しかし、そこから又、次なるものが訪れる。


腸閉塞で、詰まっている所の手前で腸を切って、身体の外に出す、いわゆる人口肛門を持つ人になった。


ある意味、ガンよりショックだった。


辛いのは、人口肛門ができたくせに、他の部分の腸もすぐにどこかが細くなり、


食べる→痛い→痩せる→水分、栄養とれない→仕方なく食べる→痛い→というループに陥るのだ。


その頃母の入院


そして翌日私の入院。

1週間後何とか退院。


母危篤。

翌日母亡くなる。


気持ちが慌ただしくて、食べる事がどうでもよくなった。

当時の治療もきつかった。


TS-1を4週飲んで2週休みが基本。

副作用がキツくて、2週飲み1週休みにしてもらった。


それでも私自身が壊れてしまうと思い、中断した。


腫瘍マーカー値はずっとグレイゾーン。


でも、少しずつ仕事にまも復帰できるようにもなり、無理しなければ何とか胃を切る前の6〜7割程度まで、QOLは上がっていった。


姪、甥の体験ダイビングや、

親との花畑ドライブや、

念願だった、従姉妹と妹との女子旅も実現できた。

話は11年前に遡る。


そもそも私は、胃がん宣告を喜んだ。



長生き願望のない、黄泉の国に興味を持つ人間が命の期限を言い渡されたのだ。


願っていてもそれが我が身に訪れるとは

OMG‼️


しかし、その時の主治医が


親より先に子供何死ぬのは最大の親不孝だよ。



それで抗がん剤治療を開始した。

父も母も、セレモニアに積立をしていてくれたおかげで、私たちはお金の心配をする事なく、見送れた。


入院した頃から、手続き云々の話はしてたので、案外サクサク進んだ。

葬儀の日も、次女一家が総出て車で迎えに来てくれた。こちらを回ると楽早くでも+1時間はかかってしまうのに。



父の亡くなった時はそうも行かないだろう、もっと手続きが煩雑になるはずだ。

でも、私以外の妹弟が本当に申し分なく動いてくれて、母の大好きな花に囲まれてコロナ禍の割には、寂しくない、いい葬儀だった。

あとは納骨迄に、少しは動けるようにならないと。




中1日空いて、納棺式があり、その次の日が一日葬だ。


思ったよりきちんとした納棺式で、

映画の[おくりびと]を思わせるよな、厳かなものだった。


昨日は納得して、明日ホームの人に連れてもらって来てねという妹弟に、泣きながら、でもしっかり、うん、うん、、とうなづいていた父が、当日、行かないと駄々をこねていると言う。

急遽、三女と甥で迎えに行き、説得をし、なんとか連れて来た。

流石にその時の姿は誰もビデオには撮れていない

 わずかな対面だったけど、母の人生は父の人生でもあったのだ。



中2日あると思って帰って来たけれど、連日打ち合わせで、結局妹弟は毎日通っていた。

行けない私の為に妹弟は誰かしらがLINEで詳細を知らせてくれた、本当にありがたかった。


ホームにいる父に伝えるかどうかもLINEで、話し合った。

葬儀には例え少数でも人が集まるので、出せないと、ホームからのお達しがあったからだ。ならば、終わってからでもいいんじゃないかと。でも、焼かれて骨になる前に顔を見せてあげられないものかと、3人で行ってくれた。


母の死を知り、意外にも父は声をあげて泣いた。

私にとっては、いや、妹弟誰もにとっても本当に意外だった。


声をあげて泣く父を初めて見た。


母の亡くなる2週間前が、2人の結婚💒61周年記念日だった。


長い長い月日。


もう一度、会いたかった

と、ワッと泣く父。

辛かっただろうけど、伝えに行ってくれた妹弟に感謝。

セレモニーホールに間に合い、母と対面した。


手足は冷たかったが、まだ少し体温を感じられた。

肝臓ガン末期骨転移。

色々外れて、合掌して寝ている母の顔は、入院中よりは浮腫んでいなかった。


私が会うの、は数ヶ月前にホームにカットをしに行った以来だ。

妹弟も、ガラス越しにしか会えず、危篤の時も、よくTVで見るように、周りを取り囲んで手を握るなんて事はコロナ禍で許されなかった。


時間もないので、カットをして、妹がメイクをした。



ちょっと、生前に近づいた気がする。


次節から、葬儀は一日葬で行う事にした。


諸々を妹弟に任せ、中2日、私は家に帰る事にした。

ちょうど1ヶ月前、母は亡くなった。


2021年6月29日火曜日午前9時。

入院から2週間

日曜日の深夜、危篤の知らせが三女に入る。

次女、末弟(長男)は深夜のLINEに気付き、病院に駆けつける。


私は朝目覚めてから気付き、みんなが病院にいる事を知る。

月曜日、一旦持ち直し、皆が帰る。

火曜日は次女、三女が緩和ケア病院に下見の予約を入れている。


それぞれがそこに向かう途中、病院から息を引き取ったと知らせが三女に入る。

皆は急遽、入院先に向かう。


私は退院後1週間目の検診中、知らせを知り、自分の治療そっちのけで、向かった。

幸い定休日で夫が車を走らせてくれた。


妹から連絡が入り、病院からセレモニアホールに移した、16時迄に来ないと閉まる、と。


急いで家に帰り、喪服や葬儀までの下着やらストーマ ケア用具や、とにかく何でも詰め込んだ。

死化粧道具🪚カットシザースももちろん持った。


車の中で夫と、


今日が火曜日ってわかってたのかな、じゃなきゃ私行けなかったな。


そんな会話をする程、私自身、食べれない、脚浮腫む、歩けない、と、とても弱っていた、

長い事 書けなかった。


いや、時々書いてはいたが、アップ出来なかった。


まだまだ気持ちは上がって来ない。

暗い言葉しか出て来ない。


でも、ひとまずまとめてみようと思う。


私の人生にとっても大きな節目の出来事、

何度かに分けて考えてみる。

退院して1週間。

病院にいるより辛い自宅療養。

だってさー😢

ご飯は時間には出て来ないし、ベットメイキングもしなきゃだし。


抗がん剤のせいか?痛み止めのオキシコドンのせいか?とにかく気持ち悪くて食べたくない😭

ご飯作るけど、作って満足して結局食べてない☹️


相変わらず脚が浮腫んで重いので、ペンギン歩きだし🐧🐧🐧🐧🐧🐧


入院した頃から、髪が抜け始めて

家に帰る前にベリーショートにカットしてもらいました。

ビフォー


アフター


この長さでも、毎日ごっそり

抜ける抜ける〜プンプン

まぁ、髪の毛って10万本生えてますからね〜。


髪が落ちるので、家では、友達に協力してもらい手に入れた、色とりどりの手ぬぐい巻いてます♪


蕎麦屋に弟子入り⁉️


で、美容師の本領発揮❣️



ウイッグ😊
これはこれで楽しい💕