ハイテク・アニミズム

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ハイテク・アニミズム(日本の縄文文化と先端技術の融合)。
---自給自足を基本にした関係(コミュニティ)革命の波動の繋がりを、具体化することです。(一般社団法人)日本里山協会に所属しています。


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『棲み分けによる平和とは』(増田悦佐ブログから、抜粋要約)

「棲み分けの世界」である自由な市場経済と、「棲ませ分けの世界」である資本主義経済ではどこがどう違うのかを、一覧表にしてみよう。

「棲み分けさせる」ことができるという現実は、一般大衆がどこに住み、どこで働き、どこで買いものをし、どこで遊ぶかを自由自在に操作することのできる強大な権威・権力の存在を前提としているのだ。まったく同じ文脈で「空間を『強制的』に棲み分けさせる」と表現したら、この強大な権威・権力の存在はいやでも意識せざるを得なかっただろう。

出所:下田淳『ヨーロッパ文明の正体——何が資本主義を駆動させたか』(2013年、筑摩選書)に触発されて作成(下図)

(図、注)棲み分けの「権力構造=無責任体質」とは、変な役に立たない政策を出さない無責任という意味だ。

第1項目から説明していこう。資本主義は、けっして市場経済が健全に発展した完成形ではない。それどころか、自由な個人の交渉によって自然発生的に成立する市場経済からは大きく変質した、初めから特権階級の人間がボロ儲けするように設計された植民地に移植されることによって成立した、市場経済の腐敗堕落した姿なのだ。

あまりにも往々にして、イギリスは「資本主義の母国」と呼ばれる。だが、イギリスが市場経済と産業革命の発展を先導していた時代には、これまた往々にして「市場の失敗」と呼ばれる、資本の際限ない自己増殖と利益率上昇によって、勤労者の生活がどんどん貧困化していくといった事態は、皆無とは言えないまでもほとんど見られなかった。基幹産業の寡占化もあまり進まず、政府は民間企業がどんな分野にチャンスを見出して、研究開発や設備投資に資金を投ずるかについて、まったくといっていいほど干渉も介入もしなかった。

むしろ、イギリスでは資本の利益率は慢性的に低下し、勤労者の実質所得がじりじり拡大していくのが、平和で豊かな市場経済の国の健全な姿だという認識が、主流を占めていた。もちろん、その背景には人口ばかりか経済規模でもはるかにイギリス本国より巨大なインドの植民地化に成功したので、インドから徹底的な収奪をすることによって本国の臣民に対しては余裕のある態度で臨めたという事情もあった。だから、手放しで称賛できる話ではない。

だが、その後市場経済の推進役が、大英帝国という宗主国は追い払ったが、利権集団がちゃっかり後釜に居座ってしまったアメリカに変わってからの状態に比べれば、はるかにマシな経済環境だった。アメリカでは、大英帝国が経済覇権を握っていたころから、主要産業で寡占企業が肥大化し、寡占企業同士の弱肉強食の世界を勝ち抜いた事実上の独占企業が誕生し、成り上がりの強盗貴族たちが豪勢に札びらを切る一方で、平均的な勤労者の生活水準向上は著しく減速するという、まさに植民地的に劣化した市場経済である資本主義の弊害が「市場の失敗」と呼ばれるようになったのだ。

第2項目に移ろう。市場経済の世界では、価格は需要と供給を均衡させ、需要が供給を上回っている分野により多くの資源を投入し、下回っている分野からは資源投入量を減らすようにというシグナルの役割を果たす。ところが、アメリカのように宗主国が撤退したあとに利権集団が居座ってしまった国では、価格がこの健全な自己調節機能を果たせないようにねじ曲げられてしまう。圧倒的に大きな市場シェアを握った巨大企業が、自社の利益を極大化する価格を設定し、政治家や官僚に自社に有利な法律制度を制定させて、競合各社がその「最適価格」を下回る価格で自社のシェアを奪おうとすることを妨害する。

したがって、第3項目にあるように、市場競争経済では均衡状態の利益率は限りなくゼロに近づく。市場平均利益率より少しでも高い利益率を稼げる分野があれば、そこに新規参入企業が殺到し、利益率が市場平均並みになるまでは、新規参入は止まらないから、とくに利益率が高い分野はなくなる。また、利益は資本に積み上がるわけだが、その自己増殖のペースは1世代の親たちが子どもに近代社会で十分な教育を授けられると思える範囲内の人口増加率より高い。だから、全体として過剰な生産資源となりつづける資本の利益率は傾向的にゼロに近づき、希少性が高まる労働力への報酬である賃金・給与のGDPに占めるシェアは高まる。

逆に、独占企業あるいはガリバー型寡占企業が支配する資本主義経済では、こうした巨大資本が適正と見なす利益を確保できるように、産業政策、財政政策、金融政策が構築されている。ひとつ飛ばして、第5項目となるが、植民地的な資本主義経済の世界では、競争とはどの企業が、そしてだれがこの特権を確保できる地位に昇りつめるかというところまでの競争であり、それからあとは勝者としての巨大企業にとってあまりにも居心地のいい無風状態が続く。だから、特権的な地位に昇りつめるまではどんなに革新的な企業でも、いつかは図体だけはデカいが骨の髄まで腐り果てた組織と化して没落していく。古くはスタンダードオイル、USスチールから、GE、GM、IBMに至るまでこの法則に打ち勝つことのできたアメリカ企業はなかった。そして今、マイクロソフトやアップルも事実上の独占状態がもたらす安定した高利益に溺れて革新性を失い、没落への道を歩み始めたようだ。

『国富論』とも『諸国民の富』とも訳されている『Wealth of Nations』で、アダム・スミスはただの一度も「市場経済が発展するのは、資本利益率が高まって投資が活発になるからだ」とは言っていない。「もちろん、個々の資本家、企業家は必死に少しでも高い利益率を確保しようと努力するが、その資本家同士の競争が恒常的に利益率を押し下げ、か勤労者の生活水準を引き上げる。だからこそ、現在(18世紀後半当時)の近代市場経済のあり方を見渡しても、オランダのように平和で豊かな国ほど資本利益率も金利も低く、スペインのように貧しく戦争の多い国ほど資本利益率も金利も高い」と断言していたのだ。

なぜ、現代経済学者の大部分が「資本の利益率が高いほど投資は活発化し、経済成長率も高まる」というようなアダム・スミスとは正反対の主張をするようになってしまったのだろうか。結局のところ、19世紀後半に世界経済成長の機関車の役割をイギリスから奪い、続いて2度にわたった世界大戦とそのあいだにはさまった1930年代大不況時に国際経済・金融・外交・軍事においても覇権国家となったアメリカが、市民社会とはまったく異質の宗主国なき植民地社会だった上に、第12項目で説明するとおり、そのアメリカ型資本主義を経済の理想の姿とするほうが、自分たち経済学者の活躍のが場が多いからではないだろうか。

第4項目に移ろう。「棲み分けの世界」と「棲ませ分けの世界」では、社会の原形がまったく違っている。棲み分けの世界の原形は、同格の一般大衆が互いに売り手となり、買い手となり、交渉を積み重ねていく中から、合意が形成され、取引が成立する市場だ。市場には、指揮命令系統などないから、細かく分断されても、その切れ端がそれぞれ十全に機能する市場として再生する。分断されても必ず復活し、生き延びるヒトデ型の社会だ。

逆に、棲ませ分け世界の原形は、最高指揮官から一平卒までの指揮命令系統が確立された頭と、胴体と、足が分節化されたクモのような存在である軍隊だ。軍隊は、もちろん同格の個人同士の「無秩序な妥協」の積み重ねでは成立しない。生存本能を持った動物である人間にとって他人と殺しあうという、本来であればだれもやりたがらないことを強要するための抑制装置の作動している社会だ。当然、指揮命令系統が寸断されてしまったら、個々の軍人・兵士は自分の命が大切という本能のままに散り散りになって逃げていく烏合の衆となり、社会としては成立しなくなる。つまり、指揮命令系統なしでは動かない軍隊型組織は、中枢が破壊されると組織全体が死ぬ、クモ型の社会だ。

そして、第5項目は、経済活動における自由と規制の違いを示している。棲み分けの世界では、需要と供給の一致する量と価格を歪める価格支配力を持ったプレイヤーの存在を排除する以外、自由な取引が制限されることはない。だが、棲ませ分けの世界では、最強の売り手が最大限の利益を得るために、国家や中央銀行が介入する。結果は、独占、カルテル、ガリバー型寡占に価格設定の自由を与える以外は、ありとあらゆる局面で国家が市場に介入することを奨励する社会だ。

第6項目として書いたように、棲み分けの世界と棲ませ分けの世界では、くにのすがたも違う。棲み分けの世界では、お互いに自国にない資源を平和な交易でやり取りしながら、相手国のことばや文化・文明を尊重し平和に共存することが数百年、数千年と続く。一方、棲ませ分けの世界では、自国にない資源を略奪するための征服戦争を仕掛けることは、進歩や文明の発展のための正義の行為と見なされる。こんな異常な倫理観が世界を覆い尽くすようになったのは、それまでユーラシア大陸の西北の隅に押しこまれていたキリスト教西欧世界が、15世紀末ごろからイスラム勢力を押し戻し、世界中で植民地獲得競争を展開するようになってからのことだった。

第7項目は、棲み分けの世界には、本質的な意味での政治は不要で、したがって権力もまただれが最終責任を取るのかが判然としない、下降し、分散し、多重化する無責任体制で十分間に合うことを示している。極端に言えば、権力など存在せず、文化・文明の伝統を伝えていく儀式・儀礼の祭司が象徴的な権威として存在していれば、それでいいのだ。

一方、棲ませ分けの世界では、他国の資源を奪い、他国を植民地化するために戦争を仕掛けることが常態となっている。そこでは、最終責任の所在がつねに問われる。勝てばいちばんおいしいところを持っていくし、負ければ自分だけではなく一族もろとも絶滅させられるのがふつうという殺伐とした世界だ。こういう世界だからこそ、そして征服戦争や他国に征服されることを防ぐための戦争で軍事組織を統括する必要があるからこそ、権力は上昇し、集中し、一元化しなければならないのだ。

イギリスが開拓した13州植民地だったころのアメリカは、経済力ではスペインやフランスの南北アメリカ大陸植民地に大きく後れを取り、とりたてて軍事力が強いわけでもなかった。そのアメリカが世界最大の経済大国にのし上がったのは、すべてヨーロッパで頻発していた戦争から物理的に遠く離れた場所に大陸横断国家を構築して、勝利が確実な局面になるまではヨーロッパでの戦争に参戦しないという基本方針のたまものだった。

この明確な戦略を持った国家の形成こそ、植民地時代のアメリカの利権集団が、宗主国から送りこまれた特権階級を放逐すると同時に、自分たちが宗主国として居座る植民地帝国となったことによってもたらされたものだった。自然発生的な国家に戦略目標はないが、宗主国の特権階級から下層民にいたるまで、本国では得られない利益を享受するために構築された共同体である植民地には、設立当初から戦略目標がある。この戦略目標をもって構築された植民地帝国に対して、自然発生的で明確な目標を持たない国々はあまりにも無力だった。

しかし、それは未来永劫にわたって続く優位ではない。むしろ、歴史をふり返ると、植民地帝国の優位は戦争が国家間交渉の正当な形態として容認され、奨励されていた時代に固有のものだったことが分かる。西欧諸国の隆盛が始まる大航海時代以前には、戦争は特異な状況の中で必要に迫られて取る非常手段であって、そのために財政から社会制度まで整備して意図的に追求する政治の一形態、しかも有力な形態ではなかった。棲み分けの世界では市場競争が経済を支配し、棲ませ分けの世界では資本蓄積度の高い企業ほど政治家や官僚を使って既得権益の維持・拡大と資本利益率の高止まりを確保する、歪んだ市場経済としての資本主義経済に変質するのだ。

第8項目は、進化論の最新の成果も踏まえた棲み分け、棲ませ分けそれぞれの世界の権力基盤を示している。棲み分けの世界では、直接他人との競合を避け、平和に棲み分けをする一般大衆が基盤となっている。現代進化論の標準的な議論を読めばすぐ分かるし、言われてみれば即座に腑に落ちることだが、生存競争に勝ち抜く秘訣は「競争に勝つ」ことではなく、競争しないで済む環境を探し出すか、自分でつくることだ。生存競争に自分から立ち向かうという人は、何千人、何万人、あるいは何千万人、何億人の中から王様ひとりと、あとは乞食というふるい分けに進んで参加することになる。とうてい、うまく生き延びる道とは言えない。

第9項目の市場競争の意味も、同じことだ。勝ち残る秘訣はなるべく正面対決を避け、競争は他人に任せておいて、自分は競争しないで済むニッチを確立することだ。ところが、「市場競争の役割はだれが利権集団の中にもぐりこむかを決めるところまでで、あとは利権集団の利益極大化が支配する」世界では、一般大衆が他人との棲み分けで平和に共存できる道をなるべく狭めようとする。平和な共存の余地が大きければ大きいほど、自分たちがしぼり取る利益の原材料が少なくなるからだ。

こうして棲ませ分けの世界では、軍事動員をかけたときの指揮命令系統とともに、平和な時代にも「だれにどこで何をさせれば、国王・皇帝一族を頂点とする利権集団の利益を最大化できるか」を考え、実施する文民官僚制度も発達することになる。

リサイクル(循環型)社会がどう実現するかを対比したのが、第10項目だ。棲み分けの世界では、自分の国にない資源は他国を征服して強奪するという発想がない。だから、自国にない資源は外国から買ってくるか、なしで済ませるという選択肢しか存在しない。基本的に、自国で採掘も生産もできない資源は高くつくから、節約せざるを得ない。当然、高くつくものは大事に使って長持ちさせようとする。長持ちさせることの中には、持ち主が自分では使わなくなったとしても、他の人にとっては役に立つので売買が成立するというかたちで、何度も所有権が移転していくことも含まれる。

一反の布地をまったく端切れを出さずに着物に裁断して縫い合わせ、何度か洗い張りのたびに糸をほどいて平面の布地に戻しては縫い合わせる。柔らかくなったところで赤ん坊のおむつにし、さらにくたくたになったら雑巾にする。雑巾としても使えないほどボロボロになったら、焼いて灰を肥料として売るといったほぼ完ぺきなリサイクル社会を実現させた江戸時代は、現代の世界各国と比べても、循環型社会としての完成度が非常に高かった。

江戸時代には、石炭も石油もほとんど埋蔵されていない国なので、植物性の油を主原料として凝縮させたろうそくは貴重品だった。そして、ろうそくを灯したときに流れ出す蝋のしずくを専門に買い集めてろうそくとして再生させる業者さえ存在していた。江戸時代のすばらしさは、こうした循環型社会が「大所高所」からの理想論として主張されたわけではなく、そこにビジネスチャンスを見出した人が実際にその仕事で食っていけたから持続したという点にある。

逆に、地球温暖化を防ぐための「再生可能エネルギー源」利用キャンペーンなどは、経済的にまったくペイしない太陽光発電とか風力発電のようなエネルギーの浪費を、法律や制度によって強制するというところまで変質し、劣化している。一定の電力を生み出すのに必要なコストが、石炭、石油、天然ガスを燃やして同じ電力を生み出すコストより高いということは、それ自体でエネルギーを浪費しているということなのだ。

そもそも長い地球の気象史の中には、人間が化石燃料を大量に燃やすようになるはるか以前に、今よりも大気温がずっと高かった時代もあったし、逆に今よりもずっと大気温が低かった時代もあった。そして現代世界で繁栄しているあらゆる種の動植物は、こうした長い試練の時期を生き延びてきたからこそ子孫を残しているのだ。人間が化石燃料を燃やし過ぎるから地球上の大気温が不可逆的に上昇して、破滅的な環境破壊をもたらすなどという議論は単純な人類万能論の裏返しであって、あまりにも思い上がった考えだ。
 
第11項目は、棲み分けの世界と棲ませ分けの世界での、金融政策の基盤の違いをまとめたものだ。棲み分けの世界では、それ自体に価値のある貴金属などの自然貨幣や、そうした価値を体現したものを担保にすればだれもが発行できる兌換紙幣がマネーとなる。一方、人為的に設計された棲ませ分けの世界では、貨幣発行権を独占した中央銀行の口約束以外には何ひとつ担保価値の無い不換紙幣が増刷され、慢性的なインフレの世の中をもたらす。

1国の通貨発行権を独占しているだけあって、中央銀行は世界中どこでも棲ませ分けの権威主義的な組織となっている。そして、「通貨の発行量を増やせば不況の到来を防ぐことができる」とか、「すでに突入してしまった不況の被害を小さくとどめることができる」とか、「不況からの脱出を促進することができる」といった推進するたびに失敗してきた政策を飽きもせずにくり返している。

本来一定の価値を持っているべき貨幣がどんどん増刷され、供給量が増えれば、当然ありとあらゆるモノやサービスの「価格」は上昇する。実際には、不換貨幣の流通量が多くなりすぎたので、あらゆるモノやサービスを買うのに必要な貨幣の量がどんどん増え、貨幣の価値が下がるというだけのことなのだが。しかし、慢性的なインフレの世の中では、どんなに貨幣の実態価値が下落しても、借りたカネは名目ベースで金利を払い、元本を返済すればいい。だから、大きな借金をしている人間や企業や国や地方自治体ほど有利で、信用が低いのでほとんど借金はできない人は不利という社会が形成される。すなわち、棲ませ分けの世界は必然的に貧富の格差がどんどん拡大する殺伐とした社会になるというわけだ。

さらに、第12項目は、棲み分けの世界と棲ませ分けの世界では、経済学者の果たす社会的な役割が正反対となることを示している。棲み分けの世界での経済学者の役割は、「余計な介入をするな」の一言に尽きる。唯一余計ではない介入と言えば、価格支配力をふるえるほど大きな市場シェアを握ってしまった企業は、勅許状の権威によって守られた独占だろうと、市場競争の中から育った独占だろうと解体、あるいは分割しなければならないということだ。

一方、棲ませ分けの世界では、経済学者の役割は「市場に任せておけば失敗は避けられないから、政府の介入が必要だ」という議論の「正しさ」を証明することだ。さらに、すでに職業として経済学者をしている連中の主要な生産物である次世代の経済学者の就職口を最大化するために、国や一流企業や大手金融機関にとって一方的に有利な「インフレ状態はすばらしい」という議論を正当化することだ。こうした議論はすべて、「世の中には守ってやらなければ生きていけない愚民と、そういう愚民を守ってやる崇高な使命を帯びた優秀な人間との2種類の人間で構成されている」という世界観と分かちがたく結びついている。
 
第13項目の社会構造こそ、棲み分けの市場経済が支配的な世界と、棲ませ分けの資本主義・植民地主義経済が支配的な世界の本質的な差を示している。自然発生的で受動的な棲み分けの世界では、人間は歴史的に形成された多種多様な関係のネットワークと切り離されて存在することはできない。そして、市場はなるべくコストの低いものをなるべく高く売ろうとする売り手と、なるべく価値の高いものをなるべく安く買おうとする買い手の妥協によってしか、取引を成立させることができない。市場から独立した存在としての権威や権力が「いくらで売れ」とか「いくらで買え」と市場参加者に強制することは、市場の価格発見機能を破壊し、資源の最適配分を妨害する愚行以外の何ものでもない。

だが、棲ませ分け(能動的・強制的棲み分け)が支配する植民地経済は、まったく違う原理で成り立っている。とくに先住民を絶滅ないしそれに近い状態に追いやって、さら地に自由に都市計画や、「市場制度」を上から導入することができる場合には、当然権力とその周辺に群がる特権階級・利権集団がなるべくボロ儲けができるように設計された世界が出現する。植民地の支配層にとって、経済は管理統制することが不可欠だという主張は、自明の前提なのだ。

そして第14項目は、棲み分けの世界と棲ませ分けの世界で、主権がどこにあるかという点でも極端な差があることを指摘している。棲み分けの世界では、王政か、貴族的な共和政か、民主政かといった表面的な制度上の違いにかかわらず、主権は国民にある。国民に背かれた政権は維持できない。これは王政の支持者たちが、絶対君主制を喧伝し、王権神授説などという駄ボラを吹き始めたころから、革命が絶えなくなったという事実が証明している。

だが、植民地の主権はその植民地の住民にではなく、宗主国にある。これはもう、戦争に勝った側が負けた側を虐殺し、略奪するのは当然の権利だとするヨーロッパ伝統の「正義」観にのっとった確信でもあり、近代ヨーロッパ諸国が植民地支配をするころには、この確信を裏付ける圧倒的な軍事力も開発し、維持していた。その意味では、奴隷制度と黒人奴隷の使役が近代化しつつあった西欧諸国の富の蓄積に多大の貢献をしたという事実は、突然の先祖返りでもなんでもなく、「皆殺しにされて当然の被征服者を、生かして奴隷として使役してやるのは人道的・温情的な措置だ」とする中世から連綿と続いた法制史の常道を踏襲していただけなのだ。

第15項目は、ごく当然の支配的な経済思想の差を描いている。市場経済の棲み分け社会では、市場の自己修正機能に信頼が置かれる。抽象論の世界に遊んでいるだけなら、市場経済より効率的で公正な資源配分のあり方を夢見ることはできるかもしれない。だが、実際に何十世代にもわたって積み重ねられてきた、人と人との対等な取引によって価格を決め、価格が供給量や需要量を増減させるシグナルになるというシステムを超える制度は、存在するはずがない。だれかが介入し、操作し、統制する仕組みでは、絶対に時々刻々と変化する人間の欲求や願望に合わせてモノやサービスの供給量だけではなく、どんなモノやサービスが供給されるかというところまであらかじめ計画に組みこんでおくことなどできないからだ。

ところが棲ませ分けの植民地・資本主義経済では「市場は失敗する」という前提にもとづいて、政治家、官僚、巨大資本家、一流企業経営者、そして金融機関が市場に介入し、操作し、統制することが褒めたたえられる。市場経済の発達した国ならどこにでもあるはずの「価格支配力を握るほど市場シェアが大きくなった企業は、分割しなければならない」という法律が空文化しているからこそ、「市場の失敗」に見える現象が生ずるのだ。だが、事実上の主権者の一員がそうした巨大企業であるからこそ、世界中で独占禁止法や公正取引法はどんどん空文化していく。宗主国なき植民地経済である米中両国では、とくにこの弊害が歴然としている。

さて、第16項目として突然都市計画の有無が登場することに奇異の感を抱く読者もいらっしゃるだろう。だが、都市計画とは「権力者には一般大衆を鉢植えの植物のようにどこにでも移動させる権利がある」という、徹底した大衆蔑視の思想なのだ。特定の土地に生まれ育った人間は、生活の基盤となる場所でさまざまな人間関係のネットワークを築いている。そのネットワークをたかが美観というような主観的な価値のために、権力者が自由自在に「ここに住め」「ここで仕事をせよ」「ここで買いものをせよ」「ここで遊べ」といった「棲み分け」を強要するのは立派な事業だという妄想にとらわれた一大愚行が、都市計画の本質なのだ。

ここでもまた、ヨーロッパびいきの日本の知識人のあいだで普及している大きな誤解に、「ヨーロッパの都市は、都市計画によって整然とした美しさを獲得してきた」という考えがある。だが、実際に整然とした街並みの形成に都市計画が成功したのは、ナポレオン三世がオスマン男爵に命令してやらせたパリ大改造と、ムッソリーニが万博開催のために建設させたローマ近郊のEUR地区くらいのものだ。その他の大多数のヨーロッパ都市も、遠景として眺望するかぎりでは整然として見える。だがそれは、住民が同じ素材、同じ色調、同じ建築様式を守るほうが美しいことに同意して、自主的に協力しているからこそ維持されている街並みのおかげなのだ。古くからの市街地は、路地や横丁が錯綜した分かりにくい道路網のままで、整然たる都市計画とは無縁の世界でありつづけている。

ロンドンなどはその程度の協調もないので、見るからに雑然としている。また、もっとも伝統と格式の高い地域であるシティ周辺では、いまだに徒歩がいちばん効率的な交通手段であるほど路地、横町、裏道、抜け道の多い無秩序な街区の集積だ。都市としての経済効率が高いのは、人為的な機能の切り分けをせず、雑多な機能が歩いて行ける距離の中に混在している、自然に成長した街並みなのだ。

棲ませ分けの世界である植民地こそ、大規模都市計画に適した環境となっている。先住民を絶滅寸前まで衰亡させて、白紙の大地に自由に思い描いたとおりの街並みをつくれるような植民地がその典型だ。アメリカの商業首都ニューヨークは、おそらく世界でもっとも整然とした碁盤の目のような格子状都市だろう。そして、政治首都ワシントンは、同心円状に広がった市街地を放射線状の幹線道路が貫く都市計画の典型だ。ワシントンが政治家、高級官僚、ロビイスト、弁護士といった利権集団が軒を並べる超高額所得層居住区と、黒人やヒスパニックの貧困層の吹き溜まりになってしまった地域とにはっきり分かれているのは、このあまりにも人工的な都市計画と無縁ではありえない。

最後の第17項目に取り上げた貧富の格差については、すでにアメリカでは修士号・博士号でさえ給与水準を引き上げる要因にならなくなり、富がますますすでに大きな資産を蓄積した一握りの特権階級に集中していることを説明した。だが、ちょっとあとで、アメリカは小金持ちから大富豪・超富豪にいたるまで世界でもっとも大勢が集中している国だが、日本には小金持ちは大勢いても、大富豪・超富豪はほとんどいないことを解説する。

世界中のほとんどの国で、資産格差は所得格差より高く出ている。ほとんど日本だけが、所得格差より資産格差のほうが小さい。これは、非常に奇妙な現象だ。古代の時点ですでに経済発展が著しかった中国では「袖が長けりゃ踊りはお上手、元手が多けりゃ商売繁盛」ということわざがあったそうだ。当然のことながら、毎年の収入の多い人ほど、資産運用に充当できる資金量も豊富で、したがって1年ごとの比較である所得の格差より、長年の累計実績である資産格差のほうが大きくなる。ところが、日本だけは所得格差より資産格差のほうが小さいのだ。

これは、所得の高い人ほど資産運用が下手であるか、所得の高い人がその経済優位をさらに拡大することにあまり興味を持っていないかのどちらかであることを示している。どちらにしても、高額所得を得ている人たちがこういうふうにおっとりしている社会は、住んでいて殺伐としたところが少ないだけではなく、投資より消費が重要なカギとなるサービス主導型経済での成長率を高く保つはずだ。工業主導社会では貯蓄と投資を高水準に保つことが高成長のカギだが、サービス指導社会では高投資は必ずしも高成長を招かず、むしろ社会全体として消費に回せる資金量が多いことが成長のカギになるからだ。

純資産100万ドル以上の小金持ちの人数の世界シェアでは、日本は首位アメリカの41%に次ぐ9%で2位となっている。ところが、純資産5000万ドル以上の大富豪、同10億ドル以上の超富豪の人数となると、日本はスイス、イタリア、フランスにも抜かれて8位に落ちてしまう。それだけ、圧倒的に巨額の富を蓄積した人のいない社会なのだ。しかも、北欧のように、政府による所得再分配機能が非常に強くて巨額資産を蓄積した人が少ないわけではない。比較的政府の再分配機能は弱いにもかかわらず、自然体で大富豪・超富豪が少ない社会なのだ。

下の地図グラフは、さらに日本の資産分布の健全性を示している。出所:ウェブサイト『Zero Hedge』、2016年12月29日のエントリーより引用


100万米ドル(約1億1300万円弱)以上の資産を保有する金持ちの人数の世界シェアでは、日本はアメリカの約40%に次ぐ2位の9%となっている。しかし、上の地図グラフで分かるとおり、10億ドル(約1130億円)以上の資産を持つ超富豪クラスのシェアとなると、日本の順位は大幅に低下し、ロシア、イタリア、カナダ、オーストラリア、台湾の後塵を拝し、韓国・スペインと並ぶ同率14位の1.6%に下がってしまう。つまり、日本は小金持ちが大勢住んでいるが、大富豪・超富豪と呼ばれるような大金持ちの人数は先進諸国の中でも少ないほうの国なのだ。

これは、工業主導経済の時代、とくに重化学工業の大規模化の時代には、ハンデと考えるべきことだった。金持ちが存在することの経済的意義は、その年のうちに自分の稼ぎを消費活動で遣いきることができず、したがって経済全体にその年のうちに消費できずに翌年以降に持ちこす商品や資源を残すことにあったからだ。

だが、現在はすでに重化学工業大規模化が経済競争の最先端という時代ではなく、サービス業主導の時代に変わっている。サービス業主導の時代には、設備投資に使える資源の量が国民経済の好不調を左右する度合いは低くなる。むしろ、大金持ちが多いことは消費を抑制するので、経済成長の鈍化につながるというマイナス面のほうが大きくなる。

そして、10億ドル長者の世界シェアで言うと、1位がアメリカの30.2%、2位が中国の9.2%、3位がロシアの6.7%という序列になっているのは決して偶然ではない。この順番は、ほぼ正確に第二次世界大戦以降大国志向を持って、政治、経済、外交に臨んだ国々であり、エリート主義の顕著な国々だ。大国主義・エリート主義の成功の度合いが1~3位の序列に表れているのだ。大国志向は同時に軍事強国志向でもなるわけだが、この軍事強国志向と重化学工業の大規模化も密接に結びついている。

一般的な消費の分野では規格化され画一的な製商品は、必ずしも消費者の嗜好に適合性が高いわけではない。だが、軍需物資の生産においては規格化され画一的な製品を全軍に配備することには決定的な重要性がある。したがって、どんなに市場経済の発展している社会でも、規格化され画一的な製品が消極的に受容されるという以上に、積極的に歓迎された分野は軍需物資なのだ。

サービス業主導型経済への転換は、大国志向の終わりと、軍事強国が経済大国でもあるという固定観念の崩壊を招くだろう。そして、経済成長のカギを握るのが積極的な設備投資を通じた生産規模の拡大ではなくなった世界では、大富豪・超富豪の存在は国民経済の発展にとってプラスではなく、マイナスになる。

日本の超富豪には絶対数が少ないということ以外にも、もうひとつ非常に好ましい特徴がある。それは米ドルで10億ドル以上の純資産を持つ超富豪にのし上がった人たちの中で、遺産相続や政治利権・資源を通じて蓄財した人が少なく、大部分が起業による10億ドル長者だという事実だ。日本の場合、相続、企業重役としての収入、金融業での報酬によって10億ドル長者になった人はそれぞれ10~20%程度で、政治利権や資源所有を通じて10億ドル長者になった人はほとんどいない。10億ドル長者全体の60~70%が起業を通じて蓄財した人となっている。

先進諸国で日本に近い起業という自助努力を通じて10億ドル長者になった人が多いのはイタリアだが、それでも日本ほど起業の比率が高くはない。ロシアのように政治利権や資源が64%というのは論外にしても、ヨーロッパ諸国ではドイツの64.7%やフランスの51.2%が示すように、半数以上が相続を通じた10億ドル長者となっている。また、アメリカでさえ起業による10億ドル長者の比率は32.1%と、日本よりはるかに低い。単に大金持ちが少ないことだけではなく、大金持ちになった経路を見ても、日本は先進諸国の中でもっとも健全な国と言える。
『平和と俳句と。』
              

(はじめに)
 先の「戦中、戦後とは何か」に継続して、平和と俳句について連動したものだから、
厚かましいお願いだが気分の連動も願いたい。 (これで、俳句試論は終わり)
 
 四季ありし日本の自然他になし 土井としき

「平和とは何か」

 平和の反語は、戦争ではない。平和とは、戦争でない状態を意味する。知識人が力
を弱め、「棲み分け世界」が、これからの人類の生きる道だろう。

 「資本主義は市場経済の発展形でも完成形でもなく、市場経済が植民地的に変質・
堕落してしまった形態」という視点から、「米中同時没落が指し示す、棲ませ分けの
世界から棲み分けの世界への明るい展望」へ向けての基礎として、平和を考える機会
を得た。

 これからの日本は、サービス産業(第三次産業)への構造転換が出来れば、現場第一
主義、大衆が力強い国に成りそうである。
 
 明治から、特に戦後の吉田茂の昭和天皇の戦犯逃れ、天皇制維持しかなく、国民
生命や生活を守る考慮が無かった。つまり、GHQの属国になり果てた日本の馬鹿な
エリートに通用したのだ。

 「江戸時代の官僚は、気象事故(天災)で食べ物を即時に届けた。飢饉(セィフティ
ネット)に学ぶべし」だ。…磯田道史氏。「医師にも大病院の勤務医や大学医学部の
研究者ばかりではなく、町医者が必要なように、歴史家にも町史家が必要だ」が
持論。立派な主張だ。新刊『徳川がつくった先進国日本』(文春文庫)。

「平和で棲み分ける、雇用開発の前提と給与の原則」

 次の覇権交代は同じ投資主導の工業経済の枠組みの中での交代ではなく、工業経済
から消費主導のサービス経済へのパラダイム転換をともなう覇権交代だ。消費主導の
サービス経済では、投資主導の工業経済の時代には非常に重要だった大富豪・超富豪
によるエリート主義的な投資決断の重要度は大幅に減少し、広範な大衆の消費判断が
決定的に重要になる。だからこそ、先進諸国でいちばん、小金持ちの人数に対して大
富豪・超富豪の人数が少ない日本が次の経済覇権を握るのだ(増田悦佐)。

 ●給与の原則(試案)

(雇用開発の前提) 
 平和で棲み分けるために、エリートではない大衆が持続的に収益を維持できるビジネ
スモデルは、「第三次産業」の80%に近づいた従事者が重要だ。これらのサービス業とは、
卸売り、小売り、不動産、金融、保険、交通、医療保健、介護、余暇接客、維持補修、興業、教育、
法律、会計などの分野だ。

 これらの分野こそが、「平和で棲み分ける」セイフテイ・ネットの対象でもあり、独占
に対する福祉の平等の実現であり、自己責任の問題ではない。
 私の考えでは、保育士と介護士の施設は全て社会助成を受けて無料無償になること。
保育士と、介護の医師・あ介護士と看護士は職業として、その時代の社会の最上の給与を
支給されのでなければならないことだ。それなしには他の事は授受不可能だ。
 これらの分野こそが、セイフテイ・ネットの対象でもあり、独占に対する福祉の平等の
実現であり「自己責任」の問題ではない。

(支給される給与の原則)
①男女同賃金であることを、下記の三つの要素に合わせて原則とすること。
②学歴(職歴)、勤務年数、扶養家族の三つは、それぞれ同一であれば平等に同一給与を支払うこと。また、学歴(職歴)、勤務年数が同一でない場合は数が多いほど多く払われること。能力、能率、勤勉の差異は上の三つの要素に関して一切加味されないこと。
③職場の責任者の場合からの、能力差、勤勉差、人間としての好き嫌いの差で支払う時は、上司は②の三要素以外の給与で差をつけること。これについて、給与を受ける側は一切異論を申し立てないこと。同様に②について職場の責任者の介入は許されないことだ。

 ●「憲法改正試案」(試案)

 「憲法改正」とは、本来、憲法は国民投票によって承認されたものしか「改正」はあり得ない。

1. 憲法9条の(1)(2)項の復元
--(3)項の新設
③前項の理念を達成するために、参加している国際機関を通じて、具体的な非武装・非戦の提唱を積極的にすすめる。

2. 国民主権の第3条の新設
--(続主権の行使)国民が直接主権を行使することが必要と認めた場合、過半数の署名を集めて、無記名直接の国民投票を行い、主権者の半数以上の賛成票決により、リコールすることができる(国民投票が可能になる)。

3. 天皇制の定義の修正、新設
--「天皇は国民の統合の象徴」という、「統合」という抽象的なものから、今上天皇が、生前退位を積極的にすすめている。
※象徴天皇とは「国民の為」と明確化された。
※天皇の国事行為や、皇室典範は簡略化することを重視することが当たり前だ。

 一人の日本国籍の民衆という立場から、これ以上のイメージは、居心地の悪さと、嘘っ
ぽさを感じる。

「質の良い生活とは何か」(渡辺京二の本を参照)

 今は平穏で平和な社会に思われがちだけど、今の不思議な時期に、こころの精神の問題をかいくぐっていくには、相当難しい時代だ。こういう危うさをかわしていくには、孤独の問題が出てくる時期でもある。普通の大衆も「一能一芸」を極めて孤独に耐えきれないといけないのだ。俳句も当てはまる。
①暮らしている街なり村ならの景観が美しく親和的(質)であること。
②情愛を通わすことの出来る仲間(共同体相互扶助の再現)がいること。
③人は生きている間、出来る限り(サービスの質)良い物を創ること。

「国民国家から、民衆世界の自立は可能か」

 民衆の自立を共同体に直結出来ないのは、ムラ共同体ではなく、セィフティネット(滑り止め)のようなものだ。この外的な枠組のは外に、民衆の心性、生活習慣、伝統に根ざす共同があるのだ。
 坂口安吾は「政治は実際の福利に即して漸進すべきものであり、完璧とか絶対とか永遠性ものはない」から党派に走るのは無意味だと言う。また、「何故にかかる愚が幾度も繰返さるるかと云えば、先ず『人間は生活すべし』という根本の生活意識、態度が確立されておらぬからだ。政党などに走る前に、必ず生活し、自我というものを見つめ、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむか、よく見究めることが必要だ」と述べる。つまり、自立した民衆とは、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむか、よく知っていて、その事の上成り立っている世界なのだ。だから、「近代」に悩むのだ。

 世界は自分のもの、仲間と自分が、伝統や習慣に助けられてつくるとしても、その奴隷になるので無く、それ等を活用して自らが生きることを自分で決めることだ。

 従って、ここでは、「欧米近代」の国民国家のエリート支配者の「棲ませ分け世界」から、大衆が主体の「棲み分け世界」の対象像を、増田悦佐(えつすけ)氏作成の表を紹介するに留める。

(注)棲み分けの「権力構造=無責任体質」とは、変な役に立たない政策を出さない無責任という意味だ。

 戦後の政治家の政策で役に立った者は居ない。政策の無責任とは、戦後の政府の政策で成功したものがない、という積極的な意味だと付記する。池田勇人の「貧乏人は麦飯を食え」という、金融の流れだけ管理した内閣だけが例外だった。

 今後は、世界で唯一の経常収支国として、日本人の送る生活とは「質の内容」が問われるだろう。

 資本主義を超える為には、アダム・スミスの「寡占を廃した市場合理化」の歌に戻ることだろう。中小民間会社や個人の利益の配分が大衆化されざるを得ないからだ。日本国憲法の、主権在民、戦争放棄、基本的人権は崩壊している。繰り返すが、国民国家を崩壊しなければ、エリートの支配する政治権力の巧妙な巧まれた体型である「立法や行政支配」から、大衆の自由な「質の良い生活」は味わえない。

「俳句の背景とは」 

 日本は、縄文前から世界一の文明国だった。石器は研磨で世界初だ。共同体相互扶助の再現が縄文の遺伝子(直感)なのだ。
出雲大社にある縄文時代の礎石から、現代のゼネコンは復元図を描いたが、今の技術では建築不可能だと言う。

 俳句の歴史も、無文字文化の縄文の「こころと身体」からの遺伝子が生きていることを忘れてはならないだろう。
 また、弥生からの天皇制も、国民のための、生前退位という「象徴天皇制」の定義がなされたのは、俳句にも大事だ。

 折口信夫は、「類似点を直観する傾向と、咄嗟に差異点を感じる」二つの作用で異文化理解出来るのは日本人だけ、と言い「実感の科学」と述べている。これは価値観の哲学とも言える。

 日本文化の新石器、縄文の「場所(自然)に意思がある」という、他文化の融合の精神の働きは、無意識に絶えることない歴史が健在。今後は、欧米の凋落であり、日本の時代が来ることになる。

 人生や周行リズム新しき  土井としき

『戦後と俳句と 。』
                     土井としき

(はじめに) 
 前号(『まがたま』40号)では、父の俳句集にちなんで戦争下の恋愛の奇跡を書いた。 父が昭和21年に残した俳句は、加藤楸邨の「寒雷集」への投稿のつもりが、俳句全てに×印 がついており、ここで俳句作りを断念したと思われる。 
 くりやより妻の聲あり虹たてり  土井章二 

 

 父が俳句を止めたのは、先輩が被爆死したので、20歳前半から管理職として、広島で初の ビル建設の材料調達と、新農協づくりに邁進したからだろうか? 
 そこで、父が俳句を止めた背景を考えてみた。個人的な事情だったのではなく、「時代」が止めさせたのだと感じたことだ。 
 両親ともに他界して、私は春に古稀になる。父の俳句に関連して、「戦後」を考えてみる気になった。これが、秋山實氏の創刊した同人誌の答えになれば幸いである。 

 

「戦後とは何か」 
 昭和6年(1931)の満州事変から15年に及ぶ長い太平洋戦争が終わり、300万人に至る死者を出した。敗戦降伏に当たって、吉田茂などの支配者層の意思は、天皇制の維持つまり支配体制の維持だけだったこと。1945年に出来た「国際連合」には、未だに日本とドイツは敗戦国のままだという戦後があるのだ。 

 この両者が、戦後70年を経ても「戦後とは何かを宙ぶらりん」にしたまま、今に至ったのである。 そこで、この「戦後」という対象の「未知」を合理的に追求してみたい。


 「戦後」とは、最初の3年間位は少なくとも表現史では、表現意識の時間の喪失というべき特殊な体験を持った。この数年の特殊性が、これまで戦後が何を意味するかを捉えられなかった原因なのだ。 つまり「体験の喪失」と、更に「対象の未知」に挟まれた「戦後」についての歴史の意味を深化するということが課題なのだ。 


 そこで私見だが、「戦後」を欧米近代以降の歴史から位置づける「余韻」だけでも記しておきたい。 
 そもそも、明治維新以後の欧米の価値観の近代社会で、「戦後」がどんな意味を持ちどんな性格を表したのか、納得出来る解釈が無かったのが本当の事なのだ。

 戦後、英国からアメリカ覇権が強まった。石油本位制が、ドル決済を強いて来たからだ。だから、日本もドイツもアメリカの植民地支配を強いられた。特に、日本は属国という「宙ぶらりん」で「戦後」を過ごして来たことを重視したい。 

 戦後の農地改革や財閥解体は実行されたが、いつの間にかマスコミも含めた既得権益、特に官僚支配の歴史が常となった戦後だったのだ。 

 

 しかし、米ソ冷戦が終結して以後、アメリカのニューリベラル(新自由主義)とネオコンサーバティブ(軍産複合体という新保守主義)との支配体制に、世界中が渦中に入った。両者の違いの本質はお金の動きが違うだけだった。民主党と共和党の違いも意味を無くしたのだ。欧米近代の産業構造が激変して、80%の従事者が第三次産業(サービス業)に従事する時代に、金融機関のみが資本を左右する帝国化し、遂には「マネーワールドの崩壊」をもたらした。

 

 日本は世界一・大衆化したサービス業が、実態経済の雇用を育成する体制転換(例えば、保育士や介護士の優遇)をしないままなので、雇用の減少や社会の動乱を懸念する。 

 その結果は、世界中で大きな戦争する資金を持つ国が無くなったことだ。余程の気が狂った指導者でもいれば、核戦争で人類絶滅になるか、不明な生き物が残るかだろう。また、トランプ大統領がなると、国内分裂も含む自国本位制に変化するのは避けられない。 
 同時に、時代は「世界恐慌」が近づいていることから、欧米近代が支配体制の時代の歴史も終わるだろう。 欧州は勿論、アメリカや中国の国家解体もありうるのだ。分かり憎い解説だが、この『まがたま』の出版時期に、欧米近代による支配体制の終わりの時代現象が見えているかもしれない。 

 

 これが、「戦後とは何か」の帰結なのだ。最後に留意しておきたいことは、世界中で「経常利益黒字国」は日本だけだということだ。つまり、「戦後」が終わり、日本人の態度が注目されざるを得なくなる、重要な時代現象に対応できるかが問われるのだ。 

 

 

「俳句の意味とは何か」 
 「表現された言葉は指示表出をヨコ糸に自己表出をタテ糸にして織られた織物だ」(吉本隆明)。 
 吉本隆明は、文法的にではなく美的に「言語論の骨組」を、指示表出性と自己表出性とを基軸に分類した。(俳句に多い)指示表出性は人間の感覚器官が脳との繋がりが強く、自己表出性は内蔵の動きとの繋がりが深いと指摘したのだ。
 例えば、芭蕉の「松島やああ松島松島や」の句でも、言葉のタテ糸(自己表出性)の感嘆で伝わるのは二の次で、微弱なヨコ糸(指示表出性)の織物でもあるということだ。 

 

 また、植物性神経で自動的に運動している内臓器官の動きから来る感覚(内蔵思考)は、自己表出が大切な言葉(感嘆詞や助詞=頭脳思考)の発生と深く関わっている(三木茂夫:解剖学:芸大)。つまり、「自己表出性」は内臓の動きに、「指示表出性」は感覚(五感、大脳)の動きと関係が深いことなのだ。 

 

 俳句の五七調の音数律のリズム形式(等時的拍音形式)という「拍子づけ」は、日本語の特質である。この特質が指示表出(頭脳思考)の根源と密着している為に、どうしても五七調になったのだ。 

 俳句の表現は、韻律・選択・転換・喩が特質だと考える。自然や事物を客観的な表出体の形を原型に選ぶ。俳句の核が抒情になり、やがて景物を選んでうたう叙景歌になる。つまり、近代支配下での「造形俳句」とか、時代現象の俳句論は無視しても構わないことだと思う。 

 

 かって昭和21(1946)年に、京大の桑原武夫が、俳句には近代芸術としての性格がなく、「俳句一つでは作者の地位を決定するのは困難だ」という第二芸術論を書いた。ここで見落とされていることは、奴隷的な欧米崇拝根性の当然の結論だろう。指示性(頭脳思考)の根源の韻律(リズム)が日本語では音数律に導かれて、その意味合いと、何を与えるかの本質理解が無いことなのだ。俳句を読めば、日本人の大衆には分かることなのだが--。 つまり、ここでも欧米近代知の散文的リアリズム観が歯が立たないのだ。 

 

 定型の俳句が、作者の人生を反映しないで専門家と素人の違いも決めがたいのは、感覚の〈省略〉という美的な問題なのだと思う。

 音数律というリズムの自立性が、指示意識(頭脳思考)の根源の韻律だからだ。俳句には、作者が言葉にたどり着こうとする懸垂状態がある。これが、「戦後俳句」の音数律=リズムから「構成」を感じるかどうかという特殊な定型の問題なのであろう。 

 

 万物流転の宇宙の根源は、中国の「道タオ」であり、「リズム=音数律」である。万物の螺旋軌道のリズム(いのちの波)なのだ。例えば、江戸時代の俳句を例とする。
 蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな  宝井基角

 

 海外の俳句への関心が高いと聞くが、これは俳句的な詩Poemと思うべきではないか。日本語の音数律のリズムが無いからだ。 

 

 「戦後」という意味は何度も「終わり宣言」されたが、過去から現代を超える時間の経路の途上だったのだ。そこで欧米近代の影響による、自己合理化論の全てを対象にする場に出て行った。私見だが、「共同体と孤独」の間の「質の良い生活」が問われている。即ち、「一能一芸」を極めて孤独に耐えることだ。


 成否はともかく、当面は私見として「終わり」に出来たら幸いである。

 

 最後に、リズムの懸垂状態から拙い観念詩的な俳句を試みてみた(苦笑)。 
  熱病の合理化螺旋戦後なり   土井としき

 

(次号の春号では、『平和と俳句と。』のエッセイの予定。この三部作で、私の俳句論はひとまず終わる。
 ついに今後は、素人俳句を毎回七作の俳句を投稿する。たまに、気楽なエッセイも時代に応じて投稿予定。#参照文献:折口信夫、柳田國男、三木茂夫、吉本隆明、渡辺京二、増田悦佐など)。