Re:>ざっくりと荒鷲 その③諸行無常(前編) | まつすぐな道でさみしい (改)

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1972年 マサ斎藤のセッティングにより、新日本プロレス社長・アントニオ猪木と会談した日本プロレスエース ・坂口征二





猪木は、日本プロレス時代から大言壮語を並べることで知られていた。

「猪木さんは、馬場さんとの対決をコミッショナーに訴えたことがあったが、当時は外国人レスラーと日本人の対決がメイン。日本人同士で戦うなんて前座や若手でなければあり得なかった。猪木さんも却下されるのを見越して対決を要求したのだろうが、思ったことは直ぐに言っちゃう性格なんだ。馬場さんは、そういう猪木さんの発言に対しては、一切答えなかったね」


71年12月  クーデター容疑で日プロを永久追放された猪木は、翌72年1月  新日本プロレスを設立。同72年10月  馬場も全日本プロレスを設立し、73年4月  坂口氏は新日本プロレスに合流した。

「二人が別々の団体に分かれてからは、表向き話をすることはほとんどなくなった。ところが、実は密かに会っていた時期もあるんだ。あれは85年くらいかな。当時、団体の対抗心から外国人レスラーの引き抜きが激しくなってね。引き抜き防止の協定書を作る必要が出てきた。そこでオレが馬場さんと猪木さんを引き合わせたんだ。で、これをきっかけに2年間くらい、毎月1回、帝国ホテルや全日空ホテルで会っていた」


坂口氏は、途中から同席するようになったという。

「その時は、お互いニコニコして、実に和やかな雰囲気だったよ。昔みたいに『寛至』『馬場さん』なんて呼び合ってね。下積みの頃は、一杯のラーメンを二人で分け合った、とか懐かしそうに話していたな」


プロレス界のため、統一コミッションを作る計画も持ち上がった。

「お互いの団体の弁護士も入れて、話し合っていました。でも、その計画は途中で躓(つまず)いてね。そうこうしているうちに、猪木さんが参院選挙(89年)に立候補し、二人が会う機会もなくなってしまったんだ。オレの知る限り、二人が面と向かって話したのは、あの時が最後だと思うよ」


結局、二人はお互いをどう見ていたのだろうか。

「猪木さんにとって、馬場さんは最後まで何が何でも上に立ちたいと思う相手だったのだろう。だからこそ、何度となく戦いたいと言い続けた。それに対し、馬場さんは猪木さんと同期とはいえ、年齢は5歳上だったし、上から目線だったんじゃないかな。途中で決裂はしたが、いがみ合っていたわけでもない。実力は認め合っていたからね。そういう意味で、真の良きライバルだったんだと思うよ」

週刊新潮 2016年3月10日号 掲載「特別ワイド  迷宮60年の最終判決」より)



リングの上ではUN王座やアジアタッグ王座(パートナは吉村道明)を防衛。12月2日には馬場さんと返上したままになっていた至宝インターナショナルタッグ王座も、大木金太郎さんとのタッグでジン・キニスキー&ボボ・ブラジル阻との王座決定戦を制し、新王者に君臨していた。だが観客動員もテレビの視聴率もー向に上昇する気配はない...

ついにはNET(現・テレビ朝日)側からも「このままでは来年(73年)3月で中継を打ち切る」と宣告された。 

この状態でテレビ中継まで打ち切られたら、日プロの命脈は断たれたも同然。そんなある日、明大時代の同級生・マサ斎藤の仲介で、猪木さんと会うことになった。 


正直に告白すると、日プロ時代、猪木さんは最も遠い存在の先輩であった。馬場さんや吉村さんとは巡業中にマージャンをしたり、プライベートでもいろいろと親交があったものだが、猪木さんはどこか一匹狼的なところがあり、巡業中もマージャンなどで時間を漬すタイプではなく、ヒマがあったら練習に没頭しているタイプ。どこか近寄り難いイメージを抱いていた。猪木さんが去った後、マスコミを通じて「片手で3分」「両手で1分」なんてののしり合い、泥仕合を繰り広げたこともあった。 

だが、ゆっくりと話し合ってみると「今後のプロレス界はこうしなくてはならない」「プロレスラーはまず練習ありきで」など、私も少なからず抱いていたプロレスの理想、そして「最強のプロレス」を熱く語る人であった。 

当時、猪木さんもまた苦境にあったはず。だがその目はらんらんと希望に満ちており、いわゆる「覇気」がみなぎっていた。 

お互いにカネはないが、夢と希望に満ちあふれたうたげ。「また会おうや」と言う猪木さんと六本木の路上で握手して別れた。 




数日後、NET(現・テレビ朝日)の三浦専務、辻井専務(いずれも当時=故人)から呼び出された坂口は「このままではプロレス中継は存続できない。猪木と一緒にできるか? それが中継存続の条件だ」最後通告を受ける。

日本プロレスを潰してはならないとの一心で日プロ・新日の合併に奔走する坂口だが、なぜか他のレスラー達はこれに猛反発。孤軍奮闘の末、いつの間にかに裏切り者扱いされるようになってしまった坂口は、1973年4月  小沢正志(キラー・カーン)、大城大五郎、ドナルドタケシ、木村聖裔(木村健悟)ら、付き人の若手4人だけを引き連れ新日本プロレスに移籍する。





初期の新日本プロレス大会パンフレット。

この頃は猪木と坂口が交代でメインを張っていた。




テレビ局のバックアップ無しで旗揚げした新日本プロレスはやはり経営が芳しく無く、東京プロレスと同じ道を辿るかと思われていたのだが、この坂口の加入によってNETの放送契約と興行の柱となるNo.2の日本人エーをいっぺんに手に入れることで一気に息を吹き返し、ジャイアント馬場の全日本プロレスの対抗勢力となっていく。
(このとき、日プロ/NET、国際/TBS、全日/NTV、新日/無しと、日プロが潰れるまでのほんの一瞬だけ4団体時代が存在した)


ここで問題なのは、どうしてジャイアント馬場は、そうなってしまう前に坂口を引き抜いてしまわなかったのか?  

なぜ、日本プロレス時代には馬場派と目されていた坂口が全日本プロレスではなく、新日本プロレスに移籍することになってしまったのか?  

これは昭和プロレス史のなかでも大きな謎のひとつとされているのだが、この一連の流れを追っていると何となく全容が見えて来る。



実は馬場が全日本プロレスを立ち上げる際、坂口は当然の如く一緒に旗揚げに参加するつもりでいたのだが、このときはお前は残って日本プロレスを支えるようにと、馬場に諭されたという。(一説ではこのとき馬場は、日プロの当面の運転資金として日テレから受け取った支度金の一部2000万円を渡し、坂口はこれを残留メンバーに配分したともいわれている)


恐らくその時点では、どうせ自分が居なくなった日プロなんてすぐに潰れてしまうんだから、主力選手を根こそぎ持って行って自分が日プロを潰したなんて言われるよりは、次期エース候補である坂口を残すことで一旦は延命させておいて、行き詰まってどうしようも無いって頭を下げて来たら、恩着せがましく主力選手やNWAとの契約の受け皿になってやろう。なんて腹づもりだったのではないか?


しかしそんな馬場の思惑に反して、猪木と坂口が接触しているという情報が入って来る。というか、恐らくこれは猪木サイドから馬場の耳に入るように積極的にリークしていたのだろう。

いつも兄貴の悪口をピーチクパークと捲し立ている猪木に対して、常にどっしりと構え悠然と聴き流す、実直で寛容な兄貴分的なイメージのジャイアント馬場ではあるが、裏を返せば何よりも世間体を重んじ、自分の評判を気にするこの男は、常に慎重に周りの動きに気を配っていた。


この日の坂口は、純粋に同級生のマサやんに誘われて飲みに行っただけなのであろうが、裏切りや陰口などに対して神経質で不寛容なこの男の目には、当然そうは写らなかった。

うゎ〜無いわ〜、ソロソロ潰れる頃合いだから呼んでやろうと思ってたら、いつの間にかに寛至とつるんでんじゃん!  こりゃもう、無いわ〜』

この時点で、馬場の中では坂口を全日本プロレスに組み入れる線はなくなっており、後は猪木とつるもうが何をしようが知ったことでは無いのだが…

全日本プロレスを力道山の正式な後継団体としてNWAに加盟する腹づもりの馬場としては、日本プロレスにはどうしても潰れて貰わなければ困る訳なのだ。



NET側の言葉を、そのまま芳の里社長に報告すると「その件はお前に任せる」と一任された。

猪木さんが日プロを去った後、クーデター事件だなんだと騒動となり、さらに猪木さんも反撃に出て日プロ側を徹底非難。そんなわけで日プロ社内でも、猪木さんに対するアレルギーは強かった。

だが、今はそんなこと言っていられる状況ではない。テレビ中継、そして何より会社の存続のためにも猪木さんと合流し、新団体を設立する案をグレート小鹿さんと相談した。 

テレビ中継存続、会社存続のため年末から精力的に動き回っていた私は、完全に裏切り者扱いされている始末だ。

しかも、2月16日の後楽園ホール大会の試合前には、私がいないスキに大木さんが報道陣を集めて「新団体拒否声明」まで発表してしまう。もう最悪だ。

中継存続に向けたNETとの約束。そして猪木さんと交わした約束も、今さら破るワケにはいかない。そもそも、ここまで客足が落ちた今、テレビ中継なしで日プロが存続できるワケがない。それでも大木さんは「我々こそ本流」と、神風が吹くと信じて疑わない様子だった。

私の中で何かが吹っ切れた。もう日プロを去るしかない...

人間関係も最悪だった。 

2009年東京スポーツ/坂口征二  格斗半世紀 “世界の荒鷲が今、全てを語る”)











私がいないスキに大木さんが報道陣を集めて「新団体拒否声明」まで発表してしまう。って、まるでつい最近起きたアイドルグループの解散劇のようだが、この後  4月20日『アイアンクロー・シリーズ』最終戦このシリーズは人気レスラー フリッツ・フォン・エリックを招聘し、大木金太郎が顔面真っ赤に染めて迎え撃つのだが客席は閑散としていた)、群馬県吉井町体育館大会をもって日本プロレスは興行活動を停止する。

ジャイアント馬場が日本プロレスを抜けて、わずか半年後の出来事だった。


この間、日本プロレスを頼むという馬場の言葉を額面通り素直に受け取った坂口は、日プロを潰すまいと孤軍奮闘するものの他のレスラーたちからは裏切り者と罵られ、散々揉めた末に3月いっぱいの契約満了を待って退社するのだが、肝心の日本プロレスはというと、なんと… その後1シリーズ消化しただけであっさりと解散してしまっている。


なんとも胡散臭い展開ではあるが、思惑通りに日プロが消滅した後、猪木は坂口征二とNETの放送契約を手に入れ、一方の馬場は日プロの残党である余計なベテラン選手たちを受け入れる代りに、正統な後継団体としてその歴史とNWAの加盟権を譲り受けることになる。



この辺の旗揚げ時の経緯から、若手中心で人数の少ない新日本プロレスはシングルマッチが中心の攻撃的なスタイルへ、ベテラン選手を多く抱えた全日本プロレスはタッグマッチの技術が発達しオーソドックスな王道スタイルへと、自然に団体の色が付いていったのではないだろうか。











1954年 まだ敗戦のショックが記憶に新しい復興期。力道山は大和魂の籠った空手チョップで身体の大きなアメリカ人たちを次々と薙ぎ倒すというギミックで国民を熱狂させ、プロレスはこの地に根を下ろした。

1963年 力道山の死後、これまでにないダイナミックなアメリカンプロレスで国民を魅了したジャイアント馬場がその人気を引き継いだ。

そして70年代に入ると、この頃ようやく頭角を現し始めたアントニオ猪木が兄貴分のジャイアント馬場に喧嘩を売る形で袂を分かち、馬場のアメリカンプロレスを徹底批判。その対極といえる異種格闘技路線で一時代を築く。


昭和のプロレスを大まかに分類すると、日本プロレスの生みの親である力道山が木村政彦などと覇権を争いながらこの地にプロレスを根付かせた創造の物語と、力道山の死後その跡目争いともいえるこの2人の壮絶な兄弟喧嘩の物語。このふたつのステージに分かれるのだが、この時期はちょうど時代の分岐点といえる。


ここまでの話の流れでは、どうしてもテレビ放送の欲しいアントニオ猪木は坂口の友人であるマサ斉藤を使って坂口征二を誘い出し、一方のジャイアント馬場は日本プロレスを潰す為に裏から手を回し坂口を孤立させた。と、時代の分岐点で馬場・猪木の間に挟まれ翻弄される坂口というニュアンスで話を進めたが、当然これは推測でしかない。

昔話というのは誰しもが自分に都合のいいように語るもので、今回は坂口の話を元にしているので、猪木・馬場が抜けた後の日プロを必死に支えようとする誠実な坂口という構図になるのだが、同じことを違う人が語ればまったく別の話になるだろうし、実際に登場人物たちが当時どのように考えていたのか?  などと言うことは分かる訳がないそれこそ都合良くしか語らないので、色々な人の証言を照らし合わせ、その中から各々が好きなように想像して楽しめば良いと思う。


ちょっと話が長くなり過ぎてしまったので、最後にもう1つ別の仮説を立て昭和のプロレスの話は終わりにしよう。


1985年 日本の元号に直すと昭和60年だが、坂口征二の週刊新潮インタビューによると、昭和というひとつの時代が終焉に差し掛かり、お互いのレスラー人生も晩年に差し掛かったふたりは寛至・馬塲さんと呼び合い、本当の兄弟のように仲の良かった新弟子の時代の関係を思い出すように旧交を温めていたという。


しかし、これは猪木サイドに坂口という仲介役が居たからこそ出来たことであって、馬場と猪木が直接歩み寄るということはまず無かったであろう。


もうこれは結論ありきの仮説になってしまうのだが、70年代初頭のあの分岐点でジャイアント馬場が坂口征二を引き抜かなかったのは、いつかこんな日が来ると考えた馬場さんの打った、遠い先を見据えた一手だったのではなかったのか?  


なんて考えてしまうのは、いくら何でも都合が良すぎだろう。


流石に切りがないので本題である平成のプロレスに話を戻そう。


確か前回はリアルに金の雨が降っていた時代の話をしていたと思うが、
(参照:荒鷲 その② レインメーカー)

そのプロレスバブル崩壊の切っ掛けとは、いったい何だったのだろうか?













1997年10月11日  東京ドーム  PRIDE.1







New World Order








この日プロレス界に、ひとつの審判が下される。











70年代からアントニオ猪木が掲げ続けたプロレスこそが最強の格闘技であるという幻想の崩壊。日本マット界には新しい秩序が誕生し、この日を境に日本のプロレス界は深い闇に向かって一気に駒を進めて行った?







否…








これを切っ掛けにして、プロレス界に地盤沈下が起こったようなイメージを持ってしまいがちではあるが、実はそうでも無く、この頃のプロレス界を覗いてみると…









新日本プロレスに目を向ければ、武藤敬司の頭部にはまだ頭髪が残っており、全日本プロレスでは馬場、鶴田、天龍と引き継がれて来た王道プロレスをベースに、80年代に長州力の持ち込んだハイスパットレスリングを融合させた新しい形態のプロレスが展開される。まさにプロレスバブルの真っ只中。










よりによって一番弱い奴が出て行った。







後々プロレス界を飲み込んで行く事となるPRIDEシリーズではあるが、この時点ではまだ、この時期頻繁に開催されるようになっていた単発の格闘技イベントの類の1つくらいの認識でしかなく、U信者以外のプロレスファンからすれば、トップどころのレスラーの敗北はやはりショックではあったものの、『別に三沢や武藤が負けた訳じゃねぇ〜し、いざとなりゃ〜橋本真也も居るしな!』 そんな思いがあったのではないだろうか?











破壊王・橋本真也  言わずと知れた90年代の黄金期に新日本プロレスの強さの象徴といわれた男だが、不思議なことに私が生前の橋本真也を思い浮かべるとき、真っ先に頭に浮かぶのはトニー・ホーム天龍源一郎に思いっ切り叩きのめされ、マットに這い蹲っている姿なのだ。

ま〜、そこから悔し涙を浮かべながら立ち上がる姿が堪らないのだが、彼の強さというのはPRIDE時代のヒョ〜ドルのような絶対に負けない圧倒的なパワーだとかテクニックというものではなく、プロレスラー独特の強さというか、彼のカッコ良さというのは言葉にして説明するのはなかなか難しい…








CMパンクというプロレスラーをご存知だろうか?

彼はストレート・エッジ禁欲主義者という一風変わったキャラクターでカリスマ的人気を誇り、WWEのチャンピオンにまで登り詰めたらしい…



らしい?



そう、名前くらいは聞いたことは有ったのだが、残念ながら私は彼がWWEで活躍している時代のプロレスの試合を見たことが無い。


私が彼のことを知ったのは、たしかFOXチャンネルのドキュメンタリー番組だったと思う。


2014年  WWEを退団したスーパースターの元には、他団体や映画俳優など様々なオファーが押し寄せるのだが、そんな中彼はUFCへの参戦を表明する。

エンターテイメントプロレスの象徴であるWWEからUFC?  と、違和感を覚えるかも知れないが、WWEのレスラーの中にもブロック・レスナーのように元アマレスチャンピオンなどのトップアスリートも居れば、初期のUFCが始まった頃には、タマ・トンガの父親であるキング・ハクが本気でそっちに乗り込んで行ったらホイス・グレイシーは一瞬で食を失うだろうと語られるほどの化物が在籍するなど、そのショー的イメージとは裏腹に喧嘩上等の強者達がゴロゴロと転がっている世界なのだから、この挑戦に関しても何の不思議も無かっが、どうもこの男はその類では無かったようだ…



アマチュア時代を含めてガチンコの格闘技経験は一切無く、本人曰くまさに0からのスタートと35歳にしてジム通いから始める。



このカリスマレスラーの新しい挑戦に熱狂的声援を送るファンが居る反面、MMAファンのプロレスアレルギーというのはアメリカでも同様なようで、『ここはファンタジーの世界じゃね〜んだよ!  そんな年取ってから始めて通用する筈ね〜たろう!』『プロレスでボロボロになった身体で何が出来るんだよ?  ケガする前に諦めな!』などと、悪辣なコメントがネット上に飛び交うのだが、この意見はあながち間違ってもいなかったようで、MMAのトレーニングを始めて暫くした頃、肩を負傷したパンクは手術を余儀なくされる。


練習再開後、追い打ちをかけるように長年酷使した腰が悲鳴を上げ、ヘルニアの手術に踏み切ることになる。当然デビュー戦の日程はその度に先送りになって行く。







2016年 9月10日  オハイオ州クリーブランド  UFC 203



デビューまで2年の歳月を費やし、このときCMパンクは既に37歳に達していた。

対戦相手のミッキー・ガルは24才、UFCの育成番組でCMパンクのデビュー戦の対戦相手に名乗りを上げ、見事にその権利を勝ち取ったデビュー2戦目の若手ファイター。まさに宝くじを引き当てたようなものだ。



試合は開始早々、両足タックルからテイクダウンを奪ったガルがマウントポジションからのパンウドを振り下ろす。

辛抱強くディフェンスするパンクのバックに回りこんだガルは両足をフックし、更なるパウンドを叩き込みながら右腕を喉元に食い込ませる。


試合開始から僅か2分14秒、CMパンクの初挑戦は対戦相手に一発のパンチを叩き込むことも出来ず、2年にも及ぶトレーニングの成果を何ひとつ披露することなく呆気無く終わってしまう。







しかし、そんな彼がカリスマ性を発揮するのはここからだった。













みんな応援ありがとう!



ミッキーはすごいファイターだった。




マイクを向けられたパンクは対戦相手に賛辞を送ったあと、悔し涙をにじませながら観客に語り掛ける。




俺はチャレンジをしたかったんだ。



ものすごく高い山で今日は頂上に到達できなかったけど、だからってこれで諦めるわけじゃない。



信じられないかもしれないが、俺はまた戻って来るよ。今日は最高に楽しかった。ワイフと結婚した日に続いて人生に二番目にね。



無理だという人間も多いけど、人生はぶっ倒されて立ち上がることの繰り返しだ。



これを見ている子供達 !



この先君たちは、学校の先生や親やコーチに『そんなの君には出来やしない、諦めろ』と言われることがあるかも知れない。



でも、そんな言葉には耳を貸すな。自分を信じるんだ!



常に自分の望む結果が得られるわけじゃないさ。でも人生における本当の失敗とは、挑戦しないで諦めてしまうことなんだ。



こうやってぶちのめされたばかりの男が説教をするってのもヘンだけど、そんなもん知るか!



人生最高の時間だったぜ、ありがとう!






ダサッ!  



最高にダサイんだけど、無茶苦茶格好良い!


やっぱり、これがプロレスラーの強さだよな!


まさかUFCのリングでだけど、久し振りに橋本真也みたいなプロレスラーを見たような気がした。


もしかするとUFCにリリースされちゃうかも知れないけど、彼にはもう一度あのオクタゴンのリングにチャレンジして欲しい。


出来れば、水面蹴りと袈裟斬りチョップを身に付けて!






また話が脱線しちゃったけど、地盤沈下の始まりは97年PRIDE.1じゃ無かった。




じゃ〜いったいどこなんだよ?  





って、いくら何でも話が長すぎだ。





続きは次回!





























1971年 12月16日  ロサンゼルス
オリンピックオーデトリアム







時間無制限3本勝負  金網デスマッチ

ジャイアント馬場  &  ジョン・トロス  vs.
キンジ渋谷  &  マサ斎藤