本部長の一人からの発言に「うちを信頼して来た生徒にいい教育をしてやりたい」というのがあった。ヒラメ次長も横でしたり顔をしてうなずいていた。また、例の「老婆心」だ。
「大手だから、有名だから信用できる」として中身に関しては何も知らず「無知の選択」をしてきた者を「うちを信頼して来た」と言ってしまうこのバカさ!! 恥を知るといい。
「いい教育」とは彼らが「人気があるから“偉い”」とする講師を当てがうことでしかない。
朝からカラオケ・ボックスに逃避する生徒については述べた。トイレの卑猥を極めた落書きについても述べた。生徒をスパイに使うことも述べた。
特に手の掛かるDレベルの特別クラスの生徒については、例外的に出欠が把握できており、欠席すると「出て来い」と電話をかける、ハガキを出す、それでもダメなら電報を打つ。
これは無能者の行う「膏薬貼り行為」に過ぎない。
「いい教育をする」とは、なぜ出て来なくなるのかを解明し、出て来るようにするにはどうすれば良いのかを考えることであるが、こういう「抽象のレベル」のことになると、キキケケたちはたちどころにモノが分からなくなる。講師側も「親睦を深めるために阿蘇に行こう」では仕方が無い。
トイレの落書きが、この予備校の教育レベルを物語っているのだが、ある年のこの予備校の新聞広告の一部を以下に引用する。
「私たちは、ただ大学に合格すればいいとは考えてはいない。
大学に入ったあとも、その先の夢に向かってしっかりと歩んでいける、考える力、学ぶ姿勢、基礎学力を身につけてほしいと考えている。
私たちは、各大学の入試傾向を分析し、志望校別、学部別、レベレル別のテキストを毎年更新している。
講師は対面授業で徹底的に教えてくれる。教室で、講師室で、わかるまでつき合ってくれる。
効率的な学習システムや自習室などの設備も備えている。
そして何より、塾生ひとりひとりと向き合い、ともに語り合い、
その熱意、息吹、想いを肌で感じ取りながら、
私たちが塾生にできることは、もっともっとあるのではないかと考え続け、実践し続けている。
私たちの情熱とエネルギーは、一心にここに注がれている。
これらは、ただ合格するためのテクニックを教えるためにあるのではない。
むしろ、そんな目先のテクニックは身につけてほしくないのだ。
表面だけの促成栽培では、いずれ根づかず枯れてしまうだろう。
私たちは、大学に入っただけで枯れてほしくはないのだ。
そこから先の長い人生の中で、大輪の花を咲かせてほしいのだ。
ただ合格するだけの予備校ではない。」
この広告文は多分コピーライターに書いてもらったものであろうが、ここに並ぶこの「美辞麗句」は、筆者が10年半の在籍中に経験したこととは余りにも違い過ぎる。
これほどの高邁な教育理念があったとは知らなかった。社長からこのような訓話も一度もなかった。
だいぶ以前のことだが反社会的行為をした雪印乳業や日本ハムの懺悔が全面広告で出たが、あれは「懺悔」であった。
上記の広告は、懺悔などという気持ちは全く無く、社会に対するお見事な「自校の宣伝」である。よくもまぁ「いけしゃーしゃーと」と思わずにはいられない。
ともかく出来るだけ多数の生徒を獲得して利潤を上げようという「営利会社」では、関心は常に父兄と生徒という外に向いている。
一方「北予備」は、この頃は年が明けると週刊誌に宣伝を出すから、全国から寮生が集まるようになったが、宣伝文句と学校内要とが「完全に一致」している。
この「教育機関」では、関心は常に預かった生徒という内に向かっている。××予備校という「営利会社」とは関心の向き方が全く逆なのだ。
これにより、父兄の信用がじわじわと広がって行き、緩慢ながらも着実な成長をしつつある。他予備校が業務縮小に向かっている中で、新幹線博多駅近くに進出し、その次には大分に新校舎を建てた。更に、熊本、鹿児島にも校舎ができた。
古くは、新幹線の「新山口」駅(以前の「小郡」駅の前に新校舎を建てた。これは15年位前のことになる。また、熊本校舎以前に長崎校舎が出来ている。今では東京校もある。
わが子を禅寺のような予備校に一年預け、戦前の美風に染め上げて貰えるならとお考えの親御さんたちは、安心してお子さんをこの予備校には預けることができる。