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       売れっ子になった瀬戸内晴美時代

 

 寂聴さんが亡くなって2カ月くらいになる。寂庵に最初に行ったのはいつだったろうか? 寂聴さんとの仕事で最も時間がかかったのは、「源氏物語」を新潮カセットブックにする企画だった。都合、6年くらいはかかったような気がする。全54帖の1帖づつを1巻ごとのカセットテープにしてゆくのだから、いつ終わるのか、気が遠くなるような企画だった。その時、寂聴さんは『源氏物語』現代語訳に精を出していた。

 

  新潮社時代から寂聴さんには色々なことを頼んだ。私は断られたことはなかった。寂聴さんの乾山のコレクションを撮影させてもらったこともある。フランスのテレビ局が寂聴さんを番組にしたい、と友達のフランス人が言ってきた時も、先生にFAXをしたら、すぐにFAXで「いいわよ」と返信があった。夜中だった。最晩年は違うらしいが、昔は、先生は、夜、秘書もお手伝いさんも帰して、一人、寂庵で原稿を書いていた。

ある時、寂庵に行ったら、掌仏(たなごころぶつ)の焼き物が、庭にたくさん並べてあった。夜中に寂しくなると、東屋に行って、ろくろを回すのよ、と言っていた。気丈で口の悪い先生でもやっぱり寂しくなるんだ・・・。私が会社をやめてからも、先生に頼みごとを何度かした。

 

  寂聴さんを世に出したのは、新潮社の斎藤十一さんだった。2年前、田辺聖子さんが亡くなった時、寂聴さんが朝日新聞に書いていた。「私や田辺さんを世に出してくれたのは、新潮社の名編集長、斎藤十一さんである」

  若いころ、寂聴さんは斎藤さんに呼び出されたことがあった。月刊「新潮」に書かせてもらえると思って、喜んで出かけて行ったが、斎藤さんは、「週刊新潮」に連載を書けという。斎藤十一さんは、新潮社の編集部門すべてを統轄していた。

「週刊誌に連載小説なんてムリです」。寂聴さんが言っても斎藤さんは聞かない。「誰か書いてみたい人物はいないか?」「高岡智照尼なら書いてみたいです」「ああ、いいね。それでいこう」「いつからですか?」「来週からだ」。「そんなのムリです」と言ったが、連載はまもなく始まり、この連載は『女徳』という本になって評判を呼び、瀬戸内晴美を売れっ子作家にした。

      

      最後に私(写真後ろ)が東京でお会いした時

 

  寂聴さんに「先生が一番気に入っている編集者は誰ですか?」と聞いたことがある。あとで考えたら、ずいぶん不躾けな質問をしたものだが、寂聴さんは気にもず、「『新潮』の田辺孝治さんね」とおっしゃった。田辺さんは私も好きな先輩だった。

  先生は 『女子大生・曲愛玲』で新潮同人雑誌賞を受賞し、デビューした。その時、同棲していた作家の小田仁二郎に、「すごく嬉しい! 努力が報われたわ」。飛び上がって喜んだという。しかし、翌年、「新潮」に載せた『花芯』で例の「子宮小説」騒ぎが起こり、すべての文芸雑誌から締め出しを食らってしまう。締め出しは5年間にも及んだ。普通なら、小説家として一巻の終わりである。しかし、先生は、その間に、大正時代の女流作家の評伝を書き続け、第1回「田村俊子賞」を受賞している。簡単にはへこたれない根性と才能をもっていた。その5年の締め出しが明けて、月刊「新潮」編集部の田辺さんが訪ねてきた。田辺さんは「小田さんと別れたんですってね。僕は私小説が好きなんですよ。彼との別れを書いたらいいじゃないですか」といったという。「いやよ、私小説なんて書けないわ」と先生は言った。しかし、せっかく、文芸誌に書けることになったのだからと考え直して、連載を書くことにした。それが『夏の終わり』となって評判を呼び、寂聴さんの代表作になった。私も一番好きな小説だ。

 

  瀬戸内晴美時代の先生の人生は苦難の連続だった。自分でその種をまいて歩いているようなところがある。口は悪いが、しかし、苦労人としての優しさも持っていた。私が新潮社を辞めると話したときも「あんた、仕事を持って辞めるの? 大丈夫なの?」。けっこう真剣に心配してくれた。 

  寂聴さんは、自分で悔いのない人生だとずっと言っていたが、作家として大きな不幸があった。先生は、寂庵の講堂に法話を聞きにやって来る大勢の人たちのことを、「あの人たち、私の小説なんて一つも読んでないのよ」とよく悪口を言っていた。

 先生は評伝作家として早く認められた。『夏の終わり』で純文学の作家として評価された。『女徳』のような、エンターテイメント小説((先生は自分でそう呼んでいた)で流行作家になった。才能が多方面にありすぎるのだ。だから、その全貌を正しく理解し、付き合ってくれる評論家も、読者も、決して多くはない。寂庵にやってくるファンたちは、「話しの面白い尼さんタレント」だと思い、先生自身も「私は人寄せパンダだから」と自嘲していた。私の知る限り、瀬戸内晴美時代から寂聴さんの作品を読み、その全体像を理解して付き合った評論家は、秋山駿さんくらいではなかったか。

  自分は倒れるまで原稿を書き続けると言い、そのとおり、朝日新聞の連載も死の直前まで続けていた。見事だと思う。書き続ける姿には、寂聴さんを突き動かす執念のようなものをしばしば感じた。

  数え年100歳。もう余計なことを言う必要はないが、一言、言ってあげたい。「寂聴さん、お疲れさまでした」