「あの、8月12日」の全貌 #1  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
俺は十九のとき、役者に憧れ、
テレビという枠の中のドラマや“映画”という映像芸術の世界と関係することで、
ちっぽけな自分の空しさを変えられるのではないかと思っていた。
「もっと外へ出よう」という気持ちと、
「生まれ故郷でも何でもない街から外へ出たい」という気持ちも、
「上へ昇りたい」という気持ちも、
思い切り自分の“今”を変えたい、変えようという度胸はあっても、
そこには死ぬほど好きな女にフラれた挫折感と、
何をやるにも尻込みし、躊躇する自分がいた。
某タレント養成事務所の二次オーデションに合格し、
「あとは20万程度の入所金を払うだけ」というところで、
そのときは、カネがなかっただけの理由で
夢や野望の実現を半ば断念し、自分としては一時、保留にしたつもりで
近所のカラオケ・スナックで働いていた。
ピアノが置かれた赤いステージの前に
小さなダンスホールが設けられた田舎のスナックだった。
そこで たくさんの歌を覚えた。
最近の若者の歌はよく判らないが、
「これ歌ってみてよ」というなら、
演歌でも、懐メロでも、軍歌でも、フォーク、GS、ジャンルを問わず、
今の40代~80代の人たちが知っている歌謡【うた】なら一通り唄える。
でも、何か楽器を使って“弾き語り”ということは、まったくできない。
   
それより一年前の、18の夏。1985年、8月12日。
当時、交流のあった共産思想(に被れぎみ)の友達()数人と
新潟の笹川流れという海水浴場へキャンプに出かけた。
朝はやくに車2台で三国峠を越えて、
午前中から夕方にかけて、海の中で泳ぎまわる魚を銛で仕留められないことに腹を立て、
そんなふうに、泳ぎ疲れるまで泳いで、
夜の浜辺で星空を仰いだ。
ちょうど、何かの流星群が見えた日で、
その宇宙の生命の息吹に興奮した俺は、
未成年なのに缶ビールを2本あけ、海岸沿いのトンネルの中を歩いていた。
…何かの手がかりを探すために。
   
ふと何を思ったか、キャンプに置いてあった自分の荷物をまとめると、
深夜、その海水浴場を囲む岩場に面した鉄道路線。
その無人駅のホームにいた。
いなくなった俺を探し、二人の友達が駅のベンチで寝ている俺を発見すると、
俺の、「帰りたくない」の一言に激怒していた。
一旦はキャンプに連れ戻され、
幾ら叩き殺しても どこからか涌いてくる しぶとい薮蚊に眠りを邪魔され、朝を迎えた。
始発の電車が夏の長閑な海岸沿いを走り去る音が聞こえた。
「俺は絶対、アレに乗る」
心に強く決意する実行計画。
人間、いいこともわるいことも、一度つよく想い描くと、その方向へ進む道を辿る。
そうして再び、荷物を担ぎ、立ち上がると、
ビーチサンダルの代わりに履いてきた下駄を鳴らし、
小さな駅の見える坂を駆け上った。
そのまま何分と待つ間もなく列車へ飛び乗ると、
窓の景色の少し遠くに、浜のキャンプが見えた。
そこには、飯盒で朝メシの準備に夢中な友達の姿があった。
「じゃぁな。ザマミロ…」
行く宛てはない。
どこでもいい。ただ家に…“何もない街”へは帰りたくはなかった。
所持金 数千円。
   
その年の春、「ニューヨークへ行きたい」という夢があった。
近いうちに、パスポートとビザを獲るつもりで、
その当時 住んでいた街の駅前にあったレストランでアルバイトをしていた。
その店の店長に3日間の休暇をもらった矢先のことだった。
   
学校へも通わず、バイト先も投げ出し、
家族にも友人にも何も告げることなく、
ひたすらに暑い夏のある日、俺は新潟駅へ降りた。
見知らぬ街、見知らぬ顔、お盆を迎える日本社会、喰い物の匂い、歩く下駄の音。
「まずは住む処を見つけよう!」
駅裏の自転車置き場へ行き、もう何年も誰も乗っていないようなホコリ塗れの自転車を拝借し、
新潟市内を回ってみた。
それまで俺が住んでいた街よりも何倍もデカイ街が そこにあった。
まだ世間を知らない俺にとっては、そこが NewYork に思えた。
「ここでいいじゃねぇかよ。言葉も通じるし…」
そんな思いで何件かの不動産屋を訪ねた。
「あなた歳は幾つなの? 保証人は? どこから来たの?」
「クソ野郎。テメェみてぇなジジイに頼るか!」
出入り口の戸にケツを向けるたびにそう思った。
午前中はそれで何件目だったか、一軒だけ、
「仕事さえ見つけてくれば、いつでも貸してあげられる物件が一つだけあるよ」
という不動産屋があった。
「じゃ、仕事みつけて、また来ます!」
文房具屋で履歴書を買い、公園のベンチで自分のすべてを書き込んだ俺は、
パンクした盗んだ自転車をこいで、なぜか、街中の寿司屋や蕎麦屋を回った。
すべて飛び込みで。
そういう場所なら、さっきの不動産屋のように(?)きっと、
人情味ある情け深い人がいると思ったのかも知れない。
結果、感触はゼロ。
どこの馬の骨か判らない奴は軽くあしらわれ、相手は、
「なんだか今日は縁起わるいな…」という顔つきだった(と思う)。
そして8月13日の夜が来た。
俺は明け方近くまで、深夜営業のスナックやラーメン屋を訪ね、
そこに求人がある・なしにかかわらず仕事を探した。
「…諦めて帰るか。今ならまだ間に合う。
今なら、親にもバイト先にも言い訳が利くし、
今まで通り、あの腐った街で我慢すりゃいいだろ…」
腹を空かし、そんなことをブツブツ云いながら、駅前で朝を迎えた。
始発が運行される頃、待合室の灯りが点いた。
そこのベンチへ横になり、目が覚めると、また暑い夏の一日が始っていた。
   
8月14日。
サラリーマンやOLが必死に改札口を行き交いする日常風景。
俺とはまったく関係なく動く社会。
「このまま乞食になるか…。
ざけんなっ、俺の死に方は俺が決める」
と、決して捨て鉢にはならず、
それが何十件目だったか、午前11時頃、
「もう どこでもいいぜ、なんでもやってやるよ!」という思いで、
一軒の喫茶店を訪ねた。(…単純に他の職業のことは考えられなかった)
「本店のマスターに訊いてみるからちょっと待ってて。
あそこなら今まだ忙しくて従業員を募集してるから、もしかしたらね…」
親切な店長だった。
   
古町の6番町に、“CAFE DE Etoile【エトアール】という店がある。(今も健在)
俺は そこ(と 当時、万代町にあった姉妹店)で、
接客業のすべてを教え込まれた。ほぼ一年間。
朝から晩まで常連客でいっぱいの、オリジナル珈琲が売りの家庭的な雰囲気ある喫茶店だった。
あとで知ったことだったけど、マスターは、元・寺内タケシ&バーニーズのベーシストで、
同じグループ・メンバーにいた黒沢博さん(現役歌手 / 役者の黒沢年男さんの弟)がいた。
『三年目の浮気』というヒット曲がカラオケ・ブームに乗っかり、一躍脚光を浴びた歌手だったけど、
それまでは地道な音楽活動を続けるソロ・アーティストだった(らしい)。
エトアールのマスター(明田川克己さん)も歌が大好きで、
当時オープンしたばかりの姉妹店に自動演奏ピアノを設置して、
閉店後、一人 店へ残り、趣味で フランク・シナトラとかのバラードを熱唱していた。
店のクリスマス企画とか、何度か黒沢ヒロシさんを迎えて、
セミ・ディナーショー(カクテル付)で女性客を招き、
クリフ・リチャードのカヴァーとかを歌ってもらっていた。
(友達同士でもギャラはちゃんと払ってたよ。)
二人とも とても気さくで、何事にも常に前向きな性格。常に笑顔が耐えない。
たとえばマスターは、俺の顔を見るごとに、昼夜の食事の心配ばかりしてくれて、
店がはねると、新潟市内の色々なラーメン屋とかへ連れて行ってくれた。
「おまえ、」
   
1985年、8月14日。昼の面接。
「最初はウエイターからやってもらうからね」
「はい」
「で、いつから ここで働けるの?」
「明日からでもいいんですけど、実は明日、自分が企画した小学校の同窓会があるんで、
16日から来ます」
「ああそう。じゃぁ、制服とか用意しておくから、16日の昼にまたここへ来て」
「はい」
ということで、いま想えばきっと、その時は当てにしてなかったと思う。
でも俺は、約束を破らなかった…というより、破れなかった。
その日そのまま、前日の不動産屋を訪ね、旧い木造アパートを紹介してもらった。
新潟市湊町。
海まで歩いて5分ともかからない場所で
隣が空手道場だった。
ただ、そのときはまだ知る由もなく、
夏が去り、秋を迎え、そこから過酷な冬を過ごすことになるんだけど、
その時の俺は、すべての自由を手に入れたつもりで
カネのない苦しみや地球の裏側にいる他人の人生なんてどうでもよかった。
そこで、俺という人間が持つ能力が何のかを確かめたかった。
まだ童貞だったし…
 
んで、「8月15日の同窓会」というのは嘘ではなく、
俺はかつて、父親の仕事の都合で、小学校2年の時、
生まれ故郷の八王子から群馬の邑楽町というところへ引越し、転校させられていた。
その、『上毛カルタ』の盛んな田舎町で4年ほどの少年時代を送ったんだけど、
その時の同級生200人くらいに、
先の海水浴革命へ出かける前、かたっぱしから電話をかけ、
「何時何分に この店へ集合。みんなに会いたい。最期に。」
と、勝手に企画し、約束していた。
だから、「家へ帰らずとも、そこへは行かなければならない」
その頃の世間は、昭和の時代に終わりを告げるような飛行機事故のあと、
バブル崩壊祭りのバカ騒ぎが始まる、そのちょっと前だった。
『上を向いて歩こう』 
http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm
1985年8月12日。
かつて、世界に一目を置かれた日本経済。
その飽食の時代はすべて、
あの日、完全に日の丸の旗が焼け落ちた瞬間を境に
終止符を打つべきだった。
造船も航空開発も精密機器も、戦闘機のレーダーも、
あらゆる軍事産業が平和産業に切り替えてから40年。
なおも、必要以上の便利さと、必要以上の経済を追求して、
今日、このような発展過剰国家を築きあげた我が国。
そこに、時代の先覚者としての指導者もなく、
ただ必要以上なまでに知識、学識を身にまとった人々がひしめき合い、
最早、未来の展望も希望も、誰も先行きを読める者はいない。
もう手遅れなのか? 
あれからまた、無能な発達と開発を繰り返し、20年の月日が経過した。
人々は今、この便利な世の中で、自分達のバリアー・フリーを追求し、
自然環境破壊保護の開放運動に明け暮れる。
今まだ戦国時代に生きていると想っているだけの多くの企業は、
表面的には協力し合う様相でも、内面的には小競り合いを続けてる。
その止まらない機械の中にいる人々は、
次々に自分が生き残れるはずの資格、技能を取得し、
また、オーヴァーヒート黙然の機械の中に組み込まれる。
その機械とは、「やればできる」という教育システム、
横一列に並べない者を排除する社会常識…。
そこから脱出したはずの、1985年8月12日、13日、14日、15日…の俺。
まだそれほど世間に揉まれてもいない18歳だった。
 
その時から今日までの俺が世界のすべてを見たわけでもない。
ただ「どこへ逃げても同じことだ」ということには、
ようやく、幾らか気づくことはできたので、
今こうして自分の過去の一つ一つをネット上に公開することで、
自分の中にまた、一つの約束事を決める。 
 
 
     もうどこへも逃げられないぜ、
     さぁ、そこでどうする? 
     その場所にガッチリと根を張って、
     雑草のように生きられるのか!? 
     それとも理屈を並べて自分をごまかすのか? 
     いずれにしろ残りわずかだ。
     100まで生きるとしても、あと60年しかない。
     その限られた時間で何ができる? 
     何の悔いもなく死ねるほどの技量があるのか? 
     今日と明日を喰いつなぐカネを得ることに追われ、
     そこでまた堕落するのか? 酒と煙草を呑みながら…
     疑わしいぜ、俺の人生。これまでの数々の魂の無駄づかい。
     大丈夫なのか? 今、それで。
     この先、誰を必要として誰に必要とされるんだ? 
     またそこで、人を傷つけることを繰り返すのか?
     それとも、階級を失った人類を尚も破壊しつづけるのか? 
     自分の言葉で自分の自由を手に入れてくれよな。
     てめぇの人生、今回限りだぜ。
                          頼むぜ。   
 
 
   
てな具合で、常に、闘うことを辞めない姿勢で生きることを
俺は俺に誓う。
   
   
               つづく。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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