胆嚢癌の母のつれづれ闘病日記-ホスピス外観

胆嚢癌の母のつれづれ闘病日記-ホスピス 胆嚢癌の母のつれづれ闘病日記-ホスピス


赤い屋根の高級山荘のような建物・・・

各部屋からバルコニーに出られ、池の周りを一周散策できます。

母と何回か車いすでお散歩しました。

もっと重症の方は、ベッドごとお散歩させてもらえます。

池には何種類かの鳥がいました。

春は花が咲くことでしょう


スタートのページはこちら→胆嚢癌の母のつれづれ闘病日記 http://ameblo.jp/anpanman2003/entry-10703257832.html

2月10日 (作品展 5日後)



朝、まずまず小康状態のように見える。


看護師さんが教えてくださった


「普通、呼吸数は1分間15回くらい。それが最期はだんだん1分間の呼吸数が減ります」。

「肝機能・腎機能が非常に落ちている。尿が出ていない=尿によるカリウムの体外排泄が正常に行われていない。→カリウムは心停止を引き起こす」


なるほど・・・。

夫は母の呼吸数をしばしば計測している。すると、前夜から早朝は1分間に11回。。。それが8時ころには14~5回に一見、上がった・・・

乱れることなく、ずっと規則正しい。


心拍も上がり、

血圧も、8日には上が60~70(コロトコフ音が聴診できずとう骨動脈の触診で)と、とても低かったのが、

上が90くらい、下が50くらいと、一見普段通りまで上昇・・・


私は感じていた。これは心臓が異常に頑張っている状態で、ということは、早晩オーバーワークになるなぁと。夫も同感だと・・・。




7時頃から、母宅に寝に帰っている兄や兄嫁さんから、母の具合を尋ねるメールが入る。

きっと、小康状態なら、会社に行こうか…と迷っているに違いない。


実は私は、昨日も一昨日も、もう母の傍に兄たちも離れず付いていてほしかった・・・。

でも、まだ数日持つなら、じっと付いているばかりも必要ないかも・・・。


兄のメールにどう返事をしようか・・・と、悩んで、看護師さんに

「まあまあの状態」と書いていいかしら?と、問うと、

看護師さんは「そう書くと少し油断しそうだから、付いていてと書く方がいいと思う」と。


兄は8時ころ病室に現れた。ネクタイを締めているのであれっ?と思ったが、聞くと

「会社は休むことにした」とのことで、ほっと一安心・・・。


兄嫁さんは母宅に掃除機を掛けてから、一足後で来るという。


母の呼吸等は順調で変わりなく、一見小康状態っぽい感じ・・・。

兄と夫と私とのんびりした雰囲気だった。


私もお気楽に(8時から洗濯室が使えるので)、洗濯しに行ったりしていた。


が・・・・

8:45ころだったろうか・・・・

なんか変・・・・・・


急に呼吸が弱くなり、体温が冷たくなってきたような・・・


兄が慌てて兄嫁さんに「早く来い!」とメール・・・。

(兄嫁さんはバスに乗っていて、もう病院の間近まで来ていたらしい)


看護師さんが、夜勤の人から日勤の人に交代。

あっ今日の担当者は、また、キュンちゃん(←母の名付けたニックネーム)とは・・・。

濃厚な時はどうしても、キュンちゃんに当たってしまう運命らしい(7日の急変時も当たった看護師さん)。



9時ころ兄嫁さんが病室に到着して、兄夫婦と私夫婦の4人が揃った・・…

兄嫁さんも「おかあさん、ありがとうございました・・・」と声を掛けている・・・

直後に

母が最期の呼吸をして、もう次の息をすることはなかった・・・。

兄嫁さんが来るのを、待っていたんだろうな(兄嫁さんに後々後悔させるのを避けるため・・・・)と、思う。


全く苦しまず、眠ったまま静かなあっけないほどあっさりとした旅立ちだった・・・・。


しばらく、母を家族4人で囲んで過ごし、

「では、先生を呼びましょうね」と言って下さって、

先生が来られ脈がないのを確認され「ご臨終です」と・・・。時間はその時、9:19だった。


後から考えてみれば、母は一度もおもらしをしなかった。

7日意識不明になる直前まで、自分の足でトイレに行き便も尿も全てを排泄し、

その後は腎不全だったわけで・・・。

これって、結構すごい!!と思う




キュンちゃんに「一緒になさいませんか?」と言っていただいたので、

兄嫁と私も一緒に母のエンゼルケアを、した。

洗髪し、体を丁寧に拭いた。

病室に置いてあった、母が用意した旅立ちの和服を、3人で着せた。

帯もちゃんと結んだ(母に言われていた通り半幅帯の前部分に帯締めを縫いつけることを、急変した日、

病室で私がやっていた。その時もキュンちゃんが担当して下さった・・・)。

お顔は熱いタオルで温め、充分に化粧水や乳液でお肌を潤わせた後、丁寧にお化粧した。

おぉ~~・・・きれい・・・。このところお化粧してなかったので、久しぶりに女性っぽくなってよかったね♪



思えばたった17日間の入院だったが、とてもそんな短さとは思えない密度の濃い17日間だった。

看護師長さんから、

「お母様は印象深い方で、私たちにとってもお母様の最期の期間のお世話をさせていただいたことは誇りです」というようなことを言っていただいて、その言葉はとても嬉しかった。

末期癌の方ばかりの病棟で毎日のように繰り返される光景だろうが、

「大勢の日常茶飯事」として扱うのではなく、母を個人として感じてくださったということが、本当に嬉しかった。




時間のゆとりを見て、ゆっくり葬儀社に来てもらって、

白い布に覆われて、ストレッチャーで、

(裏口からでも出るのかな?と思っていたが)

病院の表玄関から、先生はじめ看護師さん皆さんにお見送りをしていただいて、

家に帰った。

ボランティアさんから、花束ブーケ1も添えていただいた。



荷物を片づけていて気付いたが、

2月5日展示会後、芳名録の余白ページに


「冬雲の 真綿の中に 睡りたし」


と母の達筆な字で残していた。

これが、まさしく、辞世の句と なりました・・・・。

2月9日


夕方、88歳のM伯母さんが、次女のT子さんと、駆け付けて下さった。


伯母さんは、3日に見舞いから帰られる時、母に「また来るからね」と言ってくださっていたので

母の変わりようを知らずに(数日前の元気な姿のつもりで)

病院に来て下さったら、さぞショックを受けられると思い、

T子さんに、私がメールで

「母が意識不明になったこと、この姿を見ていただくにはあまりに辛い・・・」旨、お知らせした。


すると、伯母さんは覚悟を決めて、来て下さったのだ。

ここに来る前に、掛かり付け医に寄って、安定剤をもらってきたと仰る。


ただちに病室に入っていただく前に、一呼吸置いてもらう方が、

伯母さんの体にいいかと思い

病室前のテーブルで、先に、

「こんなに元気な姿で、幸せな顔で、作品展ができたんですよ」と、

4日5日の写真アルバムを見ていただきながら、病状を説明。


そして病室に入りM伯母さんとT子さんが、母に名を呼びかけた途端・・・



それまで、もう全く反応しなくなって静かに寝ていた母が、

まぶたを開け、焦点の合わない目を必死でお二人に向け

何か言おうとするかのように口を開けた。声こそ出なかったが

絶対、お二人が来て下さったことが分かったのだと思う。

目を大きく開けて、お二人に懸命に話そうとしていた。


もう昨日から昏睡になっていた母が・・・!と、皆、驚いた。


M伯母さんとT子さんは

来て良かった・・・絶対私たちが来たこと、わかってくれはった・・・。と

言いながら、帰って行かれた。




その夜も、私は母の病室(ソファーベッド)に泊った。


兄夫婦は母宅に寝に帰ったが、

夫はここの家族室(和室)に泊ったので、明け方4時ころ、交代してくれた。

本当は私は、母の病室から離れたくなかった・・・。

が、

3晩連続ソファーベッドで寝ている私を気遣って、和室の布団で寝てくるよう言ってくれた夫の優しさに感謝して

(仕方なく?)、和室に寝に行った。


ホスピスは有難い。

普通の病院では、家族が泊るなんて、なかなか難しい・・・・。

それがここでは、病室内のソファーベッドでも和洋の家族室でも(ただし他の方が使う可能性もあるが)、

無料で泊れるなんて、実に有難い。













2月8~9日


肝性脳症(肝性昏睡)と診断されてから、

母は両腕を上げ、ばたばた震わせる奇妙な仕草を見せるようになった。


看護師さんが、「これは肝性脳症の症状で、「羽ばたき振戦」というんですよ」と

私と兄嫁に教えてくださった。


その数分後、主治医の先生が病室に来て下さった時も

(先生は1日に何度も何度もしばしば病室に来て下さった・・・)、

母がその動作を見せたので、私と兄嫁が

「羽ばたき振戦ですね・・・」と言うと、

先生は「よく知ってますね~・・・!」と驚かれた様子だったが、

「数分前に看護師さんに教えてもらったばっかりで・・・」とタネアカシをした。


他に見られた症状としては、

母は口を開けて呼吸していたため、

口や唇がカサカサに渇いていた。


看護師さんが、スプレーを吹きかけて湿らせて下さったり、

唇にワセリンを塗ったりして下さった。



2月8~9日


兄夫婦、私夫婦の4人、病院・母宅に泊まった。


母は話も出来ず全く何もわからなくなっていた。


時折、眉間にしわを寄せることがあり、

それで、「「痛みがあるのかなぁ~・・・」と、

痛み止めを皮下点滴で入れてくださって、穏やかな表情にもどっていた。


意識はない状態ながら、

しかし、先生や看護師さんは、


一回一回、母に「点滴刺していいですか?チクッとするけど、ごめんなさいね~」などと

話しかけ、母の了解を得ながら、処置をしてくださっていた。


肝臓の障害のせいでかゆいのか

頭をかく母に、

意識不明になってからも、

「頭かゆいのね・・・シャンプーすると気持ちいいから、シャンプーしましょうか?」と尋ね、

実際、洗髪してくださった。


また、かゆい時は、これで拭くといいからと、

メントール?入りのお湯で絞ったタオルで体を清拭してくださったり、

パジャマも着替えさせてくださった。

和式のお寝巻きのほうが、看護なさる方に楽かとは思ったものの、

母が足を動かすので、

はだけた足を見せるのは母はいやだと感じるだろうな・・・と思い、そう言うと、

「パジャマにしましょうね~」と。


腎不全の状態で尿が出てないので、確認のため、

一瞬だけ、細いチューブを入れたが、

それも、母に「ごめんね、入れさせてもらっていい?」と断ってから処置された。

(母はもう全くノーの反応はしなかった)


8日24時間で5cc、9日24時間で20ccの尿量で、

それは増えたということでもなく、取り方の誤差の範囲内で、腎不全とのことだった。


紙コップに取った尿を見せてくださったが、赤褐色で・・・、でも、ほんのわずかでも出ているのが、私には嬉しかった。



2月8日


おととい担当してくださった看護師さんが

母の様子を見に来てくださって(昨日は非番)

1日見なかっただけの母のあまりの変わりように、

母を見たとたん、ぎょっと驚かれた様子だった。




朝、先生から説明があり、脳障害の原因はいくつか考えられるが

胆嚢癌の脳転移かも、と。

明日、MRI(?)検査するとのこと。


血液検査等も。


おしっこがまったく出ていない。

尿の管を入れると、それまでおとなしく寝ていた母が、

既にほぼ昏睡に近い状態なのに起き上がろうとし、

険しい表情で激しく身もだえする姿に

看護師さんが、「ごめんね、管入れたらイヤだよね~・・・」と、

すぐにはずしてくださった。

(尿管を取った途端、また静かな表情に戻り、穏やかになった)


午後・・・

先生から説明が。

朝採血した血液検査の結果、

肝臓、腎臓の障害がひどい。

(肝不全、腎不全)


これほど、急激にくるとは。。。たった半日でこんなにとは。。。と。


脳転移ではなく「肝性脳障害」と確定し、MRI検査ももう意味も時間もないので、中止。


おしっこが出ないと、最悪な結果に・・・。でもまだ希望を持ちましょうと。






2月7日夜


ろれつが回らなかったり、焦点の定まらない目をしたりするときもあるものの

まずまず元に戻る時もあり、

大きく波が上下する状態で迎えた7日夕方~夜・・・。


先生の説明は、あまり緊迫したものでもない雰囲気だった。


私は関東に戻る予定を延ばして母の病室泊まることにした。

兄嫁は元々この日は実家(病院までバス電車で50分、タクシーで30~40分)に泊まる予定だった。

会社の終わった兄に連絡は取ったものの、病院に来ず自宅(病院までバス電車でも車でも2時間)に帰ってもらうことにした。


母は一旦、ややおかしい・・程度の状態で、トイレにばかり行きたがった。

便が出そう~と言うのだが、トイレに行っても実際は何も出ず、

ベッド横に家具調椅子のポータブルを置いてくださって、それを使ったが

ベッドから降りて便座に座ることに体力を消耗しへとへとになっていた。


それでも看護師さん(数日前、母が名づけたニックネーム「キュンちゃん」)相手に

遺言めいたことなどいっぱいお喋りをしていて、まともに話が出来ていた。

便座に座るのに、抱きかかえて支えて下さるキュンちゃんに、「キスマーク付けちゃいそうだわ」などジョークも言って周辺を笑わせていた。

パジャマのズボンのゴムがきついと言うので

(実際には母の腹部は痩せていてゆるゆるなのだが・・・)、

もっとぶかぶかのLサイズのパジャマズボンに履かせ換えた。

(その後夜中にも、一度、「細いゴムを見つけて交換して・・・・」とつぶやいた・・・)


(↑のちに次女に話したら、「ウエストのゴムがきつい・・と言う末期の方をしばしば経験するわ」と、言っていた。不思議・・・)



先ほど先生はあまり緊迫した雰囲気ではなかったが、

何となく重篤な事態に進みそうな予感がして、看護師さんのアドバイスもあり、

兄夫婦、私の3人とも、病院に泊まることにした。


キュンちゃんと、母の会話・・・

母の言葉はもう途切れ途切れでろれつも回っていなかったが、それでも、うなづいたりでなんとか返事も聞きとれた・・・。


看「今日逝くの?」

母「まだ・・・」

看「周りの人が気付かない時に、独りで逝ってしまわないでね」

母「わかった・・・」

看「死ぬの怖くない?」

母「怖くない・・・」

看「最後まで痛みが無いようにちゃんとケアするからね。大丈夫なようにするの約束するからね」

母「うん・・・」うなずく


一旦会社から帰宅していた兄も、再び家を出て病院にたどり着いた。


ここには2部屋家族室があり、和室にお布団(貸し出しがある)を敷いて兄夫婦は泊まった。

私は病室のソファーベッドで寝た。


一緒の部屋では寝たが、

母の意識は朦朧としてほとんどわかっていないようだ。


ただ、お風呂上りの私を見たとき。

「シャンプーしたんやね・・・」みたいなことを

言った様な気がした(実際シャンプーをした頭だった)。


それと夢を見ていた寝言のように、

「Yちゃん、ええ子やなあ、素朴そうや」・・・と。

Yちゃん(60代後半?)とは、母の姉の長男で、2日前、伯母を展示会に連れてきてくれた私のいとこである。


焦点の合わない目を向けることがあったくらいで、

ほとんど何もわからなくなっていった







2月6日(日)


来てくれていた私の夫は、新幹線で自宅に戻っていった。


今夜は、私は母の病室の居候~(笑)

夜10時、母が大好きなEXILEのTV放送がある。

めったにTVをつけない母だが、これだけは見るという。

母はベッド上に座り

「EXILE魂」を私も母と並んで観た。

母は、「キャ~EXILE大好き~!」な人だが・・・、う~~ん私は・・・わからん・・・・(^^;;;;



2月7日(月)


朝から母はまあまあ元気で、昼前には兄嫁さんも来て、

昼食に、兄嫁が買ってきたきゅうりの細巻きを、一切れ食べ、

のんびりした雰囲気で過ごしていた。

月曜日はアロマテラピーをしてくださる日で、母はこっている肩を

していただいて、とても気持ちがよかったそうだ。


作品展の成功を喜び、手毬やタペストリーなど何点かを選んで、

このホスピスに飾っていただくことにし、

受け取っていただいた。

寄贈して、ホッとしたのだろう・・・。



そして・・・・・。



母の個室はトイレがある。

ベッドをトイレ近くに寄せ、

スリッパを履かずに歩けるよう床にウレタンのジョイントカーペットを敷いていただいてあるので、

母は自分でベッドから降り、トイレドアの手すり等をつかまりながら、

自分で歩いてトイレに入って用を足せている。


この日午後もしっかり歩いてトイレに行き、そして硬さも良し、量もまずまずたっぷりの

いい便も2回でていた。

(母にとっては、便が出ることは喜びなのです・・・)



夕方5時、兄嫁と私の見ている前で、「トイレに行く」と言いながらベッドから起き上がった母・・・

「便をしたいから・・・」と言っているが、・・・・何か変・・・・


言葉はろれつが回っていない

目つきも焦点が定まっていない感じ

そして何より、行動が、

ベッドサイドの椅子をもうトイレと勘違いしているようで、まだトイレの中に入っていないのにパジャマのズボンとパンティをおろそうと し始めている・・・・


目撃した兄嫁と私は、あわててトイレの中に誘導・・・


認知症のような雰囲気にびっくりし、これは単に寝ぼけている・・・などではなく、

大変な事態が起きている・・・と直感。


兄嫁がトイレで母に寄り添い、

私は、目の前のステーションに駆け込むと幸い先生がおられたので、

すぐ説明するとともに、診て頂いた。


別室で先生か仰るには、

「いくつか可能性が考えられるが

そのひとつは、脳梗塞か何かが起きたかも・・・。

本人が不安を感じないように、対処していきましょう」








2月6日

個展を成功裏に終えてほっとした(というか意気揚々な)母・・・


昼食にアイスクリームを食べたせい(本人の弁)で、昼過ぎ、

ひどい胸焼けに襲われ苦しみ可哀想でした。


薬を追加でのませて貰いようやく治まった夕方、

「エントランスに置いてあるファイルを読みたいから、

連れていって~!」とのこと。


車いすで、エントランスホール(ここがまた素晴らしい処なんです!!)に行くと、ファイルを熱心に読み出しました。

元々、読書が大好きな母。図書館の本を年間何百冊

(すみません、母の自慢話は上の空で聞き流すので、


忘れちゃいました・・・笑)も 読む母ですので、

メガネもなしに何冊か読んでいたのですが、特にその中の1ページを

「これよこれ、自習しとかなくっちゃね・・・。

ここに入った最初の日に勉強しとかなくちゃいけないのに、怠っていたわ」と・・・

超熟読して学んでいました。



そのページ、在宅ホスピス医さんが書かれたものようです。

(著作権があるかも知れず、本当はいけないかもしれませんが、勝手に転記します。ごめんなさい!!)、






ご家族の方へ(「死」前後の患者さんの状態とその対処法)


ここには、患者さんの死の前後に見られる身体の変化をあらかじめ知り理解するためにお役に立つと思われる事象が書いてあります。これらの変化は全てが見られるわけでは無く、又、必ずしも書いてある順序通りに起きるわけでも有りません。大切なのはほとんどの変化が死に至る自然の経過であり、ご本人にとっても苦痛なことではないということです。



<死が切迫した時の徴候>

1. 疲労と傾眠傾向が強くなり、寝ていることが多くなる。但し話し声は聞こえている。

2. 食欲が更に低下し、飲食の量が減る。下肢が腫れることがある。

3. 時間や場所についての混乱が見られ、時には、親しい人もわからなくなる。

4. 時には不穏状態になり、奇妙な動きをしたり、大声を上げたりする。

5. 嘔吐・吐血・下血・便や尿の失禁などが見られる。

6. 唇は乾燥し、粘調な分泌物が口中に溜まって、呼吸時ゴロゴロと音がする。

7. 手足が冷たくなり皮膚は蒼白でまだらになる。身体の下になった部分は赤紫色になることもある。出血傾向が出てくる。

8. 39度前後の熱発が見られる。(解熱剤はあまり効かず、クーリングが必要となる。)

9. 尿量が減少し、時には全くでなくなる。

10. 呼吸は不規則になり、15秒くらい止まったり、鼾様になることもある。下顎が動く。

<実際に死が訪れた時の徴候>

1.呼吸の完全な停止

2.心臓の動きが止まり、脈拍が触れなくなる。頚動脈の脈拍も見えなくなる。

3.揺り動かしても、大声で叫んでも全く反応が無い。

4.眼球は固定されて動かない。瞼は閉じていることも開いていることも有る。

5.尿又は便の失禁が見られることが有る。

6.手足は先のほうから徐々に暗紫色に変わっていく。








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2月4日・5日、大勢の方に来ていただいて、母の最後の個展を開催することができました。

花は、母が直接電話して好みのものを指定して注文し、届けていただきました。

知らない方からは、「何人さんの作品展ですか?」と聞かれ、「母一人の作品です」と答えると

「えっ~すごい作品の量ですね!!」と驚かれました。

実際、これは母の作品の一部で、私が急遽2日間で持ってくることができたものだけです。

ホールが広く美しいので、作品がとてもよく映えましたドキドキ


また、母の病気を知らない方は、とても元気そうにシャンとしている母に

「これから作品作りを教えてください」と

言ってくださっていました。


88歳のお姉さんが息子たちと会いに来てくれたり

母の実家から遠路駆け付けてくれて沢山写真を撮ってくれたり

女学校時代のお友達(つまり83歳)が、お一人で東京から新幹線で駆けつけてくださったり、

50年来のお友達と久しぶりの再会したり・・・。

母は生前葬を、自分で催したのだと思います。


ピアニストである長年の友人さんも来られたので、母は演奏をおねだりし、

楽譜もないから・・・と固辞されるのを、無理矢理にお願いしました。

母のリクエストは「娘(つまり私)が昔々弾いていたのが懐かしいので」と

「エリーゼのために」と「乙女の祈り」。

母のための即席の演奏会は、会場の雰囲気が実によくマッチしていて、

本当に本当に感動的で、

居合わせた誰しもが、涙を流して聞きいっていました。



2日間の開催時間中、ずっと会場に居て、全く元気にいっぱいのおしゃべりを楽しんでいました、


作品展を終えて、母は、幸せそうでした・・・


満足した母は、看護師さんに、「私は5日後に逝くわ~」と、言ったそうです。

いつも変なジョークばかり言っている母ですので、

本気だったのだか何だったのだか、私にはわかりません