ちゅちゅちゅちゅ~っす!
どうも、エセ経営者になりました、and-Jです
先日実家の団子屋の経営をする!と息巻きましたが、
本業のエンジニアの方も頑張っております
実は本業の方はと言いますと、うちのチームの昨年度の実績があまりにも良すぎたため、
取引をしているメーカーさんにも注目を浴びるようになり、
且つ、社内でも噂が広まりつつあるのか、今年度は提案やらなんやらと激務激務の毎日なのです
去年はメーカーさんからなんて、連絡はほぼ来ることもなく、のほほんと仕事してたのですが、
今年に入ってからというと、担当営業さんから「一緒にビジネス拡大しましょー!」って感じで、
恋人・奥さん以上に毎日電話がかかってきます
その他にも、メーカーさんと毎週定例をやって、あれはどうだ?これはこうだ!
なーんてやり取りもしています
そんな中、メーカーさんからとある依頼を受けました
その依頼なんですが…
「and-Jさん、10月にラスベガス行きましょう!」
そう。
あの2年前にわけも分からずに行かされた、メーカーさんのラスベガスイベントに、今年再び誘われてしまいました…
今年の初頭にメーカーさんと一緒に立てた目標の中にそのイベントは組み込まれていたので、勿論わかってはいたのですが…。
できれば言ってほしくなかった
んで、こうなると調整しないわけにはいきません
私は2年前に行ったので、次は他の人に行かせようかな…てな事を考えていました
えー、勿論職権乱用ですよ
だって行きたくないんだものネー
さて、ここで話は変わります
今、私のチームには入社6年目になる女の子がいます
この子は入社した当初から私のチームに配属され、会社の統合や、部署の再編成など諸々あったのですが、今でも私のもとで頑張ってくれています
この子が入社した時は、彼女を含めて3人の同期が私のチームに所属していました
男の子2、女の子1の構成でしたね
で、うちのチームはその当時からいろんな事をやっていたので、同期の男の子達は、運よく1,2年目段階で出張を経験させてあげることができました
中には海外出張を経験したメンバーもいました
その中で、女の子だけが案件のタイミングが合わず、胸躍る出張に行かせてあげることができませんでした…
(名古屋出張くらいはありましたが)
私は過去に沢山の海外出張を経験したので、たまにその子に海外出張の話をすると、目を輝かせながら聞いていました
そして私が
「結構大変だけど、海外出張行ってみたい?」
と尋ねると即答で、
「行きたいです!」
返すほどでした
(そうだよなぁ…、この子だけあまり出張させてあげれてないからなぁ)
そう思いながら、その時は
「よし、わかった!俺、海外出張に行ける仕事作るから」
(いつになるかわからんけどw)
なんて話をしていました
んで、話は戻ります
メーカーさんから話にあったラスベガスイベント
私はすぐさま課長くんにチャットで誰を行かせるかを相談しました
数日後にチームの飲み会を控えていたこともあり、そこで話して決めましょう…ということに
でもって飲み会当日
やんややんやと盛り上がっている飲み会中盤
私は白々しく話を振りました
J:「課長、そういえばこの前相談したラスベガスの件どうしましょ?」
課:「あ、そうでしたね。10月のラスベガスですけど、誰か行きたい人います?」
すると、ここぞとばかりに6年目ちゃんが
♀:「私、行きたいです!」
よしよし、ちゃんと自ら手を挙げたな
J:「6年目ちゃん。行くのはいいんだけど、あのメーカーの製品あまり触ってないけど大丈夫?」
♀:「はい、今はあんまり触れてないですけど、行くまでには覚えます!」
おー、めっちゃやる気やん
後は生け贄を作るだけだ
J:「そかそか。じゃぁ、考えとくね。あともう一人誰か行かないといけないですね。さすがに一人だとあれなので…。課長お願いしますw」
課:「いやいや、私は他の事もあるのでちょっと行けないですね」
ここからは誰が行くかのなすりつけあい
課:「中堅さん行けばいいじゃないですか?」
中:「絶対嫌ですうちはまだ子供も小さいんで
w やっぱここはJさんじゃないっすか?
」
J:「… そうよね、どう見たって俺しかいないもんね
わかりました、俺でいいっす。」
まー、結局こうなるわけですよ
もう一人若手を行かせてもよかったんですが、さすがにメーカーさんのイベントなので、ある程度の中堅クラスが一人は行かないといけなくて
でも、課長くんは業務多忙すぎ&英語喋れないので行けるわけもなく、中堅くんも家庭の事情があるのはわかってたので、行けるのって私しかいないんですよね…
という事で、私も引率係として行くこととなりました
参加者2名決定したので、よしよし…と思っていたところ、課長くんが突然、
課:「えっ?二人でいいんですか?」
なんてことを言いだした。2年前に行ったときは部長と私と二人だったので、十分でしょ?と思っていたのですが…
課:「使えるお金あるんで、もう一人くらい行けますよ?3年目君、どうですか?」
おー、これはとんだとばっちり
でもって、太っ腹w
3:「えっ?僕ですか?」
(あまり乗り気じゃないw)
課:「今の業務でメインで担当してるんで、行って勉強してきた方がいいと思いますよ」
鶴の一声で、3年目くんも出張決定
というわけで、3人でのラスベガス出張が決まりました
この出張が決まったことで、私の6年前の約束がやっと果たせることとなりました
飲み会の後。私は6年目ちゃんに、
J:「よかったね~、念願の海外出張行けるね。俺もなんとか約束守れたわ 笑」
というと、6年目ちゃんも嬉しそうに
6:「よかったです!ありがとうございます、やっと海外出張行けます!」
と言っていました
入社してすぐの頃は、ぽわぁ~んとしていて
(この子…大丈夫かね?)
というくらい心配だったのですが、今となっては一人で提案して、見積作って、プロマネやって…と完全に独り立ち、しかもバリバリ仕事するまでに育ってくれました
私の片腕と言ってもいいくらいまでに
あとは、海外出張に行った後直ぐに
「部署異動したいです…」
って言わないことを願うばかりです
というわけで、このブログがよかったらいいね&コメントお願いします♪
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ちゅちゅちゅちゅ~っす!
どうもぉ~っ
and-Jです
みなさんいかがお過ごしでしょうか?
いつものand-Jが帰ってまいりました
先日はちょっとしんみりしたブログを書いてしまいましたが、
沢山のコメントを頂き、みなさんに沢山元気づけて頂きました
コメント頂いた方も、そうでない方も、本当にありがとうございます
5月に父が亡くなり、いろいろと整理をしていました
その中でも父が急逝して一番困ったのが…お店です
度々このブログにも登場していましたが、実は私の両親は地元で団子屋を営んでおりました🍡
父が団子をうって、商品を作るのは父と母と二人でという、田舎の小さな団子屋です
でも、なんやかんやで30年以上お店やってたんですよねぇ
んで、その整理なんですが。
父がいなくなりだんごを打つことができず、母も高齢ということもあって、お店をたたもうか…とも考えていました
が!!!
整理を進めると、出るわ出るわ…
借金の山
もうね、とんでもないくらいの額…
うちのオフクロは契約まわりや数字のことはテンでだめで…
一応親父が生命保険をかけてたこともあり、なんとか私の方で返す算段だったりを考えているのですが…。
店やめたら借金も返せんし、生活費も賄えんやん…
つか、親父いらんもん残しすぎやろ!!
というわけで、決めました!!
経営者に、俺はなるっ!
ってなわけで、本業終了後は実家のお店の件で毎日あくせくしております
日々わからないことだらけですが、一歩ずつ頑張っていこうとおもいますので、
応援の程宜しくお願い致します!
ご無沙汰しております、and-Jです。
いつもであれば、決まりの挨拶で始まるところですが、本日は控えさせていただきます。
申し訳ございません。
ブログの投稿も約2か月ぶりとなります。
というのも、実は4月頃からプライベートなところでドタバタしており、それも少しずつではありますがなんとか落ち着いてきたところもあり、筆を執らせて頂いております。
また、先に伝えさせていただきますが、本日は長文になります旨ご了承願います。
(長文が苦手な方は、本日の投稿は無視していただきますようお願いいたします。)
実は、先月のGW明けに私の父が急逝致しました。
事の発端は、今年の年明けにまで遡ります。
当時の記事にも書いていますが、昨年の年末に帰省した時の事でした。
空港に迎えに来ていた父は身体のどこかしらが痛かったようで、ずっと痛みを庇うように歩いていました。車に乗った際にも痛みが治まるまで暫く待ったりして、その時点で違和感を覚えました。
家に帰っても、時折痛いと言いながら動いていました。
ただ、まだその時は痛いとは言うものの、普段と変わらないように動いていたので、
「あんまり痛かなら、病院に行きなっせ」
と家族も小言を言うくらいでした。
私の父は昔から病院が嫌いだったので、具合が悪くても病院に行ったことはほぼ無く、一度病院に入院したこともあったのですが、即日家に帰ってくる程の人でした。
年が明けて家族会議をし、私が東京に戻ってから事は進み始めました。
1月の後半に差し掛かった頃。実家から電話がかかってきました。
どうも父の体の痛みが酷くなっていると。私は父に、
「あんまり痛かなら、病院に行って診てもらわんね。まだ店の事もあるとだけん、ここで身体壊しても仕方なかろうもん。」
といい、父はそれを受け入れ検査をすることになりました。
それから数日たったある日、再び実家から電話がかかってきました。
何事かと思い話を聞くと、母曰く
「病院では面倒みきれんけん、通院で検査に来てくださいって言われたったい…。」と。
よくよく話を聞くと、どうやら父は夜間に勝手に外出をしたとのこと。
『いい年して何をやってるんだ…。』
と思いながらも、その後の対応は母と妹に任せました。
そしてまた数日すると実家から電話がかかってきました。
どうしたのかと母に聞くと、
「お父さん、今度は病室で煙草吸うたて…。」
呆れて何も言えません。
検査をしても痛い痛いと喚き散らし…。
『いい加減にしてくれよ…。』
と思いながらも、遠方で何もできない私は現地での状況を聞く事しかできませんでした。
結局その病院では診れないという事になり、別の病院で検査をすることになったのですがそこも合わず、月日だけがただただ流れていきました。
そんなことがあってからの2月末か3月頃だったでしょうか。
両親が店で仕事をしていたときに、以前に亡くなった祖父を診てくださった先生がいらっしゃって、父に話をしていただいたところ、再び検査をするという事になりました。
それからは店をやりながら、検査をして…という日々が続きました。
それから暫くして、父から電話がありました。
父:「J、お父さん。この間病院に検査の結果ば聞きに言ったもんね。そしたら癌だった。」
J:「は?どこの?」
父:「うん、大腸で。」
普通であればショックを受けるのでしょうが、なんとなく察していた私は、この話では驚きませんでした。癌といえども、近年では治療によっては治るというのも知っていたからです。父も、
父:「うちは癌の家系やし、おじちゃんもおばちゃんも癌ばってん生きとらすけん心配いらん。」
とサラッと話していました。
ただ、唯一心配だったのは、年末の痛み方と日頃見ている母や妹から聞いていた話で、本当はかなり進行しているのではないか…という事でした。
J:「お父さんがそげん言うなら俺は何も言わんけど、病院はこれからもちゃんと行かなんよ?」
父:「わかっとるよ。まだあと10年ぐらいは生きて、区長ばせなんけんね!」
と笑いながら、でも少し弱々しく父は答えました。
ここからは治療をするかしないか…という話に変わっていきました。
当初は治療はしないと言っていた父でしたが、母や妹は治療をしてほしいそう思っていました。
あまりに父が言う事をきかないので、私も父を説得しました。
J:「お父さん。俺はお父さんが治療するも治療せんも、お父さんが自分で決めた事にはなんも言わん。ただ、お母さんや妹達はお父さんに少しでも長く生きて欲しかて思っとらすけん、1回治療するとか、その辺は汲んでくれんかね?」
父:「そうね。あんたがそこまで言うけん、もう1回考えるね。」
そう言ってまた数日経って父から電話があり、
父:「J。お父さん、1回は治療を受けてみようと思う。お母さんも妹達も思ってくれるけんね。それで、もし身体に合わんとかだったらやめるかもしれん。」
J:「わかった。俺は前にも言うたけど、俺はお父さんが決めた事にはなんも言わん。お父さんの人生やし、お父さんが決める事だけん。でも、ありがとうね。」
そんな会話をして電話を切りました。
しかし結局のところ、『治療をする』には至りませんでした。
時は過ぎ、4月の上旬くらいだったでしょうか。再び父から電話がありました。
父:「J。お父さん、治療はせんことにした。」
J:「は?なんで?」
父:「うん、今日もその後の検査の結果ば聞きに病院に行ったばってん、そん時に言われたったい。余命3か月て。」
さすがの私も、この時ばかりは頭が一瞬真っ白になりました。
J:「は?余命3か月?ついこの間までそげん話はなかったやんね?」
父:「うん。先生曰く、予想より進み具合が早かったらしくてね。大腸から肺にまで転移しとるげなたい。だけん、もう治療せんでおろうと思って。お金もかかるしね。」
J:「…。」
つい1,2か月前まではそんな話全然なかったのに…。
いろんな思いが私の頭を駆け巡りました。私が振り絞って出した言葉は…
J:「わかった。お父さんがそげん決めたなら、よか。お父さんが決めた事にはなんも言わんていうとったけんね。あと3か月か何か月かわからんばってん、それまでにすることはちゃんとせなんけんね。」
これが精いっぱいでした。それに対して父は
父:「うん、わかっとるよ。あんた達には迷惑かけんごとちゃんとしていくけん。心配ばっかりかけてごめんね。」
J:「俺たちはなんも思とらんけん謝らんでよか。」
私の精一杯の強がりでした。
それから数日後。再び父から電話がかかってきました。
父:「今日病院に行って先生と話ばしたら、先生がどうしても家族皆さんに会ってお話ばしたかていいなはったけん来れんやろか?あんた達も忙しかけん、すぐには無理やろうけど。4月23日なら先生も都合がよかてたい。」
そう言われたのが4月15日の週でした。
年度が変わったばかりで多忙であることと、既に仕事の予定が埋まっており、あまりに直前すぎて調整が難しいのもあり、
J:「ちょっと急すぎて、帰るにもいろいろ調整せなんし、大阪の妹の事もあるけん、帰られる日程ば調整して連絡するけん。」
父:「うん、わかった。んならよろしくね。」
そう言って電話を切りました。
それから私は大阪の妹に連絡して日程を調整し、GW明けの5月10日に病院に行く旨を父に伝えました。
GW最終日の5月6日。
私はリモートで仕事をする調整をしておいたため、一足早く地元に戻ることにしました。
午前の便で羽田を出発し、お昼に地元に到着しました。
ゲートを出ると、いつも通り父と母が空港に迎えに来ていました。
両親と合流し、そこから駐車場へと向かったのですが、年末に会った父とはまるっきり変わっていました…。
歩くのももうままならないのです…。
年末に迎えに来た時は、痛みは堪えながらもまだ通常の速さで歩いていました。
でも、今回はゆっくりゆっくり、一歩ずつ一歩ずつ歩く姿に変わっており、病に蝕まれている姿が目に見えてわかりました。
車に乗り込む際、母が運転を変わろうかと言うも、父は頑なに
「俺が運転するけんよか」
といって譲りません。父の意地なのでしょうか。痛みが落ち着いてから、父はいつも通り運転を始めました。
帰宅途中、父は突然あるところに車を入れました。そこは焼肉屋さん。
父:「お昼ご飯食べて帰ろうか?」
父がそういうので、母と3人で焼き肉を食べました。この時の父は痛みも落ち着いていたのか、饒舌でいろんな事を話していました。食事をしている間も、母と私とあーでもないこーでもないと話をし、普段と何も変わらない父でした。
食事を終え実家に到着。
私が部屋で荷物の整理などをしているとあっという間に夜になりました。
暫くして父が
「ちょっと実家に行ってくる。」
と言い、そのまま近所の実家に行きました。そして22時半頃、父は何事もなかったかのように家に帰ってきました。
明けて5月7日の午前3時頃。
眠っていた私を母が突然起こしに来ました。眠いながらも母の方を見ると、
母:「J。お父さんが背中ば擦ってほしかてだけん、擦ってやってくれんね。」
J:「…うん。よかけど?」
母:「お父さんが痛がらすとたい。」
J:「わかった。」
妹から聞いてはいたのですが、いつも夜になると父が痛い痛いといって背中を擦ってくれといい、でも病院には行かない、治療もしない…でこうやって母や妹に毎日頼んでいたので、私も内心
『またか…。』
くらいに思っていました。
父の寝室に行き、父の背中を擦りました。そこで私はまたショックを受けました。その場で口にはしなかったものの、あまりの父の瘦せ具合が私にはショックだったのです。
ずっと見てきた父は、がっしりとしていて正に男らしい体系で、私にとっては憧れでした。
そんな父が病に侵され瘦せ細ってしまった背中になってしまったことに悲しみを覚えました。
それでも痛みに一生懸命耐えている父。私は無言で只管父の背中を擦りました。
2時間くらい経ったでしょうか。途中痛み止めを飲んだりもしましたが、全く持って痛みが引く気配がありません。そんな痛みに耐えながらも父は、
父:「J…。あんた、明日仕事だろ?もうよかけん…、あんたは…、寝なっせ。」
J:「本当によかと?」
父:「よかよか…。寝なっせ…。」
私に気遣い、そう言葉をかけてくれました。
それから2時間ほどすると、また母が部屋にやってきました。
母:「お父さんの痛みの全然ひかんけん、ちょっと病院さん行ってくる。救急車も呼んだけん。」
J:「わかった。」
それから間もなくして救急車が到着し、父と母は病院へ向かいました。
8時半になり、私は家でそのまま仕事を開始しました。しかし、胸騒ぎが止まりません。
その日私は急遽午後休の申請をしました。そしてそのまま仕事をしていると、私の携帯に母から電話がかかってきました。
母:「病院の先生が、病状を話しておきたいから急いで来てくれんねていいんなはるとたい。」
J:「そうね。ちょうど午後休みば取ったけん、14時くらいには病院いかるっかも。」
母:「わかった。それなら先生に伝えとくね。」
そういって電話を切り、午前の仕事を終えてすぐさま病院へと向かいました。
病院に着いて母と合流し、先生の所へ話を伺いに行きました。
先生:「これまで下から2段階目の痛み止めを投薬していてこれまで抑えられていたのですが、ちょっと効かないみたいで。なので、もう一段階上の痛み止めにしました。これが効いてくれればいいんですが…。お父様は家が好きなのも知ってるので、帰られたいとも思ってらっしゃると思いますが、痛みが引かない事には病院としてもお返しするわけにはいかないので、今日は入院してもらった方がいいかもしれません。痛みが引いたら帰ってもらっても大丈夫ですけどね。」
J:「そうですよね。」
先生:「まだ痛みもかなりあるみたいなので、ちょっと様子をみましょうか。」
母:「はい…。」
話を聞いた後、母と私は父がいる病室へと向かいました。
病室に入ると、ベッドの上で父が
父:「痛かぁ…、痛かぁ…。」
とずっと唸っています。
母は父の傍に行き、ずっと父を擦っていました。
しばらくすると、父が母に何か話しかけています。
父の話を聞き終わると、母が私のところへやってきました。
母:「お父さんが今日お店の件で人と会う約束ばしとらして、その人が16時にお店に来なはるけん、代わりに行ってきてくれんかて。」
J:「お店んこつでね?」
母:「お母さんな、なんもわからんけんJと行くとよかてお父さんが。」
突如母にそう言われましたが、私もなんのことだかさっぱりわかりません。
するとベッドの上の父が、
父:「Jなら…話ば聞ききるけん。…話ば…聞くだけでよかけん。」
必死にそう話しかけ、また唸り始めました。
J:「わかった。」
時間もないことから、母と私はすぐに店へと向かいました。
店に着くと間もなく来客がありました。話によると実家の近所の方でした。
その方も父ではなく、私達が店にいることを不思議に思われたようで、
A:「お父さんな、どげんしなさったですか?」
母:「今朝、急に体調の悪なってからですね、今病院におるとですよ。」
A:「え?昨日の夜うちに来なはったときは、ちっと体調な悪かごたったばってん普通に話よんなはったですよ?」
母:「はい、それがホント今朝急にですね…。」
そこから暫く会話をして本題に入ると、実は父は前の夜にこのAさんにお店を引き継いでもらえないかと話に行っていたそうなのです。
それでその詳細を改めて聞くために店で会う約束をしていたと。父はこの日も普通に店を開けるつもりでいたのです。
結局のところは父が不在のため、また改めて検討するという話で一度お帰り頂きました。
その後母と私は病院へと戻りました。
病室に行くと、新しい薬が効いたのか父は眠っていました。その姿を見て母と私は安堵し、看護師さんのいるところへと向かいました。
この日は一旦入院するという話になり、母と私は入院の用意をするべく一旦家へと帰りました。
家に戻り入院の準備を済ませると、母はすぐさま再度病院へと向かいました。
私もついていこうと思いましたが、実家に叔父がいるため、私は留守番をすることとなりました。
そして23時前。母は病院から戻ってきました。
J:「お父さんはどうやった?」
母:「うん。病院に行ったらまた痛がりよらしたけん、暫く擦ってきた。でもお父さんが帰ってよかて言わしたけん、帰ってきたたい。」
J:「そうね。そんならとりあえずは大丈夫かね。」
私は母が帰ってきたことで安堵し、この日は眠りにつきました。
しかしその翌朝7時過ぎ。また、母が私の部屋へとやってきました。
すると母が、
母:「今、病院から電話のあってからね、なんかお父さんの血圧が下がりよるらしくて、傍におってもらえんやろかて電話のあったけん、今からまた病院に行ってくる。」
そう言いました。
私はこの日はどうしても外せない仕事があったので、何かあったら電話するように母に言い、この後私は実家で自分の業務にあたりました。
午後14時過ぎ。私のスマホに母から電話がかかってきました。
私は胸騒ぎを抑えながら、電話にでました。すると、
母:「もしもし。今ね、病院の先生から話があったとばってん、お父さんの肺に結晶が溜まってしまっとるらしくてね。もしかすると、今晩がやまかもしれんてさっきいいなはったったい。だけん、よかったらあんたも早めに病院に来てくれんね。」
J:「…そうね。わかった。まだ仕事の終わらんけん、17時半になったらすぐに病院に向かう。妹達には俺から連絡しとくけん。」
母:「頼むね。あ、あとあんたが来る時に、お父さんの白か作業着ば持ってきてくれんね?お父さんがあれがよかて言いよらすけん。」
J:「わかった。病院に行くときに持っていくよ。」
そう言って電話を切り、仕事中ながらもすぐに妹二人に電話をし、すぐに病院に向かうように伝えました。一番下の妹は大阪に住んでいることもあるのと、あまりに急なことからかなりドタバタしたと思います。
そして17時半。私は仕事を終えると、すぐに車で病院に向かいました。そう、父が望んでいる白の作業着を持って…。
18時過ぎ。私は病院に到着しました。
病院に着くと、親父の兄夫婦、姉、弟夫婦が既に病院にいらっしゃいました。
それとは別に一人の見ず知らずの方が、私と同じタイミングで受付をされていました。
私は叔父たちと合流し、少し話をした後に病室へと向かいました。
するとなぜか、その見知らぬ方も私たちについてこられます。
私は不思議に思いながらも叔父たちと一緒に父の病室に向かいます。
病室に入った直後、私はショックを受けました。
二日前まで、弱々しいながらも普通に動いていた親父。
昨晩まで痛みに耐えながらもなんとか言葉を交わしていた親父…。
その親父が、酸素マスクを着け、白目をむいた状態で、息をしているだけの状態になっていたのです…。
口だけで必死に息をする父…。
言葉が出ませんでした。
そんな中、叔父夫妻と母は挨拶を交わしていました。
先ほど時同じくして入ってこられた方は、話を聞くと親父の親友の方でした。
私はベッドから少し離れたところで、誰と話すこともなくただ一人親父を見つめていました。
『ちょっと待ってよ。一昨日まではまだ普通やったやん…。』
『検査結果聞かなんて言うけん帰ってきたとに、なんねこれ…。』
『ていうか、まだ逝かんでよ。妹達も今来よるとだけん!』
『まだお店の事も他の事もなんも聞いとらんて!』
そんな事を考えながら、ふと母や親父の親友の方のほうに目を向けました。
それから間もなく…。
ほんの一瞬でした。
再び親父の方に目を向けると、呼吸をしている様子がありません…。
それに気づいた私は、
J:「ねぇ、お母さん。お父さん、息しよらすね…?」
そう呟きました。
すると母は親父を触りながら確かめます。しかしなんの反応もありません。
J:「お母さん、看護師さんば呼びなっせ…。」
ポツリと呟く私の言葉に、母は慌てることなくすぐに看護師さんを病室へと呼びました。
間もなくして院長先生と看護師さんが病室にこられ、父の脈を確認します。
しかし親父の脈は、もうありませんでした…。
部屋に沈黙が流れます。
暫くすると母が泣き出しました…。
しかし、不思議なもので、直後は私は涙は出ませんでした。
『妹達に連絡しなきゃ…。』
俺はスマホを手に取り病室を出て妹達にLINEを送りました。
『間に合わんやった…。』
ここからは怒涛のように時間が過ぎました。
19時過ぎに真ん中の妹と甥っ子が病院に到着。
亡くなった父と会ったのも束の間、病院の別室では私も母も右往左往。
何をしてよいかわからず、叔父たちに相談しながら事を進めました。
葬儀社の手配、葬儀社到着後直ぐにお通夜、葬式、火葬の段取り。
悲しむ暇もありません。
そして深夜23時過ぎ。一番下の妹家族が到着。
妹が悲しむ最中も、私は見積の確認などの事を進めていました。
ここから葬儀を終えるまでは、あっという間に時間が過ぎました。
お通夜、葬式では妹達が泣く姿を見て、小さい頃を思い出し、私もつられて涙してしまいました。
お通夜、葬儀には沢山の方々にご列席頂き、時には笑いながら、時には涙しながらと、何かと忙しい式になりました。
親父は私にとって唯一の男家族でした。
家族構成的にも母、妹二人であるため、男は親父しかおらず、小さな頃から私にとっては憧れの存在でした。
そこそこ力もあって、車も運転できて、タバコも吸って、単車にも乗れて…。
傍から見るとあまりよく見えないかもしれないですが、小さかった頃の私には、そんな姿がとてもカッコよく見えました。
脱サラをして店を始めて借金まみれになって…。
そんな親父でも私にとっては…、私たち家族にとっては唯一無二の存在でした。
晩年はしきりに私達に、
父:「あんた達には迷惑ばっかりかけてゴメンだったね。ばってん、お父さんなホント幸せもんばい。」
そう言っていました。
その言葉、そのまま返すよ…。
親父、ありがとう…。
本当にありがとう…。
小さい頃からいろんな事を経験させてくれて。
時には周囲の人達から恨み妬まれ…そんな事もあったけど、親父が人のために尽くしてた事は俺達家族が一番よーわかっとる。
だけん、俺達はお父さんの事ば恨んだりしたことは一切なかし、感謝しとる。
ただ、ちょっとだけ不器用やったね。
いろんな事あったけど、俺達も幸せやったよ…。
痛みに耐えながらよー頑張ったね。
でも、妹達が来るまで、もうちょっと待ってほしかったな。
俺の方こそなんもしてやれんでゴメンね…。
お母さん達の事は心配いらんけんね。俺がちゃんと面倒見るけん。
長い間、本当にお疲れさまでした。ゆっくり休んでね。
そしてまた一歩ずつ歩いて行ってください。
改めて言わせてください。
親父、ありがとう…。
p.s.
借金でけーよ 笑
※明日からはいつものand-Jに戻ります。