アリス高崎障がい者就労継続支援

アリス高崎障がい者就労継続支援

群馬県高崎市にある障がい者就労支援施設です。
心の病の方が主に利用しています。
安心感と楽しさと仲間同士のつながりの中での回復を一緒に目指していける、そんな場作りを心がけています。
悩みをゆっくり話せる個人相談の時間も大切にしています

 

今日のこの文章は3年前の春に書いて載せた文章です。
え~と、3年前の春に載せた文章をまたここに載せる理由はですね、

3年の年月が過ぎて、また同じように春が来ても、やはり同じように大切なものがそこにあることを感じられるので、
またこの春に同じ文章をここに載せて、大切なものをこの春にも残したいと思いました。

そんな理由です。


3年前に載せた時、ありがたいことにたくさんの大切なコメントを頂いたので、その時頂いたコメントを大切にしたいので、今回は再掲載ですので、今回はコメント欄を閉じさせていただきます

 

 

 

 

情けないことに捨てられなかった希望
 

 


アリス高崎
ブログ担当Nです

 


この何年間かの中で、

不思議なことに

何度か何度か

全く別の人から
全く別の時の
別のタイミングの別の場面で

とても似たニュアンスの言葉が幾度か伝えられてきました。


個人のプライバシーを守るために、正確な言葉としては書き記さないけれども、

僕の心の内に届いてきた、
僕の心の内に響いたニュアンスの言葉として、
僕の言葉としてここに変換して、
書くと、

それはこんな感じの言葉です


 

 


「 自分は自分という人間に絶望しきっている…

でも…自分という人間に絶望しきっているくせに…

情けないことに…

お恥ずかしながら…

自分の人生に対して、
まだどこかで希望を捨て切れないでいる自分がいるんです…

もしかしたら…

いつか誰かの役に立てるんじゃないかって…

そんな希望が捨てられないんです…」


 

 


それは深く深く僕の心に響いてきました。



別の場面では、

まったく別の人から

ほとんど同じニュアンスの話が、
ちょっと違った角度から同じように語られ

それは僕の心の中で、こんな言葉に変換されました。



「 自分のような人間が生きていることには何の意味もない…
何の意味もないってわかってるのにまだ生き続けてるのは…

もしかしたら…

もしかしたら…

いつかどこかで自分の命が誰かのためになることがあるんじゃないかって…

そんな夢のような希望を捨てることができないから…

…だから生きてるんだ…

…情けないことに…そんな希望を捨てることができないから

だからまだ生きてるんだ…」


 

 


それは僕の心に深く深く刻印された響きでした。


その希望に託された響きの奥に…
…やはり僕は痛みを感じます…



痛みとして刻印された響きは

深く深く僕の心の奥に根を張ってゆき、

その痛みの根の中から

「願い」という小さな芽が生まれてきたのです。

 

 


その

「情けないことに捨てられない希望」

が叶ってもらいたいという「願い」の芽です。



 

 

 

誰かと誰かの心は別の心なんだけど、

僕の心の奥深くの「痛み」から生まれた小さな「願い」という芽は、

誰かの違う心の
「痛み」
という深い根っこにつながって

誰かの違う心の荒野の上に
その僕の心の内に芽吹いた小さな「願い」の芽が、

今、
小さく小さく、密かに、静かに、芽吹いてきているような、

形にできないような
実感を、

僕は今感じているのです。


 

 

「自分の命が誰かのために役立つことがあるんじゃないのかって…
そんな、
情けないことに捨てきることができなかった希望」


アリスでの日々で、
僕はそれが小さく小さく、今、成就されているように感じているのです。



風の吹きすさぶ荒涼とした大地の上に、

巨大な荒野の上に、

芽吹き出したかすかな小さな芽のいくつかは

それは幻のように小さく

曇りガラスのレンズの向こうに見るかのごとく、
おぼろげな幻のような姿だけど、

確かに、今、現実としてそこに芽吹き出している
「希望の成就の芽」
として

僕は僕の心を通して、
確かな現実のものとして感じているのです。



 

 

助けたり、助けられたり、


助けているつもりが助けられてたり、


励ましたつもりが実は

相手から返ってきた嬉しそうな照れ笑いで自分が励まされてたり、

 

 

もうどっちが助けてるんだか
助けられているんだか

なんだかごちゃまぜになって、
わからなくなっちゃってるような

そんなアリスでの
たわいもない日々の、

たわいもない笑いに満ちた日常の日々の中で

「情けないことに捨てられなかった希望」は

今、確かに、小さく小さく成就されていると

僕は僕の心の目を通して
それを実感することができるのです。



荒れ果てた風の吹きすさぶ荒涼とした大地の

その奥にあった「痛み」という巨大な根っこから

春の日差しに照らされて生まれ出てきた

「捨てられなかった希望」
という名の芽は

確実にやがて誰かの心にまたつながっていくでしょう。


まるでたんぽぽの綿毛が春の風に飛ばされて

どこかの大地にたどり着き、
そこに新しい命の根と芽を生み出してゆくように。





 

 

 

 

先日、暖かな春の陽気に包まれた午後、

僕は不安を抱えた一人の若い女性メンバーと
一緒に施設の近所の公園に散歩に行きました。


公園の桜の木々のその下の
舞い散った桜の絨毯のその中に、
タンポポを見つけました。

うすももいろの雪景色のような

桜の絨毯の中に黄色く咲いているタンポポです。
 

 

もう綿帽子になっているタンポポもありました。

 

 

「綿帽子を最近触ったことある?」


若い女性に尋ねてみました


「ないです」


若い女性は首を振りました


「綿帽子を一緒にゆすってみようか」


二人でたんぽぽの綿帽子を指でそっとさわって揺らすと

綿毛たちはゆらゆらと風に吹かれて飛んでゆきました。



綿毛たちが風に吹かれてゆくのを二人で眺めていました。


「来年どっかの土地でタンポポが咲いていると思うけど、
それは今揺らした綿帽子が、
どこかにたどり着いて咲いたタンポポかもしれないね。」


不安に包まれていた彼女の表情に、
水彩のさくら色に染まるような小さな微笑みが生まれました。


春の日差しに照らされて
二人でクスクス笑い合いました

 

 

 

 

 

3年前に載せた時、ありがたいことにたくさんの大切なコメントを頂いたので、その時頂いたコメントを大切にしたいので、今回は再掲載ですので、今回はコメント欄を閉じさせていただきますぅ~

 

 

              

 

 

 

  「どんな名医の処方箋より」
  〜名前のない涙の物語〜



(誰かの心の戻り場所になってもらいたいなぁと思って載せました)


アリス高崎
ブログ担当Nです



つらい話を聞きました…

悲しい話です…

相談室で聞いた話です

相談室で2人で聞いた話です


ある1人のメンバーさんからの諸々の人生背景と、
そこから来る、やり切れない苦しみの話を聞きました


話を聞いていて、僕の胸も痛みました


僕はただ話を聞いただけです。

聞くこと以外に何もできる事はありませんでした


ただ話を聞き続けるだけということが、どれだけ大事なことか、
そしてそれがどれだけ人を支えていくかということは、

僕はよくわかっている方だと思います。


でもやはり…その当人から聞かされた諸々の想いの痛みや重さと

その時、僕の胸に伝わってきた痛みと…

それらを考えた時、
やはりただ話を聞かせてもらっただけということに、

何か無力感を感じずにはいられません…

(もっともそこに無力感が感じられなくなってしまったら…もうそれは人間として、心が麻痺してしまっている証拠になってしまうと思うんだけど…)

だからちゃんと胸に痛みを感じて、
そして無力感を感じることは大切なことなんだけど…

でもやっぱり胸の痛みは残ります…

 

 

 


2人で相談室からみんなのいる部屋に出てきました。


「今日は俺、話を聞いてもらいに来ただけだから、作業はせずにこれで帰らせてもらいますね。」


男性は力ない感じで、そう僕に伝えてくれました…


「うん…今日はとにかく家に帰ってゆっくり休んでください…」


僕はそう伝えるしか出来ませんでした…



ちょうどその時、帰り支度をしているその男性の近くに、1人の若い男性メンバーが、通り過ぎでやってきました。


「あれ?…今日はもうこれで帰るんですか?」


事情は何も知らないから、若い男性はそう尋ねました。


「うん…今日はちょっと落ち込んでるから帰るよ…」


男性は素直に若者にそう伝えてくれました

 

 

 

 

 


「落ち込んでるから今日は帰るそうだけど…何か伝えたい言葉はある?」


僕はその若者に尋ねてみました


「そうですね…う〜ん……そうですね…」


若者は腕を組み、首をひねらせながら、一生懸命考えてくれています


相手の男性の落ち込んでいる事情などは一切知らないんだけど、
一生懸命何やら考えてくれています。

 

 

「あー、」


若者が

 

 

ぼんやりと口を開きました


「あー、応援してますぅ~」


一言そう伝えてくれました。

力強い感じではなく、なんと言ったら良いか…なんともまぁ、
ゆる〜い感じで、そんなふうに男性に言葉を送ってくれました。


「ありがとう。すごく嬉しいよ。」


男性はつらそうな愁いを背中に抱えながらも、そんな言葉を返してくれました。






男性が部屋を出て下駄箱のところに行こうとすると、

今度は、若い女性メンバーが彼の近くを通りすぎました。

 

 


「あー、今日はもう帰るんですかぁー?」


女性は、ぼんやりした感じで、そんなふうに尋ねてくれました。


「うん…今日は気持ちの落ち込みが激しいから、これで帰らせてもらうよ…」


男性は先ほどと同じように説明してくれました。


「はぁ…そうなんですか…」


若い女性は、ぼんやりした表情でそう答えてくれました

 

 

 

 

 



「すごく落ち込んでるから今日は帰るそうだけど…何か伝えたいことある?」


先程の若い男性メンバーに言ったのと同じことを、また僕はこの若い女性メンバーに尋ねてみました。


「はぁ…う〜ん…そうですね…」


先程の若い男性と同じように、首を二度三度かしげながら一生懸命考えてくれています。

「う〜ん…う〜ん…」

一生懸命考えてくれています

「あっ!」

女性の心の中に何か伝えたい言葉が浮かんできたようです

 

 



「生きてることが素晴らしいです!!」

 

 



若い女性はそう言うと、
控え目に、かすかに小さなガッツポーズを見せてくれました。


 

 


女性は男性の今抱えている心の悩みを一切知りません


でも先程まで話を聞かせてもらっていた僕からすると、
彼女が発してくれたその言葉は、あまりにもジャストフィットでした。




「なんかまるで俺の心が分かってるみたいだね…」


男性がそう言いました


「なんか涙が出て来ちゃいそうだなぁ…」


男性はそう言って、顔を下にうつむけました

下に向けた顔の表情はわからないけど…見えないからわからないけど…もしかしたら本当に涙が出そうだったのかもしれません…



もちろんその言葉を言った女性は、その男性が抱えている今の心の悩みがわかるわけはないのですから、
その男性が言ってくれた

「なんか涙が出て来ちゃいそうだな」

の言葉の中に込められた、意味も、想いも、わかるはずがありません。


女性本人には、自分の伝えた言葉の力の意味は何もわからないでしょうけど、

間違いなくその時、それは 「生きた力」 を持った言葉だったと思います


 

 

 

 

 

 



そして男性は帰っていきました






翌日、男性はなんとかいつものようにまたアリスに来てくれました。

抱えている問題はもちろん次の日になったからって何も解決はしていません。

でも、なんとかいつも通り、またアリスに来ることができていました。




キッチンで僕とその男性が立ち話をしていた時、
昨日帰り際に声をかけてくれた若い女性メンバーが、たまたま通りがかりました。



「昨日はどうもありがとう」


男性がそう声をかけました


「あっ…はぁ…」


女性はぼんやりした表情でそう答えてくれました。

 


女性にはもちろん自分が伝えた言葉が、どんなにジャストフィットな言葉だったかと言う自覚がないから、
もしかしたら自分が何か言葉を発したということすら忘れてしまっているかもしれません…

 



「昨日さぁ、帰り際に俺に声かけてくれたでしょ」


「あぁ…はい…」


「その時さぁ、
『生きてることが素晴らしいです』
って言ってくれたでしょう」


「あ…はい…」


「あれすごい胸に染みたよ。
なんか泣きそうになっちゃったよ」


「えっ…そうなんですか…?」


「うん、そうだよ。本当にあの言葉は胸に染みたよ」


男性はそう伝えてくれました。

そしてさらにこう伝えてくれました。

 



「あの時のあの言葉はね、どんな名医の先生が出してくれる処方箋よりずっと効果があったよ!」
 

 


「えー!そうなんですかぁ!」


若い女性は純粋に嬉しそうな笑顔を浮かべました。

彼女は自分の右手と左手を合わせて、それを自分のほっぺたの方に持っていって、うれしそうに首を右に傾げました


「アハハ、なんかかわいいね!」


女性の仕草を見て、男性が純粋な言葉を発し、笑っていました。

思わず笑顔を見せていました。





昨日、僕は自分の無力さに胸を痛めました…


でも誰かと誰かをつなぐことで、そこにほんのささやかな何かが生まれることがあると思います。


それがたとえ、その人が全体として抱えている問題からしたら、


「それが一体何なんだ」


というくらいにささやかなものかもしれないけど…

でも、どんなにささやかなものであったとしても、

そのささやかな何かがそこに生み出されたということは、
誰にも否定できないことでしょう。


 

 

 

 


僕はアリスのキッチンの片隅で交わされた、
何でもないような言葉のやりとりの中から生み出された、


男性のその瞬間にしか現されない笑顔の輝きに胸を打たれていました。

密かに胸を打たれていたんです



僕はその光景を見ていて、なんだか涙が流れてきそうになりました…

でも恥ずかしいので、ぐっとこらえました。


こらえた涙は僕の胸の内で、スーッと一雫の涙となって流れていきました。


僕の胸の内で、スーッと流れていった一雫の涙は、

最近それまで僕の胸の内に抱えて滞っていた諸々の想いに、

何か、意味を与えてくれたような…そんな気がしました。



僕の胸の内で密かに流れた一雫の涙は、

それ以上、もう言葉として何も説明できないものでした…



言葉として説明することができない涙は

「名前のない涙」

の一雫として、



すぅーと僕の胸の内を流れていきました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「小さくかわいい生きる意味」



 アリス高崎
 ブログ担当Nです



それまで元気に普通に暮らせていた人が…

ある日突然…もしくは耐えられないような日々のストレスによって…
心の病が発病してしまい…
自分が突然、障害者となってしまったら…
やっぱり…それは…それは…とても辛いことだと思います…



「何のために生きてるんだか全然わかんない…」


「自分がこの先、生きていくことに…何の意味があるんだろう…」


施設の中でそうした言葉を聞く事はしばしばあります…

いえ…しばしばではありません…

ずいぶんな頻度でその言葉を聞きます


そして、いつも僕は…そうした投げかけの言葉に対して…
何の持ち合わせの言葉を持っていません…




誰のどんな人生の中にも…どんな苦境の人生の中にも…

その人が生きていることの意味

その人が存在していることの意味


それを信じて止まない心はあります。



でも目の前で生きる意味を喪失している人に対して

言葉として言える言葉など…僕には何もありません…


「そんなことは無いですよ。誰にだって生きる意味はあるのです。あなたの人生には意味がありますよ。」


…などとはとても僕には言えません…

そんなことは…
この自分の口を動かして…

もっともらしい正しい言葉は…

言えないな…


「俺の苦しさの何がわかるんだ」


声に出さない相手の心の響きが必ず沸き起こってくるのを感じるからです


そんな時、もっともらしい正しい言葉を言ったら…
嫌われちゃうでしょうね…

だって、僕が逆の立場だったら
絶対そんなもっともらしい正しい事は言われたくないもん…

だから安易に何も言えない…




でも何も言えないということと

何も心の内に願いがないということは

同じではないでしょう。



何も言えることは無いけど

心の内に
消すことのできない、
言葉にできない、
その人への願いがある

そんな時もあるわけです。

いつだってそんな時だらけです。





話は違いますけど

僕はよく音楽を聴く時、メロディーだけでなく、歌詞に意識を向ける傾向があります。


歌っている人が、どんな言葉を使っているかということに、
無意識的にいつもアンテナが貼られているような気がします。


そして時々僕の感性を震わせてくれるような言葉のメロディーに出会うと、

その言葉のメロディーは、
僕の心の奥のどこかにある、ひとつの引き出しの中に、そっと無意識のうちに仕舞われているのです。





「自分が生きてて何の意味があるんだろう…」


という、独り言のように投げかけられる問いかけに

何の言葉も持てずにいる僕は、

僕自身の心の内の沈黙の中から、

しばしば無意識の内に、

引き出しの中にしまっておいた
メロディーと言葉が引き出されてきて

沈黙の空間の

沈黙の僕の心の中で

そのメロディーだけが鳴り響いているということがよくあります。


そうしたメロディーの言葉は、僕の心を、

「目の前にいる誰かを大切に想う心」

へと導いてくれます。





また話は変わるんですけど

 

アリスでは作業中に、いつもYouTubeからBGMで音楽を流しています。

もうずっと前… 何年も前だったと思うけど、

ある日、ランダムにかけられていた曲の中で
たまたまSuperflyの「Gifts」という曲が流れていました。

(今ネットで調べたらNHK全国音楽コンクール中学校の部の課題曲となってた曲だそうですね)

そして僕は、たまたまなんとなく、その曲を聴いてました。


僕は初めてその曲を聞いたんですけど、

ぼんやりなんとなく聞いていたんですけど、

曲の中のある1節の歌詞を聞いて

その言葉がすごく胸に響いてきて

「素敵な言葉だなぁ」って思って、
なんだか心が温かくなったんです。


それは



「あぁ、
食べたい おかずと ごはんがあるから 
あなたの生きてく意味はある」




という歌詞の1節でした。


素敵な言葉だなぁって思ったんです。


「なんて小さなかわいい生きる意味』なんだろう


そう思ったんです。


そしてその言葉のメロディーは
僕の心の内のどっかにある引き出しの中に、

無意識のうちにそっと仕舞われていたんです。


そしてしばしば

誰かの
「生きる意味の喪失」
に出会った時、

その心の奥の、
ずっと奥の小さな引き出しのふたがパンッ!と開いて、
そのメロディーと言葉が、
沈黙の僕の心の内に鳴り響くのを感じることがあるんです。


それは僕を、
「誰かを大切に想う心」
へと導いてくれるメロディーとなっています。



小さくかわいく、
そして無条件に、

人が生きていくことの意味を肯定してくれる響きを

僕の心の内に奏でてくれます。



『小さくかわいい生きる意味』

小さいからとっても微力です。


とっても微力なんだけど

シンプルで可愛いから

全然否定ができません。




施設の日々の暮らしの中で、

そんな
『小さなかわいい生きる意味』
は、たくさんちりばめられているような、
そんな気がなんとなくするのです。



誰かが

「おはようございます」

と言って扉を開いて入ってくる。

「あー、そのミッキーマウスのトレーナーかわいいね」

と声がかけられる。

「エヘヘ」

と、ちょっぴりうれしそうに照れ臭そうに笑いが生まれる。

そんな場面の中に…



「このチョコレートおいしいから食べてごらん」

と言って手渡されたチョコレートの中に…



「あーほんとだ!
これおいしいね!ありがとう」


「あー、そう言ってもらえたら嬉しい!ありがとう」

チョコレートを通したそんな小さな言葉のやりとりの中に…



鬱で落ち込んでいる人を見て、

何とか励ますことはできないかと
ネットを一生懸命検索して

なぜか…松岡修造の熱血の言葉を見つけ出してきて

鬱で落ち込んでいる人にその言葉をプレゼントして

もちろんそんな熱血な言葉は、鬱で落ち込んでいる人に対しては、
おもいっきり空振りとなって

空振りしてしまって、
「しまった…」
と固まってしまったその人に

「大丈夫だよ
でも教えてもらって嬉しかったよ」

と逆に、鬱で落ち込んでいる人が励ましている…そんな小さなやりとりの中に…



 

 

 なんてことのない小さな

日常の中に…

 

 

 

 なんてことのない小さなたわいもないやりとりの中に…

 

 

 

 人と人とが、

小さくあたたかく関わっている

そんなたわいもない日常のやりとりの中に…

 

 


僕はいつも

小さな小さなかわいい

生きていることの意味を…

生きていくことの意味を…

こっそりとひっそりと
小さく心を温めながら、胸の内で感じているのです。




小さくかわいい生きる意味を

小さくかわいく感じているのです







                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「不可思議な果実」


アリス高崎
ブログ担当 N です


 ……

 …

「……人の視線が怖くて……なかなか家から出られなかったけど……なんとか出てこられました…」



「…あのぅ…実は私も怖くて出られなかったんですけど……何とか出てこられました…」



「あ、同じですね」


「はい」


「ということは…『仲間同士』…ですね、」


「ふふ…そうですね」


 ……

 …


不思議な仲間同士。


不思議だけど大切な仲間同士。


こういう仲間同士というのも
この世界にはあるんだなぁ

 ………

 ……

 …


この星は、人間という実に奇妙な生き物がたくさんうごめきあっている世界


その人間という生き物はたった2つの種族に分けられる


1つは『自分』であり

もう1つは『他者』である

この2つしかない


たったこの2つしかない


たくさん「人間」という生き物はいるけど、
たったこの2つの種族しかない


「自分」という人間以外は
つまり全て「他者」という人間になる



「自分」ではない
「他者」という人間は怖い…

それは実に謎に満ちた生き物である…


何をどんな風に感じて

何をどんな風に考えているか

得体が知れないからである…

 ……

 …

「他者」という人間の視線はさらに怖い

その視線は……もしかすると……私の内側の全てを見透かしているかもしれないから…


この私の内の醜悪な部分も…

知られてしまったら、あざけられてしまうような実に小さな愚かしい部分も…

いやしい部分も…

情けない部分も…

私の内のそれら全てを、
他者の視線は見透かしてしまっているかもしれないから…


だから他者の視線は実に怖い…


この世界における
とても怖いものの一つだ…

 …

私の心の視線は、他者の心の内が全く見えないから不安で恐ろしいのに…


他者の視線は私の心の内を全て見透かしてしまっているかもしれないから…

だからそれは恐ろしい…



それは実に不公平だ…

それは実に不条理だ…



不条理な世界だから…

この世界は恐ろしい…



不条理な世界だから…

家から出て行くのは尚のこと恐ろしい…



自分は相手の心の内が見えないのに…

他者の視線からは
自分の心の内が見透かされてしまっているかもしれない…

そんな不条理な世界に…

家の扉を開けて…

踏み込んで行くことは…

恐ろしいことだ…



出られない…

出られない…


でも、このままではもっと苦しい…


何とかしたいから…

ここから出たい…


でも恐ろしい…


でもこのままだったらもっと苦しい…


 ………

 ……

 …



「きっと大丈夫だから来てみれば」


 ………

 ……

 …



…受話器の向こうの声がそう伝えてくる……


………

 ……

  …



「…その『大丈夫』に…いったい何の根拠があるのだろう…

 ……

 …

…でも信じてみようかなぁ……

…大丈夫だって言うなら…その言葉を信じてみようかなぁ……
……
… 」



 ………

 ……

 …







「人の視線が怖くて出られなかったけど、何とか来られました…」





同じ部屋の誰かが言う

同じ部屋の「他者」が言う


「…私も人の視線が怖いです…」



「あ、やっぱり怖いですか…?」


「…はい…怖いです…」





不条理に満ちた恐ろしい世界で
家の扉を開け、
その恐怖の先に求めているものはたった1つ

そんな恐怖にチャレンジしてまでも
行き着きたい先はたった1つ

『安心』

そこに行き着きたいだけ。




「じゃあ『仲間同士』ですね、」


「ふふふ…はい、『仲間同士』ですね、」




不条理な世界だけど

得体の知れない『他者の視線』という恐怖がある世界だけど


あえて、それでもその世界に足を踏み出して出会ったものが

同じ恐怖を抱えあっているもの同士の
小さな
「仲間同士」
という

得体の知れない不思議な何かであるならば…

 ……

 …

それはリスクを犯してまでも踏み出した一歩がたどり着いた
小さな不思議な
『安心』
という果実でしょう



それは得体の知れないこの世界の中で

実に不可思議ではあるけれど

小さな

大切な果実でしょう



同じ恐怖を抱えあっているもの同士の中に芽生えた

「仲間同士」

という
実に不可思議な果実ではあるけれども…

どこかその不可思議さの中に

小さなかすかな
あたたかみを感じる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうしても書きたかった出来事」

 

 

 

アリス高崎就労支援

ブログ担当 N です

 

 

きっと、今日の文章はうまくまとめられないと思うなぁ…

とっても言葉に表現できないような事柄があって、
その出来事をここに書きたいんだけれど…

その出来事に、僕が一体何を感じたかということは、
胸の中で溢れる想いが大きすぎて、
当てはめる言葉が見つからなくて…文章にできないような気がするんです…

だからなおのこと文章の構成とかも考えて、1つの作品として作ることは難しいような気がするんです…

でも書きたい出来事があるんです…

「大切にしたいなぁ」
と思った出来事があるんです。

今からその出来事を書いて、
そしてそこで僕が思ったことを、
思いつくままに、ランダムに、脈絡もなく書いてみたいと思います。

だからちゃんとした文章にならないと思うんだけど、
それは僕の中に溢れる想いがあるから、だからちゃんとした文章にできないということです

そんな文章なんだけど、もしよかったら読んでみて下さい。



つい先日の出来事です。
アリスの作業が一通り終わった後、いつもだったらしばらく夕方までのんびり残っている1人の女性メンバーが、
急いで帰りの用意をして部屋を出て行きました。


「あれ今日はずいぶん早く帰って行くけど、何か用事でもあるの?」


何気なく僕が訪ねてみました


「実は今から警察署に行くんです」


その女性の言葉を聞いて、僕はびっくりしました


「なんで今から警察署に行くの?」


ここから説明してくれた女性の話に、僕は胸を打たれました



「実は、私、3ヶ月前に駅前の交差点で
『小さなおさるのぬいぐるみ』
が落ちていたので、それを拾ってあげて、警察に届けてきたんです。

警察で
『持ち主が出なかった場合、所有権を持ちますか?』
と訊ねられたので
『ハイ!』
と答えたんです

そうしたら3ヶ月たったので、昨日警察の方から、

おさるのぬいぐるみの持ち主が現れなかったので、所有権があなたに移りました。
という連絡をもらったんです。

だから今からおさるのぬいぐるみを取りに行くんです!」



そう伝えてくれました


「えっ、そのおさるのぬいぐるみの持ち主が出なかったからって取りに行くの?」


「はい!、所有権は私のものになったから、私の家に一緒に連れて帰って、その子はもう私の家の子です!」


女性は、とても誇らしそうな笑顔で、無邪気な笑顔で
僕にそう伝えてくれました。


僕は、その話と、その彼女の誇らしそうで、なおかつ、とても嬉しそうな表情を見て
言葉にならないような驚きを覚えました。


この世界のものではない何かを見ているような感覚さえ味わいました


もし彼女がぬいぐるみが好きで、ぬいぐるみが欲しいというのなら、
お店に行けばぬいぐるみはそんなに大したお金を出さなくてもいくらでも売っています。

だからただ単にぬいぐるみが欲しいという問題では無いことは確かです。


「警察署まで取りに行く」と、軽く言っていたけど、
アリスから警察署までは自転車で片道30分かかります。
行って帰ってきて
往復1時間です。

自転車で1時間かけて、そして『小さなおさるのぬいぐるみ』を引き取りに行ったのです。


それから1時間位したら、夕方のアリスの部屋の扉がロックされ、開けてみると、その女性がぽつんとそこに立っていました。


「おさるを引き取ってきたから見せにきました」


と伝えてくれ、
所有権が彼女に手渡され、これから一緒に帰って暮らすことになった
『小さなおさるのぬいぐるみ』
を僕に見せてくれました。

それは僕が想像していたよりも、ずっと小さな、手のひらサイズ位のおさるのぬいぐるみでした

せっかくでしたので写真を撮らせてもらったので、ここにそのおさるさんの写真を掲載させていただきたいと思います

 

 

 

 

              
 

 

 

 

手のひらサイズのこんな小さなおさるのぬいぐるみが
駅前の交差点の車が行き交う中に落ちていたから、
車にひかれたら大変だと思って拾ってあげたそうです。

そしてこのおさるはきっと持ち主のところに戻っていくことを望んでいるだろうなぁと思ったので、
警察のほうに連れて行ってあげたそうです。

そしてもし持ち主が出なかった時は、
このおさるは一人ぼっちになってかわいそうだなぁ
と思ったので、その時は所有権を自分に預けて、自分の家で引き取ろうと思ったそうです。



僕は、ものすごい世俗的な俗人の質問をしてしまいました


「ぬいぐるみが交差点に落ちていたから、車にひかれたらかわいそうだと思ったんだね。
でもそしたらちょっと拾って道の脇に置いといてあげてもよかったような気がするんだけど…
どうしてわざわざ警察署まで届けてあげようと思ったの?」


僕の質問は、極めてつまらない、世俗的な俗人の質問です


世俗的な僕に女性は答えてくれました


「おさるさんが
『そうしてほしい』
と私に訴えていたような気がしたんです!」


なるほど…これはもう理屈を超えているなぁ…


僕は、おさるのぬいぐるみをちょっと手に乗せさせて貰いました。


僕の手のひらで、そっと抱きしめさせて貰いました


優しくおさるの頭をなでさせて貰いました


そして俗人である僕は、俗人でありながらも、どうしても伝えたかったことを
このおさるのぬいぐるみに伝えました




「 おさるさん、あなたは幸せだね

この女性のもとに引き取られて、
一緒にこれから暮らしていけるんだよ

おさるさん、あなたは本当に幸せだね

ほんとに見つけてもらってよかったね
 」




僕は、そんなふうに、小さな手のひらサイズのおさるのぬいぐるみに声をかけながらも
胸がいっぱいになっていくのを感じました。

どんな想いで胸がいっぱいになったかというと……全然言葉に表現できないような想いでいっぱいになっていきました。

それに当てはめられるような言葉が
僕の中には見つからないのです。


その時、僕の中に溢れてきた、
小さなおさるのぬいぐるみに伝えた想いは、
ただ単に一人のおさるのぬいぐるみへの思いではありません。

何かもっともっと大きな大切なものを感じさせてもらった気がしたのです。

そしてそのもっともっと大きな大切なものに、自分の心の奥底の魂の深くが、

癒されていったような気がしたのです。


そして、僕が癒されただけでなく、

この出来事を通して
この世界全体が、
深い魂の底から、どこか癒されていっているような
そんな気がしたのです。

だから、その想いを言葉にできなくて
表現できなくて、
だから文章としてもまとまりのない文章になってしまうと思うのです


でも思うんですけど、
言葉にならないような、文章にもできないような
そんな想いこそ、
本当に人が伝えたい想いなんだなぁって

 

そう思うのです


僕の想いを正確に言葉にはできないから、
最初に言った通り、ランダムに、脈絡もなく、なんとなく思いつくままのことをここに書いていきます。

順番はめちゃくちゃです。




僕はよく声には出さないけど…
心の中でこんなつぶやきをしている自分を感じます

「あぁ…こんな風にして、いろいろな人の様々な感情は、
まるでシュレッダーにかけられて消されていくように…
「なかったかのように」して…
扱われていってしまうんだなぁ」


そんなことをぼんやりと
様々な場面の中で感じて、
誰に伝えるわけでもなく、
言葉に出すわけでもなく、
そんなことをつぶやいている自分がいます

本当にそう感じる時が多いです


 

 

大切な人の心


ここから生まれてくる大切な想いだけど、

誰にも気づいてもらえなくて
まるで「なかったかのように」…それはこの世界から消えていく

仮にその言葉をどこかの誰かに向けて伝えたとしても、

その言葉の奥に潜む、本当の心は…誰にも見つけてもらえないで…
あたかもなかったかのように…それは見捨てられてゆく…

葬り去られていってしまう…


それはどうすることもない現実だと思います


ある意味、それがこの世界の現実だと思います


その世界の中で

交差点に落ちている小さなおさるのぬいぐるみが拾われた


小さなおさるのぬいぐるみが拾われた。


おさるは捨て子の迷子にならないように、ちゃんと警察署に届けてもらえた。


持ち主は出てこなかったけど、拾ったその女性がその子の新しい持ち主になってくれた。



おさるは拾われた


おさるは拾われた




僕が今施設で働いていて、何年間もの間で、様々な人から伝えられてきた言葉があります


「誰かに…自分という人間の存在を認めてもらいたかった…」


「誰かたった1人でいいから…自分の気持ちをわかってもらいたかった…」


「自分のような人間がこうしてここに生きて存在しているんだってことを…
誰かにちゃんと気づいてもらいたい…
わかってもらいたい…」


様々な人から、
表現の違いこそあれ、
こうした言葉の響きが

幾度も

幾度も

幾度も

幾度も

僕に伝えられて来ました…


これは、たまたまここの施設に来ている人たちだけの想いの言葉ではなく、

この世の中の空気中に溢れかえっている想いのような気がします。

僕は、こうした言葉を聞くたびに思います


「あぁ、この人の歩んできた人生が

ちゃんと誰かに認めていってもらいたいなぁ」


「この人はこうして生きてるんだっていうことを、
ちゃんとその存在を、
この世界に認めてもらいたいなぁ」


「この人の生きてきた人生が
なかったかのように扱われてしまうような、
そんなことだけはあって欲しくない…」


いつも深く深くそう思うのです

そうした言葉を誰かから聞くたびに…
言葉を超えて、
その人の背中のずっと奥に目を向けるようにして、
深く深く僕はそう思うのです


そして

この世界の交差点で


おさるは拾われた


おさるは拾われた




脈絡のない文章はまだ続きます

僕はこの数ヶ月は、ずいぶん具合を悪くしています。

なんでこんなに具合を悪くしてしまったのだか、自分でもよくわからないんですけれども…
そろそろ限界にきてるなぁという予感はあったんだけど…(もともとの病気の症状を僕は持っているので)とどめることができずに、その症状が発症してしまい、すっかり具合を悪くしてしまいました…

なんとかかんとかギリギリで仕事をしているというのがまぁ正直なところです…


僕が今のように具合を悪くする少し前のことです

このおさるを拾ってくれた女性がとても悲しそうな表情で、夕方1人で椅子に座っていました

それはまだ彼女がおさるを拾う数ヶ月前のことです。

この女性があまり悲しそうな顔で
一人ぽつんと座っているので
どうしたのかと思って尋ねてみました


「ずいぶん悲しそうな表情で座ってるけど…どうしたの?」


すると、女性は僕の質問には直接答えるわけではなく、
彼女の想いを伝えてきてくれました


「私には、Nさんの心はわからないです」


唐突にそう伝えてきてくれました

「どうしたの?
急にそんなことを伝えてきてくれて?」

不思議に思ったので尋ねました




「 私には、Nさんの心はわからないんです…
Nさんの心はわからないんだけど…

私にはわかるんです。

Nさんが、自分の魂を傷つけているって。

Nさんは、自分の魂を傷つけて…人を助けようとしている。

私はNさんに、
自分の魂を傷つけることをしてほしくないんです。

Nさんの魂が傷つくと、

私の魂も傷つくんです。

Nさんの心も気持ちも、私にはわかりません。

でもどうかNさんが自分自身の魂を傷つけるのは
もうやめてもらいたいんです 」




僕は、この女性からの言葉を聞いて心底びっくりしました。

普段こんな複雑なことを言うような人では無いからです

この言葉を言ってもらったとき、涙が出るほどに何かうれしかったです。


でも、この言葉がぴったり僕に当たっているとは
実は思いません


僕の自分自身の感覚というか、実感というのは

僕が、自分自身の魂を傷つけているという感覚は全くありません

もう一度言います

僕が、自分自身の魂を傷つけて、誰かを助けようとしているという感覚は全くありません

むしろ逆です

僕が魂の奥から求める、
その求めに応じて、

どうにもそのように動かなければならないような衝動が僕の中に湧いてきて、

そして、その魂の衝動に動かされて、

僕が職場で人と関わっている…という感じです


自分の中ではそんな感じです。



僕は決してエネルギッシュなタイプではないです。

行動的なタイプでもない。

どちらかというと…
引きこもり気質の非常に受け身的な人間です。

でも、僕が施設で人と接するとき、自分で言うのもなんなんだけど、

おそらく、

相当なエネルギー量をそれぞれの人に注いで人に接していると思います。


もともとエネルギッシュでもなく、
引きこもり気質で
対人関係においては、非常に受け身タイプの自分が、

なぜ、そんなふうに施設の人への支援において、
関わりにおいて、
自分の気質とは違うのに、
そんなにエネルギーを注いでいるかと言うと…

僕の持って生まれた性格とか、気質を超えて、
魂の求めている衝動がそこにあるからです。

だから、その僕が魂の衝動に沿って大きなエネルギーを注いで動いている姿を見ると、

それを見た周りの人たちが、

僕が…自分の魂を削って、人を助けているように…見えてしまうのかもしれません。


だから彼女には僕が、
自分の魂を傷つけているように見えたとしても
それほど不思議なことでもないなと思いました



話はまた脈絡なく飛んでいきます



僕はよく国内のニュースではなく、海外のことを取り扱ったニュースを見るようにしています。

また、映画やドラマなどはほとんど見ず、その分の時間は、海外のドキュメンタリー番組をよく見るようにしています。

僕らが全く知らないところで、
人々がどんな世界で生きて、
どんな感情をそこで感じながら生きているか
を少しでもリアルに知りたいと…自分なりに…思っているからです。


僕の持って生まれた性格傾向というか…気質なのかもしれないけど…

ハッピーなラッキーな出来事よりも、

僕の知らないところで、
世界の人々がどんな悲しみを背負って生きているか…

どんな苦難の中で生き抜いているか…

そのことをできるだけリアルに
自分自身の心を通して知りたいという願いは持っています



知らなければ、

それらの人々の多くの悲しみや 

人生の苦難や、

それを乗り越えようとしている人たちの姿は、

もしくは…乗り越えることなど到底できず…飲み込まれていってしまっているその人たちの姿は…

僕を始め、
誰も知ることがなかったら…
この世界のほとんどの人が知ることがなかったら…

それはこの世界で、

「なかったもの」
として扱われてしまうことになってしまう…


不思議なほどに…
恐ろしいほどに…
奇妙なほどに…

この世界の悲しい現実に対して
同じこの世界の豊かな人たちは
沈黙を保ち続けている

そしてはっきりとわかるのです。
僕もそのうちの1人であると…

地球の遠く離れた大陸のどこかで、あまりにも目を覆うような悲惨な出来事があったとして…
そして全くそのことに対して解決のメドがつかず…
人々が翻弄され…
救いの叫びを求めていたとしても…


僕らのテレビのニュースは
いつもいつも自分の生活に少しでも関わりがあって、
自分たちの生活に、少しでも損になるか得になるか、というニュースだけがトップとして扱われてゆき、

それ以外の事は
「なかったもの」
として扱われて行く

僕はそれは嫌だなぁと思う

それは悔しくもあるし、
悲しくもある

この地球に住む1人の人間として。


だから、地球上の様々な人々の苦難の歩みが
「なかったもの」
として取り扱われないように…
わずかながら…
本当にわずかながらなんだけど…

部屋でこたつに入って
あったかい飲み物でも飲みながらではあるんだけど…
世界のニュースや様々なドキュメントなどを見て
それを
「なかったもの」
にしないようにと…
わずかながらにでも…努めているのです

でも、僕は全然活動的な人間でもないし、行動的でもないから、
特に大きな海外支援活動とか、そんな立派な事は何もしません

普通にいつも通りいつもの職場である福祉施設に行って、
そこに通う人たちの話を聞いている。

それの繰り返しです。


でも、その中に

世界の悲しみを
「なかったものにしたくない」
という僕の心が
連なって
つながっています



だからそういう意味では、
おさるを拾ってくれた女性が僕に言ってくれた言葉、

あれは100%外れているとも言えないわけです


「Nさんは、自分の魂を傷つけている」


再び言うけど、僕は

自分の魂を傷つけているという感覚は全くありません

ただ、悲しみを感じるアンテナは少し強い…かも…しれません


魂は傷ついていないと思うけど、

ちゃんと人間の悲しみを感じ、

そして

そうやって生きている人間の姿が、

「いつかどこかで

ちゃんと報われていく
ということ」



願って止まない心があります




 

彼女が言うように、僕が、

「自分自身の魂を傷つけて人を助けようとしている」

とは、自分では全く思いませんが

ただ

それから、ほんのしばらくしてから、僕の具合が限界を超えて一気に悪くなって言ったのは……それは確かです。

今も回復する見込みのない状態の中で、半分は何とかなるだろうと楽天的に考えて、
もう半分のところで…どうしよう…と青くなっている自分がいるというのが今の状況です。

僕の魂は傷ついていないと思います

ただ…もしかしたら…僕の魂は
世界の悲しみを感じているかもしれません

そして、今の僕は…

この世界の交差点の真ん中で…

行き場を失ってこぼれ落ちてしまった
おさるのぬいぐるみかもしれません…


拾ってもらったおさるは…
あれは僕だったかもしれない


拾ってもらったあの小さなおさるのぬいぐるみを見たとき、

僕の魂が涙を流しているのを感じたけど、

あのおさるは

自分自身だったからかもしれない


 

 

世界中の人々の心が、


私利私欲で動いているこの世界の中で、
それのみを追い求めているこの世界の中で
置き去りにされて


「なかったもの」
として扱われているこの現実の中で、

その
「なかった存在」
として扱われている人々の

心が

存在が

落とされてしまった…


そして

この世界の中心の交差点で

おさるの姿として拾ってもらった。



人々の心が

おさるの姿として拾ってもらった。



あの交差点で拾ってもらったおさるは
僕の姿でもあるだろう

 

 

アリスに通いながら、多くの悩みを抱えながら必死になって生きようとしている
仲間たちの姿でもあるだろう


そして、この世界中の「なかったもの」として扱われていってしまうような大きな悲しみを背負いながらも、
生きている人々の姿でもあっただろう…

 

 

あの交差点の真ん中に置き去りにされていたおさるのぬいぐるみは
そうした人たちの現れだろう




おさるは拾われた


おさるは拾われた



そして僕は、脈絡のない文章の中で、

最後に一言だけ
ここに書き記したい


今、おさるは
1人の女性のもとに拾われ
彼女と一緒におうちに帰り

幸せに暮らしている。

見捨てられた存在としてではなく
大切にされ一緒に幸せに暮らしている

おさるの笑顔は純真な確かなものだった



あのおさるの純真な笑顔は僕たちにつながっている

あの拾われ蘇った笑顔は僕らすべての心につながっている



おさるは拾われた


おさるは拾われた


おさるは真実の笑顔となった


やがて やがて やがて

いつか いつか いつか

全ての人の心に

鏡のように

あのおさるの真実の笑顔は写し出されてゆく



とりとめもなく
とりとめもなく

そう思うのです

そう感じるのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私だって頑張ってるんだよ」


アリス高崎
ブログ担当 N です



「昨日から野球のワールドベースボールクラシックが始まったよね、」


1人の女性が、朝みんなにその話題を語りかけてきました


「そうだね。日本が勝ってよかったね。」


と他のメンバーが言うと


「そりゃ日本が勝って、よかったけどさぁ… 」


と女性が言いました


「日本が勝ってよかったけどさぁ…
って言ったけど、
日本が勝ってうれしくないの?」


ちょっと不思議に思ったので皆が尋ねました。

すると、女性は言いました、



「そりゃ嬉しいわよ!
そりゃ嬉しいけどね、

 

だけどね、

 

私だって、
ダイエット頑張ってるんだよ❗️❗️」




女性が必死な面持ちで、そのようにみんなに訴えました、



日本が勝ったのは
そりゃ嬉しいわよ…

だけど…

だけど、

私だって…

ダイエットを頑張っているのよ❗️❗️



女性はそのように訴えてきました

この言葉を聞いて、思わずみんな微笑んで場が和みました。


この論理展開の訴えはかなり斬新ですね!

ちょっと強引な話の展開のような気もするんだけど…

でもすごいなぁ

こういう話の展開の持って行き方もあるかぁ!


野球で、日本代表チームが国際大会で勝利したということと、

私だって、ダイエットがんばっているんだ❗️❗️

という事は

全然つながっていない
脈絡のない話のようにも聞こえます。


しかし、この2つの話が全然脈絡なく、つながっていないかと言えば、
必ずしもそうでもないかなぁという気もします


野球の日本代表チームが初戦で勝利できたのは、
やっぱりそれまで、それぞれの選手が精一杯頑張ってきたから、その結果でしょう。

そしてまた、この女性も
「私は私なりに精一杯ダイエットがんばっているんだ」
と主張しているわけです

(結果が出ているかどうかという事は、また本人の納得具合の問題だと思うのですが…)

というわけで、
この2つの話がつながっていると言えば、
つながっているかもしれないわけです


日本代表チームも、

日々ダイエットにいそしんでいるこの女性も、

『一生懸命頑張っている』
という点においては、確かにつながっているわけです


「私だって…」


というこの言葉によって、
昨日の野球の勝利と、
彼女の日々のダイエットは、

『共に頑張って生きている人間同士』

という点において
繋がっていると言えなくもないかもしれません。

 


 

 

「いやー、昨日の大谷選手の活躍すごかったね、」

という言葉が出たとしても、

「そうね。でも私だってダイエット頑張ってるのよ❗」


「いやー、昨日のダルビッシュ投手の投球よかったね、」

という言葉が出たとしても、

「そうね、確かによかったね。
でも私だってダイエット頑張ってるのよ❗」

と、きっとこんな展開になるでしょう



そしておそらくこの会話の論法は、
別に話題がWBCの野球の世界大会の話題の話でなくても、
なんだって別にいいわけです。

サッカーの話だっていいし、

ボクシングの話だっていいし、

なんだっていいわけです。


「そうね。でも私だってダイエット頑張ってるのよ❗️❗️」


どんな話題からでもこの「がんばり」は伝えられるわけです。


別に、スポーツに限った話ではなく、例えば、

「昨日のドラマよかったねー
感動したよ、」


なんて会話があったとしたら、
その後にだって言うことができます、


「そうね確かにいい話だったよね。
でもね、私だってダイエット頑張ってるのよ❗️❗️」


こんなのも成立するわけです


しかし、これはさらに考えていけば、
『ダイエット』
に限った話だけではありません

どんな『頑張り』に対しても、
この論法は通じるわけです


「だけど、私だって精一杯勉強頑張ってるんだよ」


「だけど、私だって精一杯掃除とか、家事とか頑張ってるんだよ」


「私だって、本当は人とうまくやろうと思って、精一杯頑張ってるんだよ」



別になんだっていいんです。

ダイエットの話に限った話ではなく、
この論法の中では、

「私だって精一杯頑張ってるんだよ」

ということを主張することができるわけです。



みんな誰だって認めてもらいたいですよね

自分が精一杯やってるってことを。

 

 

 

 

精一杯仕事やってるってこととか、

精一杯勉強してることとか、

精一杯子育てしていることとか、

自分なりに精一杯人とうまくやっていこうとしているとか、


みんなそれぞれが、
それぞれに、
誰だって
「自分が頑張ってる」
ってこと、
ちゃんと認めてもらいたいですよね。


そうじゃなきゃやってられないですよね


誰にも認めてもらえなかったら…生きていくの辛いですよね…



「私だってちゃんとがんばって生きているんだよ」


誰だって、心の底でそう叫んでますよね


でも、誰もが心の底に持っているその叫びを…

誰もが、誰かに、最もわかってもらいたいその心の叫びを…

わかってもらうために…

それをきちんと言葉に出して伝えられる時って…

ほんと少ないですよね…



そんな心の奥の叫びの

「私だって精一杯生きてるんだよ」

という響きを、
どんな形をとってでも、きちんと伝えていく事は、

それは人間にとっての
ある意味
生きる力かもしれません


だから、この会話の中には、
もしかしたら…『生きる力』が含まれているのかもしれません


「昨日、日本代表が勝ってよかったね、」




「そりゃよかったわよ、

それは嬉しいわよ、

だけどね

私だってね

精一杯ダイエット頑張ってるのよ❗️❗️」





野球の世界大会の初戦の勝利の話題なのに

「私だってダイエットを精一杯頑張っているんだ!」

と、ちゃんと、

『最も伝えたい心の叫び』

を伝えてきたこの女性は

ある意味

ある意味

ある意味

『生きる力』
を持っているかもしれない。



しかし、ここで1つ問題があります

この論法は、かなり強引で無理があるということです。



日本代表の頑張りと

私の、日々のダイエットの頑張りと、

同じ会話の中の1つの発言の中でつなげているわけですから…

ややもすると…

と言うより、多くの場合…

「全然関係ないじゃない、何言ってんの?」

というような反応として捉えられてしまう可能性が…非常に大きい…というのが問題点です



そうなんだけど…

そうなんだけど…

でも本当はなんだっていいのかもしれないんです

その人が頑張っていることを主張する方法なんて

前後の脈絡なんか
どうだっていいから

なんだっていいかもしれないわけです


そうでもしなければ…

人は、
「自分が精一杯がんばっている」
って言うことを
きちんと伝える機会なんて
そうそう持てないと思うんです


前後の脈絡を正しく考えたり


その場に適しているかどうかとか、色々考えたり、


そんなことしてたら、いつまでたっても、

「私だって精一杯頑張って生きてるんだよ」

という
誰もが持っている心の奥底の叫びの響きは、
外に伝えることができないわけです。

誰だって、
心の内のその響きを外に放出ししたいと思っているでしょうし。

そしてその放出された響きは、
「誰かに受け止めてもらいたい」
と誰だって思っているでしょう


だからもうこの際、

前後の話の脈絡なんかどうだっていいから、

誰かが
『精一杯生きているんだ』

という響きを、この世界に伝えてきてくれたら

なんだっていいから、
その響きを受け止めて

「あなた、頑張って生きてるよね」

ってことを、
また響きとして伝え返していく。

そんなことで本当に
人々は、
自分の人生の頑張りを認めながら生きていくことができると思うのです

そういう世の中に少しでもなっていくと思うのです


 


 

 

 

「昨日の野球、日本が勝利してよかったね、」


「それはよかったわよ…けどね…」


「え、うれしくないの?」


「もちろんうれしいわよ。

 

だけどね、

 

私だって精一杯ダイエット頑張ってるのよ❗️❗️」


彼女がみんなに向かって訴えました


アリスの朝のフロアに、彼女のその必死な訴えが響いてきました


その響きを受け止めた仲間が、にこやかに微笑みながら

彼女に伝えました


「うん、そうだよね。
ダイエット精一杯頑張ってるんだよねー」

 



「うん、そうなのよ」

 

 

彼女は満足した様子で、
手元にあった〈脂肪燃焼〉がうたわれているペットボトルのお茶を飲んでいました


みんなもその姿を見て微笑んで、

そしてその日のアリスは、
窓から差し込むおだやかな春の日差しとともに始まっていきました

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
『世の中に問いたい複雑な気持ち』
 
 
アリス高崎
ブログ担当 N です


(もう少ししたらこの数年間続いてきた『マスク生活』も、やがて緩やかに溶けていくと思いますので、この数年間の『マスク生活』を振り返って、ちょっとそのことについて書いてみたいと思います)


つい先日のことです。

僕がお昼を食べ終わった後、キッチンでマスクを外して歯磨きをしていました。


歯磨きをしていたんです。


歯磨きをしていたんですから、当然!マスクを外していたわけです

当たり前です

マスクを外して、歯磨きをしているというのは、当たり前の姿ですよね



そこに若い1人の女性メンバーが入ってきました


若い女性メンバーは
そこに誰がいるかも知る由もなく、
ぴょこんと、キッチンに入ってきたら、
たまたまそこにマスクを外している僕の顔を見たわけです


「きゃー💥!ごめんなさい🙀」

といった感じのニュアンスの仕草で、

いえ!、別に直接そんなふうに声には出されていないんですけど…

いかにも…そんな感じのニュアンスで…

瞬間的にとっさの反応として、
彼女は
「手のひらで自分の眼を覆い🙈」、
そして顔をとっさに横に背けて
そのまま慌ててキッチンから出て行きました…


そして、その女性の慌てた態度を見て、
僕も全くそれにそのまま反応してしまったわけです…

それに全くそのままに反応してしまった、
というのはどういうことかと言うと…


「あ😱、ごめんなさい🙏」


と言って、

慌てて口元を手で隠して🙊、

顔の半分を見えないようにして、
僕自身もまた顔を後ろに背けたのです…



「きゃー🙀」

とは、声には出されていないけど…
そんな感じのニュアンスで、
慌てて自分の眼を手で覆って
🙈、
部屋を出て行く女性と…



「あ🥶、ごめんなさい」

と言って、
慌てて自分の口元の顔半分を手で隠して
🙊、
慌てて顔を後ろに背けている自分の姿…


この奇妙なやりとりの中に、
暗黙のうちに、
言葉にはされていない、
言語化されていないニュアンスを

あえて…あえて…
それを言語化して表現してしまうならば、

こういう言葉になるでしょう…



〈 女性からの場合 〉

「きゃー🙀! 見てはいけない【マスクに隠れていた本当の顔】を見てしまった!!」


であり、


そして、


〈 自分自身からの言語化されていない言葉 〉


「まずい😱!見られてはいけない【マスクの奥の本当の顔】を見られてしまった!🥶」

……



これでしょう…



この奇妙な光景の中に含まれている
非言語的な要素を
あえて言語化すれば…


これでしょう…



僕からしたら…

『見せてはいけない…もしくは…決して見られたくはなかった…
【マスクの奥の本当の顔】
を見られてしまった…』

といったような、自動反射的な心理反応をしてしまったわけで…


相手の女性からしたら…

『決っして
【見てはいけないマスクに隠されていた本当の顔】
を見てしまった…

もしくは…

決して…
【見たくはなかった本当の顔】
を見てしまった…』



このような、

実に不可思議な自動反射的な心理思考が、

暗黙のうちに…

互いに、同時に、交わされてしまったわけです…



考えてみると、これは不思議な話です

考えてみると、これは複雑な気持ちです

この数年にわたって続いてきた『マスク生活』が作り出した、
不思議な光景と
複雑な気持ちです。



この実に不可思議な体験と、不可思議な気持ちを通して、

僕は数年前の
ある日の、ある会話のやりとりの記憶を思い出しました


それは、世の中に、ちょうどコロナが流行し始めて

世の人々が、み〜んなマスクをつけて暮らすようになり始めた時のこと

そんな生活が始まった、

ちょうどその頃のことです

その頃あった、ある日の、ある出来事に
当時の自分の感じた想いを思い返して、

そして、それをリアルに今のものとして、
その時感じたその感情を
今ここに文章化してみます。


その時の感情をリアルに文章化したものが

こんな感じになります…


常にマスクをつけて暮らすようになり始めたその当時感じた、僕の

『世の中に対する問いかけ!!』

です。




〈〈 コロナが流行り始めたあの当時の僕からの
世の中への問いかけ 〉〉





僕はこの際だから…

この場を借りて…

ひとつ
『世に問いたいこと』
があるんです…




先日、僕はある1人の女性メンバーからお褒めの言葉をいただきました…




「Nさん、マスクをするようになったら『ステキ❣️』になりましたね😊」




この言葉に…なんの皮肉も込められているようには感じられません……


キラキラした瞳で、

素直な心から出てきた純粋な褒め言葉をいただいたと思います…
 


マスクで僕の顔が

3分の2ほど隠れたら…

僕が前より…

ステキ❣️

になったそうです…




いかなる理由であろうとも…

ステキ❣️になった」

と言われた事は素直に喜びたいけれども…



…僕は問いたい…



「…それは喜んでいいんですか…
??……」

…と…
 
 
 

 
 
 
 

 

 

北極から南極までの距離のバレンタイン


アリス高崎
ブログ担当Nです



「バレンタインデー」
この日がいかなるものであるかを今一度ここでしっかりと考察してみたいと思います。


バレンタインデーとはいかなる日であるか?

それは本来は、女性が普段告白できない意中の男性に対して、この日だけは、その内に秘めた恋心をチョコレートに託して、その意中の男性に渡して、
心の内、奥深くに密めておいた、その淡く切なく甘酸っぱい恋心を手渡せるという、
そういう特別な日であると
そのように私としては考察しています。



私の個人的なバレンタインの原初的なイメージとしては、

例えば、
女子中学生が、
憧れだけど、手の届かないような同級生の男子生徒に対して、
ずっと憧れと想って諦めていたその恋心を
胸の内にしまい続けることができず、
バレンタインのチョコレートに託して、
そっと下駄箱の奥にしまって渡すようなそんなイメージです。

こうしたバレンタインのイメージは、あまりにも古典的すぎて、
現代においては、こうしたバレンタインの光景があるかどうかは知りませんが、

こうした光景の中には

実に甘酸っぱさがあります

切なさがあります

若葉のような淡い甘酸っぱい恋の香りがします


「この世界もまんざら悪くないなぁ」
と思わせてくれるような
甘酸っぱい、微笑ましいときめきが感じられます

バレンタインデーの本来の姿の中には、そうした
「甘酸っぱい、微笑ましいときめき」
が内在しているはずであると思うのです


それではアリスのバレンタインデーの様子はどうでしょうか?

このように
「この世界もまんざら悪くないもんだなぁ」
と思わせてくれるような
「甘酸っぱい、淡いときめき」
が、
アリスのバレンタインデーの中にも内在しているでしょうか?

以下の文章から、一つ考察してみてください下さい






「明日、俺、チョコレートはいらないからね」


バレンタインデーの前日、
1人の男性メンバーが、唐突に、隣に座っている女性メンバーにそう伝えました。


「…はぁ…?」


女性が曖昧な返事で首をかしげました。



まずこの光景から考えなければいけません。

バレンタインデーは、
女性がその心の内に密かに秘めた心を
その当日に思い切って男性にチョコレートに託して渡すわけですが、

この会話において、

そもそもその隣に座っている女性は、
この男性に対して
密かな想いを抱いているかどうかが定かではないわけです

というか、
誰がどう見ても
「密かな想いを抱いているわけがない!!」
と言い切れるように思われるわけです


なのに、唐突に


「明日チョコレートはいらないよ」


などと伝えているわけです。


これはもう最初から何かがおかしいです

バレンタインデーの定義から何かが外れています

本来持っているバレンタインデーの定義から、おおよそかけ離れた距離の場所にこの会話はあると思われるのです

「おおよそかけ離れた距離」
とお伝えしましたが、具体的に伝えた方がわかりやすいと思うので、
具体的な距離としてお伝えしますと
地図上の距離に例えれば、
おそらく…

「東京からパリまでの距離程の
それくらいの距離感」

になると思います

それくらいかけ離れているということです



唐突にそんなことを言われた女性は、どのように反応していいかわからない様子でもじもじしていました

もじもじして隣に座っている女性に
男性が続けてこのように言いました


「チョコレートはいらないよ
ただ黙って見つめてくれればそれでいいよ」



「……はぁ……」



女性が実に困惑した表情で、この言葉に曖昧な返事をしていました



この言葉は、
バレンタインデーの定義うんぬんというところから大きく外れていて、
そもそもこんなことを唐突に、隣に座っている人から言われたら、

「一体どんなリアクションをとったらいいんだい?」

といったような類の言葉だと思います



ところで、ここで男性が言われたセリフは、こうして文字としてだけ読むと、
かなりかっこいい響きのように聞こえるかもしれません。

もしかして…なのですが、
このセリフだけを聞くと、この男性はこのセリフに見合った、
かなりイケてる男性のようにイメージされた方もいたのではないかと思われます



福祉においては、常に現場の声というのが大事です

現場における感覚というのが、まず何よりも第一優先されます

紙面上の文字としての情報としてどうであったかと言うことよりも、
その現場で見ていたものが、一体どのように感じられたかということの方が重要です

現場で直接見ていている感覚としては

この男性がイケているか、イケていないかということは別として、


「ただ黙って俺を見つめてくれていればいいよ」


といった、実にかっこいい言葉と、
現場の実態のその男性の姿が
相ふさわしいかというと、
そこには

「かなりの距離感がある」

というのが現場からの声です

かなりの距離感があると申しましたが、
やはりここでも、具体的な距離感をわかるように
実際のものとして伝えたほうがいいと思うのですけれども、

ここでの距離感を具体的に伝えるならば、

そうですねぇ…う〜ん…そうですねぇ…

おおよそ


「北極から南極に至る位までの
それくらいの距離感」


があるかと思います


男性が言ったこのかっこいいセリフと、

現場のこの男性のイメージとの間には、

「北極から南極に至る位までの距離感」

があるということです

これはかなりの距離感です


バレンタインデーというのは、本来実にロマンチックなものであると思うのですが、
どうも、この女性の曖昧に戸惑ったような困惑したような表情と、その返事からは、
ロマンチックさのかけらもないかのように思われるのです

やはりここにおいても、
ロマンチックさとの間に大きな距離感があります

距離感としては、
やはり
「南極から北極位までの距離感」
に値するかと思います



その日の夕方、つまり、バレンタインデーの前日の夕方、

その男性が
今度は
〈別の女性〉に伝えました



「明日チョコレートは俺いらないよ」



女性は、全く相手にしないで無視をしていました


「チョコレートはいらないけど、俺たち赤い糸で結ばれているものね」


平然と無視をしている女性に
男性もまた平然とそのように伝えました


それを聞いた女性がキレました!
 

激怒しました!


うしつこくそういうこと言わないでよ❗️❗️
去年も同じこと言ったでしょ❗️❗️」


女性が激しく怒り、男性につかみかかるような勢いだったので、
慌てて私たちで止めました


これがバレンタインデーの前の日のアリスの光景です

さて
これはバレンタインデーの本来持っている
甘酸っぱいほのかな切ないロマンチックな光景に見合った光景でありましょうか…?


私の個人的な見解といたしましては

かなりかけ離れていると思います

どれくらいかけ離れているかと申しますと
具体的に伝えれば、
やはりこれもおそらく

「北極から南極くらいの距離感」

においてかけ離れていると思います




ところで、ちょっと気になることがあります

この激昂した女性が言ったセリフです


「去年も同じこと言ったでしょ❗️❗️」

この部分です


去年もこんなセリフ言ってたんですね…

という事は、
おそらくおととしも同じような光景が繰り返されていたのでしょう…


ロマンチックさからは、程遠いこの景色が、
去年もおととしも繰り返されていたのでしょう…


そして思うのです

願わくば

このロマンチックさからかけ離れた光景が

距離にしたら

「北極から南極まで程にかけ離れた」

この光景が

来年も

そして

再来年も

性懲りもなく、性懲りもなく、
また続いていってもらいたいと


そう心より願うのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




『伝えたい!複雑な問題の解決策の答え!』


アリス高崎
ブログ担当 N です


前回のお正月の記事で

「正月にあんぱんを食べた。なぜなら、それは日本人だからだ」

と発言した男性のことを書きましたが、

今回はその続きのお話です。


ある日、その男性が朝、アリスにやってくると、
コンビニで3本も缶の飲み物を買ってきていました。

・エナジードリンク1缶

・甘いコーヒー1缶

・無糖のコーヒー1缶

でした。


「なんで3本も買ってきたの?

しかも3本ともカフェインだよ

それに別に、エナジードリンクを朝から飲まなきゃならないほど疲れているわけじゃないでしょ… 」


僕もそのように言いましたし
周りのみんなもそのように言いました


その質問に男性が答えてくれました


「腰を痛めちゃったんだよ」


「なんで腰を痛めちゃったの?」


「布団で寝てたら腰が痛くなったんだよ」


なんだか不思議な理由だなぁ…

でもまぁ、寝て起きたら腰が痛くなってたってことがあっても、まぁそれほど不思議でもないかなぁ
まぁそういうこともあるかなぁ


「でもエナジードリンク飲んだからって、別に腰痛いのは良くならないよ」


周りのメンバーからそう言われてしまいました


「それに、エナジードリンクと缶コーヒー3本飲んだら、ちょっとカフェイン摂りすぎだからよくないよ」


と他のメンバーが、その男性に伝えると


「いやー、ちょっと疲れてるから必要なんだよ」


と男性は答えました


「どうして疲れてるの?」

とまた質問が出ました


「朝ご飯、全然食べられなかったんだよ、今朝は…」


男性が
今日は朝から疲れている理由を
そのように答えてくれました。


朝ごはんを全然食べていないから疲れていて

だからエナジードリンクやコーヒーが必要だそうです。


「なんで全然朝ご飯食べられなかったの?」


またまた周りのみんなからそんな質問が出ました。


「腰痛だからだよ」


男性の答えは実にシンプルでした。


話がまた出発点に戻ったなぁ…



すると…


男性の近くでそれまで全く話に加わらないで、黙々と読書をしていた1人の女性が、

突然顔を上げ、

男性に問い詰めました



腰痛だから全然朝ごはんを食べなかったっていうの?!


女性がすごい剣幕で話に加わってきました


「うん、そうだよ」


「腰痛だから、朝ご飯は全然食べてこなかったっていうのはおかしいでしょ
!


なんだか急に男性を叱ってきました


「いや、別に全然食べなかったって言うわけでもないんだよ」


「全然食べなかったわけじゃないって言うことは
ちょっとは食べたって言うことね」


「ちょっとはね」


「何を食べたの!?」


女性が問い詰めました


 

 

 

 

 

 

「あんぱんだよ」



男性は何もためらうことなく答えてくれました。



朝ご飯は食べてこなかったから、
今日は元気が出ない…

でも別に全く朝ごはんを食べてこなかったというわけではない…

あんぱんを食べただけなんだ…

といった話の流れです



「あんぱんを朝ごはんに食べてきたら…もうそれで充分でしょう…」


周りのみんなが笑いながら言いました


「いや!あんぱんだけじゃダメなんだよ…今日の疲れは…」


いったい何をそんなに疲れているのだろう…?



整理のために話を逆戻りしていきます

*あんぱんしか食べてこられなかったから、今朝は疲れている。
 ↓
*なぜ朝ご飯にあんぱんしか食べられなかったかと言うと、
それは腰痛であったから
 ↓
*腰痛だったから、エナジードリンクとコーヒーを買ってきた
 ↓
*しかし、エナジードリンクとコーヒーでは腰痛が治らないよ
とみんなに言われてしまった。



朝の出発点まで話をさかのぼっていくと、大体こんな感じになります


どうも、この議論を朝の出発前まで戻って見たけれども、
そもそも一体何が本質的な問題であったのかよくわからないです…

何が問題の本質であったのかがよくわからないから…
どこに解決策があるのかもよくわからないです…






チョコパンにすればよかったのよ





唐突に、先程の女性がそのように男性に伝えてきてくれました


「え?あんぱんじゃなくてチョコパンにすればよかったって言うことなの?」


あまりに唐突な発言だったので、みんな驚いて笑ってそう尋ねました


「そうよ!
あんぱんじゃだめよ!
チョコパンにすればよかったのよ!」



女性は、はっきりと確信に満ちて断言するかのように、まっすぐな眼差しで男性にそう伝えてくれました。



《あんぱんじゃなくて、チョコパン》

そこにこの問題の解決の糸口を提示してくれたのです。

そもそも、問題の本質がどこにあるのかも全くわからないこの問題に対して
解決策を提示してくれたのです。

しかも、その解決策は、全く意味がわからない企画想定外の解決策でありました


あんぱんじゃダメ!
チョコパンこそ、この問題を解決する糸口なんだ!


そう女性は伝えてきてくれたわけです



果たしてこの回答によって、そもそも一体どこに問題があるのかわからないこの問題に答えは見出せるでしょうか?

本当に解決の糸口が見出せるでしょうか?




すると…


男性は言いました


「あー、あんぱんじゃなくて、チョコパンね!
そっか、今度からチョコパンにするよ!」



なぜかびっくり!
お見事なまでに、男性は腑に落ちた様子で納得してくれていました。


「ありがとね」

男性が女性に素直にお礼を言うと、


「はいはい」

とそっけなく返事をして、女性は何事もないかのように、また本を読み始めました。


その姿には…

「全く何言ってんのよ、そんなこと当たり前でしょ!」

といった感じの肝の座った女性の威厳のような風格がありました


全く疑問を挟む余地もないようなその女性の風格の前に

男性のあらゆる疑問は、全て腑に落ち

納得した心の趣きで、その日の朝を過ごすことができたようです。


……


朝、エナジードリンクとコーヒーの缶飲料を3本も買ってきた。
 ↓
カフェインの取りすぎだとも言われた。
 ↓
しかし、朝起きたら腰痛になっていたんだから、仕方がないと
男性は言った。
 ↓
しかしみんなからは
エナジードリンクを飲んだからって、腰痛は治らないって言われた。
 ↓
でも自分は腰痛なだけじゃなくて疲れているんだ、
だからエナジードリンクのカフェインが必要だ言う。
 ↓
なぜ疲れているかと言えば、朝ご飯をあまり食べられなかったからだと言う。
 ↓
朝ご飯があまり食べられなかったことが疲れの原因であれば、
朝ご飯をしっかり食べれば良かったわけであるが、
なぜ朝ご飯をしっかり食べられなかったかと言えば
腰痛であったからだと言う。
 ↓
しかし、
腰痛だから朝ごはんをしっかり食べられなかったと言うのはおかしなことだ
と女性に指摘された。
 ↓
男性は、
全然朝ごはんを食べられなかったわけではなく、
少し食べたんだ
何を食べたかと言うと
あんぱんを食べたんだ
と女性に伝えてきた。
 ↓
周りのみんなから
朝ごはんにあんぱんを食べればそれで充分だろう
と言われた。
 ↓
男性は
あんぱんだけでは疲れを取ることができないんだ
と主張する。
 ↓
もう何が問題で何が解決策か誰にもわからなくなっていた

 

 

 ↓

 

 

「あんぱんじゃだめよ!チョコパンでしょ!」


と女性に男性は諭された。

 

 ↓
男性は

「そうか、あんぱんじゃなくて、チョコパンだったらよかったのか」

と深く納得し、問題は解決した。


何が解決したのかわからないけど…

そもそも何が問題であったのかもわからないし…

でもなんだかわからないけど、何かが解決したことは確かなようだ。



この世界は複雑だ

あまりに複雑すぎて、様々な問題がさまざまに絡みすぎて、
世界は、問題の本質を見失いかけている


そしてまたその問題の解決の糸口も見失いかけている



数ある世界の問題の中で、
その中の1つの問題が、この日の朝、
アリスで解決されていった


この複雑に満ちた世界の複雑な問題の1つが解決されていった


解決の答えは


《朝ごはんに食べるのはあんぱんじゃなくて、チョコパン!》

であった…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…1月ももう後半になってきましたが、今年になってからの最初のブログの更新になりますので、

今更…という感じではありますが、アリスのお正月の最初の朝の風景をここに描きたいと思います。
 

 

 

「アリスのお正月の最初の会話」


アリス高崎
ブログ担当Nです

お正月の休みが明けて、アリスが始まった最初の朝の出来事…


「お正月はなんか食べましたか?」


1人の男性メンバーに尋ねました


「あんぱん」


無骨な答えが返ってきました。

たった一言。
ぼくとつでシンプルな答えが返ってきました。



「なんでお正月にあんぱん食べたんですか??」


不思議に思ったので、僕は尋ねました。

すると、
男性はチラリとこちらを見た後、
表情1つ変えずに、
何事もないかのように答えてくれました




「日本人だから」


 ……

 …


語外に、その言葉の奥に、響きとして、

「なんでそんなことの理由を聞くんだよ、
そんなの当たり前だろ、」


といった響きが伝わってきます。

そして、語外に、
響きとして

「日本人として正月にあんぱんを食うっていうのは
当たり前のことだろ」


といった響きが言葉にはなっていないけれども、存分に含まれています。


僕の
「どうして正月にあんぱんを食ったの?」

という問いかけに対して

「日本人だから」

と、無骨な表情で言われてしまったら、

僕は、もうそれ以上、何も問いかけることができません…



日本人なんだから、正月にあんぱんを食うことは当たり前、

日本人の魂として、正月にあんぱんを食うことに
何の疑問があるだろう、


このことに疑問を感じるようであれば、お前は「日本人の魂」をわかっていないようだな



彼の無骨な表情からは、
僕に対して、そのようなメッセージが発せられているように感じられたのです


「まぁ日本人だから、

『やっぱり日本人として、
正月にはあんぱんを食べた』
っていうことですよね、」


とりあえず、
恐れおののきながら、
僕の方から少々歩み寄りました


「そういうことだよ」


実にシンプルで無骨な答えがまた帰ってきました。

もうこんな風に言いきられてしまったら、
僕の方からこれ以上何も言うことはできません…

黙って僕が彼の横にしばらく座っていると…
おもむろに彼がまた口を開きました…


「あのさぁ…」


ぼそりとした口調で口を開きました


「はい?」


恐る恐る僕は返事をしました


あんぱんだけじゃないんだよ…」


ぼそりと彼がつぶやきました


「あー、お正月に食べたものはあんぱんだけじゃなかったんですね、
他に何を食べたんですか?」


尋ねてみました。



を食ったんだよ」


ぼそりと一言つぶやきました


僕のほうに顔を向けず、
視線を合わせず、
遠くを見るような眼差しでぼそりとつぶやきました


「あー、お餅も食べたんですね、」


「そうだよ」


「やっぱり日本人ですからね、
お正月はお餅ですよね、」


これなら僕も納得ができます、

これなら何も否定されることなく、
あきれられることもなく、
安心して言葉を発することができました。



「いや!そうじゃないんだよ…」


…残念ながら、全否定されてしまいました…


「そうじゃないんですか??」


「うん」


「お正月だからお餅を食べたんじゃないって言うんなら
なんでお餅を食べたんですか?」


僕もただ否定されただけでいるわけにはいきません!

わからないものはわからない!

と、
恐れることなく素直に疑問を尋ねてみました








「…さみしかったから…」



 ………

 ……

 …

 


無骨な答えではあったけれども、
先程とはちょっと違う、哀愁の趣のある答えが返ってきました。


「さみしかったから、
お餅を食べたんですか



尋ねてみました


「そうだよ」


答えてくれました


「どうして淋しいとお餅を食べるんですか?」


もうシンプルに不思議に思ったので尋ねてみました、

僕のシンプルな疑問に対して、
男性はぼくとつではあるけれども、
実にシンプルに、
僕に答えを伝えてくれました




「ん?、だって日本人だから、」



 ……
 
 …



日本人である以上、
日本人の魂として、

正月にはあんぱんを食い、


日本人の魂として、

さみしい時にはお餅を食べる

 
 ……

 …



… 意味がわからない…