『ヤロブアムの罪からは離れず』
(列王記下 10章28節~31節)
(2024年7月14日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)
先週、健康診断を受け、検診に行く度に、運動しなければと思います。
昨年、ちょこザップの話をしましたが、長く続きませんでした。
継続は力なりと言われますが、続けることは簡単ではありません。
私は、毎年、一年の計は元旦にありと、目標を立てて、色々チャレンジするのですが、いつの間にかやめてしまっていることが多々あります。
継続できない、持続性の足りない私なのですが、毎朝のQTと御言葉メールの配信だけは、30年以上、続いています。
ヤコブは、「御言葉には魂を救う力がある」と語り、御言葉を聞いて、行う人は、幸せになる、と語っていますが、私はこの言葉を信じ、実践し、御言葉には、魂のみならず、日々の生活を守り、救い、助け、幸せに導く力があると信じています。
まさに継続は力であり、毎朝のQTは、私の力の源です。
来週、QTセミナーがありますので、ぜひ、ご出席ください。
さて、聖書日課は、列王記下10章に入りました。
9章から続いたイスラエルの王、イエフの物語のラストになります。
10:28 このようにして、イエフはイスラエルからバアルを滅ぼし去った。
イエフは、北王国・イスラエルの10代目の王様です。
彼は、人間的な視点で見ると、謀反を起こし、アハブの一族を殺害するなど、ここまでするかというほど、非常に横暴で、残忍な王でした。
しかし、昨日の御言葉メールでも書きましたが、こんな彼が、北王国の中では、一番マシな王様、唯一の名君だったと評価されているのです。
どれほど、イスラエルの王たちが悪王だったかが分かります。
その最たる王が、アハブでした。
アハブは、史上最悪の王であったと列王記上16章に書かれています。
P561
16:30 オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。
16:31 彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。
16:32 サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。
16:33 アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った。
ヤロブアムの罪を繰り返す
今日のテーマである言葉です。
このヤロブアムの罪については、後で解説します。
アハブは、ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、バアルに仕え、ひれ伏し、バアルの祭壇を築いて、主の怒りを招いた、というのです。
9章からは、アハブの罪に対する神の裁きが語られてきました。
主は、イエフを用いて、アハブの家を滅ぼし、イスラエルからバアルを取り除かれたのです。
さて、今朝は、イエフがバアルをイスラエルから取り除いた後の話です。
10:29 ただ、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪からは離れず、ベテルとダンにある金の子牛を退けなかった。
今日の御言葉です。
ヤロブアムの罪からは離れず
今日のテーマです。
イエフはアハブの罪を離れ、イスラエルからバアルの偶像を一掃します。
これは、主の目にかなう正しいことであり、このことを成し遂げるために、イエフは神に選ばれ、王とされたのです。
10:30 主はイエフに言われた。「あなたはわたしの目にかなう正しいことをよく成し遂げ、わたしの心にあった事をことごとくアハブの家に対して行った。それゆえあなたの子孫は四代にわたってイスラエルの王座につく。」
主は、イエフに、彼の子孫が四代にわたり、王座につく、と預言します。
これは、神の言葉に従ったイエフに対する神の報いです。
主の言葉に聞き従う者には、「それゆえ」の世界が備えられます。
主の言葉に聞き従う者には、「そうすれば」の約束が与えられます。
これが神の報いであり、この報いを私は「神の祝福」と理解しています。
10:31 しかしイエフは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に従って歩もうと努めず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を離れなかった。
前回、「神の恵み」と「神の祝福」の違いについてお話しました。
神の恵みは、受ける資格がない者に用意され、与えられるものです。
神の恵みは、ありえない恵みであり、神の恩寵とも呼ばれます。
これは、私たちの努力、行いによって与えられるものではありません。
イエフが神に選ばれ、油注がれ、王になったのは、神の恵みなのです。
彼の人間性を見れば、神の恵みが理解できます。
彼は残虐で、王を裏切り、謀反を起こし、アハブの家に属する者を殺害し、70人の子供の首をさらすなど、なぜ、こんな人物を神が選び、王にしたのか、理解できないような人物です。
この男を、神様は御心を行うために選び、油を注ぎ、王にされました。
信じられないことが起こる。
あり得ない者が選ばれ、救われる。
これが神の恵みです。
私自身、救われたのも、牧師になり、30年、主に仕えて来れたのは、神の恵み以外のなにものでもありません。
神の恵みによって、今の私があり、この教会があります。
ふさわしくない者が選ばれ、救われ、用いて下さったのです。
それは、自分自身が一番、よく理解しています。
私たちも同じです。
私たちが神に選ばれ、救われたのは、神の恵みです。
神様は、恵みを与え、更に恵みの上に恵みを増し加えて下さるお方です。
これが神の報いであり、神の祝福なのです。
さて、イエフは、エリシャを通し、主の言葉を聞きました。
彼は、主の言葉に従って、イスラエルからバアルを滅ぼしたのです。
その結果、彼の子孫は四代まで、王位に就くと約束されます。
これは、御心に従ったイエフに約束された神の報いなのです。
今日、覚えたいことは、神の恵みを受け、祝福に与った後の生き方です。
もう一度、31節をお読みします。
10:31 しかしイエフは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に従って歩もうと努めず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を離れなかった。
主の律法に従って歩もうと努めず
新改訳では「主の律法に歩もうと心がけようとせず」と訳されています。
主と主の言葉に従い続けることは、自然にできることではありません。
自然のままにすると、私たちの信仰はズレていくからです。
QTを続けるためにも、努力が必要であり、心がけが必要なのです。
継続は力であり、御言葉には、魂を救う力がある。
主の言葉を信じるだけではなく、
主の言葉に歩もうと、心がけること、努力することも必要なのです。
御言葉を聞くことを怠ると、心は主から離れ、信仰がズレるからです。
どんなに昔、熱心に聖書を読み、従っていたとしても、その時に与えられた神の報いの貯金は、しばらくは続いても、やがて尽きてしまうのです。
私は、開拓直後、ハ・ヨンジョ先生から「昨日の力で、今日を生きることはできません」という言葉を聞いて、気づかされました。
私は、過去の信仰、高砂時代に主に従ってきた報いを受けて、その貯金に支えられて、今がある、と。
しかし、その貯金は、どんどんと目減りしている。
今日の力を得るために、QTの大切さを知り、日々、今日の力によって、今日を生きるようになりました。
日々、主の御声を聞き、御心に従って歩み続ける。
そうすれば、神の報いが約束され、神の祝福が、やがて恵みの雨のように降り注ぐと信じます。
イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を離れなかった。
イエフの、もう一つの問題は、ヤロブアムの罪です。
もう一度、今日の御言葉をお読みします。
10:29 ただ、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪からは離れず、ベテルとダンにある金の子牛を退けなかった。
列王記上11章を見ると、ヤロブアムは、預言者アヒヤを通し、イスラエルの分裂と、彼が10部族(北王国)の王になる、と告げられます。
イエフが神に選ばれ、王になったように、ヤロブアムも神に選ばれ、王となります。
11:37 だが、わたしはあなたを選ぶ。自分の望みどおりに支配し、イスラエルの王となれ。
11:38 あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行い、わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、わたしはあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする。
ヤロブアムが神に選ばれたのは、恵みです。
主はヤロブアムにも、主の戒めにことごとく聞き従い、主の道を歩み、主の目にかなう正しいことを行うならば、と語ります。
主の言葉に従うならば、という神の約束が告げられます。
しかし、彼は、この後、主の戒めを破り、主の怒りを招きます。
列王記上12章をご覧ください。P552
ここに、今日の話につながる伏線があります。
12:26 ヤロブアムは心に思った。「今、王国は、再びダビデの家のものになりそうだ。
12:27 この民がいけにえをささげるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダの王レハブアムに向かい、彼らはわたしを殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰ってしまうだろう。」
12:28 彼はよく考えたうえで、金の子牛を二体造り、人々に言った。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である。」
12:29 彼は一体をベテルに、もう一体をダンに置いた。
12:30 この事は罪の源となった。民はその一体の子牛を礼拝するためダンまで行った。
ヤロブアムが思い、考え、出した結論。
これは悪いQT、黙想です。
ヤロブアムは、民の心がエルサレムの神殿に向かわぬよう、金の子牛の像をベテルとダンに安置し、これが罪の源となりました。
このヤロブアムの罪から、アハブの罪に至り、アハブは罪のイゼベルに唆され、バアルやアシェラなど、他の神々の偶像を造り、拝ませ、信仰のズレを生じ、神の怒りを招いたのです。
金の子牛と言えば、出エジプト記32章の話が有名です。
出エジプトをした民は、モーセが主の山に登り、戻って来ないので、不安になりました。
そこで、アロンに金の子牛を造らせ、それを拝み、神の怒りを招きます。
この時、彼らは神の恵みを体験した直後です。
出エジプトの奇跡を体験し、今も生きて働く神の御業を見た後です。
なぜ、彼らは、金の子牛の像を造り、民はそれを拝んだのでしょうか。
彼らは、自分たちを救ってくれた神を忘れたのでしょうか。
むしろ、忘れるはずがありません。
彼らは、見えない神を見える形で現わしたのです。
金の子牛の像を造り、それを拝み、イスラエルの神に祈ったのです。
神様は、何かもご存じです。
もし人間、目に見えない神を、見える形で示し、それに向かってひれ伏し、祈り始めるならば、本当の神を見失い、信仰がズレてしまう。
罪とは、的外れです。
神を見失い、神から引き離す原因となる。
だから、神様は偶像を造ることも、拝むことも禁じたのです。
出エジプト20章 P126
20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
アロンもイスラエルの民も、自分たちをエジプトから救い出した神こそが、真の神である、と信じていました。
イエフも、当時のイスラエルの王たちも、神を信じていました。
アハブのように、バアルの偶像を造り、バアルの神に祈ることは、完全にご法度となのです。
しかし、ヤロブアムの罪、金の子牛の像は、異国の神々とは違う。
これは、自分たちの先祖の神、エジプトから救い出した神だと信じてしまっていて、簡単に取り除くことはできなかったのです。
その結果、彼らの信仰のズレは直らず、イスラエルも、ユダも、衰退の道を辿ることになったのです。
さて、今日の結論です。
ヤロブアムの罪からは離れず
これは、イエフだけの問題ではありません。
イスラエルの問題だけではありません。
主に選ばれ、救われた私たちの問題でもあるのです。
ヤロブアムの罪は、私たちの中にも残っているのです。
アハブのように、他の神々を拝み、主の目に悪を行うことはなくても、
イエフのように、主を信じながらも、信仰がズレることがあるのです。
神様は、目に見えません。
神を見て、安心したい、という誘惑に負けてしまうのです。
神様は、霊であり、目で見ることはできません。
この見えない神が、見える形で世に現れ、姿を示された。
それがイエス・キリストなのです。
復活の日、エマオの途上で復活の主と出会った弟子たちの話があります。
彼らは、イエス様と一緒に歩き、主の言葉を聞いて、心燃やされます。
そして、家に入り、イエスがパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いて渡すと、二人の目が開かれ、イエスだと分かったのです。
面白いのは、その後、姿は見えなくなった、というのです。
このエピソードは、大切な真理を、私たちに教えています。
主は、今も私たちに語りかけています。
主の言葉は、日々、私たちの心を燃やし、なすべきことを教え、導いて下さいます。
ヤロブアムの罪から離れ、信仰が守られ、祝福されるためには、主の言葉が必要であり、主の言葉に従って歩もうと努める必要があるのです。
何が、主の言葉を聞くことを妨げる金の子牛となっているか。
そのことを黙想し、信仰のズレを直す時間が必要です。
アハブの罪から離れ、ヤロブアムの罪からも離れ、
すべての罪の根を取り除いて下さったキリストを崇め、
日々、主の言葉に聞き従い、衰退の道ではなく、祝福の道を、歩み続ける者でありますように。
御名によって祝福します。お祈りします。