ゆっくり呼吸を続ける母。
時折、孫の名前を言ったりしてたくさんお話してくれてたんだけど、呂律が回ってなくてほとんど聞き取れなくて。
悔しい。
でも「よかった…」  そう言ったのだけははっきりわかった。

市内の叔母や、従姉妹も駆けつけてくれた。
昼近くになり旦那がお昼を買いに出掛け、買って来たお弁当をみんなで食べ、その時をただ見守る…

だんだん呼吸の数が減ってきて口の中に泡状の唾液(?)が溜まってきて、父がサクションした方が良いのではと言うので訪問看護師さんに電話。
では口腔用のウェットティッシュで拭き取ってあげて下さいとのことでやってみると…
ガッチリ噛まれました! イタタタ。
お母さんよ、どこにこんな力が残っているのだい。
肺と心臓がもたなかっただけなんだよなぁと後から思いました。

夕方まで頑張って欲しかったけれど、その時はやって来てしまい…
13時25分、最後の呼吸を。
「お母さんもう一回息して」と言いましたが叶いませんでした。
みんなの願い届かず、叔母が飛行機に乗っている最中に逝ってしまいました。

通勤途中の旦那が引き返して来た。
子供達も学校を休んで。

入院していた病院の緩和ケア専任看護師さんが顔を出してくれた。
母に、病院戻るかい?ここにいるかい?と聞く。
ここにいるかいの言葉に頷く。
そうだそれがいいねと。

市内に住んでいる祖母と伯母が到着。
祖母はしばらく母に会えてなくて、こんなに悪くなっていることを知らなくて、顔見た瞬間号泣。
ばあちゃん来たよと言うと動かない体を懸命にそっちに向けようと。
看護師さん達が向けてくれて、ちゃんと顔を合わせることが出来た。
もう母は喋ることもできないけれど、やっぱり会えてうれしかったんじゃないかな。

ようやく10時前に父が到着。
理解しているけどしていない、正確にはしたくないという感じで。
手を撫でている。

看護師さん達はいつまでもいるわけにいかないので。
帰り際、娘さんもよく頑張ったねと言ってくれて。
お家で最期迎えられてよかったねって。
それもこれもみなさんのおかげなので、こちらこそ本当にありがとうございましたと別れました。
2017年6月9日、母は病院に戻らず私の家でゆっくり息を引き取りました。

6時半に痰が溜まってきて訪問看護師さんを呼んでいる間に一瞬窒息したので超焦って母を起こして背中を叩き、それからずっと体を支えてさすって看護師さんを待つ間めっちゃ泣きそうだった。

看護師さんが来て、下顎呼吸になっているので今日明日だとのお話。
そうかな…とは思ったけど、直接言われると悲しみがこみ上げる。
6月9日は祖父の誕生日。  心のどこかで母ならこの日を選んで逝くのではないかと思っていた。

慌てて母の姉妹に連絡。
出勤途中の旦那に連絡。
子供達は学校お休みさせ。
父親にメール。  返信来ない…  仕事中で気付かないらしい…

看護師さんと相談して、病院には戻らずこのまま家で看取る事に決めた。

どうか少しでも長く、本州の叔母が到着するまで頑張って!

肺がん末期の在宅療養って本当大変だと思う。
痰がからんで呼吸困難になるのが数時間おき。
その度に夜中でも呼び出される訪問看護師さん。
深く眠れない家族。
苦しむ本人。

在宅でも病院でもやる事は同じ。
とは言っても、一長一短あるからどちらを選択するのかって難しいと思う。

家だと小さい要望にすぐ対応できる、体起こしたいとか氷食べたいとか痛いとこさすって欲しいとか。
でもモニター付けてるわけじゃないから、夜中なんて急変に気付かなかったらどうしようと思ったらぐっすり眠れない。
睡眠は日中でもちょこちょことれるからいいのだけど。
仕事もしてたら…と思うとゾッとする。

うちの場合、40度台の熱が下がらなくて本人も病院の方が安心だって言ったので、
今日6月9日(金)10時に病院戻ります。

1週間だったけど、お世話させてもらえて幸せだったな。
6月5日(月)  朝、ゼリーを食べると言ったので準備してベッドに戻ると、今までとは違う呼吸で寝ている母。
紙とペンというジェスチャーをしたので渡すと
母の口座からお金をおろすよう書かれていました。
私はもうこのままきちんと話出来なくなるんだろうなと悟り、気持ちを伝えるのは今しかないと思い母に
心配いらないよ、大丈夫だよ、お母さん今までずっと頑張って来たからもう頑張らなくていいよと伝えました。
もういいしょ、母の返事でした。
ここに帰ってきてくれて、お世話させてくれてありがとうと伝えました。
母もありがとう、泣かないでと言いました。

夜、傍で足をさすっていたら、頭を撫でてくれました。
夢うつつで、孫のためにおにぎりを握っていました。
どんな時も、お母さんでありおばあちゃんなのですね。
6月2日(金)  我が家に帰って来ました。
帰って来た日はまだ起きていることも出来た母。
少しは話も。
環境の変化に体がついていかなかったのか、苦しがり、寝ても座っても苦しくてどうしようと焦りながら一晩。

6月3日(土)  私が出勤した後、急に酸素88%まで低下した為、訪問看護師に電話して来てもらい、サクションしてもらいました。
夜間苦しくなり私がサクションしてみたものの全然ダメで看護師さんに電話してまた来てもらい…。

6月4日(日)  寝ていることが多いものの、昼間少し起き上がりゼリーを食べました。
お祭りから帰って来た子供達に、うるさいよって言えるくらい(笑)

5/10(水)  先生に呼ばれました。
18日で放射線治療が終了すると、病院で出来る治療はなくなる。
体力が戻らないので自宅に帰る事は出来ないと思うので、転院先を探さなければならないと。
このまま居させてはもらえないんだろうなぁとは思って居たけれど、もう!?
さすが市立の病院だわ!

5/15(月)、ワーカーさんと面談。
市内で、麻薬の持続点滴出来るところは限られていて、3つくらいしか転院できそうな病院がないそうです。
実家と自宅に近い病院が最近緩和ケアに力を入れているそうなので、そちらにお願いしてもらうことにしました。

5/22(月)  ワーカーさんから電話。
お願いした病院が受け入れてくださると。
急だけど明後日大丈夫ですかと。
急過ぎる…  断れず、ひと月で1番混む日に私は仕事お休みいただいてしまいました。
転院翌日、母の状態を1日見てみて
今の容態なら一旦自宅に帰れると思うとのお話。

いやいや、もう帰れないとはっきり言われてたのに大丈夫⁉︎

介護申請にケアマネさん往診の先生、訪問看護師さん訪問薬剤師さん…

色んな事を決める毎日。

帰る家を実家と私の家のどちらにするか。
実家は団地の3階で狭いので我が家に。
地元に帰って来てからずっとほぼ毎日行き来していて、自宅のようなものだし、旦那も賛成してるしってことで。

私は会社に介護休暇的な、とは言っても有給休暇扱いだけど。  1週間もらい、準備万端!

帰る日は6月2日になりました。
前回書いてから、あっという間に日々が過ぎ…

母の容態は、少し上向きになりました。

5/3くらいまでは下り坂で、だんだん尿の色も悪くなるし、呼吸は苦しそうにうなってるし、黙っていられなくてしきりに手をあちこちに動かしてるし、目を開けていられなくてほぼ眠ってる状態。

5/4から少しずつ持ち直して来て、目を開けていられるようになって、少し体を起こせるようになって来た。

5/5なんて、うちの娘が売店から買って来た鮭とばをひとつちょうだいって。
しゃぶり続けて食べ切った!  最後の方ちょっとむせてたけど。  もう10日間食事してないのに!

5/7、昨日はスイカを買って持って行ってみたら一切れ完食!  まぁむせはしたけど… 
ちゃんとスイカの味わかったって、うれしそうだった。

ゴールデンウィークで子供達も一緒に毎日お見舞い行って、ベッドに乗っかって遊んだりして、活力になったかな〜って自己満足な私。

このまま右肩上がりに回復してくれないかなぁと期待してしまう欲深い私。

また悪くなるのを恐れている私。

複雑…
4/25(火)  酸素2リットル。
詰所向かいの個室へ移動。
先生から、頭にも放射線をあてると言われたと母。
そっか、そこから来てる吐き気、放射線あてて圧迫してるの小さくなったら食べれるようになるわ!  肺も点滴に入ってるお薬で息苦しいのも良くなるよ!と私。
そうなの…?  そうだよ!
もう暗示だよ暗示。疑心暗鬼だけど。
もうダメだなんて口にできない、まだまだ生きるよ。
口に出さないと!

4/26(水)  母の姉妹がお見舞いに。
それなりにしゃべれたみたいで。  よかった。
私は娘が熱発のためお見舞い行けず。

4/27(木)  車椅子⇄トイレの移乗も呼吸が辛くなるのでドクターストップ。  尿カテ留置されてしまいました。
酸素は変わらず2リットル。
痛み止めはフェントステープからモルヒネの持続点滴へ変更です。
家族みんなでお見舞い。
ワイワイガヤガヤ賑やかし。
明日も行くから待っててね!