その日は少しずつ近づいてきました。
入院中の父にとって体内の内視鏡カプセルは、数日が経過しても出てくることはありませんでした。理由は、筋肉が弱くなっているからです。すでに身体の中の異物を押し出す体力が、父からは失われていたことを意味していました。
時間が過ぎていきます。
父の身体を徘徊した内視鏡カプセルは、最終的に薬によって体外へ出されました。
本来であれば週末金曜日に退院する予定となっていましたが、父から「一日でも早く退院したい」と妻・秀子に連絡があり、結局予定前日に帰宅することとなりました。
11月8日、病院からタクシーで家の前に到着した父でしたが、入院が長引いたこともあり、自らの足で歩ける状態ではありませんでした。
母・秀子が介抱しようと試みますが、病人がこれ以上増えても困るという家族総意のもと、秘書やお手伝いさんに抱えられながら家の中へ運び込まれたそうです。
父は、最期は自宅で過ごしたい、そう思ったのです。
久しぶりの我が家、どんな夢に包まれたのでしょうか。
11月9日(金)は朝から家で静養。
その後、秘書の曾根さんに車椅子を押していただき、慣れ親しんだ近くのバーバータキザワへ向かいます。このお店には髪を整えるということでは世界一の達人がいます。
なにせ目黒・五本木へ引っ越して以来、40年間にわたり、あの三宅久之の頭を担当してくださいました。
ご主人の滝沢さんに、話をお聞きすることができました。
当日は、車いすでしたが、床屋の椅子にはご自分の脚で歩いて座られました。ご気分がすぐれなさそうな時は、お声掛けを控えるのですが、その日は特にお苦しそうなご様子でした。でも、先生はいつもいらっしゃる時はそうであるように背筋がピンと伸びてシャンとしていらっしゃいました。
父は40年間そうであったようにいつもの床屋に通い、出発の身支度を整えました。
11月10日(土)、11日(日)と、夜になると起きてはお手紙を書いていたそうです。
12日(月)は朝9:30からマッサージ、この後、銀行に行き、妻・秀子に借りていたお金を返すため、現金を引き出しました。全てピン札だったそうです。
13日(火)は、猪瀬直樹さんに手紙を書きます。
父が亡くなった翌日(11月16日)の東京都副知事定例記者会見冒頭、猪瀬さんは父から届いた手紙の内容を明かしてくださいました。それは、ちょうど都知事選で猪瀬さんに期待する声が大きくなる時期に書かれたものでした。父はそのことに触れ、続いて人生の先輩として猪瀬さんへ厳しくも温かい言葉を投げかけていました。
今回、猪瀬さんと母との手紙のやり取りがありまして、父が出した手紙の写しを頂戴することができました。ご紹介いたします。
(途中から)
ただ一つ、貴兄に忠告したいことがあります。貴兄のイメージを人に聞くと、いつも苦虫を噛みつぶしたような顔をして、愚鈍な者を叱りつけているという人が多い。しかし、貴兄はご存知かどうか知りませんが、笑うと本当にチャーミングな顔になるんですね。微笑をくれぐれもお忘れにならないように。怒りんぼの小生が忠告するのも、おこがましい話ですが。
さて、私事ですがお願いがあります。小生29日未明大量の下血をしまして、救急で都立広尾病院に搬送されました。救急の手順も良かったのでしょうが、午前3時すぎに病院へ着くと、もう当直医数人が手術着で待機していてくれ、CTでの検査、輸血、内視鏡での止血手術、N医師を中心にまことに迅速的確な対応してくれ、一命をとりとめました。小生はモーローとしていてよく覚えていないので、付き添った息子の話です。
チームワークといい、礼儀正しさといい、看護婦の処置も申し分なかった。昼ごろかかりつけのある医大へ移りましたが、担当医が内視鏡で再検査して「手術は完璧だ」と賞賛していたそうです。
小生は都民としてこのような都立病院を持ったことを誇りに思います。どうか猪瀬さんから、ついでの折で結構ですから、病院長へ一都民の感謝をお伝えくださり、ほめてあげていただきたい。よろしくお願いします。24.11.13 早々
猪瀬副知事殿
三宅久之
父はこうして、残された日々を過ごしていきました。後顧の憂いがなきよう。
そして心残りはあと一つ。(つづく)
※ 猪瀬さんからいただいた手紙。弱弱しい三宅の筆跡が記されています。