなあなんて考えてる。引っ越しと言っても、次もアメブロで、別のアカウントを取るだけだと思うけど。

 

なんか、このブログもとても長く続けているので、この辺で気分転換で気分一新したい気がしてきた。ここ最近、書く内容も以前とはだいぶ変わってきたし。新しいブログは、身辺雑記というかつぶやきというか、日常のことについて書こうと思う。でも、おもに読書日記になるかな、やっぱり。

結局、騎士団長殺しの第1部だけ買った。まだ読んでない。今日もヘーゲルを読んでる。

いちおう言っておくけど、ぼくは村上春樹の信者でもないし、全面的に帰依しているわけでもない。村上春樹について、これはちょっと自分の考えや感じ方と相容れないという部分はたくさんある。それでも、村上春樹は自分にとって重要な存在であることは否定できない。なぜ自分は村上春樹を読むのか、読まざるをえないのか、これは自分にとって追求すべきテーマだ。

例えば、ぼくは鈴木大拙、西田幾多郎、木村敏などに惹かれるけど、村上春樹はこれらの人の本は読んでいないだろうし、反発すら覚えているかもしれない。でも、ぼくはこれらの人たちにも惹かれる。人それぞれ違うんだから、当たり前のことだ。ぼくは村上春樹ではないし。そういえば、村上春樹自身も、どこかで、尊敬する人はいまも昔もいない、というようなことを言っていた。村上春樹は原理主義を憎んでいるし、人とのほどほどの付き合い方をわきまえているように思う。村上春樹は、いろいろな意味で常識的な人だと思う。

 

 

いまちょうど長谷川宏訳のヘーゲル『精神現象学』を読んでいるのもあって、上の本を買ってみた。アマゾンで買い物をするのは久し振りかもしれん。

 

あと、明日本屋で村上春樹『騎士団長殺し』の第一部を買うかも。なんか、読むのを我慢できなくなってきた。アマゾンレビューではやはり低評価みたいだけど、でもやはり気になるし、読んでみたい。

突拍子もない発想と思われるかもしれないけど、スペイン語をちょっとだけ勉強してみたいと思った。もちろん習得を目指すわけではなくて、例文をちょっと暗記したり音読してみたいというだけ。ちょっとだけ触れてみたいなと思った。村上春樹『1Q84』のなかでも、主人公がスペイン語の例文を音読している場面があった。

 

スペイン文化と言えば、ぼくに接点があるのはフラメンコ音楽、あとセルバンテス、ボルヘスなどの小説くらいか。特に、ぼくは高校のときにチック・コリアの「スペイン」という曲に出会って以来、スペイン音楽にはずっと関心がある。パコ・デ・ルシアの音楽に出会ったのも、高校のときだった。

 

スペインなんていままで意識したことがなかったけど、考えてみれば、スペイン音楽にはずっと惹かれ続けていた。というわけで、ちょっとだけ、スペイン語に触れてみようと思う。スタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトの『ゲッツ/ジルベルト』でのポルトガル語の歌の発音も、すごく気に入っている。

大学一年のときだったか、カーネギーの『道は開ける』という本を読んで、「自分がいままで哲学と呼んでいたものは、実は自己啓発というものだったんだ」と気づいて、まさに道が開けたような感覚があった。ぼくにも、自己啓発に多少興味のある時期があったということ。それから自己啓発系の本をたくさん読んだというわけでもなくて、そのあと『ラッセル幸福論』に出会ったのかな。確かに、『ラッセル幸福論』は、あまり哲学的ではないというか、自己啓発が好きな人でも理解しやすいと思う。実用的だから。ハウツー的要素が強い。『ラッセル幸福論』は、大学一年から二年にかけて、本を読まない自分にとっていちばん重要な本だった。赤と青と黄色で線を引っ張りまくり、書き込みをしまくった。いまもその本は本棚にある。いい思い出というか。

 

ぼくは、自分に哲学に縁があるとは思わなかった。高校のときから、森田療法の理論が、自分の価値観・人生観の根底を支えていたので、ぼくの考えていることだとか言っていることは、周りの人から「哲学的」と評価されることがしばしばあった。要するに、東洋哲学ということだろう。西洋の哲学なんて、森田療法を実践している自分にとっては諸悪の根源でしかないと思っていた。本気でそう思っていた。だから西洋の哲学にはまったく興味がなかった。

 

で、統合失調症になってから二年くらい経ったときに西田幾多郎の『善の研究』に出会った。素晴らしい出会いだった。で、自分の関心はやはり仏教だとか東洋思想にあるのだと思った。その少しあとに、ショーペンハウアーの哲学は仏教から強く影響を受けているという話を聞いて、いわゆる西洋思想にも少しずつ関心を持つようになった。

読む本を変えたら、少し読み進められた。いまヘーゲル『精神現象学』を読んでいる。難しいけど、面白いので、何ページか読み進められた。

 

復習の意味もかねて、さっき読んだ印象に残っている部分をいくらか抜き書きしておこう。

 

自然そのままの意識は、知の可能性をもっているだけで、実際に知を備えているわけではない。が、当初その意識は自分が知を備えていると思いこんでいるから、真の知への道程は知の否定という意味合いをもち、意識の可能性を実現する道行きが、かえって、自己喪失のように感じられる。この道行きで意識は自分が真理だと思っていたものを失うのだから。だから、この道程は疑いの道と見なすことができるし、もっとはっきりいえば、絶望の道である。(ヘーゲル『精神現象学』、作品社、55頁)

 

ヘーゲルは、なかなか厳しい物言いをする。

 

おのれの信念にしたがうのは、むろん、権威に身をゆだねるよりはましなことだ。が、権威にもとづく判断をおのれの信念にもとづく判断に変えたからといって、内容が変わるとは限らないし、あやまり転じて真理になるとも限らない。思いこみと偏見の体系にとらわれているかぎり、他人の権威によろうと、おのれの信念にもとづこうと、真理からは遠く、二つのちがいはといえば、おのれの信念にもとづくほうが虚栄心が満たされやすいといった程度のことである。(同、56頁)

 

ヘーゲル怖い。けど、目から鱗というか、その通りだよな、と思う。

 

さて、続きを読もう。

何もやる気がないときは、どうすればいいのか。これって、簡単な問題ではない。普通だったら、そういうときは休めばいいとなるだろう。でも、いつも、四六時中やる気がないときはどうすればいいのか。休めばいいの?じゃあ、一生働いたりできないじゃないか。

 

だから、やる気がなくても、無理矢理動いたりする必要があるということ。仕事のときはもちろん、家で過ごしているときも、やる気がなくても、無理矢理動かないといけないということ。

 

こうなると、どういうときに休むべきなのか、わからない。やる気がないのに無理矢理動いているから、疲れて、睡眠時間が長くなるんだろう。

 

この問題は、統合失調症の根本的な問題だと思う。一定の答えは出ていないんじゃないか。

いま読んでる本が難しいから、読書がはかどらないのか、いまの自分の体調が悪いから読書がはかどらないのか、いつもこの区別がつかない。読む本を変えれば、読書がはかどるようになるのだろうか。でも、いま読んでる『葬送』、気になるんだよな。でも、難しい。どうしよう。