カウンセラー岡田早代子のブログ 

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カウンセラー オカダサヨコのブログです。
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Apple-私はこの会社が創業者が求めたロマンとフォロワーたちのイノベーションが有機的に結びついた、世界でも数少ない企業だと思います。

 

ロマン…スティーブ・ジョブズが求めた「誰でも直感で操作できる美しいコンピュータ」

イノベーション…「それを可能にした情熱と技術革新」

 

私は1980年代後半から90年代にかけAppleのMacintoshを使っていました(今も手元にあります)。当時からAppleの製品は、とても美しいとおもっています。

例えば、フロッピーディスクの取り出しはマウスによるアイコン操作で行うオートイジェクトのため、本体にはイジェクトボタンがありません。

時代はNEC98全盛期。ノートPCも東芝からようやく「ダイナブック」が出始めた頃(まだOSはMS-DOS)。

NEC98に積まれたWindowsは3.0。MS-DOSに疑似GUIを搭載した当時のWindowsは、ちょっとアプリを作動させればすぐに「修復不可能なアプリケーションエラー」という表示が出てしまい、安定せず使い物になりませんでした。それと比べればMacintoshはOSとアプリが連携し、洗練されていました。

 

当時の仕様として

・マウスもキーボードもADBに接続すれば動く(IBM/PCは別々のバス)。

・2台のMacintoshのプリンタ出力端子を繋ぐだけでLocalTalk(ファイル交換ネットワーク)ができた。

・文章を人工音声が読み上げる(ただし欧米言語のみ)。

など、ユニークな設計思想が随所に見られました。

 

そんなジョブズですが、大きくなるであろうAppleの経営について自身の経営能力に疑問を感じていたため、外部からCEOを招聘します。

当時ペプシ・コーラの社長であったジョン・スカリーを「このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか、それとも私と一緒に世界を変えたいか?」という有名な口説き文句で引き抜き、CEOを委ねます。1983年、ジョブズが28歳、スカリーは44歳でした。

 

(1984年 スカリーを招聘した翌年のMacintosh発表プレゼンテーション。ジョブズ29歳。)

しかし、自信に満ちた表情でMacintoshのプレゼンテーションを行ったジョブズに試練が襲い掛かります。MacintoshでIBM/PCに対抗し、ビジネスシーンを変えたいというジョブズの思いと取締役たちの齟齬が表れます。取締役たちはMacintosh Officeを「未熟でちゃちなおもちゃ」ととらえ、Appleの社運を賭けることに反対でしたが、ロマンに忠実なジョブズはMacintosh Officeの発売を「強行」します。

(Macintosh Office CF)

そしてジョブズはクリスマスシーズンの需要予測を大きく誤り、自信を失います。Appleは膨大な過剰在庫を抱え、値下げ処分第4四半期で初めての赤字。その結果、当時の従業員の20%をレイオフすることとなりました。

 

そのような状況のもと、「Macintosh事業からのジョブズの解任が取締役会で議題に上る」という情報がジョブズの耳に入ります。先手を打とうとした彼は、北京へ出張中のスカリーを取締役会で解任しようと画策しますが、その情報がフランス法人の社長ジャン=ルイ・ガセーからスカリーに洩れ、逆にジョブズが取締役会でスカリーから「解任画策の理由」を問いただされてしまいます。

スカリーは取締役たちにCEOに「自分とジョブズのどちらを選ぶか」と迫りました。Appleの取締役たちはCEOにイノベーターであるジョブズではなく、プロ経営者のスカリーを選びました。その結果、5月31日ジョブズは名誉職である会長以外の全役職を解任されます。スカリーはジョブズの後任にルイ・ガセーを据えました。ジョブズ30歳での出来事です。

その後1985年9月12日、自身が創業したAppleの決算報告を受け取るために手元に残した1株を除く自己が保有するAppleの株式650万株を売却し、ジョブズはAppleから離れます。

ジョブズはまず1985年理想のPCを作るためNeXTを創業します(これがのちにOS開発に行き詰ったAppleを救います。1986年、ジョージ・ルーカスからルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を買収しPIXARと名付けます(のちにディズニーへ売却)。Appleを離れてなおロマンに忠実に歩んだジョブズ。この時期はジョブスにとって「思索」「幅」「深み」を与える時期でした。その後1996年12月、ジョブズは「MacOS8」の開発が遅々として進まずユーザー離れが深刻となり窮地に陥ったAppleに復帰し、Next製のOS「OPENSTEP」をベースに「MacOS8」を開発・リリースしました。そして1997年8月、Microsoftとクロスライセンスで業務提携します。これにより、ライバル企業との不毛な顧客争いから経営資源を開放し、さらなるApple独自のロマンを開拓していくことになります。

ジョブズは1998年にiMacを、2001年にIPod、そして2007年にIPhone、2010年にIPadを発表していきます。

 

一方のスカリーは、ジョブズが役員を解任された直後の1985年6月25日にMicrosoftのビル・ゲイツから『AT&Tやソニー、ヒューレットパッカードなど有力メーカーに対しAppleのOSをライセンスしてはどうか』というオファーを受けました。ゲイツは当時、技術的な困難からOSの自社開発を中止しようと考えていました。

しかし、スカリーはルイ・ガセーの猛反発によりこれを拒否します。

その結果、MicrosoftはWYSIWYG後発で未熟なWindowsを世界各国の有力メーカーにライセンス供与することとなり、バージョンアップによる信頼性向上とも相まって市場シェアを盤石なものとしていきました。

またスカリーは、ビル・クリントンの大統領選キャンペーン(クリントンはシリコンバレー優遇の政策を打ち出したため共和党支持者であったが転向した)やAppleのAT&Tへのに売却交渉など、ロビイングやポートフォリオ重視の経営を行い、Appleレガシーとイノベーションを軽視しているともとれる経営姿勢を批判され、1993年退任しています。

 

2013年9月バリ島で行われたフォーブス・グローバルCEO会議の席上でスカリーが語った興味深い述懐です。その時、ジョブズが亡くなって間もなく2年が経とうとしていました。

「スティーブは創業間もないそのころ、優れた経営者ではなかった。現在私たちが知る、あの偉大なスティーブ・ジョブズは、同世代のおそらく世界で最も偉大なCEOだけれど、彼はきっと、解任後の曲折した年月の中でたくさんのことを学んだのだと思う」

「じくじたる思いを感じているのは、その後(引用注:自身のCEO期間=ジョブズが追放されている期間)10年間、私は出身地のニューヨークに戻りたいと思っていたことだ。なぜ私はスティーブのところに行ってこう言わなかったのか。『スティーブ、君がアップルに戻ってもう一度会社を引っ張っていく方法を考えよう』。私はそうしなかった。これは私が犯したひどい過ちだ。なぜ自分にそういう知恵がなかったか答えを出せないが、私はそうしなかった。そして時はたち、ご存じのとおり、ほどなくして、私自身が解雇された」

(ジョブズ解任、スカリー氏が今になって語った真相/2013/9/19 Forbes翻訳版より)

 

ジョブズの晩年のスピーチです。

「君の仕事というのは、人生の多くを支配する。だから、(人生を)本当に満足するには自分の信じる最高の仕事に就くしかない。そしてその最高の仕事というのは、その仕事が大好きでたまらないというものでなくてはダメだ。まだそれが何であるかわからないというなら、探し続けなさい。止まってはダメだ。それが見つかった時は、絶対にそうだと心の底から分かる。そして時間が経つにつれ、やればやるほどどんどん良くなる。まるで最高の人と出会ったように。だから、見つけるまで探し続けなさい。諦めてはダメだ」

(スティーブ・ジョブズ/スタンフォード大学での卒業式式辞2005年6月14日より)

長い連休が明けました。

人生をかけて実現するロマンとイノベーションを持っている方、これから持つ方。

スカリーのようにポートフォリオやロビイングに足元をすくわれることなく、ジョブズのように関わる全ての人をハッピーにしていただく経営をお願いしたいと思います。

その際には、私どもアドマーラに「ロマンある企業経営」のお手伝いをさせていただければと心より思います。

 

via Ad Mala Exective
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