今日は母が亡くなってから5回目の誕生日。
そしてスペインに来てから4度目の母の誕生日。


母の闘病中は、いつまでそれが続くのか分からなかったので
もちろん結婚とかは考えられなかった。
遠距離で付き合っている状態ではあったけれど
母をおいてヨーロッパになど考えられなかった。
でも完全な回復が見込めない病気だったため
結婚できる=母の死、という図式がいつも頭の中にあり
彼のそばへ行けないもどかしさもあったけれど
そばへ行けるときは、もう母はこの世にいないだろうことを考えると
行けないその状況をまだ幸せに思ったりもしていた。


でもやっぱり同時に、その状況がいつまで続くのか
果たして自分は彼のそばへ行ける日が来るのか
そして一体自分が望んでいるのは何なのか
母と一緒にいることなのか、彼のそばへ行くことなのか
先の見えないトンネルの中で出口を探して探して
もがき続けて頭の中がおかしくなりそうだった。
(多分おかしくなりかけていたと思う)


そして数年の闘病の末、母は亡くなった。
実家から車で20分程度の病院だったけど
早朝で間に合わなかった。
病院から容態急変の電話をもらってから30分。
担当医が心臓マッサージを続けてくれていたけれど
もう意識はなく握った手は冷たかった。
その冷たさに泣き崩れた私。
でもその後しばらくの記憶はない。
おぼろげな記憶の中では、父も泣きながら叫んでいたような気がする。


でも病院から電話が来る5分前に、突然母の夢を見て目が覚めた私。
医者から教えてもらった容態急変の時刻は、私が目を覚ました時間だった。


お葬式のときに、ご近所の方や親戚からは
「お父さんのことは心配しないで、好きなところへ行きなさい」
と言ってもらった。
一人っ子の私の行く先を心配してくれて(ま、トシもトシだったしねー)
背中を押してくれたんだと思う。


それでもやっぱりなかなか踏ん切りはつかなかった。
母親への罪悪感と父を一人残していくことへの不安。


そして1年後の母の命日。
1周忌で集まった身内での法事のとき。
お寺の住職さんが言った言葉。


「供養とはお寺でお経をあげることではありません。
亡くなったひとを心の中で思い出すことこそが、供養なのです。
遠くにいても故人を想うことが、一番の供養です」


目からウロコの一言だった。
そのときまで、私はいつまで母の供養をしたらいいのか考えていたから。
49日までは、1周忌までは、3周忌までは・・・
そこまでは母のそばにいようと、伸ばし伸ばしにしてきた。
でもその言葉で、ふんぎりがついて
その数ヵ月後にここスペインにやってきた。


あれから4年。
今日も心の中で母を想い出そう。


お母さん。
私はスペインで元気で幸せにしています。